日記・コラム・つぶやき

2009年10月31日 (土)

悟り・神との出会いなどの周辺

御覧頂きまして有難う御座います。

ソーサリック・エバンジェリトの皇悠ッス('-^*)/。

さて、どんな高僧、聖人、達人に術者であっても、この世で生きていくからには、飯を食う為に托鉢で御布施を貰ったり、働いて生活費を得たり、炊事に洗濯などをしなければならないですよね('-^*)/。

つまり、世俗・日常的な物事とどこかで折り合いをつけなければ成らないモノです。

当たり前の話ですが・・・。

これは自分が何の為に生きるか?

何故にして存在しているのか?という意味を求め、疑問を感じつつ生きている多くの現代人が、内心では何故食う為に働く必要があるのか・・・?と日々疑問に思っているのと同根・同意です。

有名な話ですが、イエスが『明日のことを思いわずらうな!』と豪語してますが、それは文脈・応用などを考えますと「明日の食べ物の心配をするな!」と言ったと言う事でもあります。

また、これは例えば今・この瞬間に神に出会い・見性/覚醒/悟りを啓き、その感動に震え喜びに浸る者でも、明日になれば食べ物を探し、生きる為に日々の営みをする事になるのを、ある意味で正直に顕しています・・・。

因みに禅宗では、世俗との折り合いにおいて、最も世俗を否定した側に位置する考え方の人物がチラホラいます。彼らは『例え非業・不遇の死を遂げても仏そのものを・仏として生きるべきだ!』と考えた人たちです。

そう云う方の一人に有名な臨済の友人でもある普化と言う方がいます。

彼は、豪華な三ツ星レストランで歓待され楽しんでいても、話題が道に外れようならば出て行くような人でした。


また、不思議な事に、悟りに神との出会い、つまりは修行なり訓練なりで、個人の限界・高みなり深淵なり究極なりに至った後にこの世でどう生きて暮らすのか・・・、世俗の折り合いをどこでつけるか・・・という問題はありながらも何故かその人の生き方を実際に悟り前と悟り後でどうするのか?を具体的に記述し、有効な形で組んでいる体系は、実は殆どの呪術体系・宗派ではありません。

一応は、仏教では悟り後には菩薩行をするとなっていますが・・・、悟った筈の人がどう考えても後世に問題や騒乱、分家騒動などを起こす要因を残したり、在命中にしたりで、救済や慈悲行のはずの菩薩行とは見做しにくい行いをしています。

また、悟りながら・見神しながら不遇の死や悲惨な人生を過ごした方(例えば、ジャンヌ・ダルクなど)は、やはりそれなりにいます・・、残念ながら・・・も。

では、今回は此処までで・・す。

閲覧頂きました方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように祈りつつ、失礼します。

皇悠拝

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2009年10月28日 (水)

何故?貴方は呪術・祈祷・信仰をするのですか・・?

御覧頂きまして、有難う御座います。

ソーサリック・エバンジェリト(?)の皇悠です。

さて、今回はガチ話です。

『何故?貴方は呪術(祈祷・信仰)をする(学ぶ)のですか?・・』
この言葉は、皇悠が始めて拝師した方に、ある重要な祭儀時に問われた言葉です。
(勿論、そのままでは無いっスf^_^;、ある文脈からの抜き出した言葉ですから・・)

そして、折りに触れ自ら問い直し・考え直す言葉でもあります。

これは別に呪術に限りませんが、
何故知りたいのか?
学んで何を為すのか?
習って何をするのか?
その願いを叶えるのには(それなりの労力・時間・資金を掛けさているのだから)代わりに何を提供するのか?


