理論・哲学など

2009年11月 6日 (金)

神道呪術の基礎・基本

御覧頂きまして、有難う御座います。

独覚派(?)/妖術系伝道師、皇悠です。

さて、今回は神道呪術の基礎・基本と云う事で、おさらい系記事です。


え~とですね・・・、昨日ある神仙道系修行者に聞かれた事でもありますが、神道系呪術の基礎・基本を当ブログにも明確には記述していなかったので、改めて(?)記述します。

まあ、あまりに当たり前・前提条件なので記述してなかったのですが・・・(b^-゜)。

まず、神道呪術は基本的に神様にお願いする形式ですが、神道の神様はタダ祈っても応え無い方々ばかりです。

具体的には、神棚なり神社の本殿なり、御札なりに向かって祈らないとまず聞き届けない方々ばかりです。(つまりは、神様の前で願いを伝える訳です。)

だからこそ、多くの祝詞で「の御前」とか「□□の大前」とか、「を拝し・・」に「△△を奉るれば・・」などなど、祈る相手たる神様を描写しつつ「・・申す・宣る」と祈り手の意識・目的・状況を明確化して終わります。


つまり、繰り返しますが神様のいらっしゃる神社なり神棚(百歩譲って御札)等の前で神様に向かって祈らないと意味が有りません・・(少なくとも、伝統的な祝詞形式を準拠し重んじている限りは・・)。

だからこそ、神道呪術ではヒモロギだの、イワクラだのの場合も在りますが、大抵の場合で必ず神様の前で願意を伝える形で実践されます。

言い方を変えれば、神様の前で無い・神様の居ない所で幾ら祝詞なり祭文を唱えても神道の神様の力・加護は無いのですよ・・。
自己暗示的な意味はあっても・・。


また、当たり前ですが祝詞の内容と神様が合わないと無意味ですよ・・。例えば、八幡様に大祓詞は微妙です、国譲りの時に八幡様はまだ日本に居られない・お生まれになって居ないのでしたから・・。

単純に、神道の呪術・祈祷は祝詞を唱えていればオーケー('-^*)/。神様にお願いすれば大丈夫o(^▽^)o。
では無いのですよ・・(^_^;)。


この辺を誤解している方が居らしいので、今回今更感が在りますが、アップしました・・(^_^;)。お役に立てば幸いです。

では、閲覧頂いた方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より。

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2009年11月 1日 (日)

ラーマクリシュナの信仰区分について

御覧頂きまして、有難う御座います。

ソーサラー・エバンジェリスト(?)の皇悠です。

さて、今回もガチ話です。

さてさて、今回は以前取り上げた19世紀インドの聖者ラーマクリシュナのある説です。その説では、信仰者をこのような三段階に区分しています。それは以下のようなモノとしています。

まあ、日本人はインド伝来の多くの(精神的な)モノに価値があることを認めている風土なので、こういう信仰のあり方の階層化・診断もそれなりには日本人(信仰者)にも使える気もしますし、あまり変わらない気もしますので今回アップします・・・。

1.低位の信仰者
「神は在る。あちらの方に、(大空の・西方・東方・海などの・・・)彼方に・・・、と言う。」

基本的に神・仏が、自分の外に存在しつつも、彼方より信仰者を見守ると見做すケースです。

これはある意味で同じ淵源から来ているのにもかかわらず、チベット密教では空性・神性などを自分の中に見つけようとしますが、日本の密教では、本尊・真理などを自分の外に立てるのに似ていますが、基本的には仏教の多くの諸尊、例えば阿弥陀様に観音・文殊・薬師に弥勒なども信仰形式などで同系です。

2.中位の信仰者
「神はあらゆる生物の中に、(内なる導き手・種子・火花などとして)宿っていなさると思っている。」

神は、自分とは別にいるが、自分の中にも存在する・繋がっていると思っているケースです。如来蔵思想やグノーシス教などの基本認識です。

3.高位の信仰者
「神を見た人は、神が(生物)世界になっていなさる事がよく判る。あらゆるモノは、あの御方なのだ。」

「私の解脱はいつのこと、それ、その”私”が消えた時」


神は、あらゆるものの顕れで在る事・人を含め世界の全てが神であると見る・知るレベル(汎神論)です。

勿論、ラーマクリシュナ自身は高位の信仰者ですが、低位だからダメなどとは当然言ってないですし、低位の信仰者以下の乱暴者を町で見かけたら、そいつが神のギラギラした顕れであることを見たと言っています。

ちなみに、個人的には皇悠は、普段は低位の信仰者だと自身を感じつつ思っていますし、高位には絶対に成りたくも無いと感じている口です。

限定的に儀式や祈祷の際には中位の神仏と繋がる・自身の中に神仏の力・存在・恵みを感じる時はありますが・・・。

正直に記述しますと、「自身が神だ!」「この世界は神だ!」などと本気で日々、真摯に感じ、信じ、理解している人間は基地外・狂信者・低脳の物知らずの何れかだと感じます。

戦争や虐殺・差別に暴力性・偏見・・・・、この世界は皇悠自身を含め(ほぼ・多くの)存在するもの自体には邪悪な面や未熟さ、歪みを抱えています。

それを自覚するが故に、至高者・良きモノ・究極的存在を意味するはずの神・仏がこの世界だの、人だの、自身だのとは認めたくないのですよ・・・。この辺は個人的な嗜好ですが・・・。

では、今回も何かの役に立てば幸いです。

では、閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2009年10月30日 (金)

這う虫の災い・・

御覧頂きまして、有難う御座います。

未だ妖術師・伝道師としては日々未熟さを痛感してます、皇悠ですf^_^;。

さて、今回のネタは表題通り「(這う)虫の災い」です。

この言葉は旧版・古い大祓詞にも「昆虫の災い」等とも表記されて、神々に祓い除く事を期待されている厄災の一つでしたが、本日改めて何故にして敢えて長く神に祈ってこられたか、長い間理解不能でしたが、やっと分かりました・・(≧▽≦)ゞ。

それは、本日10月30日は昼のある経験からでした・・・。

その時は、ちょうど用事があり、東京は丸の内(東京駅と皇居の間)で立っておりましたら、右肩に何かを感じ、見るとそこには親指大のスズメバチが一匹止まっていました~ヽ(゜▽、゜)ノ。

そして、久し振りに命の危険を感じつつも下手に刺激して、例えば叩くなどを為すと刺されると思い、飛び離れるまでじっと耐えましたが・・・今だから記述しますが肝が冷えましたよ・・・(*´Д`)=з。

さて、この件は幸運にも何事も無く終わりましたが、医療体制がまだまだ未熟な近世以前は薬に血清、救急車に医師も少ない・無い時代ですから(毒)虫の災いは確かに恐ろしいモノだったと今回、やっと理解しました。本当に蜂や蛇などの有毒な生き物にやられたら、まさに命に関わりますよ('-^*)/。

まして、ある程度遭遇しにくいはずの現代の日本の10月の末ですらスズメバチは元気に都市を飛び回っているのですから、まさに往古は日常的な災いだったのでしょう・・。

もしかしたら、多分人の住む都市や町・村では獣に襲われるよりも毒虫に襲われる危険性は高かっかも知れ無いですし・・。

そういう意味で昔の人の方が神仏に頼る必要性は高かったのでしょう。

そして、未だにそういう危険性は無くなって無い訳ですから、やはり必要性は未だにある訳です・・。

さて、今回のは本当に色々と考えさせられる件でした。

では、閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように、祈りつつ、皇悠より。

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2009年10月25日 (日)

ゾロアスター教・ミトラのヤバイ教えについて・・・

御覧頂きまして、有難う御座います。

相変わらず、ネット経由でエヴァンゲリストしてますソーサラー、皇悠です。

さて、今回はあらゆる善悪二元論系宗教の原型、全ての光/火を重んじる宗派の元ネタつまり、ユダヤ・キリスト教に仏教にイスラム教、そして多くのオカルト哲学体系(有名な所で人智学や神智学など)に影響を与えたゾロアスター教(ミトラ)のヤバイ教えについてです。

さてさて、この宗教・ゾロアスター教は古代ペルシャの文化圏を主にした地域やユダヤ・キリスト教に仏教にイスラム教、そして多くのオカルト哲学に今に残る深い影響・傷を与えたほどに物凄い宗教であり、その影響の絶大さ・大きさでも有名ですが・・。

また、後にイスラム教徒に厳しく弾圧された歴史を知っている方もそれなりにいると思いますし、有名な火を祭壇に置いて大事にしてるから拝火教だとか、善悪二元論を明確に定義し光を善・闇を悪に定めた宗教だ・・・とかも御存知の方も多いでしょう・・・。

まあ、通俗的な・高校位までの世界史の教科書にも、ゾロアスター教の本質を理解するにはどうでもいいようなこれらの特徴位は書かれていますし・・・。

また、ゾロアスター教の聖典たるアヴェスタとか、マンスラ(インドでいうマントラ。)の三大呪文やらも有名ですが、もっとぶっちゃければこれらよりも大事なモノ・特徴があります。

まさに、絶対に守らなければならないモノ・戒律・教えがあります。

それが、クワェード・ダフとかいわれるモノなんですけど・・・。

きちんとそれをこなさないと、胸を張って善人・ゾロアスター教徒だと言えない、ゾロアスター教の神々の加護がありえないようなモノがあるわけです。

それを、ぶっちゃけますと・・・クワェード・ダフと云うヤツで、最近親で婚姻する掟の事です。

つまり、「兄弟姉妹親子で子供を作れ」という命令の事っス。

そのことは、彼らの根本聖典『アヴェスタ』で明確に記述されています。

ちなみに、この宗教はよく善悪二元論の代名詞・原型的な宗派とされ善行を推奨し悪を排斥する事を重視する事でも有名ですが、通常は他の宗派では絶対的なタブーとされる近親婚が「善」とされ、「大善大功徳の行為」として大推奨されています。

具体的には近親相姦・近親婚の父と娘、母と息子、兄弟姉妹の結婚は、最高の善行だとされて居る訳っス・・・・。

なお、一応、念の為に書いておきますが・・・、現在のゾロアスター教では近親婚が遺伝子上の問題や世界的な風潮で禁止されていますが・・・。

何と云うか凄い宗教ですよ・・・ね(^_^;)。

さて、かなり以前に記述しましたがユダヤ・キリスト・イスラム・仏教の守護者のミカエル・弥勒・布袋・メタトロンなどは、全てこのゾロアスター教とその正当な後継宗教のミトラ教のミトラより来てます。

そして、このゾロアスター教の開祖ゾロアスターを教え・導き・支え・守護したのもミトラとされています。

つまり、ミトラ・弥勒・布袋・メタトロンの教えに、近親相姦・近親婚が在ると言う事ですよ・・・。人類の歴史上で最古級の教え・ミトラの加護・導きなどを得るための条件として・・・。

つまり、ミトラ・弥勒・ミカエル・メタトロン・布袋(そしてミトラは阿弥陀如来と時に同一視すらされる事もありますが)に祈ると言う事は、近親相姦・近親婚を受け入れて、それをすると公言するに等しいのですよ・・・。全く、知られてませんが・・・。

(ちなみに、だからこそ個人的には性的に放埓だった古代ローマ人がミトラ教に大ハマリしたのも判る気がしますし、近世の日本でも弥勒の世の到来を謳い、活躍した出口王仁三郎が性的に放埓な行いの浮気・不倫などをやらかしたと言う醜聞がありますが、弥勒を信じ、時には自らその代行とも化身とも彼らは称していたのですから、さもありなんな気がしますね・・・。閑話休題)

さて、厳密に考えれば近親婚・近親相姦無しでは、明確にミトラより近親婚・近親相姦の勧め・掟はいまだに撤回がされていない訳(少なくても、皇悠は知りません)ですから加護・協力・導きなどはありえず。

また、ミトラとその亜種・変化身であるミカエル・弥勒・布袋・メタトロンの加護・導き・恵みはありえないのですよ・・・。

そして、もし万が一にもそれらを頂いたらそれらをしなければならなくなります。

祈祷・呪術・祈りは基本的に神仏との約束・契約行為ですからね。

だから、皇悠はミトラ系の力・加護は求めてませんし、使用してません・・・。

個人的に、近親相姦・近親婚はシタクナイので・・・。

では、今回はここまでです。

ミトラ達に祈ると言う事は、歴史的には近親相姦・近親婚を受け入れてそれをすると公言するに等しいと見做せるのです、本当に知られてませんが・・・。今回は此の事をご理解いただければ幸いです。

では、閲覧頂きました方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠拝礼。

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2009年10月19日 (月)

呪い・呪殺法としての祓い

御覧頂きまして、有難う御座います。

どうも、妖術系エヴァンゲリスト・皇悠です。


さて、今回は呪い・呪殺法としての祓いです。

え~と、以前記述したかもしれないのですが、祝詞や経文に作法等は文脈・解釈・流儀に依って色々な意味・力・価値を持ちます('-^*)/。

今回のもその一つです。
さて、当ブログでは今まで色々な祝詞を紹介して来ましたが、今まで明確に告知して無いのですがその殆どが呪い(場合によっては呪殺)として作用しえます・・(((゜д゜;)))。

と言っても、あくまでも、神仏並びに御家臣団が呪い・呪殺として動かれ得るという話ですが・・。

さて、大体の祝詞には「守り賜え」とか「浄め賜え」とか「祓い給え」といった文句が入りますが、コレって「殺して!消して!滅ぼす!」といった意味を内包しています。

実際にナチスがユダヤ人問題の最終的解決方法・救いとして、アーリア人の純粋性/純血を守る・ドイツを綺麗にすると言って領地内のユダヤ人の計画的な大量殺戮を、近年でもユーゴスラビア等で民族浄化の名の下で破壊・強姦・強奪をしましたよね(*゜▽゜ノノ゛☆。

違いますか(´∀`)?

また、良くある祝詞の文句の罪・穢れ(汚れ)・(漢字変換出来なかったのでカタカナ表記してます)マガ事等も場合によっては相手・対象に対しての有罪確定行為や生存権・存在の否定(つまり、呪い・呪殺)にすら成りえます。

実際に日本の部落の方々を汚い・穢れた存在として価値を無くし、暴力や殺傷沙汰に差別を時に正当化したりしている人々もいますし、世界中で例えばインドの不可触階級(正に穢れた存在故に触れる・話すどころか見るのも厭われる人々)や数年前の南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策等が・・。

つまり、殆どの祝詞の内容の「キレイに、守ってもらう」のを願う事は場合によっては・神仏の判断如何に依っては(穢れ・マガ事をもたらすモノへの)攻撃依頼・排除要請・絶滅嘆願になります。

怖いですよね・・・。
先の大戦でも鬼畜米英/敵を祓え賜え・・、外国を悪を浄め賜え・・と我が国の殆どの神社は祈り倒してましたし・・。

単純に祝詞は厄を祓うといった意味で唱えている方々も多いですが・・。
実に祓うとは何なのか?何を指すかで意味・意図は万変します。

今回はその一例ですよ。では、ここまでです。

閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より

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2009年10月 8日 (木)

日本における信仰と作法

御覧頂きまして、有難うございます。

妖術系エヴァンゲリストな皇悠です。お久しぶりです(・ω・)/。

さて、今回は作法メインなお話です。

偏見かもしれないのですが、皇悠が思いますに現代の日本人の信仰に於いて何故か抜けている観念・覚悟の一つに神仏への畏れ、敬意、恐怖の念があるのでは無いでしょうか・・?

以前、ある著名な日本人魔術師が記事内に魔術とは精神・魂の技術と文中に記しながらも、それは一面で時限爆弾を操るのに等しいと記述しておりましたが、神仏との交流・神仏との繋がりを持つ事は正に猛獣を扱い、火薬を調合するが如き危険性があります。

まあ、一回・二回の不作法・間違いで罰やバックファイヤーを食らう事はまず有りえませんが・・・。しかし、瞑想に依って発狂・祈祷で発病・神仏を侮って大怪我なぞはあまりに当たり前過ぎて、初心者用の入門書にも注意の記述すらされません・・・。(少しでも売れる為に調子の良いように安易に編集し出版するのも分かりますし、そういう危険性があるのでやり方は間違いでは無いのですが効果の無い=神仏とまず繋がらない記述もまた良くあります・・)

さて、前書きが長く成りましたが、以前にも何度か記述しましたが祈祷・呪術には伝統的な作法が必ずありますが、何故にしてそれらが存在しておりますのか?
判りますか?


あまり、気にしない方々も多いのですが、それらは少しでも確実に験を得ると云う目的以外に、神仏の怒りを買わない/不快感を与えないように定番を求め、ハズレを引かないように求められた結果、残り続けました。


よって、験のある方々の中には、不作法な方に厳しい方もいます。これは基本的に祈祷師は祈祷する際に依頼者と神仏の間に仲立ちとして立ちますが、時に神仏から依頼者の不作法を咎められると監督が足りないと祈祷師にまで罰を与える場合があるからです・・(((゜д゜;)))。

因みに、皇悠自身も恩人に先生から幾度と無く礼儀作法や言葉使い等の指導を受けましたが、その事に未だに感謝と恩を感じてます・・:*:・( ̄∀ ̄)・:*:。


本当に不作法が無くなる毎に験だけで無く色々な面で改善・好転して行きましたから・・(≧▽≦)ゞ。
(でも、正直に言って大変でしたし、まだまだ不作法な面もありますが・・f^_^;)

では、今回は此処までです。

そして、皆様には全ての良き事が雪崩の如く起きる事を祈りつつ、皇悠より

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2009年10月 2日 (金)

神仏を祀る事・・自力の法門(?)

御覧頂きまして、有難うございます。

エヴァンジェリスト兼妖術師な皇悠です。

さて、近頃ちょっとした縁で臨済宗系のお寺さんについて調べ始めたのですが、せの過程で禅宗に祀られてます神仏群を観まして神仏の祀る事について幾つか考えました。

えーっ、以前に幾つかの記事・返信で神様・天部尊を複数お祀りするのは在家は危険性が高いと云う意味の内容を記述したり・してますが実際の処は幾ら祀りましても大抵は意味が無い・または験を頂けないだけなだったりする訳です。

但し、万が一と云うか大抵の場合において作法や奉り方を知らずに祀る為にマイナスの影響や罰を受ける(ぶっちゃけると衰退・殺される)為に、勧めてません。

さて、坐禅・自力の法門で知られる禅宗に於いてもやはり信仰ですので、神仏を普通に一つのお寺に幾つもお祀りしてます・・・。

例えば、ありがちなモノで、本尊に御釈迦様、脇侍に文殊・普賢の両菩薩、庫裏に韋駄天か大黒天様、便所に烏須沙摩明王、他に鎮守・祈祷本尊として天部尊が一尊以上がオーソドックスなパターンです。

まあ、こう見るだけでも作法が大変そうですよね。各神仏毎に毎日の奉り方、季節や年による特別な祭礼が在るわけですから・・。

それに檀家さんの法要何かもありますし・・。

さて、時々考えるのは、神仏の験を頂く事は日々の給仕や祈りを捧げた故の御駄賃みたいなモノかもしれないと・・・。あくまでも感想なんですが・・・、だからこそお祀りする方は一生のお付き合いですから、付き合いたい/すべき方・好みな方を在家はお祀りした方が善いと考えてます。

そして、本当に好きな方と付き合っていればあんまり他に余所見をしなく成るのではないのでしょうか?

大抵、余所見や浮気をするのは不満や嫌いな面が在るからな訳ですし・・・。


因みに言い訳臭いですが、基本的に皇悠は崇敬社以外に立ち寄りはしても祈願・祈祷はまずしません。挨拶か代参か行(巡礼として)をする位です。

だから、当ブログの過去記事の中には現在はやって無い技法や近頃は伺って無い場所なんかもあります。
どうしても、崇敬する方が定まると技法や場所なんかも定番(今なら稲荷・金毘羅様関連)化します。

当たり前の事だったりしますが・・。

では、閲覧頂いている方ひた全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より。

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2009年9月27日 (日)

楽としての祈祷

御覧頂きまして、有難うございま~す。

本日、久し振りに崇敬社にて長々と祈り倒したリミックス派妖術師の皇悠です。

毎日、参拝出来ないのでたまに参拝すると抑制が掛かりません・・・(^_^;)。
本殿の前に一時間近く祈り倒しますのは・・・、あまり参拝者(一時間で皇悠以外で4人)が居ないとは言え・・。
嫌な信者ですね・・・(≧▽≦)ゞ。


さて、今回は楽としての祈祷です。

さてさて、閲覧者の皆様は毎日・毎朝・毎夜の勤行してますか?

残念ながら皇悠は出来てません・・Y(>_<、)Y。

だからこそ、出来る時にはシッカリと力入れてやってますが・・・。

少し話がズレましたが古来より祈祷・祭典・儀式に於いて伴奏・BGMとして音楽が流れるのが必須なのは多分、当ブログの閲覧者の皆様も結婚式やお葬式、各寺社で法要だの例祭だのに参加した際に経験しているかと思いますが・・・。

そんな訳(?)で祝詞やお経を唱えるというのは、ある意味で祈り手たる歌手が観客たる神仏に祝詞・お経といった歌を通して願いといった気持ちを伝える訳ですよ('-^*)/。

しかし、何というか暴論な・・・(^_^;)。
しかしながらも、讃歌に声明や御詠歌に神楽に奉納演奏なんてモノもあるので、一概に祈祷=演奏と言って間違いとは言えない訳で・・・すよ('-^*)/。

因みに、祈祷=演奏と考えると色々と見えて来ます('-^*)/。
例えば下手なモノは観客たる神仏に失礼とか、一人悦に入ったのは見苦しいとは、毎回同じような歌・曲/祝詞・お経じゃあ駄目だろうとか・・。
そして、何よりも祈祷はある意味で神仏に楽しんで喜んで頂き、その代わりに願いを叶え頂くという構造なので・・、勘違いしてる方々が多いのですが単純に思い・願い事を伝えたらオッケーでは有りませんよ('-^*)/。

願い事を伝えて神仏が実現させる・叶える気になって頂かないと、話は聞いたがシカト/スルーして終わりです♪(*^ ・^)ノ⌒☆。

だからこそ、仏教はお経にこうした作法をしたら願い事を叶えると書かれてますやり方に沿って修法しますし、神道系なら先人達の効果的なやり方を基に執行してます・・。

さて、少し話がズレましたが、今回の記事が何かの役に立てば幸いです。

では、閲覧者の皆様には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より

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2009年9月12日 (土)

占術の起源

御覧頂きまして、有難うございます。

基本的に占術が嫌いな皇悠です。

さて、今回は皇悠が先生(魔術で無く神道の方ですよ('-^*)/)から倣った占術(の起源)の話です。

まあ、今から二百年位前は当たり前にあった考えの一つですが・・、今では忘れられた世界観の話です。

さて、現在流行りのスピリチュアルとか精神世界では、各方に固有な個人の霊性とか内在する神性とかがその人の人生だの運命を決める・司っているみたいな説があるようですが、往古は世界は全て人より上位の存在(俗に云う神仏)が決め動かすと云う世界観がありました。一人だったり複数だったりしますが・・・。

よって、その神仏の意志・予定を知れば全てが・・、例えば何故世界がこうであり、未来がどうなるかも予想出来ます。

そして、その為の手段として占術がありました。だから、神仏を崇める者が占術を護持・発達させていた訳です('-^*)/。

そして、占術で知った情報(神仏の意志・予定)に基づいて時には交渉し、時には従う。そうした対応する有力な手段の一つとして、呪術・祈祷があった訳です('-^*)/。

勿論、場合によっては神仏の意志を変える事(具体的には、神仏がある方を寿命ですぐにも殺す意志を祈願し交渉し無くす・先に伸ばして頂くなど)を祈祷・呪術は為す訳ですから、占術より呪術・祈祷の方が難しい訳ですよ・・(^_^;)。

人でも同じですが、目上(上司や権力者等)の方の考えを知る事よりも、目上の方の考えを変える事の方が大抵は大変です・・。

さて、そんな訳で常に占術で神仏の意志を知り呪術で交渉・対応するといった感じで補完的な関係でしたが、呪術の方が難しい事、神仏が世界・全てを決め動かすと云う世界観の衰退、何より神仏の信仰無しに日本人が普通に暮らせるようになった事で呪術は廃れて行きました。

まあ、占術は呪術・祈祷のような辛い修行に節制等が無く単純に学ぶだけ・暗記しただけでそこそこ使える(先が判る)ように成るので、広まり易く身に付け易かったので、今だ人気な訳ですが・・・。

さて、今回は神仏と云う存在に絡めて占術と呪術の起源、関係を色々と記述しました。
まあ、神仏の存在を感じず認めもしない方には意味の無い話ですよね・・・(・ω・)/。

こんな考え方もあった・あると知って頂けたら幸いです。

では、閲覧者の方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠 拝礼。

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2009年9月 8日 (火)

占術と呪術

御覧頂きまして、有難うございます。

独覚系妖術師の皇悠です。

さて、今回は罵詈雑言・徹底的な批判記事です。

気分が悪く為される方もおられるようでしょうが、管理人を理解して頂いてないと当ブログは理解しえないと考えてますので、今回は記述します。

まず、皇悠は基本的に俗に云う占い師を馬鹿にしています。
というよりも普通の意味での占いと云う手段を蔑視しています。
ただし、呪術師・信仰者等は占いを逆に必須と考えています。


何故か分かりますか?


何故、タダの占い師は存在しては為らない(つうか、奴らは死ぬべきですね('-^*)/)と考えているのに、祈祷師・魔術師は学ぶべきなのか?分かりますか?

理由の一つは占いの歴史を御理解頂くと分かります。

まず、殆どの占いは神仏なり、その信仰者から齎されてます。つまり、彼らの加護(免許・ライセンス)無しでは成り立たないモノです。

次に、占いと云う方法論・思想を担い発展させて来たのは、各々信じる方々は違えど神仏を信じ学び行じた者達・その後継者達です。つまり、彼らに対して恩が在ります。
そして、そういった背景・流れにいない者達がどうしてその秘奥・心髄を理解し体得し活用しえるのですか?

実際、現在の殆どの占い師は宗教・信仰なぞ知らずにまずいます・・。というより、占いを学ぶには何かを信じ行を積め!と云う占い師もまず居ませんよね('-^*)/。

更にまた、少なくとも今の占いのイメージ、未来を知る事が出来ると考えを基にした占い師には、呪術・祈祷は原理的に不可能ですよ・・・(^_^;)。

現在から未来が判ると云う方法論は原理的に未来は(結果的に、どの様な過程を通っても)もう占う時には既に決まっていると云う考えです。
よって、それは必然に神仏だろうが何だろうが、変えられないと云う理論ですよね・・・。

なら、神仏なりの力で未来が少しでも変わるのなら占いは出来ません(無意味です)!占った結果が気にいらないなら、直ぐに神仏なりに頼って終わりですモノね('-^*)/。

なら、初めから神仏に祈っていれば良い訳ですし・・・(^_^;)。


さて、以前に記述したも含めて、今回色々と現代の占い師の狂い・歪みを上げましたが、まだまだ上げれば切りが無いので、今回はここまでにします。

では、閲覧者には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

現代の占いが嫌いな皇悠より

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2009年9月 6日 (日)

呪術の実践時の状況・内在する他者と・・

御覧頂きまして、有難うございます。

相変わらずの異端派(妖術師)の皇悠です。

今回は呪術の実践時の状況を基に色々と記述します。

さて、その時には「何か外部、具体的には神仏や魔物・精霊などの日常の存在でないモノ」への回路が開口します。

ある意味では、その時は「私の内部にある、あれこれの意見・力・エネルギーを擦り合わせる」という面倒な仕事を引き受けると言う事です。

因みに「私の中における合意」は同語反復で無いですよ・・・。

例えば、優れた書き手は必ず自身の内に「対話の相手になるような、私とは違う私」を住まわせているそうです。

モーリス・ブランショが「同じ一つの事を言う為には二人の人間が必要だ」というのも、ラカンが「私が語っている時、私の中では他者が語っている」というのも、おそらくその構造は同一でしょう・・・、有名な所では村上春樹氏のうなぎです。

さて、もし書き手が常に首尾一貫していると、遠からず限界に行き当たりますよね。これは以前に書いた縮小再生産の罠に嵌ります。具体的には書くことが無くなってしまうので・・・。

勿論、人間はタフですから、書く事が無くなっても、同じ事を壊れたテープレコーダーのように際限なく繰り返すことは出来るのですが・・・。ただ、ご自身は際限なく言葉が出てくるので、言葉の鉱脈を掘り当てた気分になって、嬉しく語り続けるけれども、これは「下水道に上水道を繋いでいる」のと同じメカニズムです。

幾らでも際限なく蛇口から水が出てくるので、無窮の水源を掘り当てたと本人は大喜びだが、実際には排水溝から流れた水がまた蛇口から還流しているに過ぎない(だから、だんだん腐臭がしてくる訳)ですし、水に例えれば自然蒸発・ロス分が出てくるので無限循環もやはり出来ませんし、何より余程の奇特な方か内容が複雑・重層的でないと受け取り手が飽きます。

この状況に落ち込まない為には、「私の中で他者が語る」という機制をどこかで構造的に組み込んでおかなくてはならない訳ですよ・・・。

でも、どうやって。

それは、他者を敢えて自己の中に許容し取り入れ、それが伝えることを記述し語る様に自己を編成し構成しなうす訳です。

これが俗に言うシャーマンの病・巫病です。

そして、その状態から「自分の中にあって乱立・摩擦を引き起こしている幾つのモノ・ヴォイスを片端から言葉に載せてゆく・調和を力に変えていく」と言う事をなしていく訳であり、その「片端から」を統御する理とは「美」だ、という見極めがちゃんと要ります。

そう、ある意味でヴォイス・モノを統御する「理」は「美」なのです。

だから、カバラの生命の樹の中心は美・調和を意味する球が存在しています。

この美しいとはどういう事なのか?

この言葉は美しいか、この歩き方は美しいか、この着付けは美しいか、この配膳は美しいか・・・。

そういう事に知的学習を集中的に長い体系的な訓練がなければ、このような審美的な規範は身体化・習得しなく、「複数の存在」とか「他者の言葉」というような危ういモノ・存在を統御出来るのは、身体化されたこのような「美」的判断しか出来ないので、これが無いとある段階で壁にぶち当たります・・・。

皇悠の恩人・先生もこと呪術・祈祷には様式美や美しさ、礼儀作法に対しては厳しい方でした・・・。

まただから、若き日の皇悠がカスタネダの書く呪術師の発言や各種の祝詞を読んで「意味が全然・これぽっちも判らないけれど、何か、めちゃカッコイイ」と吐息をついたというのは、子供なりにこの物事の理が判っていたと言う訳で、個人的な自負の一つだたっりします。

まあ、今回のはヤラナイ方には何のことか不明な記事ですが、自分の中に自分でない何かがいてそれと交渉・調和しなければならないといけない時期と言うのが、呪術・祈祷時にはあるので、予備知識的にアップしました。

祈祷師・呪術師の何かの役に立てば幸いです。

では、閲覧頂いております方には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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情報の整理と人生の有限性

御覧頂きまして、有難うございます。

道楽系妖術師の皇悠です(^-^)/。

そろそろ、夏も終わりましたので、ちょっとブログの模様替えをしてみました・・・(≧▽≦)ゞ。

さて、自分の存在がこの世界から消えて逝くその時を「消失点」に擬して、それに基づいて自分がこの後の残された限られた時間の中で、何をするのか、何に優先的に有限のリソース・資本・労力を投じるのかを具体的に考えるというのは、とてもとても大切な事です。

因みに、これは初めの恩師に教えられた事の一つです。

この「有限」を忘れて皇悠も含め人は、何故か物を考え何かを決断しがちです・・・(笑)。つまりは「無限の時間とか、無限のリソースとか」というモノを前提の上でして、後で悔むモノです。

また、「私たちが使えるリソースは有限であり、残された時間はわずかである」という限定を受け入れると私達は過度に暴力的に成る事を抑止する事も出来ます。

例えば、あと三日で死ぬという人間に向かって「おまえ、生き方変えろよ」と説教し強制する人間はいなく、あと三年で死ぬという人間に向かっても似たようなものでしょう・・・ね。

では、あと三十年で死ぬという人間に向かってはどうかというと・・・、この場合には、「生き方変えろよ。今からでも遅くないからさ」と言いそうな気がしますが、本当に三十年生きるかは誰にも判りませんよね・・・。

しかし、「あと三年で死ぬ人間」と「あと三十年で死ぬ人間」のあいだのどこにボーダーラインはあるのかも不明です。

また、どこで「うるさく説教をし相手に強制して良い残り時間」と「もう好きにしてくれと諦めるしかない残り時間」が区切られるのでしょうか?この判断基準自体も実はよく分からなくなり、寛大になれます。

有象無象の何時死ぬか分からない人間に関わるよりも本当に大事な方とのみ付き合い・したい事に集中するようになりますから・・・。

また、自身の人生が限りあると自覚しない限りは、物事や多くの情報を識別し整理することが難しくなります。幾らでもやり直せると考えてしまいますから・・・。

そして、世の中には本当に見た目は面白そうな事・誘惑は多いですが、それらに時間を労力を費やし、死ぬ間際に後悔してもしょうがないですよね・・・。


因みに、この「カウントダウン・有限性」という事態を別の言葉使いで語っている人もいます。

「武士道といふは死ぬ事と見附けたり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり。」(山本常朝、『葉隠』)

また、ある呪術師の有名な言葉の「死は盟友・賢者」というのも同じ意味があります。

さて、今回は普段と違う記事をアップしてみましたが何かの役に立てば幸いです。

では、閲覧頂いております方には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年8月30日 (日)

三毒論への疑問・・・。

御覧頂きまして、有難うございます。

皇悠です。

さて、今回は仏教の基本的の修道論/世界観の三毒論です。

つまり、人は貧欲・怒り・愚痴(無知)で迷い・苦しむ・・としてます説明ですよ。

でもって、何時も思いますがこれらはおかしいのです('-^*)/。

例えば、仏像を金銀で作れ!喜捨を求めろ!祭壇を飾れ!などと貧欲(過剰な華美さなど)を経典が煽っておりますよ。

それに、経典が書かれ編まれた時代よりも現代の日本人は豊かな生活をし、またそれ無しで暮らせなくなっております(例えば坊さんが普通に持つ携帯に車は無いと生活・出来ない仕事は多々有りますが、これらは元来の仏教の修行者に必要ないモノですよね)

ぶっちゃけ、日本人の一人が1日に消費する資源で最貧国の人が十人以上養える訳ですよ・・・(^_^;)。なら、日本人は最貧国並みに実施したら良いのですか?

また、菩薩戒の衆生済度自体が貧欲ですよ・・どう考えても・・一人で万人を救いたい・・ヾ( ´ー`)。

また、怒りはイカンとするなら、インドは未だにイギリスの植民地ですよね・・(^_^;)。全く怒らずに独立・国土奪還の紛争の完遂出来るんですか?
敬虔な仏教徒のチベット人の国土奪還運動自体にすら多少の私怨・怒り混じりな面が・・。

更に現状に不満だからこそ怒りますが、現状に満足したら誰が仏教を含め辛い学び・行をするんですか?実際、お釈迦様も空海さんも不満があったから家族にそれなりに豊かな生活を捨て乞食行者になった訳ですよね・・?違いますか?

また、少なくとも経典が成立した時代よりも多分、日本の普通の中学生は当時の大賢者より物知りですよ・・。そんな現代で人は無知であるって、どういった意味ですか?本質的に愚か・無知なら、本質故に改善は不可能ですし・・。

また、自身が愚かしいと自覚しているからこそ学ぶ場合は、正にその愚かさは大事な美点ですよね・・?違いますか?

てゆうか、三毒論を学んだ筈の多くの坊さんの中に下手な凡人よりも怒りっぽい人・金に貧欲な者がいる事、更に悟りも験も無い圧倒的多数の坊さんは三毒論を学んで何なんです?

正直、皇悠は(?_?)です?
まあ単純に、皇悠には疑問だらけで理解出来ないだけですが、だから三毒論は評価が個人的に不可能です。

この理論は空論虚論じゃないんですか?

