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どうも、皇悠です。さて、今回は掛け持ち信仰、特にお稲荷様とその他の神仏について書きます。
自分で言いますが大作にして、労作です。時間がない人はスルーしてください。
では、初めに私の好きな説話集などから例を引きますと「古今著聞集」に稲荷大明神が自分に信心して出世した男が賀茂社にも参詣したので怒った稲荷大明神が賀茂社の御利益をうち消してしまわれた話がありました。また、別の話では稲荷に参詣した男が夢の中で稲荷大明神に「ごめん、あの出世の願い日吉の横槍で無しになったから。じゃ。」と言われたという話があります。
またお稲荷様とは関係ないですが神仏同士で信者の代表として競うという話もあります。例えば、「平家物語」には平家の味方をした厳島大明神が藤原氏の伝統的な氏神の春日大明神や源氏の守護神八幡神に会議の席から追い出されるという話がありました。この会議は今後の日本の政権を何処の家が担うかで氏神同士が利権争いをし、結局「藤原氏の政権復帰」を望んだ春日大明神の願いは届かず、武家の世の中になるというオチがつきました。因みに平家の祭り上げた・御旗の安徳天皇は八又の大蛇か厳島大明神の化身と言われています。
さて、験・現世利益を求め信仰を考え祀る神仏を調べますと、「聖天様かダキニ天様。または両方を」と考える人が結構います。これは、お二方共に昔の表現ですが、今で言う大統領・総理大臣などにあたるの権力者や億万長者、大会社の社長などを意味する「王にする」とか、「帝・長者にする力がある」とされるからでしょうか・・・。
ただ、片方だけをお祀りするにしても毎朝一日も欠かさず朝七時位(ある流儀では夜明け前)までには身支度を調えてお世話・お勤め申し上げるくらいは必須です。普通・神道などでは天照大神を先にお世話申し上げるのが普通ですが、聖天様とダキニ天様を両方祀るならどちらを先にお世話申し上げるおつもりでしょうか?どちらも天照大神以外の後にするような無礼はお許しになりませんし・・。天照大神より早く朝の祀りをすべきという説もあります・・。また、お二方共に神仏の中で特別に作法などが厳しい神様であることすらご存じないのなら、生兵法は失礼ですから御止めになることですね。
ちなみに、このような荒い神様をお祀りするなら、お経(簡単で汎用性があるのは般若心経と法華経)を上げることを特によく心がける必要があります。 お経は神様のお心をやわらげます ので・・・。
勿論、前の晩が忘年会だろうと、午前様だろうと、徹夜だろうとそんなことは手抜きの理由に出来ないです。また、二日酔いの酒臭い息をかけるようなことは論外。お二人を御祀りするのは厳しいというはそういう事です。特に聖天様は清浄さをすごく尊ぶので掃除や潔斎にすごく気を使います。
また、よく惚けた人が『 日本は「天津神 国津神 八百萬神」を崇拝するお国柄だから、「掛け持ち信仰」もありなんじゃないの・・・。大体、神仏習合なんていう、「離れ業」を長いことやって来たんだから・・・・。 』と言う方もいますが、それは少し物を知らなさ過ぎな考えです。基本的に神仏習合論や神仏両方を祭祀する者は伝統的には禁酒・菜食・独身・不犯の僧侶・行者が考え出し、行うものです。
それに、私自身、神仏習合系の妖術師ですが、普段信仰しているのはお稲荷様だけです。それ以外は基本的には各回ごとに祭壇なり、儀式なりで十分に準備してお呼びして祈願する方式でやっています。
しかも、後先も省みず、やたらにあちこちから勧請したりお札で祀り信仰する人は、自分の頭の中が整理されてないって事ではないでしょうか?だから、それを戒める意味で「あまり掛け持ちで多くの信仰をするのは良くない」と古くから言われて来ています。
ようするに、ある意味で何かを成すのはあくまで「自分(=人間)」であって、その精神的支柱として信仰があるわけで…。 もっとも精神というか気というか、そういう内面の力は想像以上に凄くて、人生を左右するほどの影響力を持ってます。だから、神仏とかそういう類の存在は、人間の外側ではなく、内側にあると考えれば、自ずから答えは出るんじゃないでしょうか・・・。
また、欲張って沢山の神仏の守護を受けようと掛け持ち信仰するのはいいが 浅く広くと深く狭くでは深く狭く信仰する方が守護の力も全然強力でしょう。例えば武術で空手、合気道、剣道、柔道、居合い道、杖道が各初段(子供でも取れるちょっと出来るレベル)で合わせて六段の人より空手だけだが一つを鍛え上げた六段の人なら普通空手だけの人のほうが強いのと同じです。