そうした理由・意図・代償無しに反射的に知りたい・見たい・教えを乞う行為をする愚かさをまたこの言葉を自問自答しますと教えてくれます。


そして、また恩人はくだらない質問をした際に同じような趣旨の言葉で啓発して頂きました(有り難いに・・(^^ゞ)。

(因みに、皇悠はたまに怒った際に、何かが気に入らない際にも同様の言葉で問い詰め・ガンずめしたりします。閑話休題)


さて、人生にはやらなければ、理解不能な事もありますが、ちょっとこのような言葉で掘り下げるだけで、無駄や回り道を省く事が出来ます。


人生は長いようで短いのですから、真摯に悔いの無いようにすべきでは無いでしょうか?

そして、当ブログがその役に立てば幸いです。

では、閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2009年10月23日 (金)

何故にして、古い寺院や神社は廃れているのか? 間違った認識等

御覧頂きまして有難う御座います。

ソーサリック・エバンジェリトの皇悠ッス('-^*)/。

さて、今回は当シリーズの最終回として、多くの寺院や神社にはびこる間違った伝統・保守性・認識等を上げます。

えっとですね。
まず、前提として呪術・祈祷と信仰・崇敬と宗教は別々のモノです。

そして、残念ながら神社や寺院を経営し管理し維持する事は呪術・祈祷や信仰・崇敬に宗教と全く関係のない事です。

だからこそ、呪術・祈祷師でも無ければ信仰者でも無く宗教者でも無い経営し管理維持する存在を寺男とか堂守り等の言葉として古より在ります。現代語で云うなら多くの文物の維持・管理する博物館や美術館の職員に近い意味あいで・・。

しかし、現在は誤った認識からか間違った保守性からか分かりませんが、ただのそんな管理人・職員レベルの方々が多くの住職だの宮司をやっていたりしてます。

しかし、宗教施設であり、呪術・祈祷を行う場所であり、神仏への信仰・崇敬に関わる地である寺院や神社は必然的に宗教者・呪術/祈祷師・信仰/崇敬者である事を住職・宮司に希求されてます・・・。

そして、そんなギャップ・ズレが結果的に寺院・神社に集い関わろうとする信者・氏子・檀家との断絶・離別を呼び、廃れさせてます。

ぶっちゃけると、祀っているはずの神仏の存在・力を確信してなく、救いの御業たる呪術・祈祷を行わず、各派毎の理論・教学・神学に詳しく無い方々が古い寺院や伝統ある神社内ですら溢れ返っていたりして居るわけですよ・・・。

そして、そんな寺院や神社に誰が行きたいのでしょうか?

皇悠には、不思議ですね。

ある意味で多くの人は正直ですから、廃れている寺院や神社は廃れ・消えるのに値しているのかも知れないのです・・(^_^;)。

支え守り維持し、出来れば繁栄させたいと思わせる何かが無い、信者・氏子・檀家にそういう気持ちを起こさせないからこそ、廃れている訳ですから・・(≧▽≦)ゞ(笑)。

偏見かもしれないでしょうが、皇悠が個人的に思ってますが、何事も問題の解決策や改善法は幾らでも在ります。
しかし、そうした問題点を自覚して無い事こそ、多くの古い寺院や神社が廃れている最大の原因では無いでしょうか・・・?

では、今回はここまでです。長々と当シリーズを閲覧頂き有難う御座います。

では、閲覧頂きました方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年10月21日 (水)

何故にして古い寺院や神社は廃れているのか? その4 人口または世代

御覧頂きまして、有難う御座います。

道楽・妖術系伝道師の皇悠ッス('-^*)/。

今回は人口・世代論の話ッス('-^*)/。

さて、今でこそ若い人(皇悠は三十半ばですからオッサンですが・・)には個性だの独自性(オリジナリティ)だのを評価・讃美されていますが、往古より日本人は若い人にはらしさや伝統様式の礼儀に作法、躾や教養・基礎知識などを概念的に云えば個人に於いては歪みより均質性、個性より伝統・独自性より普遍性を評価していました。