では、閲覧頂いてます方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より

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2009年8月23日 (日)

三つ?四つ?の武器

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、積ん読が二週間でゼロから四十冊になった読書狂の皇悠です。

さて、今回は呪術修行の心得ッス('-^*)/。

それは常に卑しさ、悪さ、愚かさに苦しむ事ですな・・・(^_^;)。または、そういう志向になる事ですね。アル意味でマゾ化です。

自分が正しく、賢く、偉く、強くなりたい方は呪術も信仰も学ぶ必要は無く、学んでも大した所に行けませんし・・。

自分が愚かしいから神仏の教えを学び、色々な意味で正しい事が出来ないし強く成れないから神仏に頼り、偉くは無理だから神仏に導いて頂きます。

そして、絶望的にそれらがどうにもこうにもそのような属性・本質が為らない・改善しえないから生涯をかけて信仰・学習・修行となります。

まあ、実際に呪術に望みをかける方の考えは卑怯・不正・邪悪ですからね('-^*)/。
返り血を浴びずに相手を殺したいとか、振られるリスクや見せ物に成らずに恋人が欲しいとか、より楽に金が欲しいとか・・。

まあ何と言うか、高潔、正義、賢明、強くは無いですよね・・。
だからこそそういう底意地の悪さ・ダメさをみすからされて、金だの体だの名誉だのを奪われ騙され台無しにされる方は凄く多いです・・o(^▽^)o(笑)。
しかしながら、自身のダメさ加減・愚かさ卑しさ悪さ弱さを知ってれば、そういう危険は減らせます。

だからか、凄い信仰者・霊能力?者/祈祷師ほど神仏の意志を占いや啓示で常に問う姿勢が有ります・・。

皇悠自身も日に何度となく行動・方針を問い合わせてますよ('-^*)/。
(コレが二十四時間・常時に成りますとアノ狂気を誘発し易い深淵の誓いに成ります・・閑話休題。)

こういう点は個人の自主性だの個性だの、意志だの、やる気だの、プライドだのを重んじる現代とズレてますから、呪術は往古よりマイナー化した訳ですね・・。

で、まとめです。
自分の醜さ(具体的には愚かさ卑しさ悪さ弱さ等)を直視しないと余計な苦労をしますから、自覚して嫌ですがそれに触れ続けて苦しみましょうね(・ω・)/。

ちなみにコレはユング心理学のシャドウの直視・対決等と同じ内容を含みます。

難しい事ですが・・。

では、閲覧頂いております方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より

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信仰と人命

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は信仰についてです。

え~と、今まで何度か記述してますが呪術・祈祷の基本は信じ仰ぎます心、つまり上位者に対する崇敬の念、畏怖です。

コレは西洋魔術だろうと密教だろうと神道だろうと代わりません。具体的には西洋魔術だとアデプトとかマスターで密教だとグルとか仏様で神道だと神様に祖霊なだけですよ('-^*)/。

それは時に今も生存している師・人の場合もあれば、観念的な存在、先人達の遺産・教えだったりもしますが・・・。

そして、宗教者・信仰者を無神論者・無信仰者が恐れ・ある種の違和感を感じるのはその人の行動原理が読めない、予測し難い事です。

実際、何千前の教え、亡国の習俗を基準・行動原理にされている方を流行の移り変わりが激しい日本の現代人が理解しえないのも当たり前ですよね・・・(^_^;)。

実に宗教対策・教育を日本よりもしているヨーロッパですら問題は多発しておりますし、有名な話ですが近年のサッカーのワールドカップの決勝トーナメント(その人にとっては引退試合だったそうですが・・)で宗教的侮辱を受けて、正しい信仰者として当然の報復・暴力沙汰を起こしたフランスの英雄もいますし・・・。

まあ、皇悠はかなりハードな世界観(この世はひでぇ所で、いつ隣人が殺しに来るか分からん世界。哲学ならディストピア宇宙論、ゲームならアノ騙し殺しゲームのパラノイア的な視座)なので許容度は広く深いので大抵の侮辱も平気ですが、アル意味で信仰者は何処に地雷があるか分からない方々です。

(事実、近年でも厳格な戒律で有名な韓国仏教徒が宗門争いで組織内暴動・紛争をしてますし・・。皇悠自身も律に触れたら事故とナイフが出ますし・・、師は火と物が飛び、先生は病でした・・閑話休題。)

さて、信仰の基本は人・命に対する軽視です(神仏を重んじると言う事は人の意見や命よりも神仏・その指示を優先するわけですから・・ね('-^*)/)。

だからこそ、御釈迦様は我が子に妻に親を捨てましたし、歴代の教皇は十字軍・信者を死地に送り出しました・・・。

また、仏教徒は慈悲心や命を重んじるイメージが有りますがあれも一部の大人気な仏様の命令・振る舞いを重視・模倣しているだけで、人命何それ美味しいの?な仏様も勿論います('-^*)/!

では、今回はここまででにします。
皇悠より

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2009年8月13日 (木)

蓮密の不思議さ

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、皇悠です。
今回は、久し振りに日蓮宗系の話です。

さて、日蓮宗。まあ、日蓮宗系で思い浮かぶのは普通に考えて学会か題目こと南無妙法蓮華経でしょうか・・・?

しかしながら、実は日蓮宗は密教と並ぶ呪術・祈祷の教えであるとは何故か知られてません。

まあ、傍目に見ればその呪術・祈祷方法も法華経(場合によっては、抜き取り漢文)の読経と題目位しかやらないので、長い勤行にしか見えないのですが・・・(^_^;)。

しかし、日蓮がしばしば幻視や祈祷に予言を行い、また台密系の修行僧だった事実、また鬼神系の天部の伝授を受けている呪術・祈祷者だった事は何故か忘れ去られています・・・(^_^;)。

さてまた、彼はかなりな独善的かつ恣意的な教義を作った事でも有名です。

例えば、法華経の絶対主義を謳いながらも、彼は法華経内で勧められた真言ではなく、漢語の素性の怪しい題目こと南無妙法蓮華経の朗唱を勧めてますしね・・・(^_^;)。

正直に個人レベルで感想を言えば日蓮の教えはムチャクチャなモノです。しかしながら、それ故にかハマっると絶大な効果が時に発揮されます。

実際、日蓮宗系の祈祷書は下手な次第よりも微に入り細に入り書かれているモノも在りますから・・。

何より、全ての神仏に対して法華経及び題目だけで対応しうる方法論は凄いですよね(^_^;)。

然も、それがあながち間違いでも無いから凄いです・・・(≧▽≦)ゞ(笑)。

という訳で、当ブログの閲覧者の方々にも日蓮並びに日蓮宗系の事に少しは好意的な見方をして頂けたら幸いです。

では、閲覧頂いている方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より

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2009年8月11日 (火)

お試しと験 その2

御覧頂きまして、有難うございます。

雑学系妖術師の皇悠です。

さて、今回は約束・告知した内容です。
さて、お試し!

え~と皇悠が以前何度か取り上げたモロにオタク映画の空の境界にも、また同原作者の代表作にも実はこのお試し=恒常性システムと似た世界原理が英雄システムとかアラヤ識・人間・世界の自己保存本能等と云う名で、また混沌魔術の源流の一つにも人の形/神たる存在としてカスタネダ等にも出て来ます。(誰も言わないので、皇悠が初出かな?)


この恒常性システムは我々の守りであると共に枷なので、残念ながら個々レベルで解放・折り合いするしか無いモノです。生命体に必要性があるから組み込まれてますから・・・、例えば馴染みの無い場所には人はひょいひょいあまり立ち寄らないですが、その当たり前・いつも(つまり、恒常性)の活動範囲内に居る事で未知の危険を避けれ、対応出来ない状況に巻き込まれる可能性を下げてます。

具体的にな解放策はその守り無しにいられるように強く器用になり、その性質を理解し裏を掻く訳ですな('-^*)/。

ただ、大変なのはそれって個々レベルの癖だのを自覚改善し、行に励み、呪術・祈祷と全く関係ない知識だの思想だのを学び、社会的人間的に当たり前感情・欲求を消去減衰させる如かないので・・・(・ω・)/。

つまり、内容こそ違え、古の聖者だの大学僧だの清僧に隠者に成る必要が在るわけで・・、でもそれって大乗仏教の劣化版の日本仏教とその下手な真似ばかりの日本人にはまず難しいですよね(笑)・・・(^_^;)。

例えば、幾ら何でも常人と同じく妻帯&子作りは如何だろ?
実際、大いなる験をもたらした役行者に空海などの名だたる方々は独身・子無しだった訳ですから・・・。

ちなみに、彼らのように成るには彼らのやった事を真似する必要があると皇悠は考えてますから、それをしないのですから、しない方々は成りたく無いのだと判断してます。閑話休題。

では、今回は此処までです。閲覧頂いている方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より

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2009年8月10日 (月)

お試しと験

御覧頂きまして、有難うございます。

お出かけ前に、記述してます皇悠です。

さて、今回は祈祷・呪術に於いての一つの山、お試しの(修験道のある方は行試しと記述してますが・・)話です('-^*)/。

まあ、他人に祈祷をお任せな安楽椅子形の方は当ブログには居ないと云う前提条件で書きますが、それなりに祈祷・呪術・修行をやっていて、後少しで上手くいくのに失敗する方々がこの界にはそれなりの割合でいますよね。

具体的には長い祈祷や修行が後少しで満願なのに家族の訃報だ、急病だ、怪我だ、天候の変化だと云う事件・問題が発生し挫折すると云う事ですな('-^*)/。

実はコレは心理的・生理的・運命的なある法則によって発生してます。

それを恒常性と云います。
意味は、その名の通り、常に同じ一定の範囲内に居よう・安定しようとする生物的な習性です。

その為、ある一定の範囲外から大きく不可逆的に離脱しようとするとそうはさせないように問題・出来事が起きます。

また、その方の所属する組織がより親密かつ大きければ大きいほどその方の変化は波及しますので、反動・引き戻しは強く激しく成ります。
場合によっては、それらは仲間内の明確な敵対者・世間の非難・悪天候・災害と云う形ですら出現します。

そして、残念ながらこれは避ける事はまず出来無く、ある意味で良きにしろ悪しきにしろカルマとして甘受するしかアリマセン・・・(^_^;)。

だから、それらに負け無いように、予め親密な集団(具体的には家族)と離れ、邪魔の入りにくいよな行場を選んで御籠もりし、更に結界作法や神仏の加護を祈ります。

ある種の死と再生、成熟化する為とは云えなかなかハードな出来事なので、避けるなら避けたいモノですが・・・(^_^;)。

正直な話、この事は本人の覚悟と地力だけが頼り何ですよね・・。

まあ、あまり楽しい話では無いですが、予め知っていれば耐えやすいですからね('-^*)/。

では、閲覧頂いてます方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
大雨にお出掛けする皇悠より。

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2009年8月 3日 (月)

金剛名

御覧頂きまして、有難うございます。

お馴染みの流浪の妖術師、皇悠です。五作目の最後です・・・、やはり纏めてアップしますと雑学・知識系に偏りますね・・・orz。

さて、密教には金剛名という名の仏菩薩のもう一つの御名前が存在します。ご存知ですか?

一番に有名な金剛名としては、弘法大師御宝号の元ネタこと大日如来様の物・「遍照金剛」があります。

ちなみに弘法大師様は結縁灌頂で金剛界も胎蔵界も大日如来だったので、金胎両部の大日如来に共通する遍照金剛となっており、胎蔵う界・金剛界共に違う名前が一応あります。

その他の有名な所では、破門された?伝教大師の「福聚金剛」は寳幢如来様から、慈覚大師の「大勇金剛」は金剛薩埵より、智証大師の「智慧金剛」は般若波羅蜜菩薩、慈恵(元三)大師の「常住金剛」は不動明王様などがありますね。

他に皇悠が知ってるモノに阿弥陀如来の金剛名は「清浄金剛」があります。

ちなみに観音部・菩薩部では観音菩薩=正法金剛、持鉤金剛、普化金剛などに、千手千眼観音=悉地金剛、十一面観音=変異金剛、如意輪観音=持宝金剛、不空羂索観音=等引金剛、馬頭観音=迅速金剛などがあります。

ちなみにこの人に○○金剛と名付けるのは密教の潅頂儀式で、その中に結縁潅頂(大きな敷曼荼羅(しきまんだら)の上に、目隠しをして華を落として、その落ちた位置の佛さまと縁を結んで、密教の修行上の加護を頂く、本格的な修行に入る前の参入儀式の事で、これを投華得佛とも言いますが・・・。)の際にまた、これによって得た仏様の秘密の名前は修行者のモノになりまして時に金剛名で呼ばれ使用されていきます。

例えば、空海さんが南無弘法大師ではなく南無遍照金剛と呼ばれるようにです・・・ね。

また、この金剛名は密門以外では戒名こと法名(ほうみょう)の事を指します。一言で言えば「仏教に帰依したものに授けられる名」と言う事ですな・・・。

まあ、あまり役に立ちません知識ですが、何かの役に立てば幸いです。ご存知な方には常識的な内容ですが、初心者もいるだろうと言う事で、上げてみました。

では、今回は此処までです。

閲覧頂きます方々には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・・。

皇悠より。

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2009年7月20日 (月)

地獄の快楽遊園地・・・

御覧頂きまして、有難うございます。

目前に不惑がありつつも、いまだに探究心のままに走ります皇悠です。

さて、今回の題名は、皇悠自身にとっての人生の恩人・救済者にして、師(初めて自覚的に自己構造体の基礎モデル・造形にその方の持つモノを取り入れた方と言った方が的確かな・・)のK師の至言・至称です。

さて、地獄。仏教の世界・境涯のランキング内で正に最悪な所の事ですよね('-^*)/!
針だ血の池だと鬼にこずき回され、拷問が苦痛が時には何万年単位で行われる場所・・・。多分、誰しも行きたく無いトップスリーに入る所でしょうね?

(但、何人かの仏教徒が行く事を公言しておりますが池口師とか蝉丸Pとか・・f^_^;。片や多くの方を救う為に、片や自らは悟りを得ずに悟りを語る等の禁を犯していると律を重んじているが故に・・、正に正しき出家者だからお二人ともに尊敬しております(^人^)。まあ、仏教徒ですらない、皇悠が言う事ではありませんが・・。)

さて、その地獄が楽しいある場所であると・・・。
初めて聞いた際(未知の)世界をどのように把握・考えるかの一つの新しい見方でした。(皇悠自身、三十何年も生きて来て、このような表現は未だにありません(^o^;))

つまり、この世界は多くの施設が幾つもある遊園地のような牢獄であると言う考えですよ・・・、(まあ、十年以上前に十分位で終わった説明ですので、師の現在の認識は更に変わってるでしょうが・・、未だにこれほど的確な把握・世界認識は知りません・・・よ!)

しかし、コレは凄い認識・哲学です。

初めは何っ言ってんだこの人でしたが、弟子入りして約八年以上して正にその通りとやっとした際には、十分に元は取った・苦労は報われたと感じ、理解して嬉しかったっスね(・ω・)/。

それ以来、行動・振る舞いは端から見ればツマラナい人、奇人、ロクデナシになりましたが・・。

この言葉は多層的かつドライな視点で複数の世界観を纏めつつ、現代の用語で、全体的には楽しいとしつつも、凄まじく的確にこの現世を描写してます。

多分、お読み頂いた方はまず、対面口授しないと誤解するモノを紹介しました。
では、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

今回、エラいキワキワなラインを記述しましたよ!コレで急死したりしたら、呪いっスね、マジで('-^*)/
でも、何で記述したんだ俺?

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2009年7月18日 (土)

思考・マインドの統制の必要性 その2

御覧頂きまして、有難うございます。

サイコダイバー?皇悠です。(またまた、マニアックなネタを・・・(^_^;))

さて、今回は約半年前のネタの続きっス('-^*)/。

前回は自称ブッダのOHSO師のノーマインド/フリーマインドをメインに思考に拠る弊害等を記述しましたが、今回は精神性・感情の基本トーンと云うか、音楽で云う所の調子において、統制・調律が何故必要か記述します。

えっとですね。多分、ある呪術なり神道なり密教なりの文章を多く暗記、研究、解析した事がある方なら御存知だと思いますが、分野と云うか宗派毎に決まった形容詞、表現が頻出する事に気づかれていると云うか、されてますよね(・ω・)/。

つまりは畏み畏み、偉大にして強大なる・・、暴悪なる・・とか、慈悲深き・・・とかです。

コレって何故そう表現・記述しているか御存知ですか?

さて、いつも記述しますが基本には呪術・祈祷は神仏・精霊と云うか霊的存在との約束・契約行為です!

つまり、契約相手の事が分からない・理解不能、共感/共鳴出来ないとまともな結果、望まない状況を引き起こしがちなんですよね。

多分、願望実現系の術を何度かした方は納得して頂けますよね(^_^;)。

じゃあ、どう相手の性質を理解するのか、どんなモノ/性質を好んでいるのか?ですが、そのヒントの一つがこういった頻出する形容詞・表現です。

畏れ、賛美、陽気、礼節、気軽さ、公共性、向上心、悔しさ、怒り・・・神仏・存在・体系・術によって気質・好み・必要な精神性は千差万別です!

だからこそ、信じる頼る神仏・体系は選ぶ必要性があり、(人の基本的気質は変更出来ますが固定的なので・・・)その方に好かれ、適合するように、自身を(性別や姿はなかなかどうして変えずらいが故に、尚更)性質・精神性を調律・統制する必要性が在ります。

さて、今回、あまり語られない内容を記述しましたが、御理解・お役立て頂けたら、幸いです。
(皇悠自身も朧気な理解の内容ですが・・)

では、閲覧頂きます方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年7月16日 (木)

参入儀式の意味等・・

御覧頂きまして有難うございます。

諸師の恩を知らずに自由に独自な道をひた走っています皇悠です。

さて、今回は参入儀式の意味と云うか、前提等についてちらほら記述します。

以前に関連記事で神仏・精霊達の世界へのパスポート云々の話等をしましたが、今回は対人関係の話メインでします。

さて、参入儀式は英語・専門用語でイニシエーションと言いますが実はコレって儀式自体よりも受けれる状況になった事の方が重要だったりします。

つまり、参入儀式を受けれる=仲間に入れてあげると言う事ですからね('-^*)/。

で、よくよく考えてみますとコレって公園デビューに就活・婚活と同じような仕組みなんですよね。
学校入学や資格・免許を取る等は学力/技術力や必要条件が満たせる(具体的には経済力など)があれば出来ますが、公園デビュー等は性格とか相性とか可能性・将来性等を見られますよね('-^*)/。

つまりは、一緒にやっていけるのか?此方にメリットがあるか?問題を起こさないか?一族・系譜に入れて良いか?良い貢献しえるか・・色々意味でみられた訳で許可された訳でもあります・・・。

皇悠自身、弟子入り後に幾つか参入儀式や伝授式等を受けましたが、今までの記事は弟子入りについての記事を良く記述してましたが、実は弟子入りよりそっからどう成長・変容し、どこまで参入・伝授されて行くかが大事なんですよね('-^*)/。

往々にして、弟子入り自体が拒否られるので、あまり話題になりませんが・・・。
また歴史上でお釈迦様に弘法大師、孔子に親鸞等の開祖・高徳には弟子入りした人は大抵百単位で学びながらも維持出来ずに劣化コピー、挙げ句に失伝させた奴は本当にゴロゴロなんです(・ω・)/。

そして、それは往々にして弟子入り前までにどこまで力・知識・資本・経験を蓄え来たかが重要だったりします。

本当にね、自身を把握せずに学ばず、行に励まず、他派を取り入れ工夫し試行錯誤しない奴は死んだ方がマシな気がします。(だからこそ、たまに知りますが馬鹿な弟子が、彼らは良く師と自身の色々な面の違いを自覚してないで自滅・・・閑話休題、コレはヤバいっスね('-^*)/)
さて内容がグダグダになりましたが、何かの参考に成れば幸いです。

では、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より

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2009年7月15日 (水)

マトモな師・マトモな組織

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、道楽者兼妖術師の皇悠です。

さて、今回は当ブログの閲覧頂いてます方々には多分何パーセントかはいらっしゃいますだろう、弟子入り・団体参入・拝師希望者への忠告or雑学の提供ですよ('-^*)/!

まず、基本的な事ですが、好きな(学びたい・憧れる)方に師事する事です!

またこれも基本ですが、修行には真摯かつ全力で励む事です。師がいつ居なくなっても良いように(どんな人も死に別かれるのがこの世のルールですから・・・)

次に直弟子にならないと、孫弟子・会員等のままですと体系の肝/奥義は身に付きません。大抵の組織では、会員と幹部(直弟子)とは教えられている内容・術が必ず違いますれば・・・。

さて、以上はまあまあ当たり前の事ですが、次からは体験知から来たヒントです。

まず、大々的に募集している所はヤバいですね。どんどん選別し切り捨てているか単純に資金・労働力目当ても多いです。

同じように、志願者をそのまま試験無し・拒否しないで受け入れるのもヤバいですねぇ~。あと、熱心に参加・入会を勧める所も・・・。

逆に、きっちり育て上げれる所・方はやはりケア出来る数に限りがあるので、なかなかどうして受け入れません。

また師自体が向上心が溢れてますと弟子(格下)の相手をする時間を厭いますし、師の変化・成長で必然的に指導方法や伝授内容がどんどん変わるので、弟子自身にも地力がいるので、それがあるかもみられます。

この辺は落語家さんの師弟関係の本に良く出てますね('-^*)/。

後、判らなくても師が勧める本・行為は一度は体験するのも大事です。同じような感性や体験が無いと理解不能な事はそれなりにやはりありますから・・・。

何よりも、自身には対応力・変化する力が無いと思う方々は諦めるのが一番の忠告ですね。

では、今回はここまでです。

閲覧頂いてます方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年7月13日 (月)

感得・・創作か啓示か示現か

御覧頂きまして、有難うございます。

近頃、仏教批判・疑問ばかりの皇悠です。

ちなみに、今回もまた、やっちゃうゼ!('-^*)/

えっとですね。以前にちょろっと日本の修験道(正確・厳密には仏教でない仏教を源に作った類似品です・・(^_^;))の開祖・役行者の蔵王大権現様の祈り出した例を書きましたが、コレってば感得・示現とすれば霊験・神異ですが創作したとも言えます。

皇悠自身は原理的には、丁度画家が写実ではなく自らの心から作品群を引き出すモノと同質と考えておりますが・・・。
さて、実は仏教の中の経典にも、同質のモノがかなり在ります。つまりは生身のお釈迦様が説いて無いモノの事ッスよ('-^*)/。

瞑想?幻覚?夢見?で阿弥陀仏だの大日如来だのに会い、教えてもらった・・・。天空の国(ラピュタ?)に竜宮城、浄土・仏国土に行って見たので・・・。

ヤバいな仏教!やっている事は神仏に会い教えを受けいると言えば格好いいけど、医学・生理的に言えば幻覚をみていると言う事ッスから・・ね。

然も、体験した方々はとっくにお亡くなり済みで、どんな状況・意図/目的で記述したかも不明、具体的な方法論も不明なモノも多数・・・。正に大丈夫っ?て感じです。

例えば本人を知ってれば、この人の作品・教えなら・・とか、書いた本人がちゃんとやれて良い結果を得てるから・・と判断出来ますが、しかし残された経だけだと素晴らしくとも無理・具体的にどうやる?なモノも多数在りますし・・ね。

実際、日本の仏教徒は密教が伝来するまでは、読経以外にロクな方法論が無かった訳で・・、だからこそ空海が本格的に持って来た際に当時の仏教徒・大寺院は軒並み真言宗のやり方・道具等を取り入れ転んだ例もあります('-^*)/。

しかし・・・、多くの幻覚を見た方々の記述した作品群に従って修行する仏教・・・、良く考えると不思議な宗教ですね(b^-゜)。教えが互いに矛盾するのも分かります。

然も、どう考えてもお釈迦様の生きております間に、(以下略称で)阿弥陀に文殊、観音、地蔵、不動、大日などいなかった、誰も知らなーい、信じてなーい状態だった訳で、コレらの方々すら誰かが創作?感得?した訳ですよ!

本当に凄いですよね、仏教は・・・・・(^_^;)。だから幻覚小僧の皇悠は好きです!

では、閲覧頂いてます方には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年7月11日 (土)

魔術の終焉

御覧頂きまして、どうも、皇悠。

さて、先に結論を記述すると、題名は科学の終焉と言う本のパクり。テーマは基礎的な魔術・祈祷はもうとっくに終わって、基礎・原理は既に完成&発見されている。そして、新発見や新発明は隙間・応用編でしかありえないと言う事。

これはいかに心理学や象徴解釈に言い換え、置き換え等をしてみても、所詮はその基礎理論を習得・実践出来ないと験や効果は発揮されないて言う事。

まあ、新たな解釈や知識を集めるより、基礎行を積み上げ、日々の振る舞いを直し磨いていくのが大事って事。

昔、初めの師に散々(有難う御座います!)、礼儀作法と(ポジティブ&ネガティブ両方の)投影の排除と多重的な思考、そして畏れ・啓示(聖守護天使や混沌等からのを識別し従う事)等の基礎(条件)を仕込まれ、教えられ、何とか習慣化した。

まあ、やってみれば出来ない事ではないが、身に付いたのはかなり後・・・。

で、当ブログは、それなりの修道する方ならもう今更な事は出来るだけ省き記述してる。だから、敢えてあまり本やネットに出ない記事を書いてるが・・・詰まりは、書いて無いけど当たり前の事はやはり大事!

ある真言を唱えるなら、その真言の神仏、尊格に折々の供養/法要や日々の勤行(般若心経の読経位は)する、祈祷し力を借りるならちゃんと御祭神・御本尊を祀る。

それなく験や加護はまず無理。こんな事も自覚してないならやめてしまえ!
何か、ある方から当ブログもオマジナイ系、よくある呪術書、霊術本の如く修法や祈祷に作法だけで、まるで日々の訓練・信仰が無しで出来るみたいな雰囲気が醸し出されているそうなので、今更だが書いた。

因みに、ここで言う信仰とはこれはやっている、実践しているかどうかと言うこと、日々(最低限で)勤行位はしているレベル。

幾ら、本人が信じてると言っても「神仏がやれ!」と聖典に命じられている事をシカトする奴を加護する訳が無い。

本心から言えば、当ブログの作成行為も布施行として、半義務感でやってる。
弟子でも無い人間に知識や意見を与えてる訳だから・・・バカだろヾ( ´ー`)。
当たり前だけど要は省いた内容、当ブログは参考書レベルの内容しか書いてない。

では、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

普段の祈祷時・非情な呪術師・ドライモードで記述してみました皇悠より。

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2009年7月 8日 (水)

仏教とは?

御覧頂きまして、有難うございます。

実に外道な門徒の皇悠です。

さて、当ブログでは仏教ネタをよく取り上げてますが、よくよく考えてみますと仏教とは何でしょうか?

日本では、俗に八万四千とも言われる全ての経典が開祖の御釈迦様が述べたモノと長く信じられ、今は流石にそれは嘘とされているようですが基本的には仏教は同じ基本的共通項がある教え群としてます。

でも、悲しいけど、コレって嘘なのよね。(このフレーズの元ネタが解る方は古いオタクで~す。閑話休題)

皇悠自身が把握している基本的な見解では、自身が仏・ブッダ(悟りを開いた存在)と称するモノが説いた教えが仏教と括られた実に勝手気ままなモノです。

つまり、例えば後世の人が皇悠を悟りを開いていた存在と見做せば当ブログの内容・記事は仏教に成りえますし、またはイキナリ皇悠がオイラは実はブッダだと宣言したらただ其れだけで皇悠はブッダで仏教ですよ。「勿論、比喩・嘘ッスよ(^-^)/」
ちなみに、をやらかして、世界的名声を得たのがかのOSHO氏です!上手いですよね。伝統的な仏教の修行&学習ゼロでもブッダになれると証明しました。彼を教団としてキッチンと否定&批判し排斥運動をしている日本の伝統的宗派はいません・・・(いたら、教えて欲しいです)。まあ、大多数の出家者よりも内容のある説法をしてますし、ある有名日本人チベット密教徒とその弟子で自身は真言系の住職が役立ったと云う肯定・発言をみた覚えも有りますし・・・。

さて、いまだにそんな訳であのオウム真理教の麻原氏もブッダ(悟りを開いた存在)で仏教徒です。

まあ、一族を半分見殺しにした御釈迦様の末、先の大戦で国中でアメリカに呪いまくった日本仏教ですからね('-^*)/。
同じ穴の狢です。

親だろうが師だろうが何だろうが殺せ!!と云う教義・文句を大事にする伝統的宗派(皇悠自身はその本がスキーです)に、ハッキリと大々的に殺人を善行だ・アリと宣う経典を自派最高の教えとする戒律重視の世界的宗派も在りますし・・・。

ヤバいですよね。仏教は・・(^_^;)。
更に御釈迦様自身が自身の前にブッダはいたと述べてますし、そいつらはどう考えても部族の呪術師か外道門派の祭司ですよ!

オイオイっヾ( ´ー`)です。

では、閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より

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2009年7月 7日 (火)

本来は怖い真言・呪文 その2

御覧頂きまして有難うございます。

どうも、皇悠です。
さて、今回は同題の補足説明です('-^*)/。

まずオン・オウムは実はインド系の最高神仏の梵天/ビシュヌ/シヴァを表してもおり、神道の「○○のみこと持ちて」や西洋魔術の神の名前等で恫喝・命令しているのと似たような意味も在ります。
更にソワカは「(叶えて/手伝って下さってると)成就する・嬉しい」ので、助けてねっ(・ω・)/と云う論理・呼び掛けの一法でも有ります。
(ただ、基本的な意味は宝尽くし様の適切なコメントの通りです。有難うございます(≧▽≦)ゞ)

さて、真言を色々と調べた方はお気づきだと思いますが、大多数の真言は天部や垂迹部の方々になりますが彼らは基本的に縁のあるモノは誰でも救い賜うという菩薩以上の方とは別・違いまして基本的に明王以下の天部に垂迹部の方々などは気に入ったモノしか救いません・・。

だからこそ、実際の修法時はこれらの方々の真言は散々に何回も唱え自身はその神仏のモノだと伝えて、保護を乞う場合が多い訳です(*^-^)b。

また、彼らは皇悠もそうですが外道(仏教以外の教えを取り入れたり奉じ従うモノ達、代表的なのはヒンズー教徒や道教徒に戒律破りばかりの大多数の日本人)を救いますし、いまだに多く助け信仰を集めてます。

多分、仏教の過半数以上を占める天部や垂迹部が仏様や仏教に帰依したという話は嘘です(・ω・)/。逆で、気に入ったモノなら仏教徒でも救うので取り入れたのでしょうね。

もし違ったなら、経典には記述通りに信じ奉り従い行うモノ達なら支え守ると記述していながらも今話題の毘沙門天を始め大黒天等がまず間違い無く祭られていたはずの多く寺院が僧達が歴史上幾度となく殺され焼かれ(具体的にはインド仏教が絶滅し、中国仏教が衰退し、チベットが亡国し、スリランカが異教徒に支配されてました)、更に日本でも臣下にしたはずの神道(の神々)が逆らい廃仏毀釈が起きた上げくにアメリカに占領されたのは何故ですか?
また、経典の教義的な面・特に区分もかなりな恣意的モノです。
事実、何故にして毘沙門天の部下が格上の明王なんです?
ダキニが辰狐王は分かりますが菩薩って!そんな例が多々有りますからね('-^*)/。

では、今回はここまでです。お役に立てば幸いです。

閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より

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2009年7月 5日 (日)

本来は怖い真言・呪文

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、マイナー街道沿いをひた走る妖術師の皇悠です。

さて、当ブログでは何度となく真言だのを紹介してきましたが、正直な所で験や効能はありましたでしょうか?
確信してますが、7・8割以上の方々には時間の無駄使いに終わった事と把握しております。

さて、代表的な所で真言、それらにまず付いております語句のオン、ソワカ、ノウマク、南無などの言葉は現代の日本語訳には「めでたし、成就、感謝、ああ」等の意訳がされてますが内実はかなりヤバいモノだったりします。
基本的な意味は、「帰依/帰命します」となるんですけど、(違いますか?)この意味合いはどういった内実・内容があるのでしょうか?

一番、現代の日本人に合わない概念で記述しますと
「貴方の奴隷/臣下に成りますから、保護者になって下さい!宜しく御願いします!m(u_u)m」でしょうか・・・(^_^;)。

えっとですね。説明しますと、傍証ですが仏教系古書等で僧侶の定義を見ますれば、たまに三界の大導師とか、仏弟子とか、仏の冥護とかよく記述されてますが、それを当時の文脈で見ますと、かなり酷い立場で記述されています。

つまりは、当時は気に入らない弟子・被保護者は師・保護者に殺されてもオーケーと云う価値観が当たり前にあった訳ですよ。これは余りに当たり前過ぎて誰も気にしていないのですが、明治時代までは日本の社会は身分・階級社会でしたよね?!

じゃあ、当時の語句は身分社会的価値観で記述されているなら、その当時の価値観で把握すべき事でよね!!

語義的にも帰命・帰依とはその人の命がある神仏の下にある(帰する、依ってる)事を意味してます。
率直に多くの真言の意味は「○○に人生売るから助けくれ!」です。

でも、今では其処まで覚悟している人はまずいないですから、神仏は察して験を与えない訳っスね('-^*)/。

さて今回、書いちまった感がありますが、これで何故にして、真言は連唱がメインの行になるか、複数の信仰がダメか等が御理解頂けるかとも思います。

では、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より

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2009年6月21日 (日)

訓練と拝師(弟子入り)の難しさ

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも皇悠です。

さて、今回は訓練・師について記述します。

え~、当ブログで皇悠自身今までもそうですが、それなりに何度か師弟関係について書いて来ましたが、やはりクリティカルな事を遠慮して記述しないで来ましたが、やはりそれらは失礼な気がしますので、今回は記述しますよ('-^*)/。

最悪、閲覧者は激減しますが・・・。

え~、「誰かについて・恭順しその指示に従い、自己を変えて行く」というのがある意味で弟子入りの実際的な形です。
その期間・場面・程度は様々ですが・・、つまりは無防備かつ全面的な受容状態で見知らぬ他人に人生を預け委ねる訳ですから、現代の緩い・優しい保護の中での「自立だ、自己責任だ、個の確立だ、個性の発揮だ」等と言う世相と真逆の方向性です。

(個人的には完全な個体性・オリジナルの確立は呪術的な異形・偉業だと思います・・)

しかも「弟子入りする」と言うのはまだ訓練・システムについて十分な情報&把握の無い状況下で不可逆性の決断をすると言う事です。

(それは実際的には「どの体系が、どのシステム」が自身に最も優れ合っているかと判断。しかも知らない・出来ない段階で「誰」が師事するに足り、且つ又自己の道を指し示し、人生を造形し得るか死活レベルで把握すると言う事です。)

誰だって、十分かつ詳細な情報開示があればそれなりに妥当な判断・選択は出来ます(たまに出来ない人もいますが・・)、しかし僅かな断片からそのモノの質・深み・可能性を探り当て得る、そう言う五感・知覚力の錬磨を実体験で拝師の際にします。

たからこそ、元オウムなどのカルトの信者に対して、皇悠を含めて多くの人が憐れみ・蔑視を感じるのは、そのような「適当に訓練を受けてから、自分には向いてない、身に付かない、無駄だとやっと判断出来る程度の」人は致命的に鈍く、そこから改善も出来ない人はこの世界で生きるのに向いてなく、その能力を伸ばすのを怠った人を救う手がある意味で誰にも無いからです。
これは博打で負け続けた人に対しての感情と同じですね。
そして、現代はリスクを取らない人の価値は認めてませんので、この界では特に部外者は実は馬鹿にもされます。あまり知られてませんが・・。

さて、いつもと違う話題を記述しましたが御理解頂けましたか?

では、今回はここまでです。

全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より。

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神威・センス・・?

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、皇悠です。
さて、今回は神威とセンス等について記述します。

まず、洋の東西を問わず・古来より、名前を存在の価値・本質を左右し、名付ける行為は相手を規定・支配するとされたり、名前が変わる事で立場や役割が変わる事もあると考えられてきました。

しかしながら、歴史の流れで意味が変わったり(例えば我慢)、不明確になったりで(例えば戒律や末法)で言葉や名前の価値は往古よりダダ下がりです。

だから、調伏を呪殺と考える安易な考え方が、通俗的な文献に良く記述されたりしております・・。
また、まともな出版社、それなりに知られた大手すら初歩的な誤解やミスがこの界の常識ですので、前回記述していて何ですが、独学者や部外者を関係ない方向に導いているのも多い事ですよね。(*^ー^)ノ

言葉は便利ですが、枷&毒ですからね('-^*)/。

まあ、真剣かつ努力家、礼儀正しく良く工夫する人は何故か良い導き(手)を得られるので、前回の記述も間違いではありません。

因みに自らの意志を表示しないとこの界では相手にされないのも事実ですよね?
だから、皇悠みたいに初めの師から誘ってくれるみたいな慈悲溢れ奇特な方はやはり少ないっス('-^*)/!