それに、どんなに時間を切り詰めても日々の供養・祀りを毎朝毎晩、最低一人の神様につき20分は掛かるでしょう。 だから朝晩それぞれお勤めの為の時間が1時間(朝夕で計2時間)取れるなら 3人の神様を祀る事は可能になるが・・・。でも、20分というのは坊さんや神主などの慣れていてそれなりに作法や祈祷に通じる人並みの早業で20分。のんびり屋は一体1時間半以上は掛かる場合もよくある話です。だからといって自分が出来る範囲でやることとか妥協するいうのはある意味で「私は手抜きをします、いい加減にやります」と神仏に宣言する訳なので、それでも祀る神仏が許してくれるか、そんなやり方で加護・験を期待して良いものか、普通に考えれば無作法にやるわけですから罰を喰らわすと思いますが・・・。
また、正式に1時間半かかる人は3体祀れば朝だけで4時間半掛かることになります。 夕方もあるんだから計9時間ってことになっちまうよね。それでもいいならいいが・・・。普通に考えて無理っしょ!まずは一体祀って30分ぐらいでお勤めできるようになってからもう一体増やす方が正解ですよ。そのやり方ならおろそかにして罰が当たることもあるまいでしょうし・・・。
あと、ただ、念仏だけでいいと考えられてます浄土信仰は間違ってはいないけど前提条件として 「如来に対して絶対的な確実の信(信心)」が必要なはずなんですけど、何故か日本の浄土系宗派はそこをちゃんと説明していないことが多いですよね。極端な話、通り魔に惨殺される運命でも「自分は阿弥陀様の極楽に行けるから嬉しいです。どうぞ来て下さい、待ってます」位は安心して答える位じゃないと・・・。
また、物には順序というものがありますよね。だから、現代の神道のやり方で御祀りするなら、まず天照大神と自分に縁のある産土・鎮守の神社の神様を怠りなくお祀りしていることが出来て当然・必要です。仏様なら菩提寺の作法を日々お勤めした上で・・・。
それに、酔っ払いに絡まれたりした時などに、「誰でもいいから誰か助けて!」だと「自分以外の誰か他のやつが助けるだろう」と結局はそれを見ていた周囲の人は誰も助けないまま放置するという研究結果がありますが、逆にすぐ側にいる一人に「お願いです、そこの00を着た××さん、どうか助けてください」と具体的に指定して頼むと仲裁に入ったりしてくれる確率がぐっとあがるという研究結果があります。案外、神様もそういう所があるのではないでしょうか・・・。色々な祈願者を見ていますとそう思います。
また、お願いする側が「誰でも・何でもいいから助けて!」と言うのはそれを聞く神仏側から見たらある意味で大変に失礼極まりない態度で(誰でもいいってことはその神仏でなくてもいいって事で)祈願するよりは、ある神様にその神様の得意な分野に本心からすがり、きちんと作法通りに祈願し、お礼も約束しての祭祀を行なうと言うのが良いんじゃないでしょうか・・・。
あと仏教の天部の方は、仏さんじゃないですよ。仏教に帰依している天尊=外国の神様です。だから、普通の仏様・諸尊と同格に扱う事は出来ません。しかしも王侯を招くようにとか、貴人に接するようにしなければならないとか伝えられ・されています。掛け持ちがいけないというのは、それだけ多くの貴人・お偉いさんに対して礼を尽くせるかどうか?若しくは、自分でやらないのならそれだけの財・時間・人を用意出来るのか?ということです。多分、どちらも普通は無理ですよね。それに、多くの貴人に出来るならそれを一人にした方がより効果的では・・・、と言う考えもありますよね。
勿論、掛け持ち信仰がいけないんじゃないですよ。「人間同士ならわかるが神様は寛大で人間が出来てるんだろ・・・」と言う人もいると思いますが・・・。
根本的にここも違います。まず天部は、神でない。天部とは、簡単に言うなら人間より神通力のある精霊的な種族で仏教に帰依して修行している精霊・鬼神であります。故に天部は、人と同じ様に業もあるし寿命もあり、さらに信仰者に対しての好き嫌いがあるし、怒りもするし、自己のその業に苦しむ姿の一面も持ちます。そこの所を理解し掛け持ち信仰をするなら可能ですけど・・・。けれど、その際は貴人・お偉いさんに対して礼を尽くす注意が必要で・・・。