そして、その証・基準の亜種が世代論/年代的な特徴の保持だったりしました・・(^_^;)。

しかしながら、少子高齢化・人口ピラミッドの崩壊、そしてそれから導かれる最大の未知たる日本人・日本の人口の減少が明らかになるにつれて世代論や年代の特徴を表現し・括る基準が難しく成りました(つまり、パイが小さく成るので、当てハメ難い人間が増えた訳ですよ。例え一%でも対象百万なら一万ですが十万なら千人で、万と千の差は・・・ねぇf^_^;)。

そして、コレはまた寺院や神社の支持者の減少にも繋がります。

例えば、今でこそ十万の支持者がいてもその構成の大部分が六十代では未来は無いのです、彼・彼女らはまず間違いなくこれからの三十年以内に死んでいドンドンいなくなる方々で・・・、そして例え宗教・寺院や神社に興味を持つ割合は世代的に関わらずいつも一定にあってもパイ自体が小さければ必然的に少なくなります。

現に、今の日本の宗教に起きてます衰退の大きな原因の一つが定期的な宣伝・告知を忘れてしまった事によるミスと世代的減少(人口ピラミッドの崩壊)に拠るモノです。


ぶっちゃけると今までは何にもしなくてもパイ自体がデカかった・デカくなったので、次の若い人が安定して来ましたが、どんどん人が減るなら来なくなるのは必然な訳ですよねぇ~。

まして、外来の宗教や思想が遥かに容易にネット経由でやって来る時代には、未だにネットに繋がらない所も多い旧態依然な日本宗教はヤバいですよね・・・♪(*^ ・^)ノ⌒☆。

しかも、若い人ほどネット経由で情報を得る・未知を知る機会が増えてますのに・・・。

この辺は微妙で・・大丈夫かぁ~?とたまに思います。


では、今回はここまでです。

閲覧頂きました方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より

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2009年10月18日 (日)

困った人々 パート2?

御覧頂きまして、有難うございます。

伝道系妖術師な皇悠です。

さて、今回もまたこの界の周辺に生息しております間抜け・マニア?半可通について記述しますよ('-^*)/。
さて、どの分野・何事もそうだと思いますが本当に間抜けなマニアと云うか、物事を知らない方々には何度か頭の痛い話や経験をさせて頂けるモノですよね(苦笑)。

さて、このような方々は以前も記述しましたが、まあ何というか不作法と云うか自分勝手な癖を多々お持ちです。
しかも、何と云うか・・・無知故の蛮勇もよくします。

さて、少し話をズレますが当ブログのPC版からだと直ぐにリンクで閲覧を頂けます(尊敬してます)中村師のブログの最新記事(「霊的相談について」)で、改めて何と云うかお間抜けさんの実体が出てくる・読めます。

さて、中村師を知り初めての依頼をする方は、多分に個人的な予測ですが、師の豊富な著作物やネットでの活動、または大学での活躍によって、そしてそれらの内容から遂には師に相談したいと判断すると思いますが・・・。

しかしながら、ここで一つ疑問が出ます。

今回の師の発表の内容(例えば紹介無しではまず相談は受けない、基本的には信者や関係者向け・一見さんお断りの世界、霊的障害/問題と判断し無いと受けない・・)などは師の今までの著作物や記事で何度も発表され、具体例も記述されて来た事です。

つまり、そういう相談希望者は著作物や記事にブログを閲覧・読破しても頭が悪・・憐れな方々なので、親切心から師は今回明確に発表したのでしょうか?

それとも、今の時代に著作物やブログ・ネットでのチェックもせずに、いきなり相談を希望する方が中村師の依頼する方に多いのでしょうか?

個人的には前者だとみてますが・・?

また、個人的に間抜けというよりも、愚かしく感じるのは祈祷・呪術が出来ると見做した方に(だからこそ、中村師に相談希望しているのでしょう・・?)、一般常識からもかなりズレた・相手の望まない振る舞いをしては怒りを買い、逆に呪われないのか?と考えないのでしょうか?


皇悠は修業時代にはK師を始め師達にいつもそういう恐怖感がありましたが・・?