ただ、まだまだ無名だった当時の師に判らないままに直弟子になってしまった皇悠自身のセンスと武運ならぬ呪術運はあると自負してますね!

本当に直弟子に成る事で呪術の深奥や神威、狂気の知恵や意識の暗黒面を知りえましたし、一端は得られましたから・・・。

しかし多分、現存する当時の弟子筋に今の一門では最弱者でしょうが・・ね('-^*)/。

さて、残念な事に空海さんが云う通りで筆授・知識では呪術はマスター出来ません・・、行動と正す師無くしては不可能ですからね。逆に言えばそれらだけでそこそこには成れます(^O^)/。

この辺は当ブログの閲覧&信仰&呪術する方には当たり前の前提ですが・・・。
また、ツマラナイ話になりましたので、今回はここまでです。

では、いつもの、
全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より

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2009年6月17日 (水)

祈祷の実際

御覧(ご来店)頂きまして、有難うございます。

当ブログのオーナーの皇悠という呪術師&神道家崩れです。
さて、今回は祈祷の実際・疑問について色々と記述してみます。

さて、本日は少し早く仕事が終わりましたので、夕方に崇敬している金毘羅大権現様の神社に行きまして、念入りに感謝&供養&祈願を捧げて祈りました。

ただ、興に乗り過ぎて、社務所が閉まり、記念の御朱印を頂き損ねたのは、残念ですが、まあ奏上オア読経を終えて改めて感じ考えました。

「多くの参拝者は何故、馬鹿・無礼者なのか?(?_?)」と。

よく考えますと酷い話ですが、本当に変なやり方・次第で皇悠が祈ってる側で何人もの方々が入れ替わり立ち替わり参拝して来たのですが、まあ何と言うか抜けたやり方でやられてて・・・。

勿論、皇悠自身は邪魔に為らないような端の場所で祈っていました('-^*)/!

さて、見た限りは(皇悠の経験上でも)多くの方はやはり二礼二拍手一礼でやられていました/ますが、何故か祝詞も祭文も経文に表白も無しで平気で祈っています。

そして、不思議なのは彼らは専門家に頼む際には自身が参拝時に使わないそういうモノで執行されるべきだと考えているらしい事です。

何故です?祈っていましたから、伝えたい事があるハズ?

専門家に頼む際には別の言語(祝詞にしろ、漢訳経典にしろ今の現代語とは別の言語体系です)で伝える方が良いと考えているから、判らなくてもシクシクと聞き、有り難がるのに、いざ自身でやる際は現代日本語?

神仏に伝える気があるのでしょうか?

例えば、フランス語を日常的に使用し応対されている外国人に日本語で話しかけて、まともな意志・用件の伝達が出来無いのは判るクセに、現代日本語で長く意志伝達されていない多く神社・寺院に鎮座している神仏には現代日本語で意志伝達をしている訳ですよね?!

しかも家の仏壇では神仏や先祖の前でわかってなくても漢訳経典で熱心に唱えている訳ですよね!(^o^;)

それに、異なる言語体系で毎日何十何百何千人と話しかけてきたらマジでブチ切れますよね、普通に「手前らいい加減にしろ!(怒)」と。

それとも、平気なモノなんですか?

さて、少しグダグダになったので、ここまでです。

では、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より

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2009年5月26日 (火)

氏神・産土・鎮守 その2

御覧頂きまして有難うございます。

どうも、皇悠です。
さて、今回は以前同じ題の記事を書いた際に個人的に頂いた質問に対して、多くの方にも有益な事だったので記述しす。

Kさん、良き質問を有難うございます。そして、ネタにしてスミマセン。許して下さいね(b^-゜)

さて、その質問をざっくりと要約しますと「何とか探してみたが氏神・産土・鎮守が見つからない?探して見つけたが納得出来ない/疑問が残る・・」という事でした。

具体的な例として、外国で生まれた、幼少時から家の事情で住居が転々としている、お寺関係しか付き合いがない、家族がクリスチャン・無神論者・無信仰、ハーフor混血だったなどでした。

それで答えなのですが、皇悠自身が実例ですが「無い・イナイ人がいる」という事です。多分、多くの神道家は認めないでしょうが・・・。
えっーと、プロフィールでも書いておりますが皇悠の(今は脱会してますが)家族も親族(こちらは現役です)はあの排他的な学会員でした。

しかも遡ってみますと少なくとも祖父母の代からの信徒でした。

よって、他派の仏教の仏、ましてや神道系の神様は全く存在すら無い環境でした。

これでも安心して信仰出来る方を探す為に、それなりに探してみましたがゼロでした。

まあ、先祖伝来の神仏の方が先祖の信仰の蓄積があるので験・妙が頂き易く、かつ個人で神仏を選ぶ責任・リスクも無く安心したい打算混じりでしたが・・。

しかし、これはある意味で当たり前の話でして、いくら名族で生まれ、どのような素晴らしい環境で育とうともそこの役所に住民登録していないと役所から万全なサービスが無いように分かりやすい例で初宮参り=赤ん坊は行け無いので実際には家族・一族全員の信仰する環境にいなかった方には氏神・鎮守に産土などの先祖伝来の神仏がなく、その加護などは有り得ないですし、何とか見つけても納得出来ないモノになりがちです。

ましてや、神道系の方は密門で言えば天・垂迹部ですから、日頃から信仰・崇敬してなければ加護も大した事が有るわけ無いですからね?!
また、以前にも書いたと思いますが、何より呪術・祈祷・祈願などは神仏との約束行為ですから、約束もしていない方には加護自体が有り得ないのですよ。

では、とりあえず皇悠の基本的な見解を書いたので今回は此処までです。

それでは、全ての良き事が雪崩の如く起きる事を祈りつつ・・。

皇悠でした。

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2009年5月 4日 (月)

氏神・産土・鎮守

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、皇悠です。
さて、今回は当たり前的な用語解説です。

えーっと、当ブログをよく御覧頂いてます方には常識かもしれない言葉・業界用語に氏神・産土・鎮守と云う言葉が有りますが、何故か同義語扱いされている例が多々在ります・・・。

まず、氏神とは基本的には同じ姓・血縁を持つ一族が代々奉り上げ加護を頂いてきた先祖たる神・守護者の事です。

次に産土とは地主神とも言われ、そこで産まれた土地の元来の支配者・主or統治していた一族が信仰していた神の事です。
その為、後世にその土地に渡来した一族・神仏との闘いに敗れ、信仰を失う・勝者の信仰に吸収合併されて衰微・死滅した例が多々有ります。(有名な所で諏訪明神に負けたモリヤ神がありますね。)
また何故か違う場合にも生誕した土地の神だからと安易に産土と呼ぶオカシナ例も多いです。

最後に鎮守とは、屋敷神とも言われある私有地・建物などの災厄を抑え鎮めそこでの生活を守る為に勧請され祀られた神仏の事です。
(これは仏教伝来に伴って広まった信仰ですので、必ずしも神道系の神や氏神な訳でなく、仏や妖怪に精霊等が勧請され祀られた場合も在ります。)

誤用しやすいので気をつけたいモノですね。

なお、氏神を知る良い文献がありますので、紹介しますね。戸矢学著「氏神事典 あなたの神さま・あなたの神社」です。

では、閲覧頂いた方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

小野氏末流、皇悠より。

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2009年4月24日 (金)

神道の神学・死生観

御覧頂きまして、有難うございます。
m(_ _)m

どうも、皇悠です。
さて、今回は神道系の神学・死生観についてつらつら書いてみようと思います。
さて、神道の最大にして最高の基本文書・根本的文献は言うまでもなく記紀こと古事記・日本書紀です。

お読み頂いた方はご存知ですがこの二書は細かい点はかなり違います。しかし、大意は同じな為、現代の多くの神道教義・神学の基本になっています・・。(・_・)エッ....?

しかし、やはりどちらか一方に、傾きやすく教義・神学が出来ています。f^_^;

例えば、最初の神の名は国常立尊か天之御中主か・・・。
しかも、神道系の神はその名が性質・御神徳を決める/表すので重要です。

しかし、どちらにしているかでその宗派が何を重要視しているか分かりますね。閑話休題。

さて、以前に十一面観音信仰者と言う方がコメントで、当ブログに紹介して頂きましたが出雲大社教では人の生死は同教の神、白山姫神信仰では同女神で決められているそうです。(誤っていましたら、スミマセン(→o←)ゞ)

しかし、古事記・日本書紀によれば、人が多く生まれ死ぬのも全てイザナギ・イザナミの言い合いによってなった為と書かれ、しかもこの国を作ったのも上記の両神です。(ちなみに伝統的・厳密には日本には北海道・沖縄は記述が無いので入りません。よって、大本教系の「日本は世界の雛型」論をかなり恣意的なモノですね)

しかも、神道の信仰形式は後継者がその祖の決まり・教えを守る代わりに加護を頂くと言う形なので、ある意味で神々の祖たる両神に勝てません。


ちょうど、ゲームのプレイヤーがゲームのルールを作り出し自由に変えれるモノに勝てないのに似ていますね。

さて、勿論今回の話は信仰の話なので別の信仰を持っている方は大勢います。

ただ、記紀をみるとこういう教義に成ると云う事で紹介してみました。

何かの参考になれば幸いです。

皇悠より。

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2009年4月19日 (日)

個人学習・修行について

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、皇悠です。
さて、今回は呪術的な分野の学習・修行について個人的な経験から幾つか記述しようかと思います。

さて、現在どちらかの団体なりに所属しそのカリキュラムに従う人、師なり先達なりがいてオーダーメイドor必要性に応じて教示を受けている方、ある意味で学徒でありながら同じ研究者として指導者と協力し合っている者、元来が別々の分野の修行者同士が各自の専門を教え合っている関係者、自立し個人の道を行く方、神仏などの加護・啓示に沿う人など呪術的な修行者にもその立場は色々で、一概には厳密にも言えませんが、やはり人間のやる事ですので、それなりの重要な共通点はあります。

その一つは師がいようがいまいが、如何に優れたカリキュラム・テキストがあれど、個人的な日々の学習・修行・工夫(つまり、予習復習などの独習・一人稽古)が大事と云う当たり前の事実でと思います。

何故か、皇悠自身記述していまして、ツマラナイ事を書いているかな?と気がしますが、コレが分かっているか?体得しているか?どうかが実はあまり明示されませんが重要だったりします。

往々にして、一人稽古/自主トレを止めてしまった途端に、挫折・崩壊・衰退の瞑想ならぬ迷走、開悟ならぬ悔悟へと突き進みます。

本当にビックリするぐらいに・・、皇悠自身もそうでした・・・。(^_^;)


そして、そんな自身に嫌気がさすのか?自己肯定の為なのか?再び稽古ではなく意味のない保身や権威なんかに走る人もいます。

この辺は意外にどんな分野でもありがちな事かもしれないですが・・・?気をつけたいモノです!


さて、今回は此処までです。何かの参考になれば、幸いです('-^*)/。

ではいつもヤツで締めます。

(閲覧頂いた方に)全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年4月17日 (金)

守護者としての向き不向き

御覧を頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。
さて、今回は総論としての守り手との兼ね合いというか、守護者としての向き不向きについてです。
これは以前に書いたかどうか忘れましたが、一般に仏門ですと如来などはあまり向いておらずに、天部は向いているとされますね。

しかし、守り本尊信仰では、阿弥陀様や大日如来が入ってますから、変ですね!?
これは次元の違い・役割の差とでも言いましょうか・・・・?より人間に近い地位の方のほうが願い事を聞き届けてくれ易く、何故か古来からそう言われてるらしいですね。

ですから大日如来様やお釈迦様よりお稲荷様や弁財天様等の天部・垂迹部の方が良いらしいです。

勿論、各祈願・祈祷毎にその願意によって頼り先を変えますが、しかし、如来部よりも天部のほうが成就が早いと多くの行者たちは口をそろえて言います。

これは人間により近い存在であると言う事・基本的に活動的な方々であるからだとされていますが・・・。個人的に思いますに多分、欲望や迷いがある分だけ、親身になってくれると言うか、理解し同情してくれ易いということでしょうか・・・?

ですから、心から手を合わせ、一心に祈れば願いが聞き届けてくれ易いのでしょうね。

さて、今回はここまでです。

参考になれば、幸いです。

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2009年3月 4日 (水)

カール・シュミットという独裁者肯定と神仏・呪術

御覧を頂きまして、ありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。

さて、今回はカール・シュミットと言う、法学と政治の思想家の事を記述し紹介します。

普段の内容とあまりの違いにいきなり感がありそうですが、祈祷や宗教の分野の中には現在の宗派の信仰や教義とは関係のなさそうな、今ではよくわからない政治闘争やある種の権力奪取を目的に編まれている物・技法などもあります。例えば、ある個人ではなく国に疫病を撒くとか、権力者に好かれるとか引き立てを得るとか、王位を得るとかです。・・・・現在の日本で疫病を撒いてどうするんですか・・?権力者って、いつどんなスキャンダルや持病で消えるかわからん議員ですか?それとも、この不景気で軒なみ減収揃いの大企業の社長ですか・・・?

さて、そういう方法が存在した理由・作られた技法の意義などを理解し、現代に応用するためには、やはりその技法が出来た時代背景や当時の流行、また何故にしてその現象を起こす事が必要か・・・などを推察する必要があります。

ただ、その推察・答えを引き出すには多くの情報が要りますので・・・、大体一つのアウトプットにたいして100のインプットが要りますし・・・大変なんですよ、これでもブログを継続するのも、・・・orz。

そんな訳で呪術や祈祷と関係ない分野の学習も時に必要な訳で、これから記述することもそういう類の情報収集で得た話です。

さて、彼の有名な言葉で「敵とは我々自らの問いが姿を現したものである」などがありますが、彼は一時期ナチスにも荷担したドイツの法学者の一人で、業績としてはカール・シュミットは、議会制民主主義自体を否定・批判を行った人物であり、そして何故か日本はカール・シュミットの翻訳が一番多い国です。同じく協力した学者にP・ファイヤーアーベントなどもいます。

また、彼は優柔不断な政治的なロマン主義者が最終的に権威に屈従していく過程を観つつ、思想的状況に「決断」を下す独裁者を要請し、事実上の王政・独裁者を肯定している思想家でした。この記述を見ますと以前の小泉ブームを思い出します、個人的に・・・。

つまり、政治は有能な独裁者にヤラセ、失敗したら首を落とし、次の奴にやらせれば良いという考えをする思想家です。このやり方は事実上、命が取らないだけでほとんど今の政治とやり方は同じですが、ただ人数が一人か数百単位かの違いがありますが今の業績が悪いと次の任期は無しの議会制民主主義ですね・・・。・・。

また、彼の『政治的なものの概念』等で展開された「友-敵理論」(政治の本質を敵と味方の峻別と規定し、政治的行為とは敵を排除する事とすらする)はいまだに色あせない価値があります。

ちなみに彼の思想によれば「議会制民主主義における諸政党は、社会的・経済的な利権獲得と既得権益の保持のみの集団に過ぎず、国家に対して責任を欠いている。彼らは自らの利益のために立法を重ねる為、そうした体制下での「議会制民主主義の発展」とは、政治的倫理・理念を欠いた妥協のための技術が磨かれたにすぎない。」とします。

これなんかは、よく聞く話ですね・・・。

つまり、政党というのは税金を公共の福祉ではなく基本的には利己的にチョロまかす存在と見做しています。そして、これが確かに一面の事実だから始末が悪いですね。

また彼は、「(特定集団の経済的利害に左右されない)真正の政治が秩序をもたらし、その秩序のもとで法が形成されるのが望ましいと考えるが、しかし、議会制下の日常はこれとは異なっており、「民主的に」(=様々な利権団体に翻弄され妥協を重ねながら)議会で法が定められるのが、議会制民主主義下の日常である」と捉えています。つまり政治は常によき秩序・多くの問題の不断の解決の連続ではなく利権団体の妥協の連続であるとします。

また、その著書『政治神学』において、「主権者とは、例外状態において決定・決断を下すものである。」と示されているように、彼にとっては利権団体の既得権益の取り合いから真正の政治が復権する状況の一つが「例外状態」であると考えています。

ちなみに、例外状態とは国の存亡の危機時です。

また、彼にとって、あらゆる政治的敵対を終わらせようとする試みは、かえって人類の名のもとでの最悪の殲滅戦争(人類が種として絶滅しうる戦争事態)を引き起こすだけなのであり、この世から政治上の神学(善悪を決めて排除のために争うという考え)が消滅することはありえないとしています。

さて、この思想の凄い所は、「如何なる政治形態も最終的には一人の独裁者・責任を取る代わりに全ての指示を出し決めれる人物を選び出し、その方に一任し従うと言うシステムを保持するしかない」という現実を見据えている点です。リーダーとか大統領とか総理大臣とか王とか皇帝とか将軍とか歴史的にはいろいろ言いますが・・・。

また、理論上は議会制民主主義(のわが国もそうですが・・・)では国の政策・統治が悪い場合、全ての責任は国民にあります。誰も意識していませんが、こういう理屈もあるわけですが・・・。

つまり、権力を持つ誰かが悪い事をしてもその人物に政策を作成し、それを執行する力を与え、放置し、追従した者=国民も悪いという理屈ですが、それが自覚されることはなく、平気な顔をして後付けで批判しているだけの場合も多いのですが・・・。

そういう状況・構造を明確にした理論家の一人に彼がいます。

さて、少し話が変わりますが、今でもよく天皇制批判や官僚批判、政治家批判をする方がいますが、歴史的に古い(モノによっては千年単位の昔の)魔術・呪術を学んでいますと「そんなに嫌なら日本から出て行けばいいじゃん、そいつらを殺してでも排除して自分がやればいいじゃん」と時に思います。

呪術・宗教の世界の理屈は基本的にこの世・社会に対して、アナーキーです。邪魔モノ・むかつく奴は生存権を認めず殺しても良いとすら時に考えていますし、唯一の価値基準は信じ従う神仏・聖典の記述に則っているか否かの場合も多いですし・・・。

ですので、時に平気で呪術師・宗教家は社会的に殺人だの戦争だのをやらかします。ただ、そこまでこの世の原理を否定し、神仏に従うからこそ神仏の加護があるわけという理屈もありますし・・・。

また、ある意味で、その時代・その土地の政権/社会に適応し追従出来ない人物が呪術師・宗教家になりますのでそういう考え・立場なども一面ではしょうがないのですが・・・、

更に、王権神授説・天命思想などに代表されますが王権、今で言う国の指導者として「地位が与えられるのは、その国の神仏の支持・庇護・意思によるものであり、神仏の庇護がある限りはいやでもその職権はその人のもとにある」という考えもあります。

逆に言えば本人が呪殺される事や呪いの効果にさらされる状態、何をしようと統治が正常に機能しない状況(具体的には異常気象や病疫が頻発すると言う事)は神仏より権威を奪われた・資格を否定された証で本人が辞任・辞職をせざるをえないと言う思想もあります・・・。

ただ、これらの事実・古い思想を理解し考慮に入れている術者・方は今では何故か少ないですので、忘れられた秘教なんかだったりします。

そして、呪術・祈祷の世界の多くの技法・思想が基本的に今(2009年現在)よりも人の生活がハード・困難な状況(カール・シュミットの言う例外状態)が頻発していた時代の産物である為、勢いその思想は根本的には現代の下手な理屈より厳格かつ非情だったりします。生命に直結していた為でしょうか・・・。

またその名残でいまだに多くの国で(日本でもアメリカでも、イギリスでも・・・)権力者の就任式では神仏の庇護を求め、「自分らが適任であるように、的確に職務が果たせるように・・・」などと祈り・宣誓をよくしていますね、何故か・・・。

さて、今回は此処までです。今回いきなり変な・異様な視点からで普段と違う記述なのですが、なんとなく記述する必要性を感じ、記述してみました。何かの役に立てば幸いです。

では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ように祈ります。

皇悠、拝礼。

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2009年1月16日 (金)

神主さんの信仰要諦と内部闘争

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて今回は一部の神主さんのブログなど紹介されています神社本庁系の信仰告白・神道系の信徒大綱を紹介します。では、・・・。

『 神道は天地悠久(てんちゆうきゅう)の大道であって、崇高なる精神を培(つちか)ひ、太平を開くの基(もとい)である。神慮(しんりょ)を畏(かしこ)み祖訓(そくん)をつぎ、いよいよ道の精華(せいか)を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以(ゆえん)である。ここにこの綱領をかがげて向ふところを明らかにし、実践につとめて以(もっ)て大道を宣揚(せんよう)することを期する。

一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明(あか)き清きまことを以て祭祀にいそしむこと
一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
一、大御心(おおみこころ)をいただきてむつび和(やわ)らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること  』 
 
さて、実に多くの神職の方は、この名を「敬神生活の綱領」の内容をその理念として、それを基に日々ご奉仕しています。また、神社によっては朝のお勤めの時に、ご神前で唱和したり、いろんな会合の時にも皆で唱和していたりします。内容的にも素晴らしいですし・・。
 
さて、ここからは俗な話ですが、由来や関連もバラバラな人物が集う組織で、意識の統一/行動の基準化を為すにはこのような理念の統一化は重要です。 
 
似たようなモノに古い会社での短い社訓の唱和や今一部の会社で流行っているクレドなども、各組織人が自己判断で臨機応変に対応出来るように使用されています。幾らよく聞く報告/連絡/相談を徹底していても、必ずしも組織の責任者・指示者層が常に的確にかつ適時に指示出来るとは行かないので、末端の人間でもある程度は応対する為に、最低限度の基準・行動理由の把握化・取得は重要です。ただ、そんなことは関心が無く、金が利益が入ればいいという所も多いですが・・・?
  
また、ある程度の組織の構成員数を誇る所(百人以上)ではこういうモノが無いとすぐに何故か、派閥化と分裂化が出現し、内部的な権力闘争や不祥事が起きます。そんな事をするよりもクレーム処理、現場/日常の新たな変化の把握、利益率の向上、新商品の開発、既存商品の向上を優先すべきというような場合でもやり始めます・・・、そして大抵の場合でそれが終わった時、市場でのその組織の価値は完全な老舗的状態で、ただ既得権益を維持してなんとか存在しているだけのロートル的な存在になりさがっていたりします。・・・怖いですし、気を付けたいモノです。
 
さて、今回はここまでです、何かの参考になれば幸いです。 
                                                          では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ようにお祈りいたします。皇悠より・・。

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2009年1月13日 (火)

死後(?)・死に方のお話

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、またまたプロフィールを改良しました。どうも、お世話様です皇悠です。

さて、今回は死後の話です、実に多くの経典・説話では死後幾つか世界があり、そこに行き色々すると述べられてます。

まあ、身体は物質で、物質が永遠たる事はない訳で・・・。ただ、身体の元来の限界年齢って平均で150年前後あるらしいんで、平均寿命が70から80代の今は依然よりは延びたとは言えまだ倍は生きられるんじゃないかという説をどこかで見た覚えもあります・・・。

また、物質の最大の問題点は、その結合・維持等の状態を永遠に維持することが殆ど出来ないと言う事ですが、 ボケ関係の本で最近読んだんですが100歳とかでもボケない老人というのを調査したところで、酒とタバコは全員ノーだったそうです。ごく少数、食前酒をちょびっとみたいなのはあったらしいのですが・・・・。

さて、多くの神話や説話の長寿者・例えば仙人を伝説だと考え、虚構浪漫として楽しむのも個人の好き好きですし、実際にそのようになれると考え修行するのも好き好きです。(^-^)多くの人は、数百歳以上などは不可能と信じているらしいですが、私は、その程度の長寿だけでなく、問題は、そうなれる前に死んでしまわないか、と考えています。(笑)

特に、かつて世界三大長寿地域と呼ばれたコーカサス、フンザ、ビルカバンバは、山間部でしばしば雲に包まれ、その結果、宇宙線・紫外線をかなり防ぐので長寿とかでしたが・・・。ただ、これだけでは長寿の十分条件にはならないらしく、「かつて」と書いたように、ビルカバンバは、今では短命で病人の地域になってしまったそうです。

実は長寿地域として有名になり、米国の外庭と呼ばれる南米にあった為、米国人が大量に押し掛けました。しかし、米国人は不健康な米国流食生活を止めなかった為、長寿に至らないだけでなく、現地人の生活環境を変えてしまい、その結果、健康だった現地人は次々に病気に罹り、短命化していったそうな・・・。どういうことですかね・・・。

これに関連して、ユニバーサルタオという体系では上手い事を説いてます。

「もし良い感情というモノを培っていく事を怠り、ただひたすら、より大量のエネルギーを体の中に引き込もうとするだけならば、結果的に、否定的な感情にパワーを与えてしまう事にもなりかねません。そうした場合、ネガティブな感情はますます強大になり、それらをコントロールすることも、肯定的な感情に変容させる事も、ますます難しくなってしまいます。これがスピリチュアルリーダーと言われる人達の中に堕落し腐敗していく者が少なからず見受けられる理由でもあります。

彼らは自分が得たパワーに有頂天になってしまい、この気を日々の修行の中で浄化し、徳のエネルギーを養う事を怠ってしまうのです。 徳を培う作業は、それが自動的になされるようになるまで、たゆまず続けていかねばなりません。それが実現出来た時になって初めて、マスターと呼ばれる人が本当は何を意味するのかを知る事が出来ます・・・」(タオ人間医学より)

中々に良いことを記述しています。ちなみに、同体系の修練者の死・最後の旅の経路を4つ紹介します。

まず、1五行帰一/エネルギー体(魂体)を魂と霊の乗り物として死の瞬間に我々を目覚めさせる原初の光に付いて行く事ができる。松果体と関連した「内なる羅針盤」を形成すると光に意識の焦点を合わせる助けとなる。(多くの方はこのように死ぬらしいですね。)

2小坎離/男性性と女性性とを再結合させ、神の体を養育するベビーシッターの役割を果たす気の体を生み出す。今生のうちに神の体(霊体)を産み出すチャンスがなかった場合も、気の体だけ使って不死の体を育て上げる。体の多くの物質的要素を非物質的な状態に変容させ、肉体的な死が起こった後に体重が3分の2に減る。(主に多くの説話で屍解仙と呼ばれるものですね。)

3大坎離/神の体が一人前に成長すると、タオの光と同じ周波数となり、光と一つになる事が出来る。タオ以外の伝統では、聖霊やグレート・スピリットと呼ばれる。神の内なる光と外光を結婚させて不滅の神「陽神」を産み出す。肉体を脱ぎ、不死の陽神で旅路に出ると言う能力を体験し、物質世界を越えた命というものが身近に感じられるようになるにつれて、 死への恐怖が消え去る。(これは仙道の出神とか呼ばれるものでしょう・・・。)

4太坎離/体中の全ての物質的な要素が微細な気に変化し、虹の体になる。世を去る時に肉体は爪と頭髪を残して消え去る。 この変容プロセスを加速させる為に、死がまだ必要な段階。(これは、チベット密教のニンマ派とボン教にのみありますゾクチュンの技法です。)

他に、個人的に付け加えますと「御霊、天狗化」と呼ばれる現象がありますね。ある種の特殊な呪術と強力な意思・感情がその人を人ならざる存在に変える事です。生きながら・死にながら化け物に成る訳ですが、主に憎悪や恨み・怒りを含む願いの念で祟り神やその半眷属となります。ちなみに地縛霊とかもこれの一種です。大抵は自殺や変死などろくな死に方をしませんが・・・・、強大な存在になることはたしかです。こういう存在がよく言う何代も何百年も祟る霊の正体です。

このように考えますと死に方というのも色々あります。

ちなみに皇悠は御霊・天狗化を予定・希望してます。死んでしまえばこの世に義理も縁もありませんから、それで周囲がどうなろうと知りませんし、叶えたいモノもあるので・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、一礼。

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2009年1月11日 (日)

読経の速度と集中、そしてその数について

何時もかな?御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は経文や祝詞の朗誦の速度や祈祷におけるその数量などについてつらつら書きます。

さて、神社やお寺での専業者が毎日の日々のお勤めをされているような事を、私達(在家・兼業者)が幾ら道具を揃えて、複雑な段取りを踏まえつつやるというのは、実質的には不可能です。質量共に限界があります。

しかしながらも、究極的には、必死さというか神仏に祈願の納受して貰う為の質と量の問題という判断もまたありますから、往古の修験者などは、ゆっくり段取りを踏む時間も道具が無い時などで、いきなり祈祷に入るという、即戦的・実践的な事をしたようです。また、禅宗の傑僧の説話などにも、経も読まず、何も用意をせず、いきなり、烈迫の大喝を放って、危機を除くという例も多く見られます。勿論、相当の熟達者だからこそ可能な、大技なのでしょうが・・・。

さて、私のような凡俗には、限られた時間と環境の中で、言いたくないのですがやはりある意味では片手間にやるのですから、それだけ中身の濃いかという真摯さが問われます。それでポイントとなると、連続性とか継続性や集中度などが重要かなと思っています。それが、例え真言であっても、念仏であっても、アーメンでも、なんでも良いのでしょう・・・、極端に言えば効果があればいいのですから・・・。ある意味で自分が念を込めやすい符牒を、一心に信じ繰り返し使う訳ですね。

例えば信じるという事で少し話は変わりますが浄土(真)宗などでは、南無阿弥陀仏と一心・熱心に信じ唱えますが、日本浄土門の代表者の親鸞は念仏を唱えれば厳密には必ず極楽往生出来ると言っていた訳ではありません。「絶対的に信じよ」というのが、骨子であって、「信じられれば念仏などいらない、」と言うような立場でした。事実、「(法然などに)騙されて地獄に落ちてもかまわん・・」見たいな趣旨の発言を残していますし・・・。ただ、念仏を唱える事で、信じようとする気持ちが強化される効果というのは、認めていたのではないでしょうか・・・。さて、親鸞が要求した信仰のレベルは、大変に高水準である為に、その後の信徒たちは、念仏を唱え込む事で、その絶対帰依に近づこうとしたとも言えるのでしょうが・・・。ともすると、唱える事で救われる、と信じたフシも無い訳ではありませんね。

さて、密教などでは、真言になりますが、元はサンスクリット語やパーリ語で、訳してみれば、なんという言葉でも無い・大した内容でもない事が多いです。ただ、それを半ば呪文のように、真言を繰り返す事で、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経なども同じようですが、呼吸法と強制的な酸欠状態からくる、一種異様なトランス・集中状態に近い生理現象をもたらす効果もあります。そういう意味では念や法力というのは、そういう中で生まれてくると言えますね。私自身も、時に応じて、南無阿弥陀仏や、南無妙法蓮華経を唱えますが・・・、ただ、日常的には、使い慣れたモノを用いています。この繰り返しの作業が、体内六十兆個の細胞というかなかで積み重ね鍛え上げ磨いてきた何かを覚醒させ駆動させるコツなのだとも思います。お経でもそうですよ。

さて、多くの人がよく唱えられる般若心経という短いお経は、古来、これそのものに呪力性があると言われてきました。事の真偽はともかく、わずか三百字足らずの短文ですが、よく木魚をぽくぽくしながら、お坊様がお葬式などでゆっくり読経されている様子を目にします。私の場合は、般若心経全文を、数分ほどの時間のうちに、超特急というか時に早口で読経します。速さを競っているわけではありませんが、超高速の読経によって自身の中に、高揚する緊張感を感じるからかもしれませんが、そちらのほうが験が得易い傾向があります。また聞いたところでは、高野山系の僧侶でもそうした超高速の読経を唱える方もいます。

ただ、近所の禅宗のお寺では、祈祷の時にはやはりかなりの高速で読経をしていました。別の禅宗のお寺では、経・真言ともに、かなりスローペースなもので、これは、行者の念の込めやすい速度というので、いいのでしょうね。

ただ、速度の速い念誦の場合、言葉がおろそかになってしまうことが多々ありますから、それはそれで注意しています。速かろうと、遅かろうと、雑になったり、漫然としてやっても、意味がないのですから・・・ね。ただ、妙というか三昧と言うかテンションを保ちつつ、深め行く訳です。

さて、ではどれくらい唱えるのかは時や場合に寄りますが、基本的には合計で数百以上から数千回です。複数の祝詞・祭文・経典を行きつ戻りつ使うので合計でどれを何回と数えて事がありません。興に載ると平気で予定上の数を唱えこむの常ですので・・・。

ただ、それではあまり参考にならないので具体的な数を、経典の連唱系祈祷の雄、日蓮宗の祈祷法から病人などに対するモノ・疫神加持を題材に引いてみますと基本的に五日間の祈祷ですが、(実は日蓮宗の祈祷は基本7日です)最低限祈祷僧が唱える法華経の数はなかなかです。

まず、初日に方便品を13回、寿量品が6回、六番神呪が600回。二日目に普門品が50回、陀羅尼品が33回。三日目に祈祷肝文経という特別な経を33回、普賢菩薩呪が800回、題目3000回。四日目で寿量品が33回、神力品で33回、薬王品or普門品を33回。最後の五日目で陀羅尼品が100回だそうです。また、初日から最終日まで祈祷の最後には必ず祈祷用の特別な「疫神教化抄」という祭文を唱えるそうですね。そして、この祈祷で必ず疫神は退散すると言いますが万が一にもしない場合は更に施餓鬼法要も行うそうですね。しかも一人でとは限らず、三人とか十人とかもあるそうです。更に日々の勤行でも祈祷時には普段よりも題目などを増やし真摯に祈願成就を諸天善神・本尊などに冥助神佑を頼むそうです。

また、西洋魔術でもエクソシズムや魔術戦で名をはせたD・フォーチュンは現世利益的なモノを含め魔術で願望の成功・失敗か否かの判断は「(毎日とは行かなくても頻繁に施行して、)やり始めてから半年から一年位はしてから判断すべし」という趣旨の発言を残していますから、儀式を最低でも数十、しかも一日一回とは指定していないので場合によっては数千回やれという含みがありますよね。

そう考えると、最低100回位は唱えこむべきなのかもしれませんね。まあ、こんなことはそれなりの祈祷師、呪術師から見れば当たり前の話ですが・・・、何故か公言されていません。少なくても数回、経典なり祝詞を唱えただけで祈願成就という話は、庶民向けの霊験譚・説話にもないですしね。

もし、あっても実は普段から唱え込んでいたとか、特別な事情で唱えこんでいた人が実は助けてくれてとかいう落ちがつきます。勿論、私が知らないだけで本当に数回祈祷時にだけ唱えるだけで霊験や妙を得る人はいるかもしれませんが・・・。

さて、今回はここまでです。何かの参考になり、楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より、一礼。

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2009年1月 6日 (火)

ある説法会での審議応答

何時も御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回はある内輪の説法会での審議応答の一部を書きます。これは、ある真言系の高僧と在家信者との対話です。すばらしい内容ですので、アップしました。

では、お楽しみください。

『 Q、灌頂を受けてない全くの素人・在家でも本に載っている観想法や護身法を見よう見まねで行ったならばその危険度は別にして、効果は(言い方が良くないかもしれませんが)ゼロでは無いという事でしょうか?