だから、自分が少なくとも戒律を最低レベルで全て守る僧侶と同じような生き方してれば、天部の掛け持ち信仰もOKでしょうが・・・。ただ、女も酒もその他のことも一般の庶民のような強欲そのものでやってると必ず痛い目に遭います。祀る資格がないのに、御祀りしていますから相手の顔に意識して泥を念入りに塗ると言うことですから、仕返しされて当然ですね。(この辺の事は今東光氏の毒舌日本史などに出ています。)
また、神道系の大多神教の吉田神道で有名な吉田神社で私が聞いてみましたところ、神道の神様はいくら掛け持ち信仰しても祟られないそうです。ただ、難しいのは仏教系の神様で、仏教の特に天部に属する神様同士を祀るのは絶対にダメだそうです。厨子や神棚を別にしてもダメで。でも天部と菩薩とか天部と如来の組みさわせなら可能との事でした。また、明王は大変だけどしっかり勤行すれば在家も問題はないのではとのこと。
ちなみに神道の神様は、掛け持ちして沢山の神を崇めれば崇めるほど、多くの神が自分の守護神となってくれるますし、相乗効果もあってそれぞれの力も増すので、味方につける神の数は多ければ多いほどいいですね。そこが仏教と神道の大きな違いなのでしょうね。ただ法文・祝詞・祭文を毎日幾つも読むのは不可能に近いので複数の神の力を得ようというのはあまり現実的ではないです。
だから昔のいざなぎ流祈祷師なんかはもっとも強力な神・式王子が語られてるとされている大土公祭文や天神の祭文とかに絞ってよく読んでいたんですよ。これらの神様・式王子は暴力的で荒々しい性格の持ち主ではあるけども、いったん味方につけてしまえばその一神だけでも、この上なく心強い存在となりうるからです。
また、個人的には色々願を聞き入れてくれる神仏は、性格が温和より荒々しく暴力的で強い神様の方がお勧めですね。祀るのは大変ですけれども、ご利益も確実。
また、天部の方を複数(諸天を複数といわれましたが)祀ることについて、在家では絶対やらない方がいいとある真言宗系の祈祷僧から聞いた覚えがあります。氏は確か豊山派でしたが・・・。それは、お寺ではそれなりに在家では絶対にやらないような修法をしてるから大丈夫なわけで、在家ではそういう予防策・補完がされないから駄目だそうです。 素人がリスクの高い諸天を個人解釈であれこれ祀るのは、「生兵法は・・・」と同じだと私も思います。
さて、お稲荷さんを信仰するなら、とにかく普段から毎日心の中でご祭神の事を思ってる事が必要です。そう思ってるだけでもお稲荷様は手を差し伸べてくれます。出来るだけオキツネさんの事は考えなくて、祭神を一心に信じる事で、まずはそこからですね。私は心の中でいつも、特に食事の前には必ず「恐れ多くもかしこき稲荷大明神様(こと豊受姫様・倉稲魂命様・・・)、いつも(五穀豊穣などの)多くの恵み(加護・支援)を(お授けくださり)ありがとうございます。また稲荷大明神様(こと豊受姫様・倉稲魂命様・・・)の(これからの)益々の開運(繁栄など)を心からお祈り申し上げます。」などの趣旨の祈りを捧げてます。だから、普段から稲荷大明神(豊受姫様など)に守られていると思いますし、心強いです。
ただ、これってキリスト教等の他の宗教と同じで神様を普段から信じていれば確かに心強くなれますよね。たしかキリスト教だったかな、「心を尽くしあなたの主たる神を愛しなさい」をテーマにしているのは・・・。
それから、伊勢神宮を見れば分かると思いますが、お稲荷様と同一神とされる「豊受大神様」が「天照大神」を祀る内宮と同格の外宮に祀られているところからも、お稲荷様は本来の神格が「天照大神」と匹敵するくらい高いです。けれど、明治時代になって伊勢神宮の中で内宮が尊重され皇統崇拝の為に天照大神が唯一の絶対最高神とされなければ、ならなくなってしまったので本来はそんな事は無いんですだけどもね。何処でどう歪められたのか。お稲荷様への偏見は強いです。また、現在も多くの稲荷神社、代表的なのが伏見の稲荷大社などは天照大神を最高神として規定・存在する神社本庁にも属さずに独自の信仰を頑なに貫く姿勢が本当に好きです。また朝廷からも長年「正一位稲荷大明神」の神号を授けられているし、天照信仰とも切り離しても良いのではないでしょうか・・。また、歴代の天皇陛下がわざわざ伏見稲荷に参拝した例もあります。お伊勢には明治以前はまず行っていないのにもかかわらず・・。
さて、お稲荷さんのお祀りの仕方は原則として一社制の神棚で祀るのが基本。ただ、神道の神様と言うのは、人間の感情に非常に近くて「感情の起伏」が激しいらしいのを理解しておいてください。