A、その通りです。力はそれなりにつきます。しかし、師匠がいないので最善の方法で出来るかは分りませんね。

しかしながらも、師匠の技量にもよりますので、師匠に仕え、学ぶ事だけが最善と言う事は言えないとも思います。

事実、在家でも、もちろん出家者のための加行(僧侶となる為のプログラムされた修行)を行う場合はモノは同じでその修行の次第、すなわちプログラム・カリキュラムから何を見出すかは個人差があります・・・。

ただ、どの修法でもその根底に秘められたノウハウをいかに引き出して修行等に利用するかが決め手となりますと、個人の独学では難しいようですね。ただ、(弘法)大師のようにかなり後まで正式な(密門上の)師がなく独習された方もいますので、やはり人それぞれですね。

また、現在では加行をし灌頂を受けた僧侶自体と在家もそんなに変らないレベルの場合がありますが、そういうレベルの僧侶が、今では残念ながらも沢山居ます。才能がないのか、修行が足りないのか、学ぶ気がないのかは分かりませんが・・・。

また、これに関連すると思いますが、在家と学・行共に良い人レベルの僧侶が、密教の全ての所作をしても、とくに弊害は起こりません。単純に効果が出なかった・出ないだけです。これは素人・在家と変らない結果と考えられますね。

しかし、このような情けない現状でありながらも閉鎖的な加行・灌頂などの一連の学習システムを作って厳守・統制しなければ、教団としての仕組みを守る事が出来なくなりますし、後継者・次世代の育成も出来ないのも事実です。そこで、越法罪とかいって、マインドコントロールして、規律を守らせる訳ですね。また、そういう脅しで修行に励ませ、やる気のある者を奮起させる意味もあります。

勿論、やはり気功でいうところの基本功・よくいう基礎修行を適切に行うとそれなりの実力・技能が取得されるからこそ、一連の学習システムや戒律があるのは勿論ですが・・・。

Q、素人でも、独学である方法でそういった力・法力が程度の差はあれ身につけることが出来るとの事ですが、先生がよく説話・経験談などでも証明しよくお話して頂いていますが私はマイナスの効果(自分に)が現れるのでは?と常に思ってしまいます。

A、そうですねぇ・・・、たしかに師匠・監督者無しで在家の者が加行に近い事まで修したなら、まったくリスクが無いとは言えないと考えます。

例えばそれは、自分と関わりのあるモノが助けを求めて貴方にアプローチする可能性がありますし、そういう場合に師匠が(力があればですが)いれば助けてくれます。

また、独学者がトラブルを起こした・巻き込まれた場合に対応出来るほどの完璧なシステムが完備された教本などは存在していませんしね。また、どう考えても個人差や状況・環境の違いがあるので作りようがありませんし・・、こういう場合やはりその道の先達・指導者が要りますね。

この為か、古来より師の必要性を密教では重視しています。ただ、優れた師を見つけるのは至難ですし、得られるかどうか、拝師が許されるかは微妙ですね・・・』

どうでしょうか・・・。すばらしい内容です。

しかし、今から思い出しても、この高僧の方の返答は見事です。小さなお寺の住職さんでしたが、個人的に大好きでした。淡々とした中にも深い見識が滲み出ています。

あまり、有名な方ではなくても、このような方もいると言う事で書いてみました。

参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますような・・・。

皇悠より。

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2009年1月 5日 (月)

法華神道とは・・・

いつも御覧頂きまして、ありがとうございます。

お久しぶりです。

そして、遅れながらも、新年明けましておめでとうございます。どうも、皇悠です。

年末から年始にかけて、初詣がてら縁のある神社の巡礼(数社の寺社を歩いて約20キロの行程を一日がかりで歩き巡礼)したり、今回ちょっとしたコネで某日蓮宗系の女神を奉賛する寺院のあるお堂に御籠もりさせて頂いたりと中々に充実した日々を過ごしました。

皆さんはどうでしたか?

さて、今回は今では名前しかない日蓮宗の神道、法華神道の紹介です。

この神道の信仰・教義の中心になるのは、法華三十番神説です。事実、所謂、法華神道三大書と称せられる「番神問答記」「法華神道秘訣」「神道同一咸(酉扁+咸)味鈔」を始め、「鎮守勧請覚悟要」「神仏冥応論」「法華三十番神抄」等の法華神道書を紐解いて見ても、多くは三十番神の解説が中心ですから・・。

要するに法華神道は、日蓮の国神観を基にして展開して行った神道説と云えます。何んにせよ、室町時代に入るとその中心思想である三十番神として法華神道は全盛を極めます。これは、日蓮宗では法華経を唯一の正当な仏教の正法とし、その法華経の守護の神・役割として日本の神祇を形の上では認めてますが、実は裏事情もあります。つまり、対立宗派の密門の尊格や当時の他派の神仏や本場中国の流行神を利用出来ない日蓮宗は神道の神を利用したわけですね。ある意味で・・・。

では、「法華神道の起源は?創始人は誰か?」となりますと、簡単に言えば、法華宗(日蓮宗)自体で、明確な所は不明です。歴史的には日本では奈良時代以降、神仏習合はごく当たり前の出来事ですから、日蓮宗の発展とともに法華神道が広がっていったと考えるのが普通でしょう・・・。ただ、伝教大師こと最澄が日本では比叡山で祀ったのが始めという説もありますが・・・。

経緯的には、日蓮宗が、当時の先行・ライバル宗派の浄土宗、禅宗などと異なりつつも積極的に独自性と自派の権威付けに古来からの神祇の信仰を取り入れ教義的に位置づけたのが可能性としては実情・起源でしょう・・ね。

では次に、「法華神道の教義はあるか?三十番神のほかは、また、どんな信仰がある?」となりますと、法華三十番神自体が、我が国の著名な神々が、一ケ月三十日の間、毎日番代・日替わりに「法華経」を守護せられると云う信仰で・・・、より具体的に三十番神については毎月の三十日間を30の神々が受け持ち、これを十二ヶ月繰り返すとして神々の選定は二十二社の神々に比叡山関係の地方神を加えて天台宗の番神思想を受け継いだと言われています。

また、いわゆる三十番神は三十の当時の有名・権威のある神です。そして、法華神道ではひと月三十日の間、毎日一人の神が日蓮宗の信徒を守護してくれると考え、信徒たちは一つひとつの神社へ別々に参詣する必要はなく、三十番神を祭った日蓮宗の寺院に参詣すれば良いという考え方をしています。この思想・信仰自体は既に元ねた・先行宗教の天台宗にあり、よって、番神信仰が何時、どのようにして日蓮宗に受容せられたかを明らかにし窮めることが、実は法華神道の起源を明白ならしめることにもなりますが、難しいですね。

では、その受容自体を無理して概略しますと以下のようですね、

(一)日蓮(貞応元年~弘安五年・1222~1282)に始まる説と、
(二)日像(文永六年~興国三年・1269~1342)に始まるとの二説があります。

更に(一)には、二説あります。即ち(イ)建長元年(四年とも)、日蓮が比叡山の定光院で読経していた時、法華守護の三十番神が列をなして姿を現した。(ロ)日蓮が吉田兼益より神道を伝授され、三十番神の守護を法華経によって勧請した、との二説です。しかし、どれも怪しくこの思想が更に弟子筋の日像によって三十番神信仰へと受け継がれ、それがのちに展開されて行ったとみるのが正しいようですね。

さて、日蓮が創案した曼荼羅には勧請諸尊の中に当時も今も大きな権威・霊力を誇る天照大神、八幡大神の2神が書かれ、そしてこの2神でもって日本の全神祇を代表させています。

これは、日蓮が開教した当時の日本の政府組織・権力者が平安貴族・天皇系の宮中と武士団・源氏系の幕府の二大・並立政治であり、それぞれの守護神が伊勢=天照大神、鎌倉八幡=八幡大神という時代背景も絡んで来ています。

さて、日蓮宗では教義の特徴として『神々は正法によらなければ力を発揮する事が出来ず、もし法に従わなかったら罰せられる』としました。

ちなみに、これは日蓮宗独自の信仰形式です。つまり、全ての神々の上に法華経が存在するという信仰です。



なお、「法華神道の形成と発展はどのようにいったか?そして、その時代と現実にどんな影響があるか?」と言うことでは、あくまで独立して宗教として存在したわけではなく、日蓮宗の信仰形態の一種・事実上は付属ですから、日蓮宗自体の歴史・教義をお調べいたほうが分かり易く、本稿から少しずれるので今回はカットです、すみません・・・。

さて、関連事項として大きな出来事としては室町時代後期、室町幕府に支えられて神道界の支配者として実力を占めつつあった吉田兼倶は法華宗に宗論を挑んで日蓮が卜部兼益から三十番神の伝授を受けたと主張し、法華三十番神が吉田神道に発する事を法華宗側に承認させました。

具体的には「明応六年二月六日(九日とも)吉田兼倶はこの三十番神について、(一)天台宗の三十番神か、(二)内侍所勧請のものか、と云う質疑状を発します(番神問答事件)。これに対し日蓮宗では、「此事当流独歩の稟承、他人不共の秘曲なり」と、天台宗勧請の三十番神を継ぐものでないとし、「練磨・実義」の二語で以って独特の解釈を加え、名実共に三十番神は日蓮宗独自のものになっていきました。このような解釈が生じたのも吉田神道の影響があったらしくその為、法華宗側は神祇大副(次官)の吉田家と結ぶことによって法華神道に大きな権威を与え、吉田神道は法華神道の広大な地盤に進出する事が出来るようになりました。つまり、真言宗と稲荷信仰のように協力とまではいかなくても、互いにある意味での融合・補完関係を構築しています。

しかし、明治維新に始まった廃仏毀釈運動で1868年10月政府により法華三十番神思想及び関連の全ては禁止されました。

また、法華神道の系譜にある一派・富士系の三鳥派は江戸幕府による八丈島流罪をはじめとする徹底的な弾圧の為に伝持の人もなく、文献・史料も跡形もなく残っていないです。余程酷い宗教弾圧だったのでしょうね・・・。

さて、現在では神道は一見素朴な教義・信仰体系のように思われますが、実は仏教の影響を濃厚に受けてます、その反面仏教への対抗意識は強いのが特徴で・・・。なかんずく今では廃絶した多くの理論神道諸派からの流用・参考にした部分が多く現在の神道に果たした役割は大きいです。

例えば、まず山王一実神道・今も多く残る東照宮系の神道ですが、これは仏教の特に天台宗と神道が融合した「仏本神従」の神道から来ました。それゆえ天台神道とも言われます。

この神道は教義的には「人間の生命(一念)に現象世界のすべて(三千)が欠けることなく収まる」という天台教学の一念三千を教義に援用してます。

因みに「三十番神」説を主張する仏教の日蓮宗と神道が融合した「法華神道」は、事実上は天台神道の分派であると見なされています。

さて、今回はここまでです。何かの参考になり、楽しんでいただければ幸いです。

貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、一礼。

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2008年12月22日 (月)

実はただの始まり・念仏・・・浄土での幽閉修行

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね。皇悠です。

さて、今回はあまり知られていませんが念仏について書きます。

ちなみに念仏に関連して仏門の儀式には「祈願を叶える為の加持」と「法事・・・故人の供養」、「メインになる仏の徳を称えて讃(さん)や唄(ばい)と呼ばれる歌で祝う法要」など幾つかのモノがあります。そして、同じ念仏を唱えるのでも場合・意図・目的で違いますので、今回の念仏は日々の勤めの行・修行としての念仏を念頭に書いています。(最近と言うか普通の念仏と言う意味ではごっちゃになってるけど微妙に違うんですな、これが・・・閑話休題。)

さて、このブログの内容は神仏・仙人の世界(超能力、霊能力)を日常・当然とする人にとっての有益で、神仙・霊験譚等は重要な、かつ有益なインフォメーションたりえますが、そうでない人にとってはそういう事は本当に妄言(でたらめ)にすぎないようです・・・ね。

それに、ブログの内容自体が推論や理解力による限界ももちろんありますし・・・。

さて、日本では大人気の浄土真宗の開祖とされる親鸞は、辺地往生といって、念仏(此処では、南無阿弥陀仏)の功徳によって、信心が例え不十分な者でも、まず浄土に往生するとされてますが、実はここにある恐ろしい罠・あまり知られていないモノがあります、それは「辺鄙な浄土のはずれに生れて疑いの罪を償って後に、初めてホンチャンの浄土に行ける」と言う事です。これは親鸞自身が説明しています(歎異抄第17条)。

また、浄土宗系教義的な根本経典の一つ、観無量寿経でいえば、極楽に往生したものの、池の中の蓮の蕾の中から出れない状態に転生・移動が親鸞の頭の中にあって、それが辺地往生のイメージの元になったのもあるのでしょうね。

つまり、極楽浄土の蓮の蕾の中に転生し、そこで悟りを開くまで閉じ込められたままで、すごすと言うことです・・・。

さて、その蓮の蕾の中の精神修行であっても、地獄の責め苦がないので、その修行にいそしむ心理的、肉体的余裕もありますが・・・。この世であっても宗教というのは、そうした生活に余裕のある人の嗜みみたいな所があり、実は生活に追われれば冥想や修行はしにくいモノですから、しょうがありませんが・・・。

そして、例え『辺地往生したとしても極楽に往生自体は間違いではなし・・・』という理屈ですが・・・・。(そこで恥じることなく修行にいそしめば、真の極楽生活ですし・・・)

しかしまた、観無量寿経にある西方の仏国土、つまり極楽とは、いわゆる天部のすむ世界における天人五衰の滅びのある国なので、やはりその・・・時間的期限はあります。.かなり、時間的余裕はありますが・・・。

さて、その修行内容は阿弥陀様の浄土のはずれの蓮華の中に生まれ、その中で瞑想・精神修行という事ですが、よーーーーく考えれば誰かに教えてもらえる訳でもなく、実質的には監禁状態で長く閉じ込められ、その間に自ら悟りを開き出してもらえるか/悟れずに時間切れで天人五衰を経てまた六道のどこかに行き、輪廻転生を繰り返すか?という理屈です。まず、大多数には無理な理屈に感じますが・・・・。個人的に・・・。どうでしょう・・・。

つまりは、観無量寿経の想定している修行カリキュラムは、現世で輪廻転生の中であらゆる悲惨をなめるよりは、南無阿弥陀仏の功徳により、仏国土に一旦入って、そこで12大劫もの長い間、蓮の花の蕾の中で孤独に修行したほうが本人の為であるという判断があって、敢えてそれを勧めるものなのです。

つまり現世での修行ではなく、仏国土における来世での修行を前提とするモノのようですね。

どうしてこのような妙なことになっているかというと、観無量寿経は、由来的には自分の子供に殺されそうになった貴婦人韋提希が、釈迦にお願いして教えてもらったという由来なので、観無量寿経の導入部には、韋提希がその子によって殺されそうになり、牢獄に幽閉された経緯が説かれて、ここで現世とは、人間の欲望による悪が支配する絶望的な世界である事か強調されています。

さて、このような念仏の元祖・中国浄土教の元祖or開祖の曇鸞(476-542年)は、道教の修行中に、洛陽で菩提流支に邂逅し、観無量寿経を授けられたそうです。ちなみに、この方のもう一人の師匠は、陶弘景という当代随一の道教系修行者であったそうな・・・。

さて、仏門の、特に密教と言えば具体的な観想・ある存在を対象とした難解かつ莫大な観想が特徴ですが、中国に仏教由来の密教が入ってきたのは7世紀後半頃ではないかと推論されますが、実は観無量寿経はこれより1世紀以上も早く多くの存在・情景の観想シリーズを経典内で観想・修行として出してきています。そして、観無量寿経には、梵語原文も見つかっていなく、密教の本場チベット語訳文も見つかっていないので、メイドインチャイナであるという疑いもあります。つまり、中国製の観想修行用の経典らしいのです。

そして、こうして見ると南無阿弥陀仏という念仏は、修行のプロ向けの何カ月も何年もかかるような連続した観想が出来ない人で、毎日悪事を積み重ねている人が、死ぬ直前に唱えれば、いつかその転生先の浄土で観想をやり遂げ・悟りを遂げ華が開く事=出して頂けるのを約束するものとなっていることがわかります。

つまり念仏だけで仏国土への往生は出来るが、往生した後に膨大な期間の瞑想・観想修行がやはり必要であると観無量寿経は見ている・前提と言う事になります。よって、念仏とは、観想を主体とする修行のとっかかりに位置付けられているのですね。

さて、こうしてみますと、実に中国的な神仙道・道教のイメージ、神仙の世界で暮らす、長い時間異界で学ぶ、一人籠もり研究するなど彼らの世界観が浮き彫りになります。キリスト教的な神に祈るとか・・・、インド的な師の教えに従うなどが無いですから・・・・。あくまで、個人でお一人で籠もり修行するという強調が・・・。

ちなみに、皇悠としては個人的にはこのようなやり方では、学も経験も無い大部分の凡人は浄土にいけてもただ時間を浪費して、また輪廻転生して彷徨うだけに感じますが・・・?どうでしょう・・・。

ほとんどの方・つまり皆さんは・・・、「ただ、念仏を唱えれば浄土に生まれ変わり、幸せになれる」と単純に考えていませんか?確かに浄土に生まれますが、実質的には蓮華に幽閉され瞑想修行が終わるまで閉じ込められるのです。しかも、期限までに成就しないとそのまま地獄・餓鬼・修羅・畜生・人・天のどこかにまた送られます・・・・。

このような内容な為、実はそれなりの学のある仏門の信徒・特に密教者は、念仏を併用しつつも元来の修行を継続します。今生で修行が成就しなければ、来世でするという二段構えですねぇ。

しかし、経典ではかの浄土で教え、導く方は特に書かれていないので基本的にはほとんどの方は下手をしたら何も知らないまま死後すぐに無師のまま独学独習の状態で悟りを得るまで蓮華の中に幽閉されるようなので、現在に至るまで過去何千万人と念仏を唱え、死去された方も今は念仏の功徳で孤独に幽閉・修行しているのかなと思うと・・・・。

可哀想に(多分大部分の方は修行の仕方を知らないで闇雲に修行しているかと思うと・・・)本当に思います。もしかして、蓮華の中で苦しんでいるかもしれませんね。

さて、今回の理解は個人的には間違いだと良いのですが、経典を見ますとこういう解釈ができるんですよね・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2008年12月 2日 (火)

思考・マインドの統制の必要性

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は思考・マインドの統制の必要性について、つらつら記述します。

最近はほとんどないのですが、(半引退しましたからね)以前は有名無名の霊能者や、そのような類の能力を持っている人との出会いが多く、そういった方々から決まって言われたのは「あなたの心は読み取ることが出来ません・難しい・・」という内容の言葉をよく聞きました。

プロの霊能者というモノは、あまり社会では役に立たないような多くの知識を持っているものなので、当然の如く私の心(思考)を読み取れない理由は知っていたようです。

ただ、物を知らない方もいますので、真顔で「私は、人と対面している時、言葉ではない、その方のかもし出している雰囲気から心が結構わかるのですが、皇悠さんと対面した際その雰囲気というか、気のようなものをあまり感じなかったのですが、それは何か(の術)によるモノなのでしょうか?」という趣旨の同じような事を多分、今まで20人位から聞かれましたが、大抵は、面倒なので「偶然でしょう・・・、体調が悪いだけでは?」の一言で済ませてしまってます。

大半の禅宗やOHSO系のサニヤシンや、テラワーダ(タイ仏教)でヴィパサナを実践してる人もそうだろうし、その他、同じような雰囲気をかもし出している人(人種?)は数え上げれば切がない位います。

その率は、百人の俗人に一人くらいか?千人に一人くらいかな?あまり詳しくは分からないですが・・・。

そういえば、いつだったかある本屋で立ち読みした「世界宗教辞典」によれば、日本のサニヤシン人口は5万人と出ていたと思うので、(世界的には100万人くらい?)そのサニヤシン全員がそうでないことは勿論ですので、これは、あくまでも私の知る周囲を見渡した私見ですが、サニヤシンでも「ハイ!良く出来です~」が3割、「もう少し修行しましょうよ~」が5割、「お前!もうサニヤシン辞めてさっさと・・・!」が2割って感じじゃないでしょうか?笑

さて、この世界のほとんどの人は、例え、その人が黙っていても、頭の中では絶え間ないお喋りをしています。しかも大抵はろくでもない事です。だから、近くにいる人は好むと好まざるに関わらず無意識の内に、それを感じとって、ストレスを感じて落ち着かなくなってしまうようですね。また、そういう耳には聞こえない波長・雑音を放つ ”歩くストレス”とも云える騒音人間に慣れてしまった人が、たまーに禅行などでノーマインドを達成した人や綺麗に調律された人に出会うと、何かとても不思議な感覚になってしまうようですね。

私の周囲には苦悩する人たちが大勢・数え上げれば切がない位いますが、頭の中がカラッポで、なーんにも考えなくなくなった瞬間に、そういう人の中に存在する苦悩は跡形も無く消え去ってしてしまうモノです。

でも、「ならば考えなければいい」とは言っても、多くの人はマインド(思考)を自由にコントロール出来ていないですし、そういう訓練もしてません。

思考は自由にコントロール出来るのに、使用ともせずに一生を苦悩と共に生きて死んでいく人と言うのは、空腹なのに目の前の食物を食べようとせず、空腹に苦しんで死んでいく人に似ています。

さて、「この世のほとんどの人はマインドが沈黙することが可能だとは思っていない。可能だとは思わないから、試そうともしない」とOSHO氏は述べてますが「試そうともしない」というよりも、多くの人は、そんな方法がある事すらも知らないのではないでしょうか?

あきれるほどに実に多くのテクニックが存在してますから。例えば、OSHO氏が推薦してますシヴァ神が創始したとされる『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』だけでも112種類もあり、古今東西に伝わるそういった技法は数千から数万種類にも及ぶかもしれない位あります。魔術でもGBG団の月のトランスとか、混沌魔術の「ニーザー・ニーザー」とか、ニューエイジ系のポジティブ・シンキングとか・・・。

ちなみに、私の周囲にも精神科に通っているような人が2桁はいますが何故か富裕層のような人ばかりというのも面白いですね。

さて、思考する際、それを頭の中で言語化する人とビジョン化する人、またはその両方の人など様々います。つまり、嫌な人と会って、「お前なんか死んじまえ~!」と頭の中で喋る人と、その嫌な人がトラックにひかれて死ぬビジョンを思い描く人がいるという訳です。そして、このような言葉や思考、想念の力というのはある意味で危険です。それによって、その人にそれを現実のモノとしてしまう可能性が高くなるからです。

例えば、「私は不幸になりたくない!」といつも思っている人は ”不幸”というチャンネルに合わせて・繋がり生きているのですから、その人はきっと不幸になってしまう率はそれを考えない人よりも高いでしょう・・・。

また、それに関連して以前、オムツのCMで「赤ちゃんの柔らかウンチも・・」というのがありましたが、昼食時や夕食時にそのCMを流していたら「食事中にそんなCMを流すな~!」と苦情が殺到したといいます。なんで ”ウンチ”という単語からウンチを思い描くのかな?そのオムツ会社も「このCMからウンチを思い浮かべて下さい」とは言ってないし、「今貴方が食べているご飯はウンチと思って下さい」とも言ってない訳ですから勝手にウンチを思い浮かべたり、勝手にウンチと食事を同化させたのは、厳密には本人のせいですよね・・・。

勿論、私は決して ”アンチ・マインド”という訳ではないですよ。マインド(思考)が無ければ、このように投稿・記述は出来ないですし、人と喋ることも大好きな本を読む事も出来ないですから・・・。だからマインドは人間や動物に与えられたとても大切なツールであるとも思います。

ただ、一方で、四六時中それに支配され、頭の中でゴチャゴチャとお喋りをし、色々と余計に思い悩むマインド・思考の奴隷は苦悩の人生以外の何物でもないとも思います。何よりも、多くの人々はそれを自分で統制が出来ずに勝手に暴走してしまう事は問題でしょう・・・。勿論、変に能天気になり、明白な危険や課題を無視するのは論外ですが・・・、だからと言って、要らん苦労をする必要はありません。

例えば、この投稿・記述が終われば、私は思考のスイッチをOFFにしてスッキリして、横になれば10秒、早ければ2、3秒で眠りの世界に入る事だって可能です。そういう意味で、少しでも多くの人が思考・マインドの統制/切り替えが出来るようになって欲しいですね。

さて、今回はここまでです。参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より・・・。

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2008年11月29日 (土)

巡礼について

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は聖地の巡礼行や修験道の回峰行などに私は基本的な疑問点がありまして、何故峰々などをめぐって修行の場としなければならなかったのか?という事についての記述です。ある特定の神仏、場所で専修するのでもよい気がしませんか・・・?

ご存知の方も多いと思いますが、有名な修験道の奥駆けなどは峰々を廻り歩く事を第一義的に必要な事にしてますが、史実によれば開祖の役行者は37歳まで待つことなく、肉体の力の横溢した20代から回峯しているのが常識的な手順になるのではないだろうか・・・という気がしますが、事跡を追いますと役行者はそれまでに箕面山、葛木山を主たる修行場としていて、奥駆けなど遠距離への巡礼・回峰行をトライせずにやり始めたのは遅かったようです。しかし、関西の人間の役行者が開いた山は全国にあり、彼は電車も車も飛行機もない時代に何故、あれほど山・聖地を巡礼したのやら・・・?

また、もう少し考慮すべき点がありまして、修験は基本的に名前の通り修行がメインなのですが、大抵の霊的・精神的な修行においてそのステージ/変革がある程度進みますと、修験道に限らずに働いたり托鉢したりして食を入手するという、「日常生活」自体が出来なくなる段階が到来する場合があります。それは、心身の再構成や浄化なども絡むので避けがたいモノのようですが、ただ、この時期はそれ以外は専念出来ない時期と言う事になるのでしょうが・・・、そういう時期には、本当に動くこと自体が難しく山の峯々を縦走しながら、露命をつないでいくことは困難でしょう。最悪の場合は誰か他の人に生活の面倒をみてもらわないとならない時すらありますので・・・。そうした施設があることも条件ですが・・・、そういう意味で実は役行者の20代はそういう時期だったのかも知れませんね・・。

さてまた、ある程度・精妙というのか微細なるモノについての感受性が開くと、この寺社は神気が高いとか、霊的パワーの評価をやる者も出てきます。評論家気取りで・・・、だからといって使い道が無い事が多いのですが・・・。

また、そう言った事に何故か当世は関心が高く多くの記事やブログでは非常に多くのヒーラーと称する人達が、頻繁にそうしたパワー・スポットを訪問しては埒もない感想を述べる中にそういうパワーの評価が入ってます。ただ、往々にして個人の感覚的な感触や簡単な紹介が多く、情報の少なさで私的には不満足な場合も多いですが・・・。

さて、どうもこういう巡礼地=今風に言えばパワー・スポットには種類があり、(空間&)時間によるパワー・スポット、土地の属性的パワー・スポット、そして人間版のパワー・スポットなどと呼べるモノがあります。この内で土地のパワー・スポットというのは、よく修験道や其の他の宗教で聖地・巡礼地とされているところが多いですね。例えば、出羽三山、鳥海山、早池峰山、伊吹山、石鎚山、大峰山系、富士山等々日本全国北から南から、修験の聖地とされている場所です。そうした聖地には人が集まり、巡礼地になるモノです。

さて、この人間版のパワースポットとは、よく歴史書で出てくる覚者とか聖者とか大導師などのことです。彼らは超越的な存在(主とか大日如来など)と出会い、また特殊な修行によりその人としての属性・人格などが変質し、ある主の精妙なるモノや力を帯びる事になる場合があり、その人はいわば「人間版のパワー・スポット・力源」となるようです。そして、この人のパワー・スポットにも往々にしてある種の人が魅かれ集まる場合があります。

(何故か、多くの人(特にある種の同じ性質の人達)を魅了し、好かれる人がいますが、そういう人物は往々にしてこの種の特殊なフェロモン・電波を放出しているとしかいえない訳ですね。本人が好む/好まざるに関わらず・・・・。閑話休題)

そして、たまに、色々な新興宗教遍歴をしている人がいますが、こうした人は、新興宗教の教祖廻りという、いわば人のパワー・スポット廻りをしているようなモノですね。そして、ありがちなのが、パワー・スポットであった教祖が亡くなると、往々にしてそのパワーに集まっていた弟子たちが蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、そして、多くの弟子自体がその師のパワーに依存して修行していた場合が多いので、こういうのは当然の流れという事にもなるでしょうが、彼らはその力や才を失う事がとても多いです・・・。残念な事に・・・orz。

ただ世間では、こういう師や代表者の損失による教団内の権力闘争・地殻変動だけが関心を呼ぶようですが、本当は真面目な求道・修行者にとっては、力と知識と安定の源・基盤たるパワースポットがなくなることの方が死活問題ですよね・・・。

従って人のパワースポットが亡くなると、やむなく聖地や霊地などの大地系のパワースポット巡りを開始したり、他の人のパワー・スポットに移行するという事は、どうもありそうなことです。事実、多いですね。その人(のパワースポット)が生きていれば、そんなことをする必要はなかったのでせずにいて、師の死後に新たなそれの代わりを探す巡礼を始めるという事ですね。

ただ、今の時代は全ての人が、人のパワースポットとなることを期待されている時代ともみえますが・・・、如何せん人のパワースポットは、あまり出てくる/いるとも思えないですし、見つけられるのか、見つけられても弟子入り出来るか、指導を許されるかはその人次第&不明ですよね。

ただ、いずれにせよ修験道などでは、地の聖地・パワースポットを巡るカリキュラムがあるのですが、何故か開祖たる方がやり始めたのは遅く・役行者自身が35歳前後で奥駆けをスタートしたのも、実は無師とされた彼には師匠がいてその方が亡くなったのがその頃でその後に始めたという、そうした事情があったのかもしれないですね。いわいる一つの仮説・思考実験ですが・・・。

さて、今回はここまでです。参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より・・。

さて、今回もまた記事が溜まっておりまして今日から明日にかけて、また大量の記事をアップ・投稿します。お楽しみに・・・。

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2008年11月28日 (金)

聖天・ダキニ天など天部・神祇信仰について

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は聖天・ダキニ天など天部・神祇信仰についてかなり長く書きます。

ちなみに両尊の特徴はこんな感じです。

ダキニ天の特徴・・・今すぐに小金持ちになりたい人向き、水商売向き、金が全て思考で楽天家向き、子供はいらない人向きです。

聖天の特徴・・・・時間はかかるが数年後大金持ちになりたい人、金も家庭円満も全て大事だと思う人向きで、毎日勤行を休みなく続けられる人向きです。

なお、俗に難事・大事(おおごと)なら聖天様、火急のことならダキニ天様と言われますので、そのようにお薦めします。

また、天部の「祈願」(所謂「御利益信仰」)では、いずれの尊にせよ、御利益を得たら布施行・布施三昧を心がける(寺への御礼、周囲の人(友人知人等々)や慈善への布施など)のは必須ですよ。どの尊においても、利益=発菩提心の方便ですからね。 これは、ある意味で最後の処で筋を通し、慈悲を失わない事でもありますね。

また、「聖天信仰してるヤクザって聞かないがダキニ天信仰はよくやってるがなんでかな?」という疑問も一部で聞いた事がありますが、この答えは簡単でして、

聖天様は、人を選びます。道理の通ってない人間とは縁を持ちたがりません。

しかし、一方のダキニ天は、人を選びません。よく祀ってよく捧げる者に利益を与える神様です。(この為、あえて書きますが俗に言う部落などの差別された方々にも慈悲を垂れるので良く信仰されました・・・)この違いは大きいですね。

勿論、両尊共に願意成就がその人の人格向上・社会貢献などに繋がるなら叶うし、その人を堕落させるだけなら、どんな熱心に祈っても叶わない傾向はあります。

例えば、今貴方が願っている願が叶う事によって、社会をより良くする為にどうなっていけるか、まで考えてみたら多分その辺に成就するか否かがわかります。

これはある意味で心願成就の秘訣であるのかもしれませんね・・・。

また、よく聖天信者は我利我利とクソミソに言われますが、本当に我利我利の人は御利益を頂いていないと思います。これは往々にして祈願の作法や信仰に強い厳格さが求められる理由に繋がるので、腑に落ちると思いますが・・・。

また、現世利益を即効的に頂いた結果、自分中心的な世界観に陥ってしまうという危険性があるので、それ故に、信仰の覚悟・厳格さや真剣さは天部・神祇信仰では他の神仏(如来・菩薩・観音・明王部・・・)よりも信仰する際に比べはるかに強く求められるモノであり、仏道と遠い我利我利亡者な人間にならない為に、聖天様やダキニ天様にはより強い信仰・規則の厳守・各神仏への一生の崇敬を迫られます。

ただ単に「ハイリスク・ハイリターン」というのとは、ニュアンスが違うと思います。これは仏様は天部の利益輪身と躰を変え上部へと導くよう悟らせるべく仮に一時的な利益を顕し与えるのであって、それに浸かり甘んずることなく我利我利亡者な人間にならないよう、戒めも必要という解釈ですね。

それが判ってないと、やはり後は続かない傾向が多々あります。

特に大聖歓喜天様は、大日大聖不動尊と共に大聖と付く仏様なのは、他にはいないほどに世俗が思っているような単に祈願者の欲を満たすために願を叶えさすことが本誓ではなく、祈願者の成仏の障碍となる苦痛を取り除き、早く悟らせ、仏道に乗じるために導く仏であると言う事です。それは先に出た”大聖”という尊称にて過去先人より表現せられ讃えられて来たと言う事を理解しとく由縁ですね。

往々にして、聖天様に嫌われたら、後は弥勒菩薩様(救われるのは約50億年後・・・)にすがるしかない、ブービーの信仰と言われる位に慈悲深い方です。

勿論、聖天信仰の目的はあくまで現世利益、どんな高尚な事言っても、お金もなく、地位も低く、孤独だったら話にならない、一昨日おいで、というのが聖天信仰の一面です・・・。しかし、その先が方便としての菩提心喚起だとしても、まず「今・成功すること」。これを前提としない聖天信仰などありえないのですが、注意が要ります。

事実、「愛の神仏」村岡空著の中の、松本実道師の発言にも意味深な注意があります。

『「それから、俗に言う聖天さんが嫉妬深いのも事実で、ご利益が頂けないかといって
ほかの神仏に浮気しますと、必ず罰を受けます。これもよくあるケースですが・・・」
「では、どのような信仰が望ましいのでしょうか」
「結局、信仰というものは一対一の関係が根本なんですから、聖天さんに独力でおすがりするしかありません。寺でのご供養はあくまで補助手段ですから・・・」』と・・・。

また、多くの天部・神祇が清浄を好むので、例えば「穢れ」の件ですが、忌服にせよ、女性の月のモノの件なんかでも、迷信だの差別だの(死者への差別だの、女性蔑視だの)と云われやすいご時世なので、お寺さんや神社などが細々とした事がはっきりと言えなくなっている場合が少なくありません。(現在の物言いが精一杯でしょう・・・)

昨今、大峯の女人禁制が、あえて書きますが一部の糞フェミニストによって蹂躙されようとしていますが、(世界遺産登録に関連してです。しかし、ギリシャのエトナ山はどうなる?多くの尼僧院はどうする・・・)

これなんかも、修験・密門・神道などの皆は苦心していると思いますし・・・。

実際、諸々の修法のタブーを破ると、障碍が出る(精進が悪いと山が荒れる、不浄があると天部・神祇の修法が上手くいかないくなる)事が多々あるから難しいですね。

また、以前コメントなどで出ました神仏の掛け持ち信仰の場合、術者や流儀、行者さん自身の個々人の思想もあるでしょうが・・・。(師伝を厳格に守る人、世相に合わせて「規制緩和」を黙認する人・・) その辺の「ディテール」を聞き出すには、ある程度は親密さが必要になる場合もあるかも知れませんが・・。

結論は「(専門家は)掛け持ちもOK」。 ただし「色々難しいよ」の留保が付くだけです。

例えばある神仏に般若心経と本尊の真言を100回だけの勤行を慌しく2座やるよりも、般若心経・観音経・本尊の真言を300回の勤行を1座やったほうがいいでしょうね。しかし、どちらを選ぶかは、その人次第です。ただし、念入りに豪華かつ真摯に行うほうが良いのは言わずもがななことです。

しかし、天部二尊の掛け持ち信仰を考える人ってどんな事をやっている人だろうとつくづく思います。ただの普通の勤め人はまず無理でしょう。時間的にはとても他の複数の尊なんかわき目をふる余裕なんてありませんよ、各神仏に30分として朝夕に1時間、休日や縁日には準備込みで半日はザラですモノ・・・。

掛け持ち願望者は学生か地方公務員、自由業が多い?と勘繰ってしまいます。勿論、「経に書いてる=万人がやるべき実践徳目ではない」 ということもあるわけですが・・・。

基本は御縁を頂いた仏様を本筋として大事です。

その上で気が散る人は「掛け持ち」はやめたほうがいいし、また失礼になる場合も。同じお寺等に祀られている有縁の仏様を拝むのは差し支えなしですが、「ひとすじに」「一心不乱さ」「純粋さ」も大事ですし、神仏の「本誓」(専門・得意分野)に添った神仏に祈るという事でしょう。

それこそ、知識だけなら普通に流通している大正大蔵経の所収の経典には、小乗系の仏典(四分律とか、雑阿含とか)から、比較的ポピュラーな華厳経、般若経、法華経などの大乗経典、密教経典・儀軌(修法のテキスト)まで、色々ある訳ですが「お経に書いてある=即やっていい」と言う事ではありません。諸宗諸寺での「勤行の慣行や、教理に則って御信心を・・・」 と言う事もあるとは思いますが・・・、往古よりも簡略・中抜きされている場合も多々あります。(これに関連して、特に密教の場合、在家者では「やってはいけない事柄」が多数ありますので難しいですね)

ただ、当節、情報は求めれば幾らでも出てくる訳ですが、あまり細々したタブーを大きな声で云うと「時代遅れの迷妄!」「非科学!」「差別・隠蔽!」とやられてしまう訳ですので、お坊さんなども昔風の越三昧耶戒の通し方(教えない、やらせない)が通じなくなって来ていて、困っている例は多々あります。そのあたりは信者側が心得ないといけませんね。

さて、天部・神祇信仰において観音信仰(観音経や般若心経の朗誦を含む)が絡む場合が多いのは「或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害」の一句により、観音菩薩を念じれば、悪い羅刹や龍神鬼神(所謂、諸天善神でない天部の仏様の喩え)から害されることはない。 よって、害されることはない=守ってくれる=諭してくれる=助けてくれると解釈された経緯があります。 勿論、お経は読む人によって取り方が違いますが・・・。

ちなみに、天部を拝む行者や本職の皆さん的には、この辺の注意は常識レベルのことであって(天部が少なからず気を使う尊格である事など)、事相(実際の修法)の口伝や伝授にあっては必ず云われる事です。

例えば聖天様の賞罰の激しさについては、『覚禅鈔』や『窕誓伝』『寶山和尚行状』などに山と書かれていますから、興味があれば、国会図書館なりで調べてください。

ただ、有名な話で幾つかあげますと、八代目の市川団十郎が、「ブレイクさせて頂けるなら、この命を差し上げます。」と聖天様に願掛けをした故事があります。果たして、彼は異常なまでの人気を得たが、妖刀村正で謎の割腹自殺を遂げた・・・・・。この話は、市川の家の出の市川翆扇女史が。「昭和新版の利生記」の対談で話していましたから市川宗家の家伝として残っている話なんでしょうね。(なお、これ以降、市川宗家では聖天参詣を控えるようになったとか・・・)しかし義理あって借りることになった道中差しの妖刀がいけなかったのか、非常に神経質な人だったとありますからノイローゼだったのか・・・、よくわかりませんが。ちなみに、その後八代目の家は火事で焼け、刀は行方不明。 ただ、対談者は聖天様の障碍ではなく、妖刀の妖気にやられたと主張してましたが・・。

また、確か自殺した川端康成も聖天さまとは無縁じゃなかったですね。こっちは刀じゃなくガス管ですが、川端家の奥さんが聖天信者で川端康成本人は奥さんの聖天信仰を苦々しく思っていたとか。これは川端康成の奥さんが、川端がノーベル賞などを取れるように、鎌倉の某聖天寺院に特別大祈祷をお願いしたのですが、 その念願が叶って、川端は受賞したが、その後謎の自殺。ちなみに自殺した日が、聖天様のご縁日の、1972年4月16日だとか・・。

また、普通に行者や坊さんに訊いた場合、まず他寺他社とトラブルになりそうな事は、常識的に言いませんし(あそこはやめとけ、とか、○○尊は怖いとか)、拝み方の深浅本略についても、「お気持ちの問題ですから」という線で落ち着くのがせいぜいです。(余程親しくならないと、本音・秘訣のようなものは訊けないことが多いです)

また、寺が有縁の複数の諸尊を奉安・祭祀する場合と、個人(俗人)の掛け持ちを同列に論じることは出来ません・・・。大体、本尊(特に如来や菩薩の場合)の利生を顕す、発揚する為に別徳の尊として天部を祀る場合が多いですね。

複数の天部が奉安されている場合、例えば
(1)本尊と関係がある尊(本地仏と諸尊) 例:十一面観音-諸天部、地蔵菩薩-閻魔天や不動明王-諸天部(→五大尊中、軍荼利尊-聖天)
(2)尊同志が有縁の場合で例:夫婦に擬せられる吉祥天-毘沙門天などや 親子に擬せられる大黒天-歓喜天などに支配-被支配の関係の大黒天-荼枳尼天や習合・化身・眷属等の弁才天-宇賀神などに異名同体系の大黒天-毘沙門天-鎮将夜など(3)七福神信仰など、さまざまな民俗信仰の影響(とその残欠) (4)なりゆき(信者がお守りしきれなくなった尊を引き取った)・・・など様々でしょうね。この他、ダキニ天の場合、鎮守社としての奉祭が多いですね。

あと、くどいようですが、天部・神祇は、単独の尊への信心であっても、(真剣に拝む場合)相当の神経と手間暇・費用が掛かります。複数はそういう意味でも色々と相性だの、祀り合わせ云々以前の問題が・・・。

私も、ある時にある神職(当然、神道系の)に、結果的に掛け持ちになってしまった際の便法として、兎に角、他の神仏への祈願を隠さず正直に申し上げて加護を祈りつつ詫びることの可否を聞いたことがありますが、その神職は、とりあえずそれでいいでしょう(正直に、謙虚に、は○)との事。その点では(凡夫の身故、諸天諸尊のお気持ちを推し量ることは困難ですが)何とか大丈夫(御罰が当たるような事態ではない)なのではないかと思います。

ただし、眷属同士がぶつかるので、眷属の名号や真言は唱えない方が良いとの事です。ただ、この事については、行者並びに信者の本尊や眷属に対しての考え方や眷属をどう見るかにより見解が分かれます。眷属を人界の様に個人神と捉えるか、それとも本尊の分霊、本尊の個別の霊的働きの動きの霊としての神霊的固有名称と見るかによります。本来は、本尊の分霊と見て大半の僧は、良いと答えると思いますが・・・。これは、何故かと云うと眷属同士がダメなら僧の唱える作法(行次第)は、全てダメになる可能性が大になるのですからね・・・。されど、心の中で引っかかりがあるなら個人個人素直に本尊に手を合わせれる心の状態で手を合わせると良いと思います。

ただ基本的に、各仏尊・天部・神祇様の御本体・御尊格そのモノのお力が偉大なのは云うまでもない事。こういうのは要は、そのお力に縋る術の問題で・・・。

『祈りが通じる為にはどうしたらいいか?』と言うことですね。

ただ、毎日、給仕してる神社だと神様が力を伝え易いのは事実です。例えば真言にしろ祝詞にしろ1回しか口に出さない人と何十回、何百回と口にする人じゃやはり後者のほうが通じ易いでしょう・・・。神仏とパイプが出来、言霊ということでは何度も口にすると実際力を持つようになりますから・・・。人間社会でも何度も何度も顔を見せる人が誠意を伝えやすいのと同じですね。

さて、今回はここまでです。参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く 起きますように・・・。

皇悠より・・・。

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2008年11月27日 (木)

日蓮宗の祈祷について

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は日蓮宗の祈祷についてです。

まず初めに言いますが、全ての日蓮宗が祈祷を行う訳ではないですよ、勿論。しかし、実に呆れるほどに日蓮宗には夥しい数の分派があり、その中には呪術を重視するようになった流派もあるということです。ただ、題目だけの祈祷もあれば、護符や九字を切るモノまで色々あります。

ただ、元々法華経自体が大乗仏教のあらゆる要素を内包した経典とされ、その中には、ずばり呪文たるダラニを扱った章や、曼荼羅の図を描写したと解釈できる章もあり、祈祷・呪術との親和性が高いのです。

更に、法華経には「法華経崇拝」とも言うべき、お経の霊験を崇拝する伝統があり、法華経を写経したり読受したりする事によって、ご利益があるという信仰です。これは、平安時代の文学作品などからも、はっきりと見て取れますね。

また、日蓮宗の祈祷法は、基本的構成に密教のそれを取り入れ、シンボルを法華経のそれに置き換えた物の感があります。また、日蓮宗は、真言宗を「亡国」の邪宗と批判しながらも呪術・祈祷の基本構造が密教と同じなので、こうしたことからも、こうした祈祷は、しばしば他の日蓮宗の分派からは批判を浴びてます。

しかし、そもそも開祖の日蓮自身が、天台宗・密教系の祈祷や荒行を行い修め、また多くの祈祷による奇跡・霊験の伝説を残しています。また、日蓮自身が加持祈祷を行ったということが伝記に記されているので、勢いその後継も祈祷・呪術の重視をするのも、これは、当然といえば当然かもしれないですね。

なお、日蓮自体は『生死一大事血脈抄』(定五二二頁)に、「釈尊と法華経と我等の三つ差別なしと悟って、南無妙法蓮華経と唱え奉ることを祈祷の根本理念とされている。行浅功深以顕経力とは、修行は浅くとも深大な功徳が顕れるのは経の力によるとの意味。また魔界・仏界・衆生界は本来一如であるから、悪魔魔民と雖も仏法を護る護法善神の一分となることができる。是は十界皆成の法華経の経力によることである」という趣旨で説いています。

また、日蓮宗の具体的な祈祷法は、基本的に「身延山積善房流伝書」と呼ばれる一群の秘伝書に見ることが出来ます。これには、「五段加持之事」、「学師御伝書」、「憲師御伝書」、「憲師御伝書」、「妙符大事」、「大極秘書」、「修法口伝」、「御守護符書」など、多くの本が含まれる技術書です。現代では「日蓮宗の祈祷法」(宮崎秀修 平楽寺書店)という本に詳しく出ていますね。

さて、ともあれ、こうした日蓮宗の加持祈祷を重視する分派は、積善房を中心とする身延山流と、遠寿院・智泉院を中心とする中山流が有名です。特に中山派は鬼子母神を祭って祈祷を行うので、今でもあちこちの寺院で目にします。ただ、一方の身延山流は明治時代に断絶しました。

また、その他にも日蓮系の「拝み屋」の民間呪術を入れると、その数は夥しいものがあります。これは、基本的に、日蓮宗の信仰が個人の信仰心を重視され、密教のような血脈・伝授の正当性をあまり重視しない為です。事実、彼らの祖の日蓮自体に法華行者上の師はいません。そして、日蓮が開祖という訳でもありません。

なお、現代では公的には日蓮宗の祈祷師は大荒行という行を修めた方のみ名乗り行う事を許されています。この行は、毎年11月1日より翌年2月10日までの百日間開催されます。この間は娑婆と霊場を分つ「瑞門」をくぐれば、日に7回の「水行」、4度の「読経」、睡眠時間約2時間半、更に止暇断眠、読経三昧、水行三昧の荒行を2月10日までの百日間過ごす行です。なお、荒行堂は、結界修行である為、その間は完全に世間と一切断絶しなければならなく、また食事は日に2度、朝5時と夕方5時にお粥と味噌汁のみで、質素なものであり、そのため行僧は極限の空腹と睡眠不足になります。このように自分の体、精神ともに極限まで追い込み、行を積む事によって檀信徒を助けられる祈祷力を得られるとされます。また、その行を通して彼らの宗祖の言葉の「法華経の行者の祈りの叶ぬことはあるべからず」を自得し、必ず御利益を受けられることを信じて祈る姿勢を身に付けるそうです。

また、日蓮宗系の祈祷自体が、他の真言宗や天台密教のそれと比べて、教義や理論は難解でなく、何よりも法華経への帰依の心と題目の朗誦が大切なので学び易いのも事実で、いわゆる霊能者を教祖にする小さな新興宗教にも、日蓮系が少なくないのは、この為ですね。

また、基本的にあらゆる神仏を祭れるのも日蓮宗系の祈祷の特色です。ただ、そうは言いつつも日蓮宗系の祈祷では、何故か天部(の特に鬼神)を重視する傾向があります。これは、日蓮自体が主に天部の加持・修法を相伝・祈祷した為ですが・・・。その中でも特に重要なのが、鬼子母神と十羅刹女です。この女神達は、法華経の文中に登場する神であるから、当然ですが、この女神達は「法華経を読誦し、受持する者を守り、災いを取り去り、法華経の行者に危害を加える者を罰する」と具体的に誓っているのですから、頼られるのも当然ですね。また、鬼子母神は子供やお産の守り神として有名ですが、日蓮系の祈祷では恐ろしい憤怒像で表現され、破邪調伏などにも祭祀されてます。

また同様に、法華経に登場する天部の神々は、いずれも崇拝の対象になってます。有名な所で八大龍王、大黒天、帝釈天、四天王、摩利支天などです。

また、日蓮宗の祈祷本尊には神道の神が取り込まれた法華三十番神信仰もありますが、これは、元々天台宗の本地垂迹説から来た考え方で、神道の神々が交代制で法華経の行者を守ると言う思想です。これは法華経の内に神々が法華経の行者を守護すると誓っているので、日本の神々とて例外ではなかろう、と言う事で取り入れられました。ただ、元来が日蓮の学んだ天台宗で五柱の神が交代で守護するとされたのが、日蓮宗系ではこれを複雑化し、三十柱の神々から成る当番制にしました。

また、日蓮感得の七面天女(弁財天もしくは吉祥天、あるいは法華経に登場する龍女?)は身延山の守護神にして女人救済とも大きく関わり重要視され、更には星祭りの妙見菩薩信仰や稲荷信仰すら取り入れられます。正直、日蓮宗の祀る神仏・祈祷対象の神仏の多さ、種類は下手な密教諸派よりバラエティがあります。

ただ、同時にこうした動き・流れは、法華経の教えの純粋さにこだわる、他の日蓮宗の分派から、激しい批判を受けることもしばしばですが・・・。

さて、今回はここまでです。参考になれば、幸いです。
では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より・・。

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2008年11月22日 (土)

真言宗・日本密教における伝授・伝法の資格

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は空海の断り状事件をネタに記述します。

さて、空海と最澄の事を調べますと一つの事件に行き着きます。それは天台宗の祖の最澄が日本における密教の第一人者(多分、当時の東アジア最大級の密教徒)たる空海に理趣釈経(密教の代表的経典の一つ・理趣経の解説書)を借りたいと申し入れたが、空海はこれを断った事実・事件です。これはよく知られてますね。

しかし、これが事実上、日本における密教の分裂、そして後に鎌倉仏教の揺籃の地・天台宗が空海系の密教を断念した事による迷走・多様化の道を開いたのはあまり知られない事です。

さて、この断り状の内容は、空海も最澄も今では押しも押されぬ大宗派の一宗一派の教祖なのであたりさわりのないようにぼかして説明されている事が多いのですがその内容は強烈です。

事実、梅原猛氏の現代語訳した断り状の内容はもかなり生々しいモノです。

『・・・貴方は『理趣釈経』を借りたいと言っていますが、理趣ということは何のことかご存じですか。理趣、すなわち道理に3種があります。耳で聞く理趣、それは言葉です。何よりもあなたの言葉です。貴方はその言葉を貴方自身の中に見いだすはずです。

目で見る理趣、それは物質です。その物質は手近には貴方の身体にあります。貴方はこの理趣を貴方以外に求める必要がありません。

心で思う理趣それはあなたの心です。どうしてよそに求める必要がありましょう。

貴方にはそのことを䏦。近い所に貴方自身の中に理趣がありながら、貴方は別の所に理趣を求めていなさる。貴方は真理を紙の上にのみ見る人のようであります。紙の上より、真理は貴方自身の中にあるのです。

貴方は聖者か凡夫か。聖者なら何も求める必要はありません。凡夫なら仏の教えに従う必要があります。仏の教えに従うならば、誓いを慎む必要があります。誓いを破ったら私も貴方も困るのです。

誓いとは、法は正しい受け手以外には伝えないという事です。正しい受け手は、真言密教の場合、密行の行を修め、その心を大日の心に等しくした人です。貴方は行を修めましたか。あるいは行を修める気があるのですか。

何かが間違っているのです。行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすること。それは本末転倒もはなはだしいものです。

もし本当にあなたが密教の真理を知ろうと思ったら、真の密教僧となり、行を修める支度をしてきなさい。そうしたら喜んで密教を教えましょう。・・・』
(最澄瞑想/梅原猛/佼成出版社から引用)

要するに、最澄は密教の修行はやっていないし、最低限度のその経典についての基本的な事も理解していない。つまり最澄は密教の正しい受け手とは言えない。沙門空海としては、正しい法の受け手ではない最澄に理趣経を伝えるのは破戒となるので出来ないと言う事を懇切丁寧に述べています。

感覚的な低学歴・ヤマンバギャル風にいえば、「はぁーーー、何言ってんの?あんた馬鹿?笑える・・・、もしかしてマジッ!うけるんですけどーーー」という事ですね。

密教徒としての空海から見たら、最澄は不真面目にして横着な密教修行者で、特別な才のない凡夫にすぎない。その凡夫がまして密教を奉じずに天台の教徒のままで学ぶ事は許容出来ないでしょう・・・。

まして、天台の後継者の枠から出て、修行せずに密教の知識だけ欲しがるのは、許せないと感じさせられる激烈な一文ですね。

しかし、こういうさもしい根性(今まで学び・武器にしていたモノを捨てずに、それ以上の両立しない別のモノをも欲しい心・・・)を指摘された当時の国一番の僧侶とされ、天台宗のトップの面目を丸潰れにされた最澄は、その指摘が激烈すぎではありますが、そのものズバリを指摘された為に、終に最澄はこの手紙に反論が出来ずに生涯を終えます。

しかし、空海からの伝授は諦めつつも、密教への関心が消えない最澄は老化による渡航の不可能を鑑みて、弟子に本場の中国から学ばせる手段を取ります。しかし、いくら喧伝しようともその弟子の器は空海以下だった為か不完全or歪な伝授・請来に終わりました。

以後、天台宗は混在化・多様化・整理されないままの並列学習・複合修行の体系になり、(よく天台宗は仏教の総合大学と呼称されますが、つまり学問・信仰として整理されない仏教宗派になり)後に鎌倉仏教という後世の弟子達によるその矛盾の打破、整理化の為に選択された分派を続出させます。

さて、こうした最澄の「まず理屈でそれを知ろう」」とする点は現代人の気風と相似たところがありまして、とても他人事とは思えませんね。この最澄の問題は、現代人全体の問題でもあります。

曰く、「「理屈で納得しないと何も修行をしない」と言う事ですね。」しかし、所詮は先人達の試行錯誤の産物でしかない、行動体系の修行や多くの呪術に信仰・哲理などを如何に突き詰めようと理屈では納得出来ない部分が必ず残るのですよね。

そういう訳で、何故かこの世界には弁や情報は多いのに何も出来ないお間抜けな人が多くいます。自戒の意味も込めて気を付けたいものですね。

さて、今回はここまでです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より・・。

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2008年11月21日 (金)

呪術・祈祷のアイテム・・

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は魔術・祈祷におけるアイテム・ドラックなどについてです。

ただ、こういうのはファッションとも言い切れない面があるのですから、また面倒というか難しいというか、本当に複雑なんですよね・・・(苦笑) 。

よく通信販売とかで魔神とか占星術記号とかオカルト系の絵やサイン(象徴)何かをプリントしたシャツや指輪なんか普通に買えますから・・・ね。

また、「祈祷」や「魔術」にも様々な種類があって、アイテム/道具の存在を前提とした体系・術もまた存在するんですよね。例えば真言宗とか天台宗は法具なしではまず儀式出来ません。また、ニューエイジ系の霊媒体質の人とかがよく宝石や貴石を触って「この石はゾクゾクする感じがする・・・」とか「この石は暖かい感じが・・・する」とか、石から発せられる何かを感じるって話を聞いた事は無い人はまずいないかとも思いますし・・・と言うか私のブログを閲覧している人はそういう話は聞き飽きて再訪されているんでしょうね・・・・多分、違うかな?

さて、そういう波長を発するアイテムをちゃんと人為的にある目的の為に作成するのが「魔術的なアイテム」であり、それは魔術や儀式の目的(使用者の目的・使用者の波長)等で細かくカスタマイズすべきモノであるんですが、言うは易し行なうは難しな事は、容易に想像出来るでしょうか・・・。良く幸運の00とか、開運の××とかありますが本当に個人に的確に効果・影響をもたらすアイテムはその作成自体がかなりのセンスと実力が要ります・・・。

正直に言いますと、私はセンスも創作する才もないので出来ませんし、身につけられませんでした・・・orz。我が魔術の師はプロでしたが・・・、だからそういう人が創作した物は確かに効きます。ただし材料費やそれを効果あるものにする儀式や祈祷はいろいろ大変で時間も金額も掛かりますのも当然で高額&希少な物になります・・・。だから、普通に流通しているモノはまず値段の割りに効かない偽物ばかりですね。

ただ、基本的に祈祷や呪術ではどの体系でもアイテムは補助であり、主では無いので、こういうものに頼る人はそれなりの実力以上の人は見向きをしなくなります。

また、必要無いと思ってる人は多くいまして、使う場合も「結果が望むようになるにはどの方法にしたらいいのか」と考えた上で、出来るだけその方法に直結し易い物を選ぶようなります。似たような効果の物を選んだとしても、直接効果がある物よりいくらか劣るということはすぐに分かるとも思うからか少数精鋭傾向に・・。だからか、直接効果がある物だけを探すため、近くに求める物がなかったら似たような物で済ませないで、随分遠くへ探しに行く事にならないといけない訳で・・・。

その為、場合によっては魔術・祈祷の実践は大金・時間を使うのかもしれないですが・・・。

また、必要なアイテムといえば「自分にあう物」「現在必要な物」位しかない認めない方とかも居られるとも思いますし。だから普通は何もかも揃えて置く必要はなく、その時ごとに揃える人もいます。逆にそれでも沢山揃えている人もいますが・・・。

ただ、そういう人は、今思いつく限りでは2パターンしか判らないんですけどね。
「いざと言う時の応急処置用」or「アイテムのお店をやっている方」事実、場所や資金面でお店でもやっていない限り、何もかも必要&用意、という事の理由がないので・・・。

それに、いざと言う時でも自分の対処法の癖とかがあるので、緊急の時でも意外と自分の固有の行動・同じような行動を取る者なので、基本的にはよく起こる問題に対処できればいいので・・・。

ただ、ファンタジー物の作品などで旅をする魔道士などの彼らはほんの少しのアイテムだけで後は手ぶらですけどね 。まあファンタジーは作り物だけど、作品だって矛盾した物を作るわけには行かないので、仮説の机上の空論と言うやつですね。また、手ぶらで歩けるようにする工夫の仮説」には充分使えるような気がしますし・・・。ただ、全ての道具をイメージ・変性意識で済ますと言う方法論もありますが・・・。流派次第なのでしょうか、どうでしょう・・・?

ただ、事実、シャーマニズム系のイニシエーション・シャーマンの病にも不可欠とされる変性意識状態=Altered States of Consciousnessと、それを惹起するための各種のメソッドについてはですね、やはり「導き手」の存在なしには、どこへ着地するかわからない、大変危険なものだ、という思いがあります。これは個人で行う「瞑想」において「魔界」の認識を持たずにどんどん進めてしまうのと同様の危険性を秘めているのでは?と考えます。

また「ドラック=薬理効果のある全ての物質」で垣間見る異界も、「訓練」で垣間見る異界も、どちらも先達の探求なくしては道標なき未知の世界でしょう。しかし、先人・先達たちがその異界をシンボル化し、体系立ててその細い小道を外れずに辿れば、一応の到達点に到ることが出来るという(あくまで統計的にその確率が高いということだろうけど)手法が各地で確立してあります。

しかし、そうした手法なり導き手なりはまずこれまでもそして、これからも隠されて行くでしょうね(隠されたもの=オカルト、って意味ですし・・・)。多分、これからも隠され続けていくのでしょう、つうか白昼堂々と語ったらよくて変人の烙印押されて社会的抹殺されるか、あるいは組み込まれて一生不自由な生活を送るか、ではないでしょうか?それに、この人を導くのにはセンスが要りますし、未熟な他人を導くより自分でどんどん探求した方が遥かに楽&楽しいのもありますし・・・。

それでも、各時代ごとに変革者たちは「これから時代が変わる。オカルトは開かれた知識となる」と語りガチですが・・・。実際、錬金術なんかは開かれて化学などの萌芽となりました。そう考えると、変革は人知れず訪れてくるものなのでしょうか・・・。気が付いた時にはもうその只中にいるようなーとかねえ・・・、それに薬物使えば大体どんな体験も出来ますし・・・。それに人類の歴史上で最初に神秘的な体験をした人の体験というのと多分同じ位で大した事ない位のモノはできるかとも思いますし・・・。

呪術や祈祷、オカルトの歴史自体が『ある人がその体験を他人に話す。⇒他人はその情報を知り真似してみる。⇒しかし、その人がする神秘体験は最初の人とは少し違う。⇒ 最初の神秘体験の知識があるから似ているが、精神構造が完全に同じではないから近似値になる。そしてその経験が更なる進歩に繋がり技術の改良。⇒ 次の人もそれを踏まえて行うが、これまた似ているが少し違う体験をする。』こういったことが積み重なって、現在のような精神・宗教の呪術・祈祷の世界/巨大な体系が出来上がっていったのでしょう。

ただ、基本的にその人が知ってる事なら大体薬と導き手の指導力と被験者の実力しだいで体験はできます、特にお薬の服用関係と優れた誘導者の力で・・。 事実、世界中で1960から1970年代は近似値の体験をしたひとがゴロゴロいました。 ただ、彼らは体験はしてもそれだけで終わった人がほとんどでしたが・・・。

ただ、かといって、まったく意味がないわけでもなく、多くのサンプルと例外的な専門的な研究者などに意識の中に必要な情報を入力済みの場合にはそれなりに有益な新しい情報が生まれることもありました。そんな感じかな。それと、お薬系で予知系はまず出来ないけど、頭の良い人ならかなり正確な予測は出来るかもしれないですね・・・。

ただ、瞑想でもドラッグでもそうだけど、キリスト教しか知らない人がそれらの方法により仏教の神々の名を知ることは不可能に近いですね。歴史をみれば分かるけども、それが出来た奴・聖人・導師などは存在自体していないですから・・・。

ただ、新しい神の名や姿などを知ることは出来ます。・・・・誰も知らなかった神の名なら、特に。

それと「ラリってるから異世界に行くんだよ」という意見もあります。自分の意識システムのラリる場所、割合等によって体験は異なってくる。例えば、時間に関する概念を司る部分だけがラリれば、時間が前に進んでるんだか後ろに進んでるんだか分からんが、意識自体は正常って体験をする。意識は非常に複雑なんでうまく説明できたとは思えないけど、参考にして頂けたら光栄でございまする結局、多くの体験をしても、異世界の事を人に話す事は無いだろうと思うのです。話したら、単なる電波として扱われて、それでお終いです。

私も、周りの人間にはそんな事を話しません。オカルトにも興味無しといった態度を取っています。だから例え周りの人間で、偶然同じ異世界を感じていたとしても、その情報の共有というのは、まずあり得ないものだろうとも感じ・思うのですよ、個人の内面からくる個人的「異世界」なのか、それとも複数の人間が共通して知覚できる「異世界」なのか。結構核心ですよねそれ。集団催眠?(あなたのリアルはわたしのリアルなのか?という問題です)

ある「道」を習得というか、「専門的な研究者のように、意識の中に必要な情報を入力済みの例」というか、具体例を挙げるなら、仏教を学んで、ある荒行をやると(三千日座禅?)堂の中が三界の仏で満ちているビジョンを、どの僧も必ず視る、という話を聞きますね。

また、別の具体例だと、例えば遊びで向精神薬を服用する際も、その「とぶ方向」をとびなれている人(幻覚を見慣れている人)が語ることで、幻覚に、ある一定の枷というか枠組みを規定し、同じような「異世界」を見させることは出来ます。というかそうしないとバッドドリップの危険性が高まって窓から飛んじゃうし、家から飛び出すし・・・。

3例目は。「チベット死者の書」ですが、いまわの際の、瀕死者(肉体の痛みを抑えるために、ドーバミンが大量に出ているはず)に対し、今その人に見えているはずのもの、知覚しているはずの異世界を耳元で僧が事細かに描写し囁くことで、初めて出会う「異世界」=死に対する恐れを取り払う、というコーマワーク・リアルタイムカウンセリングみたいな手法だと思います。

他の例に、「月光を浴びながら寝ると同じ夢を見る」とか、「夢の中で落ち合う約束」とか、
魔女なら、「いついつの夜には誰それの家の屋根の上で」と約束してから体に膏薬を塗って床に就くと、そこへ飛んでいくという共通体験をする、ということとか、かな?

こういうのは潜在意識ですかね?これを本当に自在に活用出来たら、すでに人間の領域を超えてしまいますよね。時空の束縛、及び死から解放される訳ですから・・・です。いわゆる神秘行を極めた方が出来るようですが、実際のところはよく分りません。

成功哲学のマーフィー、ヒルが言っているのはポジテイブシンキング、そしてこいつをプロシーボレベルまで昇華させる段階。潜在意識というよりは思考のメカニズムに働きかける技術だと思います。

有名なのが、ただのビタミン剤を風邪薬と偽って飲ませると風邪が治癒した実験ですね。また本田宗一郎が創業時毎日朝礼で「必ず世界のホンダになる」と自分や社員に働きかけてついに実現した事例など。自己啓発を目指すならこの辺のレベルで十分ですよね。

もしさらに上の段階を目指すのであれば、仙道、西洋魔術、ヨーガetc・・・神秘行や宗教系の奥義を極めていくしかなく、「難しいですが精進してください。」で終わりです。

完全に自分ひとりでソロ・自己啓発が出来るんなら苦労はないですが、まず無理です・・・な。プラセーボもポジシンも始めの導き手、悪く言えば「だます役」が必要です。

しかし、『 「上の段階」に神秘行ねぇ?』『 いやぁ、この人の言ってる事、味があっていいわぁ(笑)。 』という人は勿論いると思いますが・・・

ただ、私には、目的が当時あったので。その目的の為には、登れない梯子に足をかける訳にはいかなかった訳ですし、だから、ちゃんと登れそうな梯子に足をかけて進みました。ただ、全ての人に、時間は無限にあるという訳ではないのですので、むしろ、時間の少ない人の方が多いのではないでしょうか・・・。目的と選択は不可分ですし・・・。

だからこそそういう意味で進む・辞めるなどは、自分の信じ・望むべき梯子だけを選び進むべきと思いますが、無理な場合も多いですし・・・、単純に「自分が完全に納得出来るだけの理由が欲しい』とか「不安に耐えられず立ちすくみ、時間とチャンスに金の無駄使い」な人も多いですね。

そういうのは判断基準が違う、というだけの事なんでしょうが・・・。人の考え方はそれぞれですが、別にこういう人を批判しているつもりではありません。 別例ですが実際に加持祈祷をなされた僧侶の方は、言うのもおそろしい、ようなことを故司馬遼太郎氏が本に書いていました。詳細はこんな感じだったそうですが・・・

『 司馬さんは新聞社で寺、神社について書く記者をしていたそうです。
それで知り合いになった、僧侶の方に、「祈祷によって雨がふらせられるなんて本当に信じているのか」と尋ねると、突然にぶるぶる震え、「それは聞かないでくれ」といった・・・』とか。

さて、何事も、よい判断には多くの情報や知識、雑学がいるので私はその一助に成ればと、このブログを立ち上げ、投稿していますが・・・、どうでしょうか?今回、色々難しく推論が多く、複雑な問題があるので結論は出しえませんので、今回は此処までです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2008年11月18日 (火)

観音様、法華経観世音菩薩普門品第二十五普or観音経について

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は普段、私達が「観音様」と呼んでいる信仰対象の仏様のお経についてです。なお、正式な名は、「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」(旧訳)あるいは「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」(新訳)と言います。

このお名前の言葉の原梵語(サンスクリット)は、“アバローキテーシュバラ”で、「世の人々の救いを求める苦悶の声(音)を聞くと、直ちに救済する」or「一切諸法を自由自在に観察する」という意味です。また、立場的には事実上の仏教における万能の救済者です。

さて、この観音様の代表的なお経は何よりも『観音経』ですが、このお経は法華経の中の正式には「観世音菩薩普門品第二十五」という一章です。ここでは、 観世音菩薩が私達が人生で遭遇するあらゆる苦難を出来る限り詳しく描写し「その際に、観世音菩薩の偉大なる慈悲の力を信じ、その名前を唱えれば、必ずや観音様がその音を聞いて救ってくれる」と説いています。また、臨済宗での安骨諷経などに用いられています。(なお、今回、この観音経の全文及び現代語訳をあげますと,とても長大な為にカットします・・・すみません。orz.)

さて、同じ観音様と深い繋がりがあり、多分日本で一番知られています般若心経が哲学的・抽象的そして修行とその成就を記述するのに対して、観音経は具体的・現世利益的・そして名を呼ぶ事だけで救われるという安直な描写が「全く同じ神仏の関わる内容か?」とそのアプローチの方法から何からも異なる為に、極端なお経です。

また、このお経は私にとって不思議なお経です。何故ならば同じ法華経の中で異色の部類に感じるお経だからです。以下に例をあげます。

『・・・西方の補陀落浄土から娑婆世界にやってきた観世音菩薩が、三十三身を現じて衆生を利益する事が説かれます。特に観世音の名号を称えることによって、諸の苦難から救われると説かれていることから、本品は「観音経」とも称され、独自な信仰を生み出していきました。 (大法輪 早わかり「法華経」ニ十八品より) 

『 ・・・弥勒菩薩を始めとする大衆の父少子老の疑いに対し、釈尊は自身が久遠の過去の世からすでに成道している仏(久遠成道の仏)であることを明かされます。本品の説法に臨み、釈尊は「如来の真実の言葉を信解しなさい」と三回くり返され、重要な法門を説示するに当たり聴聞者の心得を促されました。弥勒菩薩を始めとする大衆の三度にわたる懇請に答えて、釈尊は、五百億塵点劫に譬えて、自身の久遠過去世における成道を明かし、「三世(過去世・現在世・未来世)にわたって常にこの世に在り、種々の姿を現じて人々を導き続けている」と説かれました。この事を釈尊は「良医治子(ロウイチシ)の譬え」をもって、「仏の入滅は衆生を救う為の方便であり、真実には生まれる事も滅する事も無い永遠仏として、仏は常に衆生と共に在る」と説かれました。続いて詩文では、「この娑婆世界は仏の浄土であり,仏は毎(ツネ)に衆生を速やかに成仏させたいと願っている」と説かれています。詩文は「自我得仏来」の文で始まることから「自我偈」と称されています。
 本品は法華経の重要な教えを説くもので、二十八品の中心に位置づけられます。特に自我偈は法華経信仰者が常に読誦するもっとも大切な経文です。(大法輪 早わかり「法華経」ニ十八品より) 』

さて、上記の二つの『 』の中の文章は同じく人々を救済し導き助ける者を説きながらも片方を観音様をもう片方を釈尊を立てています。しかし、これらは同じ種類のお経ー法華経とされています・・・。私はこれはどういう事か判りません・・・、どちらに頼るべきでしょうか?