つまり、持ち上げて持ち上げて丁重に祀ればご利益も多大だが粗末な扱いをすれば一切ご利益を頂けないということです。解りますよね?特にお稲荷さんは家の家内安全などに対する神通力が物凄く強いからそういう力を自在に発揮します。 人間ってのは誰でも少なからず「幸運の芽」ってのを持っていてお稲荷さんはその芽を「五穀豊穣」の力で持って一気に爆発的に開花させる力を持ってるみたいです。だから普段から供養・信心してれば大難は小難に、小難は無難に、無難は幸運へと目に見える形で徐々に効果が現れてくるようです。逆に粗末に扱えばお稲荷さんは幸運を授けるどころか悔い改めさせるために厳しい試練を与えるがち。それを持って「祟り」と言ってる香具師もいますが、しかしこれは当然のことで誰だって粗末な扱いを受ければいい気分はしないのと同じで、特に神道の神様は人間に非常に近い感情を持ってるから、その効果も速度も速いんですよね。だから悪い事をしたと思ったらやはり素直な心で謝ることが大事です。
あと、お稲荷様だけを祀るのであればやはりお稲荷様だけを信仰した方が私は個人的にいいと思います。他の神社を参拝してもあまりご利益は無いともいいますし。人間の気持ちになって考えれば、自分に一生付いて来ると言っておきながら他の人間にもちょこちょこ付いて行くのを見たら、あまりいい気はしないでしょ?それと同じですね。
本当に稲荷信仰ってのは神道の中でも特に独自色が強いから、もうほとんど一種の「稲荷教」と言っても過言では無いですからね。鳥居や幟の過大な奉納ってのはお稲荷様だけという現状自体が何故か独特の雰囲気があるでしょうし。だからお稲荷様を信仰するなら単に「神道」の一種としてでは無くて、一種の稲荷教という宗教を信仰すると言う気持ちで信仰したほうが・・・。
その際注意はするべきことはあくまで「ご祭神」のみをを一向に敬い愛し尊敬し感謝し信仰することでしょう。眷属の御狐さんは何度も言いますけどあくまでも「眷属」で単なる「お使い」と言う気持ちで接する事。間違っても御狐さんを崇める対象なんかにしてはいけないですよ。そんな事をすれば当然ご祭神だっていい気はしないでしょう?飼い犬を飼い主だなんて言ったら人間の飼い主が怒るのと全く一緒です。それどころか、眷属を調子づかせてしまうだけ。飼い犬も甘やかし過ぎると自分が主人だと勘違いして飼い主に襲い掛かる時があるから注意してください。あと、ダキニ天は元々は鬼神だから。怒らせるとそりゃ、論理的にいって神道のお稲荷様なんて比べ物にならないほど恐い面があります。
いくら改心したと言っても、ご利益を適えた人間は死んだ後ダキニ天に魂を食われると言う説があるくらいですからね。それだけに江戸時代なんかでは死後の世界は産土神様とダキニ天が和解して助けてくれるなんて話があって安心してダキニ天を信仰する人も多かったです。ただ、間違いなくダキニ天は当時から凄い神通力があると考えられていること。普通の神道のお稲荷様よりあるんじゃないかな・・・。まぁそれだけに丁重に決まり通りに祀らないと・・・・、後は想像にお任せします。
それと勘違いする人が多いけど、神道のお稲荷さんを信仰する時は掛け持ちするなら出来るだけ産土の神社、それが判らない・いない場合は氏神の神社だけに しておく事。そのほうがお稲荷様のご利益が大きいです。また、近くにどうしても稲荷神社(本殿の主神がお稲荷様)が無くて末社にある場合は、まず本殿を参拝してから末社のお稲荷様を参拝するようにです、筋は通さないといけませんからね。
『 あとここが肝心ですが、お稲荷様は初めて本格的に参拝し出した人に対しては「練り鍛える」為に試練を与えるようです。これは場所によって違うが近くの神社なら近いほど短い期間で済むらしいです、それでその練り鍛えられてる間は参拝者に軽い不幸と言うかいやな事が続く事があります。それで、その間に諦めて参拝を辞めるとご利益は全くもらえないまま終わります、別に祟りなどは全く無いけどね。
で、いやな事が続いてもこれでもかと言うくらい参拝し続けていると、大体数ヶ月経った位でご利益が徐々にいただけるはずです。私がそうだったww。まず、間違いなく食べ物には困る事が無くなる。それどころか他人に奢ってもらえたりもする。で、その次に金銭の臨時収入がある。で。さらにその次にプライベートや物品面などで幸運が頂けるわけですよ、キャッホー!皆さん!実に順序良くなってるけど私自身が全く少し前後したけどこの通りになったから(某芸人風にいうなら、)「間違いない!」 』