しかし、法華経の観世音菩薩普門品は、他の法華経の中でも何故か特に評価が高いモノです。同じ法華経でも、方便品などは、聴衆を菩薩(少なくとも小さな悟り・見性体験のある人)だけに絞って、言わば人払い・選別をした後に、エリートだけに向けてお釈迦様が説いた説ですが、観世音菩薩普門品は、8万4千人のマス(大衆)向けに説かれたモノであるからでしょうか・・・。

これはまた、それなりに知れれた禅僧の朝比奈氏『朝比奈 宗泉(あさひな・そうせん) 昭和25年、早稲田大学政経学部卒業。翌年TBS(現)入社。「兼高かおる世界の旅」などのプロデューサーを経て、1979年仏門へ。以降、浄智寺(臨済宗円覚寺派・鎌倉五山の第四位)住職などを経る。著書に「今日、一途に―鎌倉名刹・浄智寺、老僧の独白譚」(実業之日本社)。父の宗源(そうげん)は元円覚寺管長 』によれば、『・・・観世音菩薩を念じれば、なんでも叶い、また氏によれば観音経は、今から2500年前、お釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法されたのが「法華経(ほけきょう)」、つまり「妙法蓮華経」(みょうほうれんげきょう)だそうで、8巻28品に分かれ、「観音経」はその中の25番目であり、中でもこの普門品第二十五は禅宗、日蓮宗、真言宗などでも宗派を越えて読まれているとの事で、・・・その人気の秘密は困った時、苦しい時に、「観音様、お助け下さい」とお願いすると、観音様はその思いを聴いてお救いくださると説かれているからではないか、・・・』と論じておられる事からも明らかです。

さて、確かにこの経の中には南無観世音菩薩と唱えれば、三毒(貪(欲張り)・瞋(我による怒り)・痴(目先の愚かさ))、四苦(生・老・病・死)、七難(火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・盗難)を滅し、さらには願う通りの子を得る事などが出来ると記述されていますが・・・。

しかし、こんな拝み&御蔭信仰じゃ、それ以前の序品から説かれていた法華経や他のお経は、「何だったのか?」と言う事になります・・・orz。この経の中の念波観音力(観音様の慈悲の力)は、確かにこの観音様のとてつもない救済を書かれています。しかし、下手に考えますと修行も他のお経も要らずにこのお経だけで良い・救われるという考えすら行きかねません。

しかし、実は「無尽意菩薩という方が偉大な救済力(観音力)をもつ観世音菩薩を供養しようとして、瓔珞(首飾り)をさしあげましたが、しかし、受けとっても、首にかけず、それを2つにして、釈尊と多宝如来に捧げ。これは、偉大な救済力である観音力の元は、真理を教えられた釈尊と、その真理を証明された多宝如来の御蔭であるということの表明しているので大丈夫そうですが・・・。ただ、救いの本質は、「ある外側の力によって目の前の苦難から逃れる事ではなく、久遠実成の本仏の御心に沿い行い、そこに周囲との調和が生まれ、皆が救われる事にある。」という大乗仏教の論理がこの経にはあまりありません。

また、「観世音菩薩普門品の観世音とは、世の人々の声(音)を見(観)分けることで、菩薩とは、手本として仰ぐべき方で、普門とは、相手に応じていろいろ姿(三十六身)を変えて、平等に真理の門に引き入れる事」という意味もあります。

「ただ、観世音菩薩を念じれば、なんでも叶う・・・」ではなく、真に観世音菩薩を念じるとは、慈悲をもって苦しみあえぐ人の声(世音)を感知し聞き入れ(観)、観世音菩薩のようになりましょうという説も存在してます。

ちなみに観世音菩薩の化身は三十六身あるとされ、(なお、妙音菩薩という方は三十四身でしたが、観世音菩薩は三十六身で自由自在に法を説きます。実はこの数はあまり意味がなくて、兎に角も色々な人を救う為に身を現じて法を説く、ということでしょう・・)具体的には以下の通りです。

『 01.仏身/ 02.辟支仏/ 03.声聞/ 04.梵王/ 05.帝釈/ 06.自在天/ 07.大自在天/ 08.天大将軍/ 09毘沙門天/ 10.転輪聖王/ 11.小王/ 12.長者/ 13.居士/ 14.宰官/ 15.婆羅門/ 16.比丘/ 17.比丘尼/ 18.優婆寒/ 19.優婆夷/ 20.長者の婦女/ 21.居士の婦女/ 22.宰官の婦女/ 23.婆羅門の婦女/ 24.童男/ 25.童女/ 26.天/ 27.龍/ 28.夜叉/ 29.乾闥婆/ 30.阿修羅/ 31.迦楼羅/ 32.緊那羅/ 33.摩羅伽/ 34.人/ 35.非人/ 36.執金剛神 』

ほとんど、この経が感得・設立した時代・当時に考えられるあらゆる存在を描写しています。

また、何度の書きますが「この観世音菩薩普門品では、決して疑うことなく、一心に観世音菩薩の名を連呼すれば、どんな強烈なピンチ・問題に直面する事になっても、直ちにレスキューしてくれる」事を強く具体的に約束しています。

そして、この観音経・観世音菩薩の救済の鍵は、「まず自分が苦難/危急の渦中にある」という事です。つまりは、恐怖のどん底に突き落とされた時や、例え様も無い恐ろしい生死の境/危機にある場合です。そんなシチュエーション・状況にあって、観世音菩薩を名を呼ぶと、あらゆる形で不安や恐怖を取り除き(施無畏)、救済されるとされています。

しかし、私は思います。「そんな状態にならないように常に、とはいかなくても要所要所で守り、導き、支えてくれる方を信じ頼り、繋がりを持つべきではないか?」や「そのような状況に陥らない方法を学び、心がけ、行うべきではないか?」と・・・。

勿論、よく言う火事場の馬鹿力ではないですが、自己の崩壊・生死の境の根本的なエマージェンシーコールの時でならば日常の色々な余計な必要、願望が振り落とされて、剥ぎ取られ研ぎ澄まされた本質的な願い・意志となりそれは奇跡を呼ぶだろうとも思いますし、そういう経験もあります。また、そのような時に初めて生まれる願望はとても強く純粋で、だからこそ観音様もそれを汲み取り救済して頂けるとも思います。

ただ、逆に換言すれば、毎度毎度の日常のあやふやな雑念一杯の時にお呼びしても、応じてはくれないだろうとも私は思います。

また、ある人の願いがある一定の深さ・強さを持っていれば、願った瞬間に叶う事があるモノだとも思います。

ただ、この観世音菩薩普門品の最後の部分で、質問者が、その慈悲を讃える詩句を連らねていますが、こういう力・慈悲は、現実ないし精神の崩壊の危機にあって奇跡的に救済された体験がないと本当に実感出来無いモノだと思います。従って、日常で観世音菩薩に何でも願えば叶うみたいな解釈は誤解だと思います。

また、ほとんどの人の日常の願いは観音経に出てくる場合とは異なりますし、何よりもこの経に出てくる救済の必要性がある状況は、ほとんどがまず命がかかり、生活が脅かされるようなモノでは、ありませんか・・・。

また、そういう意味で「予防は治療にまさる」ではないですが、観音経に出てくるような状況にならない事やそのような状況で観音様に頼らないですむ事、そこまでいかずに助けて頂ける神仏の加護がある方が尊いように私は思います。どうでしょうか・・・?偏見・浅い理解だとは思いますが・・・?

さて、今回はここまでです。参考に為れば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠拝。

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2008年11月13日 (木)

金剛法輪(輪宝)と灌頂など

何時も御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、皆様は「おん ばざら たまく かん」というモノを知ってますか?これは金剛法輪(輪宝)の真言で既出の大金剛輪陀羅尼と意味合いはよく似ております真言です。輪宝は転輪聖王(てんりんじょうおう)という方の武器で王には向かうものは悉く粉砕してしまう性質があります。そのことから魔除けの効力があるとされますね。

さて、日本仏教ではこのような真言を使用するのには免許・灌頂がいるとされます。特に密門ではこれを大変重要視し各種の段階に分けています。

さて、この密教では灌頂には五種類あり、第一が曼荼羅供作法、第二が結縁灌頂、第三が受明灌頂(これが別名許可灌頂)、第四が伝法灌頂、第五が以心灌頂になります。

普通は在家の方が受ける事が出来るのがまず結縁灌頂までで、弘法大師も多くの方に曼荼羅の諸尊との仏縁を結んでいます。ちなみに結縁灌頂は幾らでも基本的に受けれます。例えばある神仏の供養法・一尊法を学ぶのも結縁灌頂になります。また、第三の受明灌頂が仏弟子が受ける灌頂でまたの名を学法灌頂とも言います。そして、第四の伝法灌頂が基本的に真言宗(密教)の僧侶が真言法相承の師位を得る灌頂です。いわゆる四度加行の後に僧侶の受ける灌頂はこの灌頂のことです。第五の以心灌頂が別名秘密灌頂で得瑜伽の阿闍梨が器量のすぐれる受者に行うモノですが、残念ながら日本の多くの宗派では現在行われていません。

さて、普通の真言・天台宗の僧侶の方がまず一人前に成るのに四つも灌頂を受けなければ成らないのですが? 素人考えですが、修行期間もお金も一人前の僧侶に成るのには、ずいぶん懸かりそうですね…。しかし、現在の四度加行後の伝法灌頂では四つを一纏めに行う事もあるので大丈夫なようですね。

ちなみに投華得佛で御縁を結んだ後、金胎の秘印と真言と大日如来からなる血脈を授かります。これ以上詳しいことは言えないんですが…。ただ、昔に比べ、修行期間が短縮された現在でも得度、四度加行、灌頂まで授かるのは大体は二年越しですね。

また、東密(真言宗)では大体はどの派でも江戸時代初め頃から灌頂での投華得仏は大日如来と縁を結ぶ事になっているんですよね。これは寺の息子や大事な後継者に縁を結べない者がいないようにとの配慮かららしいですが・・・・汗、(弘法大師の故事によるところもあるのでしょうが)高野山だと投華のあと、ガサガサ音がして華の位置を直しているようだとの一部情報を聞き及んでいましたが・・・(笑)。

ちなみに叡山(天台宗山門派)の在家の結縁灌頂の敷曼陀羅は、簡略化してありますね。さて、東密・台密共にこれらの便法は、曼荼羅に落ちないなどの事態を避けるための措置なんでしょうが・・・。実際、昔は夜叉鬼神の類を得佛してしまった場合に縁なし?とされたとも聞きますし・・・(これはうろ覚えで不確実です。すみません)

また、結縁灌頂のことですが台密(天台宗系)ではきちんと投華の尊と結縁する場合もあるそうですね。

やっぱりそうでなくっちゃいけません!そのような灌頂をやってくれるのだったら、私は喜んで参加するんですけどね。

でも、実際問題、もしそれをやるとするならば、投華の花を確認する役の僧はかなり曼荼羅に詳しくなくてはなりません。即座に「この尊は誰それだ。」って言えなきゃなりませんからね。それに、チャンスはあまりないのであまりに格下すぎたり師より上の尊格だったりした際は伝法・伝授出来ても指導面で出来るのかなど色々難しいものです。

さて、普通は未灌頂といえば、伝法灌頂を受けていない人のことを言います。つまり伝法灌頂は加行を済ませておかなくては受ける事が出来ません。で、その加行では、(真言)密教の基本的な修法の伝授を受けます。

前回書きました大金剛輪の真言というのは、実は読経の中で読誦することもありますが、その多くは修法の中で用いられます。つまり、修法というのは、在家が行えるものもないことはないですのが、その多くは加行中に特訓(?)するものがベースになっています。と言う訳で、未灌頂の人が大金剛輪の真言を唱える状況に遭遇することはまずない、という論もあります。前回、書いていてなんですが・・・。

そして、在家のお経に大金剛輪の真言が掲載されている事もありますが、高野山真言宗から発行されている『在家勤行次第』には入っていません。

また、在家が大金剛輪を唱えてはいけないと言う事を聞いた事はありませんので、唱えてもかまわないとは思いますが、ある方に聞いたところでは加行の伝授を受けた時に、「大金剛輪は間違えない様に慎重に、回数も誤らないように、」と念を押されたという話を聞いた記憶があるので、よっぽどの必要性がないのであれば、無理に唱えなくてもよいのじゃないかなあ、というのが私の個人的意見ですが気もします。

勿論、越三昧耶(資格がないのに修法・説法などをすること)の罪を恐れる必要のない人には仏罰も及ばないでしょうが・・・。越三昧耶の罪を恐れるのであれば、やはり加行・灌頂を済ましておくべきでしょう。

また、クソ坊主であろうがなんであろうが、越三昧耶の罪を恐れる者でも、已灌頂者はその罪科をいちおう回避したと言う事になるのですから大丈夫でしょうね。そして、越三昧耶の罪を恐れる者でありながら未灌頂のままで修法を行うというのであれば その人は堕獄の結果が身にふりかかるのを覚悟でやらなくてはならんでしょうね。そう、経典に書いてありますからね・・・。

まあ、私のような仏教徒ではない存在には関係のない話ですが・・・。

さて、今回はここまでです。それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠、拝礼。
 

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2008年11月10日 (月)

神道の基礎条件としての尊王思想

何時も、御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。前回のブログは見ずらいという事で少しブログを変えてみました。今回は月にウサギです。この組み合わせは陰陽道は安部清明の金烏玉兎集の玉兎(月に住むという兎→陰陽道のうち陰・影の性質を象徴しています。)を個人的に思い浮かびますね。

さて、今回は神道・古神道において、何故かあまり語られない尊王思想と(古)神道についての関係について、記述します。

そして、何故明治時代に皇統系の国家神道というものが全国の神社・神職に許容され、戦後、国家神道が事実上崩壊しながらも未だに多くの神社で天皇崇拝や伊勢神宮への敬意があるのか書きます。

あと、これは大変重要なことですが、現代風に明治以降に大成した今の神社神道においては、
『 尊皇 』ということは、よく政治的な思想と混同されやすいのですが、政治的立場や道義的立場とは違い本当に重要ですよ・・・。

まず、神道の聖典、古事記に「我御世之事、能許曾【此二字以音】神習。又宇都志岐青人草習乎、不償其物。」とあり、因果についても「請天神之命。爾天神之命以。布斗麻迩爾【上。此五字以音】ト相而詔之。因女先言而不良。亦還降改言」とあり、要するに神道の原則として神の命令に従うことが善因・最重要となるのです。

さらに神籬磐境の神勅(『日本書紀』巻二の一書)に「吾は則ち天津神籬及天津磐境を起樹、まさに吾孫の為に斎ひ奉らむ。」また、「汝天児屋命・太玉命、宜しく天津神籬を持て、葦原中国に降りて、また吾孫の為に斎ひ奉れ。」とあるように、『 天皇陛下を中心に陛下の為にも樹や石などを使い大神達を祭ること 』こそが神勅を厳守することなので、これが神道における祭祀の古伝上の本義・由来の一つです。

また、人の生き方としては各々の人が神様の使いとして自分の使命を果たし、人事を尽くし、天壤無窮の皇運を扶翼し奉る事自体が神の命令である天壌無窮の神勅に従うことでもあるとしています。この敬神尊皇の信仰に神が感応する事により国が守護され、更に善を成したこととなり、これが根本的な善因となり個々に善果を得ることに繋がるという事が出来るという図式です。少し難しい図式ですが・・・。

つまり、普通に神道をする場合、古事記・日本書記を重視する限りは、尊王思想は必ず関わります。事実、例えば大祓いの祝詞にも「我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安国と平らけく知ろし食せ・・・」と天照大御神の「私の孫よ日本を平定し治めなさい」という意味の命令が普通に挿入して出ていますからね・・・。この言葉は天照大神から見れば国の平和を維持し得る資格は天皇陛下にしかないという意味にも取れますしね・・・。

「怖ぇーーーーー。しかも従わないとまた岩隠れされるかも・・、いやそれ以前に祟られるか!」とギャグはここまでにして、神道を学べば学ぶほど、神々への畏敬の心と共に天皇家の正当性や敬意が刷り込まれていきます。だから、右翼の人は日本人の伝統的&歴史上の覇権的宗派は仏教でありながらも神道を信じます。まあ、仏教は伝来してきた宗教でもあるのもそうですが・・・。

逆に言えば、伊勢信仰つまり、天照大御神への崇敬の念があって天皇家や皇統に対して敬意がない神道家というのは珍しいですね。そういう意味で今の多くのニューエイジ・スピ系の人は歪んでます。天照大神や伊勢神宮を結構好きな人が多いですし、高評価の記述を見かけますが、天皇崇拝や皇統信仰を忌避・無視していますから・・・。その代表的なのが伊勢ー白山道のリーマン氏。

まあ、勿論、「天照大神、何それ?ワシの神さんは御稲荷様ですよ!」の私のような稲荷信仰者や「大国主命様が元来この国の創始者・主ですが・・・」の出雲信仰系の人はそういう刷り込みはありえませんし、つうか第一伊勢信仰ではないですから尊王思想に繋がりにくいモノですし、自分の神様を定めきった神道家はそういうことはありえませんね。

また、だからでしょうね、出雲大社や伏見稲荷大社などは基本的ベースに伊勢神道・天皇崇拝がある神社本庁から友好関係を持ちながらも傘下にいないのは・・・。

ただ、また岩戸隠れされてはたまらんので天照大御神様と天皇陛下への敬意は、勿論それなりに私にもあります。

ただ、単に「何んとなく神道好き!」「神社って気持ちいいよね。」「神社でヒーリング、パワースポットだから参拝してます」なんていう人・ほとんどの参拝者がそうですが、そういう人はどうなんでしょうね・・・。多くの神様、神社では基本的に「天照大御神は大変畏敬すべき信じ仰がなければならないありがたいお方」で「天皇陛下は大事な方です」と考えていますが、そんな気持ちが薄い参拝者に験や加護を与えるのでしょうか?

さて、今回はここまでです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

追伸、本日も興に乗ったので幾つか本日中にアップしますね。

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2008年11月 8日 (土)

掛け持ち信仰 天部・稲荷信仰をもとに現世利益

何時もご覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は掛け持ち信仰、特にお稲荷様とその他の神仏について書きます。

自分で言いますが大作にして、労作です。時間がない人はスルーしてください。

では、初めに私の好きな説話集などから例を引きますと「古今著聞集」に稲荷大明神が自分に信心して出世した男が賀茂社にも参詣したので怒った稲荷大明神が賀茂社の御利益をうち消してしまわれた話がありました。また、別の話では稲荷に参詣した男が夢の中で稲荷大明神に「ごめん、あの出世の願い日吉の横槍で無しになったから。じゃ。」と言われたという話があります。

またお稲荷様とは関係ないですが神仏同士で信者の代表として競うという話もあります。例えば、「平家物語」には平家の味方をした厳島大明神が藤原氏の伝統的な氏神の春日大明神や源氏の守護神八幡神に会議の席から追い出されるという話がありました。この会議は今後の日本の政権を何処の家が担うかで氏神同士が利権争いをし、結局「藤原氏の政権復帰」を望んだ春日大明神の願いは届かず、武家の世の中になるというオチがつきました。因みに平家の祭り上げた・御旗の安徳天皇は八又の大蛇か厳島大明神の化身と言われています。

さて、験・現世利益を求め信仰を考え祀る神仏を調べますと、「聖天様かダキニ天様。または両方を」と考える人が結構います。これは、お二方共に昔の表現ですが、今で言う大統領・総理大臣などにあたるの権力者や億万長者、大会社の社長などを意味する「王にする」とか、「帝・長者にする力がある」とされるからでしょうか・・・。

ただ、片方だけをお祀りするにしても毎朝一日も欠かさず朝七時位(ある流儀では夜明け前)までには身支度を調えてお世話・お勤め申し上げるくらいは必須です。普通・神道などでは天照大神を先にお世話申し上げるのが普通ですが、聖天様とダキニ天様を両方祀るならどちらを先にお世話申し上げるおつもりでしょうか?どちらも天照大神以外の後にするような無礼はお許しになりませんし・・。天照大神より早く朝の祀りをすべきという説もあります・・。また、お二方共に神仏の中で特別に作法などが厳しい神様であることすらご存じないのなら、生兵法は失礼ですから御止めになることですね。

ちなみに、このような荒い神様をお祀りするなら、お経(簡単で汎用性があるのは般若心経と法華経)を上げることを特によく心がける必要があります。 お経は神様のお心をやわらげます ので・・・。

勿論、前の晩が忘年会だろうと、午前様だろうと、徹夜だろうとそんなことは手抜きの理由に出来ないです。また、二日酔いの酒臭い息をかけるようなことは論外。お二人を御祀りするのは厳しいというはそういう事です。特に聖天様は清浄さをすごく尊ぶので掃除や潔斎にすごく気を使います。

また、よく惚けた人が『 日本は「天津神 国津神 八百萬神」を崇拝するお国柄だから、「掛け持ち信仰」もありなんじゃないの・・・。大体、神仏習合なんていう、「離れ業」を長いことやって来たんだから・・・・。 』と言う方もいますが、それは少し物を知らなさ過ぎな考えです。基本的に神仏習合論や神仏両方を祭祀する者は伝統的には禁酒・菜食・独身・不犯の僧侶・行者が考え出し、行うものです。

それに、私自身、神仏習合系の妖術師ですが、普段信仰しているのはお稲荷様だけです。それ以外は基本的には各回ごとに祭壇なり、儀式なりで十分に準備してお呼びして祈願する方式でやっています。

しかも、後先も省みず、やたらにあちこちから勧請したりお札で祀り信仰する人は、自分の頭の中が整理されてないって事ではないでしょうか?だから、それを戒める意味で「あまり掛け持ちで多くの信仰をするのは良くない」と古くから言われて来ています。

ようするに、ある意味で何かを成すのはあくまで「自分(=人間)」であって、その精神的支柱として信仰があるわけで…。 もっとも精神というか気というか、そういう内面の力は想像以上に凄くて、人生を左右するほどの影響力を持ってます。だから、神仏とかそういう類の存在は、人間の外側ではなく、内側にあると考えれば、自ずから答えは出るんじゃないでしょうか・・・。

また、欲張って沢山の神仏の守護を受けようと掛け持ち信仰するのはいいが 浅く広くと深く狭くでは深く狭く信仰する方が守護の力も全然強力でしょう。例えば武術で空手、合気道、剣道、柔道、居合い道、杖道が各初段(子供でも取れるちょっと出来るレベル)で合わせて六段の人より空手だけだが一つを鍛え上げた六段の人なら普通空手だけの人のほうが強いのと同じです。

それに、どんなに時間を切り詰めても日々の供養・祀りを毎朝毎晩、最低一人の神様につき20分は掛かるでしょう。 だから朝晩それぞれお勤めの為の時間が1時間(朝夕で計2時間)取れるなら 3人の神様を祀る事は可能になるが・・・。でも、20分というのは坊さんや神主などの慣れていてそれなりに作法や祈祷に通じる人並みの早業で20分。のんびり屋は一体1時間半以上は掛かる場合もよくある話です。だからといって自分が出来る範囲でやることとか妥協するいうのはある意味で「私は手抜きをします、いい加減にやります」と神仏に宣言する訳なので、それでも祀る神仏が許してくれるか、そんなやり方で加護・験を期待して良いものか、普通に考えれば無作法にやるわけですから罰を喰らわすと思いますが・・・。

また、正式に1時間半かかる人は3体祀れば朝だけで4時間半掛かることになります。 夕方もあるんだから計9時間ってことになっちまうよね。それでもいいならいいが・・・。普通に考えて無理っしょ!まずは一体祀って30分ぐらいでお勤めできるようになってからもう一体増やす方が正解ですよ。そのやり方ならおろそかにして罰が当たることもあるまいでしょうし・・・。

あと、ただ、念仏だけでいいと考えられてます浄土信仰は間違ってはいないけど前提条件として 「如来に対して絶対的な確実の信(信心)」が必要なはずなんですけど、何故か日本の浄土系宗派はそこをちゃんと説明していないことが多いですよね。極端な話、通り魔に惨殺される運命でも「自分は阿弥陀様の極楽に行けるから嬉しいです。どうぞ来て下さい、待ってます」位は安心して答える位じゃないと・・・。 

また、物には順序というものがありますよね。だから、現代の神道のやり方で御祀りするなら、まず天照大神と自分に縁のある産土・鎮守の神社の神様を怠りなくお祀りしていることが出来て当然・必要です。仏様なら菩提寺の作法を日々お勤めした上で・・・。

それに、酔っ払いに絡まれたりした時などに、「誰でもいいから誰か助けて!」だと「自分以外の誰か他のやつが助けるだろう」と結局はそれを見ていた周囲の人は誰も助けないまま放置するという研究結果がありますが、逆にすぐ側にいる一人に「お願いです、そこの00を着た××さん、どうか助けてください」と具体的に指定して頼むと仲裁に入ったりしてくれる確率がぐっとあがるという研究結果があります。案外、神様もそういう所があるのではないでしょうか・・・。色々な祈願者を見ていますとそう思います。

また、お願いする側が「誰でも・何でもいいから助けて!」と言うのはそれを聞く神仏側から見たらある意味で大変に失礼極まりない態度で(誰でもいいってことはその神仏でなくてもいいって事で)祈願するよりは、ある神様にその神様の得意な分野に本心からすがり、きちんと作法通りに祈願し、お礼も約束しての祭祀を行なうと言うのが良いんじゃないでしょうか・・・。

あと仏教の天部の方は、仏さんじゃないですよ。仏教に帰依している天尊=外国の神様です。だから、普通の仏様・諸尊と同格に扱う事は出来ません。しかしも王侯を招くようにとか、貴人に接するようにしなければならないとか伝えられ・されています。掛け持ちがいけないというのは、それだけ多くの貴人・お偉いさんに対して礼を尽くせるかどうか?若しくは、自分でやらないのならそれだけの財・時間・人を用意出来るのか?ということです。多分、どちらも普通は無理ですよね。それに、多くの貴人に出来るならそれを一人にした方がより効果的では・・・、と言う考えもありますよね。

勿論、掛け持ち信仰がいけないんじゃないですよ。「人間同士ならわかるが神様は寛大で人間が出来てるんだろ・・・」と言う人もいると思いますが・・・。
根本的にここも違います。まず天部は、神でない。天部とは、簡単に言うなら人間より神通力のある精霊的な種族で仏教に帰依して修行している精霊・鬼神であります。故に天部は、人と同じ様に業もあるし寿命もあり、さらに信仰者に対しての好き嫌いがあるし、怒りもするし、自己のその業に苦しむ姿の一面も持ちます。そこの所を理解し掛け持ち信仰をするなら可能ですけど・・・。けれど、その際は貴人・お偉いさんに対して礼を尽くす注意が必要で・・・。

だから、自分が少なくとも戒律を最低レベルで全て守る僧侶と同じような生き方してれば、天部の掛け持ち信仰もOKでしょうが・・・。ただ、女も酒もその他のことも一般の庶民のような強欲そのものでやってると必ず痛い目に遭います。祀る資格がないのに、御祀りしていますから相手の顔に意識して泥を念入りに塗ると言うことですから、仕返しされて当然ですね。(この辺の事は今東光氏の毒舌日本史などに出ています。) 

また、神道系の大多神教の吉田神道で有名な吉田神社で私が聞いてみましたところ、神道の神様はいくら掛け持ち信仰しても祟られないそうです。ただ、難しいのは仏教系の神様で、仏教の特に天部に属する神様同士を祀るのは絶対にダメだそうです。厨子や神棚を別にしてもダメで。でも天部と菩薩とか天部と如来の組みさわせなら可能との事でした。また、明王は大変だけどしっかり勤行すれば在家も問題はないのではとのこと。

ちなみに神道の神様は、掛け持ちして沢山の神を崇めれば崇めるほど、多くの神が自分の守護神となってくれるますし、相乗効果もあってそれぞれの力も増すので、味方につける神の数は多ければ多いほどいいですね。そこが仏教と神道の大きな違いなのでしょうね。ただ法文・祝詞・祭文を毎日幾つも読むのは不可能に近いので複数の神の力を得ようというのはあまり現実的ではないです。

だから昔のいざなぎ流祈祷師なんかはもっとも強力な神・式王子が語られてるとされている大土公祭文や天神の祭文とかに絞ってよく読んでいたんですよ。これらの神様・式王子は暴力的で荒々しい性格の持ち主ではあるけども、いったん味方につけてしまえばその一神だけでも、この上なく心強い存在となりうるからです。

また、個人的には色々願を聞き入れてくれる神仏は、性格が温和より荒々しく暴力的で強い神様の方がお勧めですね。祀るのは大変ですけれども、ご利益も確実。

また、天部の方を複数(諸天を複数といわれましたが)祀ることについて、在家では絶対やらない方がいいとある真言宗系の祈祷僧から聞いた覚えがあります。氏は確か豊山派でしたが・・・。それは、お寺ではそれなりに在家では絶対にやらないような修法をしてるから大丈夫なわけで、在家ではそういう予防策・補完がされないから駄目だそうです。 素人がリスクの高い諸天を個人解釈であれこれ祀るのは、「生兵法は・・・」と同じだと私も思います。

さて、お稲荷さんを信仰するなら、とにかく普段から毎日心の中でご祭神の事を思ってる事が必要です。そう思ってるだけでもお稲荷様は手を差し伸べてくれます。出来るだけオキツネさんの事は考えなくて、祭神を一心に信じる事で、まずはそこからですね。私は心の中でいつも、特に食事の前には必ず「恐れ多くもかしこき稲荷大明神様(こと豊受姫様・倉稲魂命様・・・)、いつも(五穀豊穣などの)多くの恵み(加護・支援)を(お授けくださり)ありがとうございます。また稲荷大明神様(こと豊受姫様・倉稲魂命様・・・)の(これからの)益々の開運(繁栄など)を心からお祈り申し上げます。」などの趣旨の祈りを捧げてます。だから、普段から稲荷大明神(豊受姫様など)に守られていると思いますし、心強いです。
ただ、これってキリスト教等の他の宗教と同じで神様を普段から信じていれば確かに心強くなれますよね。たしかキリスト教だったかな、「心を尽くしあなたの主たる神を愛しなさい」をテーマにしているのは・・・。

それから、伊勢神宮を見れば分かると思いますが、お稲荷様と同一神とされる「豊受大神様」が「天照大神」を祀る内宮と同格の外宮に祀られているところからも、お稲荷様は本来の神格が「天照大神」と匹敵するくらい高いです。けれど、明治時代になって伊勢神宮の中で内宮が尊重され皇統崇拝の為に天照大神が唯一の絶対最高神とされなければ、ならなくなってしまったので本来はそんな事は無いんですだけどもね。何処でどう歪められたのか。お稲荷様への偏見は強いです。また、現在も多くの稲荷神社、代表的なのが伏見の稲荷大社などは天照大神を最高神として規定・存在する神社本庁にも属さずに独自の信仰を頑なに貫く姿勢が本当に好きです。また朝廷からも長年「正一位稲荷大明神」の神号を授けられているし、天照信仰とも切り離しても良いのではないでしょうか・・。また、歴代の天皇陛下がわざわざ伏見稲荷に参拝した例もあります。お伊勢には明治以前はまず行っていないのにもかかわらず・・。

さて、お稲荷さんのお祀りの仕方は原則として一社制の神棚で祀るのが基本。ただ、神道の神様と言うのは、人間の感情に非常に近くて「感情の起伏」が激しいらしいのを理解しておいてください。

つまり、持ち上げて持ち上げて丁重に祀ればご利益も多大だが粗末な扱いをすれば一切ご利益を頂けないということです。解りますよね?特にお稲荷さんは家の家内安全などに対する神通力が物凄く強いからそういう力を自在に発揮します。 人間ってのは誰でも少なからず「幸運の芽」ってのを持っていてお稲荷さんはその芽を「五穀豊穣」の力で持って一気に爆発的に開花させる力を持ってるみたいです。だから普段から供養・信心してれば大難は小難に、小難は無難に、無難は幸運へと目に見える形で徐々に効果が現れてくるようです。逆に粗末に扱えばお稲荷さんは幸運を授けるどころか悔い改めさせるために厳しい試練を与えるがち。それを持って「祟り」と言ってる香具師もいますが、しかしこれは当然のことで誰だって粗末な扱いを受ければいい気分はしないのと同じで、特に神道の神様は人間に非常に近い感情を持ってるから、その効果も速度も速いんですよね。だから悪い事をしたと思ったらやはり素直な心で謝ることが大事です。

あと、お稲荷様だけを祀るのであればやはりお稲荷様だけを信仰した方が私は個人的にいいと思います。他の神社を参拝してもあまりご利益は無いともいいますし。人間の気持ちになって考えれば、自分に一生付いて来ると言っておきながら他の人間にもちょこちょこ付いて行くのを見たら、あまりいい気はしないでしょ?それと同じですね。

本当に稲荷信仰ってのは神道の中でも特に独自色が強いから、もうほとんど一種の「稲荷教」と言っても過言では無いですからね。鳥居や幟の過大な奉納ってのはお稲荷様だけという現状自体が何故か独特の雰囲気があるでしょうし。だからお稲荷様を信仰するなら単に「神道」の一種としてでは無くて、一種の稲荷教という宗教を信仰すると言う気持ちで信仰したほうが・・・。

その際注意はするべきことはあくまで「ご祭神」のみをを一向に敬い愛し尊敬し感謝し信仰することでしょう。眷属の御狐さんは何度も言いますけどあくまでも「眷属」で単なる「お使い」と言う気持ちで接する事。間違っても御狐さんを崇める対象なんかにしてはいけないですよ。そんな事をすれば当然ご祭神だっていい気はしないでしょう?飼い犬を飼い主だなんて言ったら人間の飼い主が怒るのと全く一緒です。それどころか、眷属を調子づかせてしまうだけ。飼い犬も甘やかし過ぎると自分が主人だと勘違いして飼い主に襲い掛かる時があるから注意してください。あと、ダキニ天は元々は鬼神だから。怒らせるとそりゃ、論理的にいって神道のお稲荷様なんて比べ物にならないほど恐い面があります。

いくら改心したと言っても、ご利益を適えた人間は死んだ後ダキニ天に魂を食われると言う説があるくらいですからね。それだけに江戸時代なんかでは死後の世界は産土神様とダキニ天が和解して助けてくれるなんて話があって安心してダキニ天を信仰する人も多かったです。ただ、間違いなくダキニ天は当時から凄い神通力があると考えられていること。普通の神道のお稲荷様よりあるんじゃないかな・・・。まぁそれだけに丁重に決まり通りに祀らないと・・・・、後は想像にお任せします。

それと勘違いする人が多いけど、神道のお稲荷さんを信仰する時は掛け持ちするなら出来るだけ産土の神社、それが判らない・いない場合は氏神の神社だけに しておく事。そのほうがお稲荷様のご利益が大きいです。また、近くにどうしても稲荷神社(本殿の主神がお稲荷様)が無くて末社にある場合は、まず本殿を参拝してから末社のお稲荷様を参拝するようにです、筋は通さないといけませんからね。

『 あとここが肝心ですが、お稲荷様は初めて本格的に参拝し出した人に対しては「練り鍛える」為に試練を与えるようです。これは場所によって違うが近くの神社なら近いほど短い期間で済むらしいです、それでその練り鍛えられてる間は参拝者に軽い不幸と言うかいやな事が続く事があります。それで、その間に諦めて参拝を辞めるとご利益は全くもらえないまま終わります、別に祟りなどは全く無いけどね。

で、いやな事が続いてもこれでもかと言うくらい参拝し続けていると、大体数ヶ月経った位でご利益が徐々にいただけるはずです。私がそうだったww。まず、間違いなく食べ物には困る事が無くなる。それどころか他人に奢ってもらえたりもする。で、その次に金銭の臨時収入がある。で。さらにその次にプライベートや物品面などで幸運が頂けるわけですよ、キャッホー!皆さん!実に順序良くなってるけど私自身が全く少し前後したけどこの通りになったから(某芸人風にいうなら、)「間違いない!」 』

ちなみに、産土の神様って言うのはその人の生まれた土地の守り神様みたいな存在で、個人にとっては大事な神様。それは氏神様にも勝りますね。氏神様と言うのは自分の先祖伝来の一族が信仰する神様の事です。だから、他の有名な神社に参拝しても産土の神様を日ごろから信仰していないとご利益は全く頂けない場合がかなりあります。これは色々と悪評の多いWMの深見のオッサンも言う事だけれど、彼の教えでこれだけは確かにあります。

だから、お稲荷様以外で神道の神を信仰する場合、まず、産土or氏神の神様を基本として崇敬する事ですね。で、その次に自分の信じたいお稲荷様以外の神様と言う風に信仰すればいいです。だから、例えば産土や氏神の神社の末社にお稲荷様がある場合、場所的には全く困らないし産土神社の末社だけあってご利益の効果や速度もめちゃくちゃ速かったりします。

あと、稲荷とダキニ天に同じ願掛けする場合ですが、これはしないほうがいいでしょう。神道と仏教とでは作法・決まりなど違いますし、それにお礼が大変です。まぁ私は神道のお稲荷様をお勧めしますけど・・・。 粗相と言うのは、要するに明らかに失礼な事と解る事です。例えば日頃からちゃんと接する時に神様として接しているかどうか親しみを込めるのはいいけど、やはり「お稲荷さん」と言うより「お稲荷様」と畏怖と尊敬の念を持って崇めて信仰するべきでよね。

こんなのは何も神道だけでは無く、キリスト教でも仏教でもイスラム教でも当然です。また神社ではなるべく失礼の無いようにするとかね。

要するに何度も書いて、言ってますけど「日頃からちゃんと接する時に神様として接しているかどうか」と言うのが神道の場合には重要なんです。頭の中で神様の容姿をイメージ して具現化する位の気持ちで信仰すること。「神様は絶対おられるんだ!」と言う気持ちです。信じない事には全く話にならないですからね。まぁちょっと失礼な言い方ですが、お稲荷様の場合はえべっさんやタイコクさんみたいな俗物化したような単なる福の神的な接し方はしないほうがいいですよね。失礼だからです、もっと畏怖と威厳と尊敬の念を込めて信仰すべきじゃないかなとよく思います。天照大御神様と匹敵するくらいの気持ちです。ダキニ天に対する粗相は・・・・・ちょっとわからないですが厳しいんじゃないでしょうか?色々制約みたいなものがあったような気も・・・・、例えば両方祀ったとしてどっちから先に挨拶をするかとか。正確には歴史的・作法的に神道のお稲荷様とダキニ天ではどっちが先なのかな?ちょっと解らないが、こういうところがダキニ天を祀ったり信仰する時は大事らしい・・・。ちょっとでも間違ったら・・・厳しいらしいです。ダキニ信仰はしてないので御免なさい。

いや、冗談抜きでね、親が神道系の伏見稲荷を信仰していて、何故か息子が仏教系のしかも禅宗の豊川稲荷を信仰してた為、家の中で互いに念のぶつけ合いで凄まじい妖気となり、それが家族に災いし次々と大怪我したり奇病にかかったりしたというのを実際に聞いたので・・・。

そういう例もあるんで、やはり非常に気をつけなくてはいけませんよね。一度ご利益を頂いたら一生信仰し続けなければとよく思います。そして、丁寧に祀れないならお返しして参拝信仰にすべきだとも、これは、お稲荷様だけに関わらず、古今東西宗教ってのは本来そうですよね。入信したらその宗教の中で全力でかつ礼儀正しく一生生きて行くと言うぐらいの精神がね、本当は必要なんですよ。でも、日本人は仏教と神道が混在してきた上に、先の大戦前後に色々と失伝やら破壊やらをしたのにその修復も補正も改編もしないまま今に至り、ほとんどの人がどっちつかずのまま宗教に非常に疎い歪な民族になっちゃった面があります。しかもそういう現状を自覚してもいないです。

それから、最後に神道のお稲荷様にご利益を頂くと言う事は、逆に言えば今後はお稲荷様を生涯信仰しお付き合いして行きますと言う誓いの裏返しみたいなモノだと私は思います。

さて、今回は長々とお読みいただきまして、ありがとうございます。ご苦労様です。

では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・」

皇悠拝・・・orz.