ちなみに、産土の神様って言うのはその人の生まれた土地の守り神様みたいな存在で、個人にとっては大事な神様。それは氏神様にも勝りますね。氏神様と言うのは自分の先祖伝来の一族が信仰する神様の事です。だから、他の有名な神社に参拝しても産土の神様を日ごろから信仰していないとご利益は全く頂けない場合がかなりあります。これは色々と悪評の多いWMの深見のオッサンも言う事だけれど、彼の教えでこれだけは確かにあります。
だから、お稲荷様以外で神道の神を信仰する場合、まず、産土or氏神の神様を基本として崇敬する事ですね。で、その次に自分の信じたいお稲荷様以外の神様と言う風に信仰すればいいです。だから、例えば産土や氏神の神社の末社にお稲荷様がある場合、場所的には全く困らないし産土神社の末社だけあってご利益の効果や速度もめちゃくちゃ速かったりします。
あと、稲荷とダキニ天に同じ願掛けする場合ですが、これはしないほうがいいでしょう。神道と仏教とでは作法・決まりなど違いますし、それにお礼が大変です。まぁ私は神道のお稲荷様をお勧めしますけど・・・。 粗相と言うのは、要するに明らかに失礼な事と解る事です。例えば日頃からちゃんと接する時に神様として接しているかどうか親しみを込めるのはいいけど、やはり「お稲荷さん」と言うより「お稲荷様」と畏怖と尊敬の念を持って崇めて信仰するべきでよね。
こんなのは何も神道だけでは無く、キリスト教でも仏教でもイスラム教でも当然です。また神社ではなるべく失礼の無いようにするとかね。
要するに何度も書いて、言ってますけど「日頃からちゃんと接する時に神様として接しているかどうか」と言うのが神道の場合には重要なんです。頭の中で神様の容姿をイメージ して具現化する位の気持ちで信仰すること。「神様は絶対おられるんだ!」と言う気持ちです。信じない事には全く話にならないですからね。まぁちょっと失礼な言い方ですが、お稲荷様の場合はえべっさんやタイコクさんみたいな俗物化したような単なる福の神的な接し方はしないほうがいいですよね。失礼だからです、もっと畏怖と威厳と尊敬の念を込めて信仰すべきじゃないかなとよく思います。天照大御神様と匹敵するくらいの気持ちです。ダキニ天に対する粗相は・・・・・ちょっとわからないですが厳しいんじゃないでしょうか?色々制約みたいなものがあったような気も・・・・、例えば両方祀ったとしてどっちから先に挨拶をするかとか。正確には歴史的・作法的に神道のお稲荷様とダキニ天ではどっちが先なのかな?ちょっと解らないが、こういうところがダキニ天を祀ったり信仰する時は大事らしい・・・。ちょっとでも間違ったら・・・厳しいらしいです。ダキニ信仰はしてないので御免なさい。
いや、冗談抜きでね、親が神道系の伏見稲荷を信仰していて、何故か息子が仏教系のしかも禅宗の豊川稲荷を信仰してた為、家の中で互いに念のぶつけ合いで凄まじい妖気となり、それが家族に災いし次々と大怪我したり奇病にかかったりしたというのを実際に聞いたので・・・。
そういう例もあるんで、やはり非常に気をつけなくてはいけませんよね。一度ご利益を頂いたら一生信仰し続けなければとよく思います。そして、丁寧に祀れないならお返しして参拝信仰にすべきだとも、これは、お稲荷様だけに関わらず、古今東西宗教ってのは本来そうですよね。入信したらその宗教の中で全力でかつ礼儀正しく一生生きて行くと言うぐらいの精神がね、本当は必要なんですよ。でも、日本人は仏教と神道が混在してきた上に、先の大戦前後に色々と失伝やら破壊やらをしたのにその修復も補正も改編もしないまま今に至り、ほとんどの人がどっちつかずのまま宗教に非常に疎い歪な民族になっちゃった面があります。しかもそういう現状を自覚してもいないです。
それから、最後に神道のお稲荷様にご利益を頂くと言う事は、逆に言えば今後はお稲荷様を生涯信仰しお付き合いして行きますと言う誓いの裏返しみたいなモノだと私は思います。
さて、今回は長々とお読みいただきまして、ありがとうございます。ご苦労様です。
では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・」
皇悠拝・・・orz.
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