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2008年11月 7日 (金)

神仏習合

何時も、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は伽羅様から頂いた質問への返答として、あくまで個人的見解ですが神仏習合について記述しようと思います。

コメント&いつも閲覧、伽羅様ありがとうございます。さて、その質問とは以下のとおりです。

『 ・・・ところで神仏習合という観点からですが、本地垂迹の考え方は、ある意味で、神社の神様に失礼にならないでしょうか・・・・
ある神社の神様の背後に強力な菩薩や天部が付いているということは、信ずるものにとって二重にも三重にも心強いことではありますが、習合神を信じると、(どう言ったらいいのかわかりませんが)、ある神様を信じながらも、その神様に頼りながらも、そこをスルーして、違う菩薩や天部を敬っているような感じが自分でするんです。
だったら、まどろっこしいことはやめて、垂迹の神社に行かずに、垂迹の本体である菩薩や天部を本尊として祀っている寺なり何なりに行けばいいんじゃないかと・・・・疑問に思ってしまうのです。
〇〇神さまは、〇〇菩薩の垂迹だと思うと、すごく心強いんですが、それって〇〇神さまのことを本当に一番だと思ってないことになるんじゃないかって、自分の信仰を疑ってしまうわけなんです。考えすぎでしょうか。自分が〇〇神さまの眷属だとしたら、そんな奴は、〇〇菩薩のところへ行け!と言ってしまいそうで・・・・ 』

たしかに、そう考えると「なるほど!」と思う興味深い意見です。

さて、この神仏習合が起きた理由・辞めずにいた歴史の流れは、色々あり定説がない為か、あまり知られていません。

まず、一つ目の説として、仏教及び仏尊の渡来時には、まだ神道自体が儀礼・理論などが確立していない・未熟な状態であり、逆に神仏習合によって補完・参照・学習したことで、神道及び神が仏教及び仏尊を(より正確には道教、陰陽道、儒教等の外来思想なども)どんどん受容した事でやっと確立したのではないかという説です。(中沢新一氏の説、ブッタの箱舟など)

次に、二つ目の説として、元来日本人は多神教なのですが、あまりに多くの信仰・神を受容した為に、ある種の限界が来て統廃合・吸収・統制化が起き、その一つが神仏習合であるという説です。あまり、知られていませんが同じ神道内の神同士の習合や陰陽道の神と神道の神との習合などもあります。(鎌田東二氏の幾つかの本に出てくる説)

三つ目の説として、日本人が仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏の下に神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲しているという認識が発生し、さらに以後、それは仏や菩薩を本地であると考え、その仏や菩薩が救済する衆生に合わせた形態(垂迹)をとってこの世に出現してくるという本地垂迹説に繋がり、このような仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きが発生。それは絶対的存在としての仏や菩薩と、その化身である神という形で考案され、神仏の調和的関係安定の理論的裏づけが神仏習合であり、更にこれは仏教の天部(の神々)も元はヒンドゥー・バラモン教の神であったように、日本だけでなくインドの地域社会や中国においても、それら在来の土着民族の神々を包摂してきた仏教の性質・歴史が後押したという義江彰夫氏の説があります。

この説のより詳しい事は同氏の 『神仏習合』(岩波書店)に出ています。

また、それ以外の説として、あくまで一枚岩ではない仏教及び神道の各信仰集団・神仏が自派の勢力拡大のために手を組んだと言う説。後発の道元の曹洞宗と地方のマイナー神の白山菊理姫の例、南都六宗および宮中(の神々)などに対抗するために真言宗と稲荷神および丹生姫が協力した故事、禅宗とマイナー神の天狗信仰が混交した例などがあります。(豊国泰彦氏などの説)

さらに、神道と仏教のこの国での覇権争いが物部氏滅亡という神道派の敗北から始まり、以後のこの国の宗教政策(仏教を重んじる)の流れによる神道の神及び信仰集団の長い衰退・苦難の歴史の中で、生き残り策として神仏習合が起きたと言う説もあります。

さて、これら以外にも説は幾つかありますが、今では、信仰の自由により信徒や宗教者が殺され、神仏像が壊され、神社や寺院が襲われると言うことはまずありませんが、以前にイエズス会の記事に書きましたように、どんなに権威や寺社・人の数を頼もうとも対立する他の神仏及びその信者、同じ宗派でも派閥間の対立などにより襲われ・滅ぼされると言うことはこの国ではかなり昔からそれなりにありました。明治の廃仏毀釈、信長の比叡山焼き討ちや松永久秀の東大寺大仏焼きなども有名です。

その為、幾ら自らが信じる神・仏を尊び伝統を大事に考えようとも生き残り、永続するためには更なる信徒の武装化(&僧兵化)・拡大化、より適切かつ魅力的な教義の構築、より強力な集団・神仏との融合・同盟(M&A)、より神仏自身の進化・発展、より良い術の向上・開発などは必須でした。

そして、私は基本的に神仏習合はそう言った日本の歴史に不断に起きた神仏の生存競争に対する一つの策・手段であったと考えます。しかも以下の言葉にありますように古くから考えられていたのならば、少しでも神自身に信仰集団のどちらにとってもどんなことをしても少しでも信者の数・量・質など拡大強化、より良い運を得るために更なる神威・神徳の拡大/強化は重要です。(ちなみに御成敗式目とは鎌倉幕府が制定した今で言う法律のことです。)

『鎌倉時代の「御成敗式目」には神と人との関係についてこう記されています。神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」 』

では、今回はここまです。お役に立てば幸いです。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

最後に、また少しサイトのテンプレートなどをリニューアルしてみました。装いも新たなこのブログ、これからもよろしくお願いします・・・orz.

皇悠拝。

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2008年11月 6日 (木)

「お礼参り」の質問に答えて

何時も御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は伽羅様、エピクロス様の質問に答えようと思います。

コメント&閲覧の方、ありがとうございます。

まず、「お百度参りではなくて、神社本殿前で1時間以上祝詞・経典を唱えるというお願いの方法は知りませんでした。・・・そういうお願いの仕方をすれば、花園神社のお稲荷さんでなくても、願いを聞き入れてもらえるのでしょうか・・」についてですが、単純に「パン・パン・合掌・願い事を何度も繰り返し祈って、一時間」というわけではありません。また、普通に神社の看板などで紹介されています神社本殿前での参拝・祈願の仕方は便法も便法・簡略の上に省きまくったやり方なので私はお勧めしません。

基本的に私の祈祷&参拝方法は難しいor面倒くさい作法です。詳しいことは弟子でもない方には秘密ですが、まず、かなり改変しておりますが基本的には正規の本殿に昇殿し、御祓いを行い、祈願するという正式参拝のやり方を改良・踏襲しています。かつ、師の教えの神仏習合風のやり方ではありますので、その為、かなり込み入った構造で行います。傍から見ますとブツブツ唱え、何度もお辞儀と拍手をするの繰り返しですが・・・。また、それなりの術者や専門家は大なり小なりオリジナルの工夫・拝み方をもっています。

さて、神仏習合式なので当然、複数の祝詞・呪句・経文・陀羅尼を使います。よってそれぞれを最低数の一回だけにしてもかなり早口で20分は掛かります。しかも案件によっては種類・量・数ともに激増・変化するので、(最低でも)一時間と書きました。

勿論、普通に祈祷・儀式・祭礼というモノは、元来祈願者自身または祈願する者達の代表が祭主たる僧侶として神主として本殿内で儀式を執り行うのが本道なので私もその意味であそこでは書きました。その為、祈祷と参拝は基本的に違うものです。

祈祷は自分たちを清め整え、場を清め整え、神仏の来臨を仰ぎ、願いを伝えつつも自分たちが考え選んだ供物や音楽・舞などを捧げ、歓待し楽しんで頂いて御帰り頂く、この一連の流れを全て祈願者=司祭者が執り行うことが本筋です。そういう意味で、ほとんどの方の参拝は祈祷・儀式の体をなしていません。基本的に人が誰かに何かお願いする際の接待、お願いしたい相手に楽しんでもらいつつお願いするのと同じで、他人に接待(=祈祷)をやって貰うのと自分で行うのでは意味も効果もぜんぜん違いますしね。

また、私のこのやり方は基本的に何処でも通用するとは思いますが、あえて手当たり次第に寺社に行き試しに神仏に祈願しに行くつもりもないので、正直判りません。

次に、「供物はともかく、賽銭(現代の紙幣、硬貨)が神仏にとって何か意味があるのですか?」ということですが、日本に限らず神仏によっては作法として古い硬貨の場合もありますが、現在の紙幣・硬貨を供物に使う方もいます。また、普通の参拝時に硬貨や紙幣を供えますがあれは基本的には神仏に捧げる供物代として供えています。基本理念・流れとしては「お賽銭の投入→落ちているお賽銭を後で神職が集めて(我々の代わりに)供物を買う→買った物を(我々の代わりに)作法通り整える→その供物を作法・儀礼に従い日々の供物または祭礼時の特別な供物として(我々の代わりに)供える」という形式です。

勿論、賽銭ではなくお酒や鮮魚、米俵などを供えるのが本道・正式ですが、普通の人が参拝するたびに近くの店にてあるかどうかも判らない鯛や鯉、米俵、樽酒などを仕入れ、自ら運び、しかも作法通りにふさわしい形に整えるのは難しいので、お賽銭は便法としてやっているだけです。

さて、多くの方の参拝・祈り方の可笑しさは自分が神仏の立場になったと考えるとよく判ります。本殿に自分がいるとして「いきなり目の前・本殿に来たかと思うと拍手・鈴を鳴らし、そのまま頭を下げつつ合掌したかと思うと、数秒後には何も言わずにいきなり何も言わず帰る」・・・どこの不審者?という感じではないでしょうか?

さて、今回はここまでです。これで、答えになりましたでしょうか・・・?

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠、一礼。

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般若心経千座の法の補足 仁阿様の質問に答えて

何時も御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は仁阿様から良い質問を頂いたので前回の般若心経千座の法の補足ということで記事にさしていただきました。

仁阿様、はじめまして、そしてコメント&閲覧ありがとうございます。

さて、まず仁阿様から頂いた「私の内容が専門的過ぎる」という評価は少し驚きました、これでもかなり判りやすく書いているつもりでしたので・・・。
また、正直、私程度の知識は多くの問題に対処する呪術師・祈祷師としてはこれ位は知らないといけない平均レベルですし、ごく普通に流通している専門書レベルに合わせていたつもりだったので、本当に驚きました!

てっきり、既知のことばかりだから皆さん、適当に流しているとばかり思っていました。ありがとうございます。勉強になりました。

さて、ご質問の「祈願の神仏の選びが難しい」という事ですが、これはどの方も半分趣味で半分経験で選んでいるのが、正直な所でしょうか・・・?

同じ門派の術者、祈祷師毎に同じ問題でも対応する神仏の選択は術の系統・宗派・習熟度などで本当に色々ですからね・・・。

例えば恋愛問題でもオーソドックスに愛染明王様を推す方、氏神様に愛法神ことお稲荷様、イザナミ&イザナギの夫婦神に大国主命様などを薦める神道系の人、西洋ならギリシアのヘラにアフロディテや聖母マリアなどを頼む人など色々ありますから大変です(笑)。

ただ、どうしても信仰心が特になく、フラフラしがちな素人というか慣れない方は決断が出来ないのも仕方がありませんが・・。

また、ご質問自体も少し抽象的過ぎるのでどの神仏をお勧めして良いのか私には正直な所で判らないのですが・・・。(例えば会社・商売関係の問題ならば、今はお蔭様で黒字だが将来に備えて貯金したいのか、更なる黒字/純利の向上をしたいのか、赤字解消か、とりあえず急場(の金策)を上手くしのぎたいのか、社内にはびこるイジメ・対立の解消なのか、何故か新商品のアイデアが浮かばないのでそれの改善か・・・と色々ありその問題ごとに最適な方がいます)

さて、そうは言ってもここで終わりにするのは不親切なので、幾つかヒントを差し上げます。

かの名言「正しい質問が出来れば、正解の半分は手にはいったも同然」ではないですが、
まず「何を叶えたいのか・何が問題なのか?」、次に「それには誰が最適であるか?」です。
そして、叶えていただける方が多分、複数判りますから、最後に「誰に助けていただきたいか?」ですね。

そして、この辺の選別は、
神仏のそれぞれの得意技・基本的な専門がある事を知り、それはその神仏の由来や各地の伝説に説話、その寺社で伝えられる利生譚や経典の誓願などに出てますのでそれで判ります。(ただ、多くの神社・寺院が今は完全に力が落ちて験が出せない為にとにかく祈祷料欲しさの商売人が多く、何でも出来る、万願成就を謳いがちですが・・・苦笑)

さて、人付き会いもそうですが、何事も相手のことが判れば判るほど上手くいきますよね。この辺の労を惜しむと後で苦労します。

次に、「本尊をデジカメのプリントアウトでするのはどうかと思いますが・・」ということですがこれは程度の問題です、特に画像として「納得出来るレベルか否か?」です。別に私としてはそのやり方でも良いと思いますが・・・。事実、海外ではダライラマなどの高僧や曼荼羅の写真を本尊にして御祀りし日々供養/礼拝している例もありますし、また西洋魔術や魔女系を始め貧しい国の呪術師は素人くさい自作の像を神像にしている例がほとんどですからね。

ただ、この辺は祈祷者が納得・集中できるかどうかが大事ですので仁阿様が納得出来るようにされると良いと思います。

また、「声の大小・特にささやき声」に関してですがこれはケースバイケースです。祈願内容や流派によっては怒鳴るような声ですべき祈祷もありますので・・・。ただ、美声とは言わなくなくとも基本的には聞き良い声量であるべきです、神仏に聞いて頂くのですからね。祈祷師の羞恥心や自信のなさは関係ありません。本尊様が気に入らない声を聞かしていたら叶うものも駄目になります。

さて、現在では正直な所で神仏に何かを祈願するという行為自体が、往々にして偏見・蔑視されることもある世の中なので、出来れば、特に夜中などはささやき声・出来れば無音で済ましたい気持ちも判りますが、祈祷者・祈願者の態度を見て神仏は叶えるか否か判断される一面もあります。

よって聞こえない声では意味がありませんし、少なくとも普通に考えて願いを伝いたい神仏が人だとしたら聞こえるくらいの声は出すべきです。何か人に相談する際、幾ら人に知られないたくないことでも相手に聞こえる程度の声量は出しますから、基本的にささやき声は不可です。(まさか、祈祷本尊様にささやき声が聞こえる距離、つまり唇が着く位に密着してやるといことではないですよね、それはあまりに斬新かつ無作法な気もします。・・・私の考えすぎですね)

さて、またそのような羞恥心や気兼ねがあるということは読経に集中していないということでもありますし、また羞恥心を押さえ真摯に熱意を込めて祈る姿に神仏は感応するモノです。(ちなみに、集中してやっていますと意図せずに大声や時に絶叫にすらなります・・)

勿論、無音で読経する方法もあるにはありますがそれはかなりのイメージ力、霊視/幻視が出来ることが前提です。例えば声や文章内容を光の連なりなどに変えて口から出し、神仏に届けるというものですから・・・、大多数の方は無理ですし、お勧めしません。私もまだまだ未熟で複数の祝詞全ての視覚化は出来ません。

では、これで今回の補足・返答は終わりです。お役に立てば幸いです。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年11月 5日 (水)

商売繁盛祈願と人格

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は祈祷・霊能業界の話です。

私は、かつて何度か商売繁盛系の祈願をしましたが、そういう場合にどうかんがえても効果の望めない、意味の無い祈祷を何度かした事があります。失敗すると判りつつもやらないといけないのが、当時の専業祈祷師の辛いところでしたね・・・。

さて、心理学では人間は生理的に変化を恐れるとされていますが、実際に色々な方の相談・祈祷の相談でも同じで変化・験を得られにくい場合があります。これは特に何かというわけでなく人間関係とか個人の性格などだけに限られた話ではなく、仕事・商売など全てに当てはまり、実質的に同じ場合が多いですね。

さて、よくある祈祷の依頼に商売繁盛がありますが、しかし、そういう祈願をされる方で一所懸命に働いていても慢性的な赤字に苦しむのであるならば、大体は仕事の効率が悪いか、利益率の極端に悪いかの大きく分けて二つの原因が疑われます。

そして、特に社員・パート含めて50人以下の零細企業の場合には利益率の極端に悪い仕事をしている場合が往々にしてあります。さて、このような現状を改善しようとするならばより効率を上げるか、利益率の高い仕事に切り替えるしか現実的には、まず手はありえません。

さて、ではより利益率の高い仕事に取り組もうとするのには、要求される仕事のレベルが高くなります。ですが、逆に利益率の低い仕事の場合にはその要求が低くなる・簡単になるのが一般的です・・・。

また、より効率を上げようとするならば、大抵はより面倒な作業環境の見直しや作業手順の改善などの往々にして多くの課題と向き合い、時間が掛かるのがほとんどです。

その為、現状のシステム/やり方を維持したままで、早くより売り上げる事や利益の増大を求めたとしたら基本的には数・量を増やす方向に向かいます。しかし、ここで大きな構造的な罠が開いてきます。

つまり、利益が低いから儲からないのですが、利益の高い事をするだけの環境・技能などがないからそういう仕事を遣らざるをえない訳で、当たり前の話ですが、依頼者から見れば同じ金銭を払うのならばより色々な意味で信頼が出来る・より確実で良い方を私もそうですが選びますよね。

よって、実情としてその会社自体と付き合いがない場合は、営業をかけてお願いしても、大抵は諦めるしかない理由が出てきます。例えば、以前の実積がないから信用できない、技能がない/出来る事を証明出来ないから依頼できない、納品日が守れないなら・・・、更に製品自体に価値がない・致命的な欠落があるから・・・などがある為に注文・依頼自体が得られず、正直な話で「あんたに頼む事はないよ・・」という状況がほとんどな訳なのです。そんな状況・実情でどう仕事・依頼の数・量を増やすのでしょうか?

また、それ以外に同程度の金額・技量・サービスの方が掃いて捨てるほどいるという状況もあります。

ですので、多くの場合で、質の向上以外に売り上げ/儲けを出すということ自体が無理があります。

しかし、それが出来ないから苦しんでいるわけで、大抵はほとんど経営者レベルの性格、改善を恐れているが(変化を恐れている)性根の人ならばまず、それらの実情に向き合えずに、結果として問題は解決出来ないまま終わる事がやはり大半です。

しかし、本当に多くの経営者・人は変化を恐れ、簡単な方に流れがちで・・・。

そして、このような人の場合は、たとえ神仏に祈願をしたとしても同じことです。

例えば商売繁盛を祈願してご利益があり、大きな仕事の受注が出来たとしても作業環境の改善や作業手順の改善などの後回しにしたツケ、多くの課題と向き合わなくてはその仕事を成し遂げることが出来ないのですが、それが出来るのならば祈願する前に上手くいっているわけで、大体は基本的に対応出来ずに、結果的に失敗して無意味・無益になる場合がほとんどです。そして、それでは意味がないのと同じですよね。

また逆に依頼・注文が来て対応するためには、今までしていた収益率の悪い仕事をあえて断る・止める場合もあり、その勇気も必要でが、しかし、その為の決断ができない方も多く、往々にして変化を恐れる経営者はその勇気がなく、せっかくのチャンスを見逃す事もままあります。

ちなみに、こういう場合では、正直なところ、祈祷よりも性格矯正のほうが必要です。

しかし、それが出来ないから祈祷に頼る訳で、難しいですよね・・・。

さて、今回はここまでです、お役に立てば幸いですが・・・。

それでは、皆様/貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より・・・再見

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2008年10月31日 (金)

基本理念としての勧請、勧請と眷属使用法の意味、

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はあまり知られてませんが勧請の基本理念と眷属の使用法じの注意などについて書きます。今まで何度か勧請について書いてきましたが、今回のは俗信・伝統的な考えの一つです。

まず、例えば、伏見稲荷に行ってそこで稲荷紳の眷属である狐霊などを頂く、三輪山に行って蛇霊などを頂くといったことは、実はそんなに難しくは無いのです、基本的に幻視と相手の了解だけで出来ますからね。 ただし、その眷属の主たる神を勧請なり、許可なりを受け、自宅などまで連れて来てそれを滞在させる理由・施設が必要ですが・・・、 幾らつれて来ても術者に従うか・帰らずそばにいるいないかは別ですからね。マイケル・ハーナーがいうパワーアニマルが数年でいなくなると記述しているのと似てますね・・・。

つまり、そこの神を自宅に勧請すれば、その神に仕える眷属も家に来ますし、あるいはその神社の神に『神使も一緒に勧請させてください』と言えばそれをしてくれる形になるわけです。少なくとも神社に眷属が帰るリスクは減りますね。

また、自宅で神を祀れば、その神の使い・眷属が、神本人に代わって祈願者の為に動き働く事もありますし、わざわざ毎回毎回祈願ごとに神社に参拝しなくて済みます。だから、少しでも関係を深め、眷属がよく働くように、勧請をし、またその神の為のお供え物とは別に眷属の分のお供えをしたり、神使のために祝詞を一回多く読んだりすればそれを喜び、普通に神を奉るよりも多めに働いてくれるとも言われます。

加えて、普段から自宅などで正式に神仏を勧請・崇拝し、神使・眷属などに謝意をあらわしていれば、特別な呪文や祝詞や作法を知らないでいても、必要な時や助けを求めたときには自然と動いてくれる事もあります。ただ、神や神使の勧請にはそれなりにお金(神社への謝礼など)が、またその神を祭るための神棚や祭壇・道具に神器の購入に日々の供物もやはりお金が掛かりますね。

さらに勿論、それ以外にも日々朗誦すべき最重要な法器たる祝詞・経典などの経費も掛かります。

あと、勘違いしてしている方も多いですが基本的に大事な儀式や祭儀には神仏の前で聖典を唱える際は間違えがあるといけない・失礼なので、いかに暗記しどれだけ唱え慣れていても経文・祝詞を見ながら朗誦するのが正しいやり方です。

さて、毎日(あるいは日を決めて)神にお供え物をし、定められた礼拝作法(神社できちんと教えて貰えますし、自分で断りを入れてある程度オリジナルの祭礼も可能です)を続けるのも、それなりに辛いものがありますが、 それでも、人ならぬ存在を相手にする以上は日々の定期的な供養・神事は欠かせませんから、本気で御蔭や眷属(=神使)などを得たいと思うのなら、それぐらいは続けるぐらいの覚悟と誠意は必要だと思います。

これは自然界のエネルギーや個人的な生命力などで式神を造る、霊力や法力で神霊的な存在を呼び出し縛り使役するという考えではなく、そういった存在を配下に持つ神や仏を信仰し、その見返りとして『ある種のお使い』として遣していただくようにお願いする…と言うのが一番安全かつ、一番現実味のある眷属・使い魔・式神などの使役法であると思います。

 ちなみに、上に書いたのは、言ってみればある意味で不可視な存在との『約束事』ですよね。

そういった『約束事』が前提にあるからこそ、御利益を願う人が神社に詣うで、神を勧請して自宅で奉るのでしょう。

また、そこの神社に勤める神職などは、古来から伝わる効果的とされる定められた方式・修行を行っているのですから、何事も素人が行うよりもその専門家に依頼したほうが安全で確実であるようにその神社の神職に任すのがよいと思います。 後は、神を勧請した私達の側の責任ですからね。誠意をもって決まり通りに接していれば神罰とかは起きないはずです。

ただ、例外的な諏訪大社の神などは、鳥が供え物をつついただけでも神罰で死ぬ…というぐらい荒振る神ですし、幾つかの『無言での神事』の最中に言葉を発しただけで神職が死ぬという神社もあり、また神社では『そこの神の姿』を見ただけで死ぬという場所もありますが、むしろそういった神社のほうが少数です 。

なお、普通の神社で表立って祀られていて方は、基本的に信者が接しているのは『神の和魂』であるケースが多いですから、『管理を怠ったら一族郎党皆殺し<末代マデ呪ッテヤル>の刑に処する神』なんて今時まずいないですね。確かに、人が悪いことをしていたり、神の『おかげ』を受けていながら神をないがしろにしていたら、警告としての『災厄』は起きるとされていますが、一族が皆被害をこうむるような『タタリ』というのは、よほどのことをしない限りないです。

よく言われるようなタタリを為す神というのは、『性質の悪い・危険なモノ』を神として祀っているだけであって、そちらのほうが例外的であるともいえます。

また、確かにその神様がマトモでも、その眷属までがマトモかといえば、確かにそうではない例もあります。普通に人材派遣会社そのものはマトモでも、そこと契約して派遣されてくる人物がマトモではない可能性というのは充分にありますからね。ただし、その場合はそういったことが見受けられた時にすぐに本社(勧請先の神社の神)に申し上げればいいだけですし、最悪の場合は自宅での祭祀をやめてお帰りいただければ良いだけですからね。そういう作法は勿論ありますし、私自身それを何度かしたことがあります。(あまりに駄目というか、効果のない場合はそうしました。勿論、それなりの様子を見ますが、さすがに長くて一年がいいところですね)

これは普通の派遣業ならば雇い主が会社にお金を払い、会社からそこの社員に給料を渡すという形をとりますよね。それと同じように、本社にあたる神への祭礼の手を抜けば、眷属の働きも悪くなるし、逆に災い・問題をもたらしかねないですが、祭礼・支払いを正しく行いながらもあまりに仕事・出来が悪ければ、人を変えてさせてもらう事や取引先を変えることは普通のことです。

ある意味で、それは当然の報い・行いといえます。勿論、日常から神をきちんと祀っているのが大前提ですが・・・。

また、もしよくされていながらも神を祀る続けることが出来ないと判断したなら、その時は元の神社に礼を尽くしお帰り願えばいいだけです。なかなか言い出しにくいですがちゃんとそういうことをやってくれる神社などもあります。

さて、神仏を祀るというのは確かに手間がかかることですが、TVに出て『私には霊能力があります』といって活動している人も、家や事務所ではきちんと神仏を祀っているものです。 TVに顔を出さない、私にような野の祈祷師・呪術師も、大抵は神仏を祀っていて、個人の所有能力よりも、神仏の力を上位においてその力や眷属の力を『お借りする』という形を取っている方が多いですね。(少なくても個人の力よりもバリエーション・威力が増えますからね。)

以前、記述しました勧請とは自宅に専用のPCを持つ、専用回線を引くというの例はある意味で西洋魔術系の表現・記述です。お気付きになられましたか?

さて、今回はここまでです、ただ、感覚的なことなので上手く表現できないのが少しもどかしいですが・・・。お役に立てば幸いです。

では、『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。』

皇悠より。 

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2008年10月18日 (土)

眷属・盟友・奴らとの関係性と危険

どうも、皇悠です。

いつも御覧頂きましてありがとうございます。

さて、今回は伽羅様(いつも閲覧・コメントありがとうございます)から良い質問を頂いたのでそれについて書こうかと思います。質問の全文は以下の通りです。

『 >特に稲荷信仰においては「個人とお稲荷様との関係性」が重要ですので作法というのは正直、かなり曖昧です

個人とお稲荷様の関係性、これは祝詞や心経などを唱えることや、神社参拝することによって深まりますでしょうか。
稲荷眷属の霊と直接繋がることは可能なのでしょうか。』

以上の通りですが・・・。

さて、すごく難しい事を質問されているので、お答えしにくいのですね。

確かに祝詞や心経を唱えこむことや系列の神社参拝で関係性は変化します。それが良きにしろ悪きにしろですが・・・。

ただそれは、稲荷眷属に限らず、自らが中村雅彦師の言う眷族、カスタネダの言う盟友/非有機的存在、メガでいうと奴らでしょうか・・・。とにかく霊的と呼称される何かと関係性が出来てからです。

それらを見て・感じ・察するようになってからです。それは、ある意味で彼らを知覚できる器官が備わることを意味します。

ちなみに、どのような属性・系統の存在と関係が出来るかは人それぞれです。以前書きましたが天使を呼ぶつもりが河童が出てくるような感じで精神的な相性・特性があります。

また、私の知る範囲では万人が彼らと関係が持てるようになれる手段・安全な方法論はありません。

幾つか、効率の良い方法はありますが、失敗して、精神にダメージを受け病んだ方や心が壊れた方もいます。私もそうでしたからお奨めもしません。(多分、私も狂い死ぬか耐えかねて自殺かするだろうと覚悟はしています。)

ちなみにメガの体系では発狂死、変死(突然死)、自殺はよくあります。

師はそれを嘆いていましたが、私の兄弟弟子の何人かはもう30代前後に半分はそれで死んだことが確認されています。。(ちなみに師が私の兄弟弟子の死を真剣に嘆いたと言う話を人から聞きましたが、改めて師の実力に感動しました。師の忍術のすばらしさに・・・、私には出来ませんでしたからね。そして、自分は悲嘆しましたが内心では彼らをせせら笑いましたね。ああ、彼らは負けたのか・・・と)

ちなみに、私が入門して半年した頃に(初めの師ですよ、勿論)、師の修練時代の兄弟弟子は約20人ほどいたそうですが、そのうち大成したものは約4分の1以下。半分が私のように途中で限界に達し脱落/卒業し、残りは発狂or死んだと言う話も聞きました。覚悟していましたが兄弟弟子が早逝したのを聞いた際にそれを思い出しました・・・。

これが、メガ(の体系)が公表もされず、少なくとも私の時点で三世代(もしかしたら私の兄弟弟子世代が弟子を取っているのなら4世代目もありえますが・・)、存在しているはずがまったく広がらない理由です。

〔未確認ですが、師及び師の兄弟弟子、私を含めた彼らの弟子、その次の世代たる私達の世代の弟子、総数では多分100人前後、もしかしたら50人以下しかメガを学び存命の者は存在していないと私は予測し考えています。ちなみに私も過去何人か魔術・祈祷の手ほどきはしましたが、彼らには全て既知/公開された神道及び西洋魔術系の技法と訓練しか伝授していません。メガの訓練および技法は未だ師の下から去り10年以上経ちますが、幸か不幸か伝授に値する人物はいませんので未伝授です・・・〕

さて、話を戻しまして、または関連付けて書きますと、彼らと繋がる手段自体はもう充分に実は公開されています。それなりの魔術・呪術・宗教関連の本に幾つも出てますからね・・・。メガの訓練と同系統の訓練も幾つもあります。

ただ、多くの場合で基本的な修練不足(苦行をしないと言い直すのも可、なお仏門ではないので苦行は否定されません)と師による強制がないため弟子がそこまで追い込まれないので、繋がらない訳ですね・・・、幸運なことに。

これは「人は生理的本能的に異質なもの(彼ら)を危険と判断し避ける」ので彼らに接触するのは通常の状態は出来ないのです。

つまり、彼らと繋がるには勢い意識的な苦難・苦行で狂気の淵に立つ/病む行為になる訳で、そうやっと何とか本能機能を麻痺させるしか手がありません。しかし、あくまで本能なのでギリギリ死なない・狂わないレベルでしか麻痺しませんので、難しいですね。

そして、もう一つ難しいのは一度彼らと関係が出来る・繋がる回路が完成・駆動しますと死ぬ事以外に遮断・廃棄する方法がまずありません。これも修練度・宗派に限らずにある程度の割合で修行者が自殺・狂気にすすむ原因の一つです。

私自身、何度か狂いかけました。

基本的に異界・異形の力や関係を深め得るほど心身を傷つけ・病み易くなり、健康を求めれば力から遠くなる、難しいものですね。ちなみに仙道にある功過録系の善悪業などとは関係はありません、あくまでこれは身体的な機能限界の話です。

この辺はカルロス・カスタネダのシリーズにも詳しく出ていますね。彼の本にはある種の術者が狂気・障害を自らに内包してしまいギリギリの生をいくしかない事実を諦観とともに書かれています。また、多くの説話で覚者や聖者の奇行や慢性的な病癖が記述されますが、これらも修行により狂気・障害を内包した為と私は考察してます。

また、禅宗にも修行による禅病という精神疾患、気功法にも偏差という弊害がありますが、実質的には同系です。偏差・禅病も訓練や修業のやりすぎ/実践による自己の心身崩壊または変質現象ですから・・・。

一部、彼らに繋がるのか,彼らの住む世界に繋がるのかなどの違いはありますが、所詮は異形・異界という異なる性質に接する訳ですから同じものです。

勿論、生まれつきの適性で幾ら修行をしようとも変化が少なく障害が出ない人もいます。しかし、この辺は運ですね・・・。また、いつまで持つかもわかりません、晩年に大病や障害が出る例もおおいですし・・・。

また、近年開発された多くの薬、特に回路を高確率で一時的に開き繋ぐ幻覚剤を代表とする向精神薬は、準備の出来ていない多くの人を生き地獄に叩き落としています。

聖書の預言者が神の火・光に焼かれるというのも同じことを意味してますが、このような事は遥か昔からある現象ですね。

さて、こう考えますと神仏への礼拝・祈祷が呪法、魔術という名前で呼ばれるのも意味深ですね。呪われた法、魔の術・・・。

ちなみに、私は師の下を自らの意志で結果的に去りましたが、それでも師である某K野忍氏に大変に感謝しております。(離脱・卒業した理由は、別に学びたいことが出来たので隠れて他派を学ぶオカシイと考え、そして今のまま師の元にいる限りは多分師のレベルへ行く事どころか他の弟子と伍し並ぶことすら出来ないと当時、考えたためです。結果的にそれは希望通り強くも向上もしませんでしたが、私の成熟を促し、それなりの術者にはなれました・・)

彼に出会わなければ私は・・・・・、私はこの年まで生きることが出来ず、とっくに発狂し今頃は精神病院の隔離施設にいるか、自殺していたでしょう。今から考えるとよく師は当時の私のようなモノを、これしか適切な表現が無いのであえて書きますが「魂の病んだ・半基地外」を弟子として誘い一門に入れ技を教えたと思います。私が同じ立場なら絶対にやりませんから・・・。

ただ、本当に彼には、色々と現在も評判はありますが私にとっては恩人であり、良き師でした。溢れるほどの友愛をもって伝授していただいた、多くの知恵・技・流派の学習を学び終えず、修めきれずに、多くの学恩に答えずに逃げ出し離脱した不肖の弟子ではありますが・・・感謝しています。私の基礎基盤は彼の学恩と努力で出来ていますから・・・。

本当に誰よりも、生み育ててくれた両親よりも、血の繋がる兄弟よりも、多くの友や肌を合わしてきた恋人たちよりも、私は彼に敬愛と感謝を持っています。何かホモのラブレターみたいで恥ずかしくキモイですが・・・・、でも感謝しそう思ってるんですから、ショウガナイですよね・・。

それでは、何故か更にグダグダな文章になりそうなので今回はここまでです。お役に立てば幸いですが・・・。ダメかな・・・?

では、いつもの言葉をお贈りしつつ、「貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。」

皇悠より・・。

追伸、発狂のリスクを減らす技法は一門および私の秘儀ですので、公開はしません。また到底、独習出来ないので公開しても意味もありませんので勘弁してください。

最後に、次回からこのブログは色々と思うことがあり、書く回数をかなり減らそうと思います。それでは、また・・・。

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2008年10月 2日 (木)

名前・名付け

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はマントラ法の一部門、名前について記述します。

さて、古今東西、聖なるマントラ/フレーズがあきれるほど数多く残っています。
それらは時間を越え、歴史上の聖なる体験を求める多くの人々にパワーや勇気を与えて来てます。その中でも、強力で効果的なマントラとして近年、注目されているのがあります。

それは、個々人の名前です。

『貴方の御名前はお父さんやお母さん、お爺さんやお婆さん、もしくは、姓名判断の先生から、つけて頂いたお名前だと思いますが?どうでしょう・・・?
そのいずれも、天からのインスピレーションによって頂いた、今生でのあなただけの素晴らしいマントラです。
その人の自分の名前は、日常生活において、意外と自己紹介する以外、繰り返し言ったことがなく、 緊張や不安を感じた時、自分の思いは、未来へ行ったり、過去へ行ったりしていますが、自分の名前を繰り返し心の中で唱えることで、今ここに繋がり、力と平安が得られる』という理論です。
たしか、インドの巨大カルトor宗教の開祖の和尚ことバグアン・ラジーニシも勧めている方法論ですね。確か、彼は人の名前は、大抵が聖なるモノに繋がることが多く、しかもその人に取っては一番親しみ易く、抵抗が少ないから良いという話でしたか・・・。
例えば、英語圏ですと良くあるマイケルは大天使ミカエルから、ジョンは竜殺しの聖ジョージなどから来ますから一概にこれは間違いではありません。
ただ、私個人としては自分の名前をぶつぶつ言うのが好きではなく、自分の霊的な個性を際立たせるかも知れませんが、逆に向上・改善がされない気もするのでやりませんが、こうゆう方法もあるということで、今回紹介しました。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いですね・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月 1日 (水)

聞き取り軽視で祈祷重視の理由

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は何故にしてある種の祈祷において相談者の悩みの聞き取りよりも読経や祝詞の奉唱が何よりも重視されるかその理由を幾つか記述しようと思います。

さて、皆様は神社やお寺に相談に行かれたことがございますか・・?

そしてそこでは、ろくに相談を聞かずにいきなり祈祷に進み、憮然としたことはありませんか?

ただ、話を聞いてもらえれば、スッキリする程度の方には、肩透かしをくらったこのようでなんとなく不快に思う事もあります。

さて、ある種の精神療法において、相談者・クライアントの話を共感的に真摯に傾聴し、受け止めることが相談者(往々にして、異常な体験を共有されないが故の孤独感、理解されず誤解され続けたが故の猜疑心などに満たされた方)の苦しみを聞き取り、理解し、お互いに協力する関係を構築し、それを治癒、苦しみからの離脱の礎とする方法論があります。場合によっては、これだけで治癒すらするので重視しています。

ただ、これはそれなりに精神的な相談を受けていれば、このような傾聴による共感協力関係(ラポールといわれる事もあります・・・)の重要性はそれなりに分かります。

しかし、その聞き取りが、聞き入る精神科医、グルにカウンセラーにメンター、メンタル・トレーニングのコーチやヒーラー、セラピストなどが経験不足だったり、自分の許容量以上の出来事の体験に対しては、共感的に相談者の会話に聞き入る事自体が悲劇に繋がることはあまり知られてません。

それは相談者の苦しみ、怒りなどに同化・伝染する事です。

特に最悪なのは、こうした相談者の体験、残虐な行為や災害の経験をあまりに聞いて入り、、話に引き込まれ、患者と同様に怒りや恐怖や絶望を体験する状態までになり共鳴する事です。これは(外傷性)逆転移とも呼ばれるモノで、事実上患者・苦しむものが再生産され、二人になり互いに補完関係になる訳です。

これは患者のエピソードによって呼び起こされる心の動揺により、治療している医師やヒーラーなどの精神的健康が脅かされ病むからです。

では、それらを呼び起こすモノと暴走などを具体的に上げていきますね。

1.深い悲しみ
聞き手が聞くことは意図せずにその悲しみの証人になりますが、しばしばその悲哀・絶望感に圧倒されてしまう。そして、何も出来なくなり、相談者にとってお馴染みのただの慰めマシーンと化す。

これを教えてくれた人は悲しみに圧倒されてしまうと治療にならないので、圧倒されないように頑張るんだそうです。

2.患者の怒り
患者の怒り、憎しみに同化してしまう。その怒りは、正当性(目には目をの精神ですね・・・)のもとで加害者に向けられ、更に何もしない出来ない傍観者(止めずに加害者の行為を肯定し放置していたわけですから無理もありませんが・・・)にも向けられ、更にはそれは拡大され世間の全て(自分が苦しむのはこんな世界があるからだ、このような人間=加害者を作り育て守る社会が憎い・・・)に向けられる場合もあります。一概に逆恨みと言えないのが難しいです。

これはニューチェのいうルサンチマンとほぼ同種のモノもありますが、この怒り・憎悪に共感しその話を聞いているうちに精神科医が怒られている気になり、逆に聞き手が苦しみだしたり、卑屈になってしまう場合。また、その怒りの感情に怯え、怖くなったりする場合もあります。

3.患者の孤独な孤立無援感
苦しみながら助けの無い状態、その体験中に味わった孤立無援さ・孤独感が相談者の話で聞き手の中から思い出され、その防衛行為に、ただ話を聞いているという原則を時に忘れ去られ、自分が欲しかった救済者の役を演じようとしたり、救済のために患者と深い仲(セックスを含む恋人・不倫関係など・・)になったり・・・。

また、この孤立無援感につけ込んでくるのが、マルチ商法だったり、高額セミナーだったり、カルト宗教だったりしますね。その苦しみを癒すにはこれを買えというヤツです。その為、こういう所では相談者の辛い経験の暴露を勧めます。

4.傍観の罪悪感
衝撃的な事件の傍観者の中には、自分だけ無事・無傷でいたことの後ろめたさ、罪悪感があり、そのことが苦しみになることがあります。

5.加害者の感情
余りにも絶望的・不条理なストーリーを聞いているうちに精神科医は加害者の感情にも共鳴することがです。

これは聞き手自身が自分の悪の部分に気づくことですね。例えばレイプ被害者の女性の治療で、聞き手が性欲の高まりを感じるのはごく当たり前のこと。(レイプ物のAVなんてものもありますから・・・」

さて、上記の衝撃的な体験の告白を聞いた未熟/運の悪い、ヒーラー、精神科医、グル、ヒーラー、メンタル・コーチにセラピストなどは、すっかり患者の心理状態と圧倒され同化し、相談者・患者と一緒に地獄に落ちてしまい、苦しみの輪の大ハマリします。

さらに、このような逆転移・恐ろしい連結が起こると、場合により聞き手もこの世ならぬ不気味な幻をや夢を見たり、悪意にみちた偶然、離人感や非現実感までの恐怖などに巻き込まれることがです。

なお、憑依状態の相談者、呪詛を受ける人に対しては、逆に祓い・返す為にあえてこの状態に為るように、自ら飛び込み、突き進む場合もあります。

さて、基本的には相談を受ける者の立場としては、イメージ的にはこの世という岸から出ることなく、その岸のそばを滔々と流れる川に押し流され苦しむ相談者にロープを投げこみ、相談者を引っ張っているようなものです。

そして、相談者をその岸に引き上げるのが治癒・解決になりますが、逆転移状況は、聞き取り手自体のその岸・基盤自体が実は相談者の悩みよりも脆弱・不安定なモノであった場合に発現します。

そして、それなりの伝統的な巨大宗教は岸・基盤をこの世の外に、神だったり仏だったりに置き、この世自体を苦しみの川とするスケールの大きい考えなので、そういうところの正統的な修行は、往々にして現世利益とあまり関係無いと言われるのはこの所以です。

だからこそ、多くの人を救えるという面もありますが・・。

さて、このように聞き取り自体に未熟者・自分の力量をしらない者には危険が付随するため、引き込まれ苦しむ事を体験し知った祈祷・呪術師などの一部は引き込まれ苦しむ事を恐れるが故に、話を聞くこと自体を厭い、すぐに祈祷に向かい、祈祷だけで済まそうとします。効果・験は基本的に激減しますが・・・。

ただ、そちらのほうもまっているだけで多くの祈祷依頼者がくる所では時間を短縮し、多くの人を捌けるので、特に大きな観光神社・寺院では経済原理と効率重視の流れの中で推し進められているのが、現状です。

しかも、災厄(間違いではありません・・)なのはそういうところは、大概にして次世代の宗派の教育機関や修行場だったりするので、そこで学ぶ修行者が自然とそういう聞き取り軽視・祈祷重視の対処法しか学ばないという場合が多いからです。

ただ、さすがに何もせずに相談者をただ祈祷を見せて、聞かせて、終わりでは、納得せず不満をもたれるので素人でも出来る読経や祝詞の奉唱をさせて、有り難い何かをしたという満足感を持たせて帰らせます。

しかも、このやり方の上手く怖い所は、確かにある種の人間や場合では自分で読経・祝詞奉上する事でただ祈祷を体験するよりも効果がある人がいることです・・。

しかし、詳しい聞き取り、共感的傾聴がなされていないので問題の最深部まで原因が究明されず、除去されているのかも確認されず不明なので安心出来ないのもまた、事実ですね。

さて、此処まで優れた聞き取り・共感的傾聴の重要性を散々書いてきましたが、でも実は普通に考えて優れた受容的な許容が出来るだけでも、とてつもないコミュ二ケーション能力です。

その上で、優れた祈祷能力、幅広い学識、臨機応変な精神・・・、これらを持つ術者が存在したとしても少ないでしょう・・。

まして、それを探すとなると大変です。

そういう意味で、多くの方が二流、三流、パチモンに騙されるのも仕方ないのかもしれません・・。

私自身もまだまだですしね。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いです・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年9月30日 (火)

マントラ、読経系と瞑想の危険 阿弥陀信仰をもとに

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はマントラ系(日本ならば念仏系)の危険についてです。

これの元ネタは今昔物語に出ている話。

ちなみに今昔物語は今で言う実話系の雑誌、説話集の本のことです。

『 伊吹山の三修禅師は、学行はそこそこにして、ひたすら後世を願う念仏も唱える禅浄兼修の僧であった。

ある日、空から神妙なる声が聞こえ、貴僧の念仏の功徳が積もり積もったので、明日の昼過ぎに極楽浄土に導いてあげましょうとの御告げがあった。

禅師はたいそう喜んで弟子たちをそばに侍らせ、念仏を一心に唱えながら待っていると、にわかに西の空に光明がさし、やがて金色に輝く釈尊の顔を出現し、えもいわれぬ音楽が鳴り響く中を、禅師は紫の雲に包まれて、観音菩薩に手を導かれながら、西の空に消えて行った。

それから7日ほどたって、弟子たちが裏山に薪を取りに行くと、大きな杉の木のてっぺんに禅師が藤蔓で縛りつけられているのを発見した。

禅師は、半死半生の様子だが、なんとか念仏を称え続けている様子。驚いた弟子たちが、下に降ろして助けようとすると、禅師は「どうして、私の往生の邪魔立てをするのか」とますます杉の木にしがみついて離れない。

なんとか弟子たちが力を合わせ、禅師を担いで寺に戻して、「禅師は天狗にたぶらかされ給うたのです」と嘆いたが、禅師はついに正気に戻ることはなく、西方浄土の往生のことばかり口走りながら、三日後に亡くなった。』

というお話です。

しかし、ここで不思議・疑問があります。それは、例えば三修禅師は禅宗と浄土宗という二つの宗派を修めた人物でありながらも、天狗にだまされたか、術に破れたかして往生/阿弥陀様の極楽行きに失敗していることです。不思議ですね・・・。

(ちなみに、鈴木大拙は浄土宗と禅宗が日本仏教の二極と評価していました。閑話休題)

もし、万が一でも彼が本当に天狗に騙されていたのなら、念仏者を守るという阿弥陀様の加護が無い行をしていたことに成ります。しかし、阿弥陀様の本願(誓い)ではどんな者も唱える者を守るというはずです。この誓いは嘘なのでしょうか・・・?

それとも、阿弥陀様およびその眷属の力は天狗、正確には不明ですが、とにかく修行者を天変地異や魔魅怪異から守るには足りないということでしょうか?只の気休めという事ですか・・・?

そして、彼は禅僧でもありましたから、座禅・瞑想のエキスパートのはずですし、弟子がいた訳ですからそれなりに指導出来るだけの経験や学識も持っていたはずです。そして、幻覚や迷いに対して禅僧ならそれなりの真偽・正邪が出来たはずです、自分の瞑想経験や知識から、禅病という座禅修業による幻覚・心身の不調についても既知のはずですから・・・・。

しかも、彼は飛行や神仏の示現、霊視霊聴をするという超常の才を見せていますから、力の無い口だけ、パーフォマンス重視の偽坊主ではないそれなりの行を積んでいる証拠を出しています・・・。本当に不思議です。

さて、この話を知りましてから、私は神仏の加護というモノを意識するようになりました・・・。わが身の安全の為に、安易に親鸞のように阿弥陀様の慈悲をただ信じれば良いと言う説は納得出来なくなりました。

確かに座禅/瞑想や観想、マントラ朗誦も大事ですが、魔物・怪異などに対しては人の力は頼りなく、また、不敬かもしれませんが阿弥陀様(及びその眷属の力)では魔物、障害にたいして心細く感じました。

しかし、これが神道の神祇とその眷属の力、密教の明王の加護や護身系の技術などを身につけてあれば、三修禅師は騙されず、守られ、途中で力が足りず往生途中に戻る際でも安全にこの世界に戻れたはずです。また、同時代の多くの説話はそう説いています・・・・。

少なくても彼のように発狂して悶死する可能性は減ります・・・。

皆様はどう考えますか・・・?

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いです。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年9月26日 (金)

信と熱愛のバクティ・ヨーガ、と混沌魔術

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

先ほどまで、混沌魔術の修道論を書いた記事(作成時間約五時間)をこの馬鹿なココログのシステム・エラーのために、消去され白痴化していたどうも、皇悠です。

ええ、もう書く気力がないのでその記事のヒント・論旨を超アバウトに書きますが『クロウリーのテレマ・混沌魔術。特に無の書の修道論はハタからジュニャーナそしてバクティ・ヨーガの順番でその流れで進みます』と言う事です。

その対応とか詳しいことは今はとても書けません。気が滅入り意欲が無いです、ちくしょーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーう、久しぶりにいい記事が書けたのに・・・・orz。

何故か、このブログで霊的な奥義・詳しい基本的な原理を書く際にこのような損失に良く合います。何故でしょう・・・・・・?誰か妨害しているのかな・・・。それとも、天機いまだ揃わずでしょうか・・・?

さて、今回はボロボロなのでここまでです。では、最後にいつもの『貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・』。

では、MP0の皇悠より。

御祓い行こうかな・・・。

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2008年9月24日 (水)

戒律と霊能

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は呪術・祈祷・魔術に戒律について幾つか記述しようかと思います。

戒律といいますと私の中では仏門のイメージがありますが、基本的には自分をコントロールしようとする方法としての自分の言動を制限する方法であります。

その具体例が戒律となります。またそれは一面で戒律を守ることで、悪から自分を遠ざけることが目的であると言えます。

また、大義名分を与えて、行動を制限することでエネルギーを調整する手段でもあります。

さて、比較的に有名なのが仏門・仏教の在家の守るべき戒律とされている五戒ですが、それを以下に紹介します。

一 不殺生戒「殺さない」
二 不偸盗戒「盗まない」
三 不邪淫戒(在家)・不淫戒(出家)「エロイ事をしない」
四 不妄語戒「嘘をつかない」
五 不飲酒戒「酒を飲まない」

それが八戒となると下記の三つが加わります。
六 香油塗身戒 身に香油を塗らない「今なら香水も入りますね」
七 歌舞観聴戒 演劇などを見ない「これはテレビ・映画・アニメなども厳密には入りますね」
八 高広大床戒 高座に坐り好床に臥さない「今・現在なら上座に座り、ソファーや座布団などを使わないということですね」

十戒となるとさらに下記の二つが加わります。
九 非時食戒  正午を過ぎてから食事をとらない「つまり食事は午前中のみ」
十 捉金銀宝戒 金銀財宝を親しく手にすること「今なら厳密には金銭の役割をする紙幣にカード類も入りますね」

これが出家者となると一段と厳しくなり、比丘二百五十戒、比丘尼三百四十八戒となります。


上記の戒律は基本でして紀元前からのお釈迦様の時代からの伝統ある戒律ですが、これとは別により理念的な大乗戒と呼ばれる戒律もあります。

さて、厳格に戒律を守ると世俗の生活からはかけ離れた生活となります。つまり清貧と静寂の生活とも言うべき生活となりますね。このような生活を本当に継続出来るならば、低級霊というか、その人の道を惑わすモノの影響を受ける危険性は、かなり少なくなると思いますが、在家の人間には十戒自体が無理・許容量以上ではないかと思います。

より詳しい戒律に関しては、専門家にお任せするとしまして、私が低級というか邪悪なモノの惑わしを避ける方法としてはお勧めできるのは、実は心霊現象やオカルト、怪奇現象、超常現象、ホラーなどに関する情報を遮断・中和することです。

私自身も若い頃には、それなりに心霊現象に悩まされていましたので心霊関係の本は随分と読みましたが、精神的なバランスを保つ為に心理学書、経営書、歴史書などを呪術・心霊関係の本以上に読みました。

本当は、心霊関係の本も読まない方が良いと考えたのですが、宗教書を読んでいても自分の身に何が起きているのか分からず、手掛かりを求めて心霊関係の本を読んでいました。しかし、振り返ってみると心霊関係の本は、ほとんど何の役にも立たなかった気がしています。

逆に非常に参考になったのが、似非科学の批判書・民俗学系の学術書や説話系伝記、集団心理療法や催眠療法系の解説書、呪術系の訓練書でした。

ただ、これらの本はどの本も専門書と言うべき本ばかりですので一般の方には少しばかり荷が重いというか術語・専門用語が多く取っ付き難いかと思います。

よって、一番簡単で効果のある方法が心霊現象やオカルト、怪奇現象、超常現象、ホラーなどに関する情報を遮断することになるのです。

その意味では、霊感体質の方にはこのブログもお勧め出来ないことになります。

私自身は過去の体験から得られたこともあれこれ書いていますが、もしこのブログの閲覧者で自分が霊感体質であるとか、霊媒体質であるとか自覚されているならば、心霊現象やオカルト、怪奇現象、超常現象、ホラーなどに関する情報をすべて遮断して、科学や経営学など心霊・祈祷畑とは無縁なことに興味を持たれて生活をされるのが一番安全だと思います。

逆に、祈祷師なり呪術師なり、魔術師なり私のような妖術師なりになる。術師としての能力・技能を高め磨くのならばあえて鍛えるためには地獄に行くのは正しい姿でありますが・・・・。P・キャロルが無の書に書いているように不運・逆境こそが能力と力を与えてくれますからね・・・、それに失敗しても何十年か先の死が早くなり死ぬだけですし・・・、本人が納得しているのなら自殺も可と私自身は考えていますので・・・・。

さて、それ以外には、伝統的な宗教を信仰されるのも、霊感体質や霊媒体質の方にお勧め出来る安全な霊障対策ではないかとも思います。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いですが・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年9月20日 (土)

審神・審神者と託宣・啓示・霊告

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は神道の歴史に詳しい方やオカルトに興味を持たれている方ならば、審神・審神者(さにわ)と言う言葉をご存知だと思いますが、この言葉の説明です。

一般の方にはあまり馴染みのない言葉ではないかと思いますが・・・。

さて、審神・審神者(さにわ)とは、神憑りとなった霊媒(シアー)に降りた神霊と会話をする事で正邪・真偽・利害を鑑定する役目を担う人のことです。その歴史は古く日本書紀において神憑りとなった霊媒が託宣(たくせん・神のお告げ)を述べたとの記録が数多く記載されています。そのため古代の神道においては、この託宣(霊告とか啓示などとも言います)が重要な行為であったとようですね。

それが時代を下り、審神・審神者が様式化され、神憑りの恍惚状態に入る手段として琴や石笛(いわぶえ)などの音楽を使用されるようになり、やがて託宣が衰退し、歴史の彼方に忘れ去られてしまったとの説があります。

他に「さにわ」は「清庭」(さやにわ)の意味で、神を祭り託宣を受けるために忌み清めた庭(場所)のことを指したとする説もあるようです。

いずれにしても託宣が神道の原点と言えるのにそれが衰退してしまった理由の一つが霊媒に降りた霊の真偽を鑑定することの難しさにあったのではないかとされています。これは経験しなければ分からないことではありますが、霊の霊格の高さなどを調べるのは、非常に難しいということです。

このことは、私も例外ではなく、例え神仏が降りられたとしても、その神霊が本当の神仏であるか、低級なモノの惑わし・虚偽であるかを判断するのは、楽ではありません。私の場合には、神仏の語られた内容がその宗旨の教えから逸脱していないかを確認することで真偽を判断しました。それと利害・即時性ですかね。

しかし、この方法も万全ではなく、自分の潜在意識が作り上げた内容である可能性を否定出来ない事は承知しています。その為、最初の頃は自分の中で答えの見つからない質問を神仏に尋ねていましたが、どんなに慎重であったとしても低級なモノの惑わし・虚偽を防ぐことは難しいと思います。

それでもある程度の文章量・内容がある場合には、その話の内容を確認することで、低級なモノの惑わしであるか、否かを判断することは出来るのですが、短い言葉の場合には、その真偽を確認する場合が困難で、まず無理です。

万が一、確信が持てたとしても同じ神仏でも宗旨・受け手が異なれば、教え自体も異なりますし、最終的に目指す境地は同一であるとしても、その道筋が大きく異なることも珍しくありません。そのため、参考にしますが、それに縛られないようにしています。

私がこのような考え方をするようになったのは、やはり過去の経験からです。神仏の言葉を絶対視するならば、神仏の言葉を取り次ぐ人間の言葉が絶対的な権威を持つことになり、その言葉を取り次ぐ人間が生き神様、生き仏と崇められるようになるのがまず避けられないからです。

言葉を取り次ぐ人間が生き神様、生き仏と崇められるようになったり、自分を生き神様、生き仏として崇めるように信者に強要するようになった場合には、転落の始まりの例がほとんどですから・・・。

神仏の言葉であるから間違いがない、神仏の意向であるから従わなければならないと言い始めたならば、まず危険水域です。

その意味では審神・審神者の存在も一つの転落を未然に防ぐための対策であったのではないかと思いますが、伝統的な教団に所属されることなく、一人で活動していますと本人がよほど危険性を自覚されていないと簡単に転落・迷宮に入ります。

しかし、これは今も昔も多くの人が神仏に近いと思われる人間の言葉を通して神仏を知ることを求め、神仏に近いと思われる人間の持つ力にすがろうとする権威主義的な風潮の中ではとても難しいことではありますね。

さて、今回はここまでです。お役にたてば幸いですが・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年9月19日 (金)

天狗とダキニについて・・・

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は私のライフワークor信仰/術式の核心的なところであります、稲荷/ダキニ天狗信仰の内で天狗について少し記述しようと思います・・・。

さて、皆さんご存知のTVに文芸や芸能の舞台上に登場する天狗(の特に装束)は山伏のそれと同じですね。

天狗は、赤い顔で鼻が高く、鳥のような翼があるのが最も一般的なイメージだすが、山国日本に伝承されてる天狗には、多様な形態があり驚かされますね。その容姿については、①山の神・山霊の天狗(姿・形を伴わず実体が不明)、②烏天狗(顔に鳥の様な嘴がある)、③人物相(鼻高天狗・山伏系・僧侶系・童子系)と、大きく三つに分類することができ、現在では、人物相の内、鼻高天狗を大天狗とし、烏天狗は大天狗に対して、小天狗とも称されています。ただ、どのお姿も山伏風なのは共通ですが・・・。

また、天狗ゆかりのモノに名前がつくこともあります、例えば巨岩・巨石・山(天狗岩・天狗岳等)、草原・湿原(天狗平・天狗の庭等)、巨木・老木・神木(天狗杉・天狗松等)などですね。

しかし、天狗は本来文字通りに「天の狗=天の狐/キツネ」であり、通常のキツネの霊「地狐」と対応するものとされています。

更にまた、天狐・地狐・人狐などと稲荷系の祭文にはセットで考えられていますが、人狐は天狗化した人間・または狐類の力を得た人とも考えられますが、大抵の場合においては敵対する術者・人間に想定されます。

ちょうど、先の戦時中にアメリカ人を鬼畜とか呼んだような蔑視する敵・人を罵倒する際の基本的な一例ですね。ちなみに狐=ダキニという観念・イメージについては「真言立川流」(学研)に詳しく出ていますので宜しければお読みください・・・、この辺を書くと今回の話とずれるのでカットします。

さて、天狗が山伏の形をとることになったのは以下の理由が考えられます。本来天狗は日本人の霊魂観から発する特に姿のない・霊的な存在で、同時に山の神でありました。

しかし、これを信仰の対象や芸術・芸能・文芸に取り入れる際に特に協力・参考にされたのは、他ならぬ山岳宗教である修験道でした。特に有名な天狗説話が作られた地域、例えば熊野の熊野古道などは参拝の道であると同時に山伏など修験者の修行の道・地帯でもありました。

さて、修験道の修行は苦行精進の結果として山の神と同化し、山神の霊力を身につけて超人間的な験力(げんりき)を得る面があります。つまり今で言う超能力ですね。

また山伏達が人間離れした荒行をこなす修行者であると同時に里に降りれば祈祷をしたり薬を作ったりと、庶民にとっては神様のような存在でした。そんな中で山伏と天狗の同体化・同一視化が進んでいったものと考えられます。

では、天狗自体はというと、幾つかの姿があり、その歴史上のイメージにも変遷があります。この辺は「天狗はどこから来たか?」(あじあブックス)に特に詳しく論考が出ていますのでお読みください。書きますと100000文字以上になるので今回は勘弁してください。

また、その関連で「天狗覚書」というすばらしいサイトがあるので良ければお読みください・・。

さて、気を取り直して、天狗の特徴・特性をあげますと大きく上げると三点あります。

まず、翼を持つ=空を飛ぶ事。次に山に住むモノである事。最後に強力な呪術的な力を持つ事です。

よく、天狗とダキニを同一視・同系の存在と記述する論文や書物を見ますが、その理由も古文書に「〇〇はダキニ・天狗なり」とか、「〇〇は〇〇天狗の眷属・・・」、「ダキニ・稲荷たる〇〇は・・」などという偽書かもしれない文書の頼りだったりします。

勿論、同一視される理由はそれなりにありますが余り書かれず・取り上げられないので今回、幾つか上げます。

さて、この同一化の適切な理由の一つとしては「ダキニが日に千里四方を行く」と言う記述が日本密教の聖典・大日経系文書にあり、その事から一日に千里も山や川を超えて四方を行くには飛行の才がないと無理という生物的な見解(ちなみに千里は約4000キロ、陸上生物で一日に1000キロ単位で移動できるものは存在しなく、まして山や川を越えて行けるモノは地球上では飛行能力を持つ生物だけが可能という考え)から来ているようです。

また、ダキニはその尊像に翼を付ける例が多々あり、この点も同じ有翼・飛行の力を持つ天狗とダキニが同化した理由の一つです。

ちなみに同じダキニを重要視する宗教にチベット仏教がありますが、そこでは端的にダキニに空行母(空飛ぶ仏知・霊力を与える母)という敬称を与えています。

また、天狗が(大鳥や竜巻に化けるor使って)人攫うという属性も同一化に関わりがあります。

つまり、元来ダキニは食人鬼・死体食いの基本属性がありますので、人を攫う→攫って食う→食人鬼→ダキニという繋がりですね。

ただ、食人は天狗にはあまり受け継がれずに弟子にする、天狗にするという方向に向かいましたが・・・。(昔話や説話では食人は鬼の専売特許ですね。)

さらにまた、強風や落石・隕石など空からの災難を起こすと考えられたのも飛行する魔神・ダキニと同一視される原因の一つになりました。

また天狗の起こす怪異には天狗風(強風)・天狗飛礫(隕石・落石)・天狗笑い・天狗倒し・偽来迎(幻影)などがありますが、これも元来は山中で起こる奇怪な自然現象を、喜怒哀楽の激しい「山の神の仕業」とされ、俗世に住む人間が、聖なる山を荒らした〈穢した〉時、天狗は山の神と同様に考えられて機嫌を害ねるということになりましたね。

ただ、このような各種の強力な呪力・験能がある事が、天狗を神仏の中で随一の験力があるとされたダキニと習合した理由の一つに繋がりました。

また、面白い事に山の神が基本的に歌や舞を好むことから、山中ではむやみに田植え歌や謡曲を歌ってはならないという山入りのタブーがありますが、同様に考えられた天狗には「天狗舞」「天狗調子」「天狗太鼓」など、歌舞音曲好きな性格があることも上げられます。

また、自然的な怪奇現象に山で怪火が灯ると言うがありますが、これを天狗火という天狗の力に考えられ、また山中で火を焚くという事は人為的な行為を連想させ、修験道の鎮火・火伏・愛宕信仰/祭礼に繋がります。

このような天狗の持つ火に関する特異な特性は宗教性と深く関与し、愛宕神社に関連したこの国では珍しい火神信仰にも繋がります。

さて、著名な八天狗には上から愛宕山太郎坊ー山城(京都)、鞍馬山僧正坊ー山城(京都)、比良山次郎坊ー近江(滋賀)、飯綱三郎ー 信濃(長野)、大山伯耆坊ー伯耆(鳥取)&相模(神奈川)、彦山豊前坊ー豊前(福岡)、大峯前鬼坊ー大和(奈良)、白峰相模坊ー讃岐(香川)がいます。

このうちで太郎坊は上記の愛宕信仰に繋がりますが、他にも僧正坊は鞍馬系・新興宗教の鞍馬弘教に、飯綱三郎は管狐使い信仰に、相模坊は金毘羅信仰にも関連がありますして、これらの信仰の本尊を上記の天狗にする場合や天狗に似せて創作した場合もあります。

さて、ダキニにはまた、あまり知られてませんが森林に住む精霊・神仏であるという設定・特性(ちなみにダキニなどは夜叉族と区分され、夜叉という言葉には樹木の精霊という意味もあります・・・)があります。ちなみにこれはダキニを紹介した経典が書かれた当時のインド亜大陸の葬祭では、死体を火葬にせずに置き捨てていまして、その斎場・墓地・ぶちゃけて言えば死体捨て置き場が森林とされ、そこでダキニが捨てられた死体を待ち構えその死体及び迷った人など食べて暮らしていると考えられていましたので、結果として森林に住むモノと考えられたようです。

また、それは森林=山岳地帯という日本の風土では森林に住む=山岳に住むという形に理解され、山に住む天狗もダキニと同じところ(山林)に住む神霊である=同類と理解されたようです。

さて、このように多くの共通項がある為、ダキニと天狗は同一視されていったようになりました。

これは一例ですが神仏習合・同一化にもそれなりの理由があるものなのですね。

さて、今回はここまでです。お役にたてば幸いですが・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年9月13日 (土)

祈り・祈祷の心得、伝授・伝法の実際

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回はコメント頂きました(・・・ありがとうございます。)桃様への私信or返信などです。

なお、お読みいただきます方、全てに何度も色々な言い方・表現で記述・お知らせいたしておりますが、基本的に当サイトの記事・内容は多分、他のそれなりの術者・古文書・行記・次第書に出ている内容とさして代わりがありません。・・・勿論、皇悠風味のアレンジや見解がありますが・・・。

ですので、私のオリジナルの秘儀や伝授を受けた流派の詳しい詳細・やり方は基本的に秘密で、万が一にも記述する場合も実践上の危険がありますし、また間違いがあるといけないので、ボカシ、中抜けさして頂いて記述しております。

その為、どこの流派・信仰・宗派でも使用可能な基本的な事柄のみ書かせて頂いております(そのため、似たような記述や同じ内容の記事を他の方のサイトや書物で見かけた方も多いと思いますが、それは別に無断流用・コピー&ペーストしている訳ではなく、汎用性を持たすために改変しているため似るだけです。勿論、参考にさしていただいてる場合はその参考先などは礼儀としてできるだけ表記させていただいております。)

さて、何事も基本的には何かを習う=弟子となる場合は金銭などを渡す事は常識なので、このサイトの記事・内容も調べれば、公的文書なりなんなりで判る程度の事しか書いておりませんし、書けません。

何故か、一部では情報・知識は無料という考えがありますが、基本的にこの界の奥儀・コツ・重要な教え・情報、知識を身に付けて出来るようになるモノは全て有料です。

尊敬する中村雅彦師、陰陽師の高橋圭也師などはお書きになられていませんが、基本的には弟子入りするということは金銭なり労働なり代価を払いその代わりに稽古をつけてもらう、指導を受けれるということですよね。これはお茶やお花、武術などこの国の他の伝承システムもそうなっていますよね。

まして、流儀なり体系を完全に身に着ける・体得させて頂くには、努力や工夫以外に師の指導が必ず要ります。

そういう意味で、よく講習会やセミナーなどで儀式の次第やヒーリングなどの方法をあえて間違えて教えてますが、それは所詮、学ぶほうが普通に考えて受ける資格がない程度・馬鹿にされる程度の方が多いので、しょうがないのですが・・・。

ちなみに中国系の武術家はよくこういうことをしますが・・・、例え正しくやり方は教えても、大事なヒントやコツを詳しく理解し、身に付くまで教えない上に、間違った理解をしても放置するので生徒は気付かずに誤解&迷走したままで下手すると一生そのままということがありますが・・・。ほとんどの場合で内弟子・相伝者などと呼ばれる師に認められた特別な才能があるか、それなりの金銭を差し出したか、義理・縁があるかしないと幾ら弟子・学徒などのほうが希望し努力していても基本的にはモノにならないというシステムです。

ちなみに、この辺の基本的な構造・仕組みは武術系の逸話にわりとよくでてますし知られていて、「シグルイ」「拳児」などの武術系の漫画にすら出ていることですが、何故かスピ系・ニューエイジ系では知られていません、それで無駄なお金と時間を費やす方が多いですね・・・。

さて、私自身、二人ほど師にあたる方がいますが、其々に金銭以外に物品や労働などを含めて金銭に換算しますと合計で二百から三百万位は捧げています。ちなみに後悔はしておりませんし、逆に意外に安く付いたほうだと考えています。

密門だと大学の授業代に専門道場の滞在費、儀式用の道具代に衣装代など・・・その全てを金銭に換算して考えると一人前になるのに下手しますと数千万単位は楽に掛かりますからね。そういえば、たしか不動行者の池口氏は高野山で学習し修行した際に両親は土地を売ったとその自伝にお書きになっていましたね。そういう意味でセミナーや講習会で低レベルとは言え万単位の金額になるのはしょうがないのかもしれませんが・・・。

ただ、所詮は書物や口伝だけで上手くなれるものではないので、大抵の人はやってもしょうがない気がします、基本が出来ていない方が多いので・・・、たまに例外はいますが本当に少ないですからね。

ちなみに変に修行すると誤る例としては、あのオウムの麻原こと松本氏があげれますね。彼はそれなりに色々な師に付き学んでいますが・・・、正式な伝授を受けれる立場・内弟子などになっていません。ただし、強力な行はしてたのはたしかで、だからこそ万人単位の弟子を教えられ・持ちましたが・・。彼の行体系はいくつかの歪みがあるので暴走した際のストッパーがないために遂にはテロへ向かい自壊しました・・・。

さて、今回は長々と前振りが長くなりましたが、桃様の御要望にお答えしますと一般的な日々の「祈りの心得」としては、

そのままの形で『無心にお祈りされる』のが、良いと思います。

ただ付け加えるとすれば出来れば弥勒菩薩様の仏像や御影(御写真や御尊影ー絵画のことです)、御種字・御法名(南無弥勒菩薩とか帰命弥勒仏など)が書かれた掛け軸などを本尊・対象として御飾り・御祭りして、それに向かいながら弥勒菩薩様の御真言や御詠歌、御尊名などを今までのお祈りに加えられて、祈られると良いと思います。

このほうが集中しやすく、雑念が湧きにくくなり、更に雑念が出てきても消しやすいので、お勧めします。

さて、なんだか真言宗や天台宗系の祈り方・勤行みたいになりましたが、基本的に弥勒菩薩様をお祀りするのが、仏教ではこの両派の流れだけなので