本当に不思議です・・(?_?)どうなんでしょうか?


では、閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より。

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2009年10月17日 (土)

何故にして古い寺院や神社は廃れているのか? その3 継承資格

御覧頂きまして、有難う御座います。

妖術系エバンジェリストの皇悠です。


さて、今回はシリーズの三つ目にして最大の原因たる継承資格の問題です。

コレはよくある「寺の後継を主に親子・親族間でやる為に、往々にして才能もやる気も無いモノを後継ぎにし結果的に愚行の上に檀家や宗派から見捨てられる・・・」と云う話では無く(それはそれで情けなくも酷い笑い話ですが・・)、単純に別の形で云うと次世代の住職なり宮司なりになる継承者達にしっかりとした寺院経営・神社運用を教え無いままに受け継がす、つまりは具体的には親たるモノ達(本山に宗門に師に肉親等)が教育しえて無いと云う事実です。


あまり、ぶっちゃけるのも何ですが、寺院なり神社の主(住職なり宮司なり)に成るのは、自身で寺院なり神社を作り出した場合以外は、支えている経済基盤の檀家なり氏子の許可、宗門・教団の指定した資格、そして現在の管理人または住職・宮司が認めていれば成れます。

つまり、寺院・神社を運営出来ない人間(そうした教育を受けた事も無い人間)が、運営出来るか否かよりも重視されて、実際は後継者として選抜されている訳です(・ω・)/。

本当に商売をし、経済を学び、日々仕事をしています人間から見ると呆れた事実ですが・・・、企業に例えれば必ず(死去なり転居なりで)自然減する顧客(信者)を新たに増やせない/増やし方を知らない者が法人(店)のトップになる訳で、酷い話です。


勿論、個人で神仏を信仰する/祈祷を行う/宗教を学ぶのは神社運用・寺院経営には関係ありませんが、しかしながら、それは個人的の好みに基づき運と才能と努力で得た茨の道ですから、あくまでも個人的なモノ故に神社や寺院のように衆生済度的に還元しません。
(ぶっちゃけると個人で学んだモノは本人次第な訳で、死蔵しようが悪用しようが誰も否定・矯正が出来ません・・)

まあ、実際に間違い無く皇悠の持つモノ、術に作法、知識等も死と伴ってなくなりますし・・・。

そして、現代の日本の世の中は、伝統宗教が形成された時代・世界観とはかなり変わりましたし・・・f^_^;。難しいモノですね。

まあ、この世は諸行無常なんでどんなに尽力しても滅びる時は滅んでしまうので、アッサリと・・('-^*)/(笑)。


では、少しグズグズになったので今回はここまでです。

閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より

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2009年10月16日 (金)

何故にして古い寺院や神社は廃れているのか? その2 縁日

御覧頂きまして、有難う御座います。

妖術系エヴァンジェリストの皇悠です。

さて、今回は廃れた理由の二つ目の縁日(の変化)です。


さて、この縁日ですが、今ではタダ祀られた神仏に縁のある日程度の扱いですが、少なくとも縁日が定着し広まった江戸時代(の江戸)においては大事な意味・行いがありました。

因みに、縁日は主に仏教系の神仏に関わるモノが多く、また基本的には神社にしろ寺院にしろ多くの方に縁をもたらす(または、祀られた神仏を知らしめる)事を住職並びに神職者達が意図した場合が多く、そのために基本的には布施行に基づいた行為を多々行っていました。

例えば定番の無料の飲食の提供、高僧の法話開催、秘仏の公開、縁のある曲芸や演劇の発表等々・・・、まさに信者並びに近隣の住民の注目を集める為の娯楽・イベントとなっていましたが・・・、今では単純な金儲けの為の機会に成り下がった例が多いのです。


ぶっちゃけると、現代はそのような代価・娯楽、そして験や救い無しでは誰も支持しない・寄付や維持費を出さないと云う事を理解してない方々が増えた訳ですよ・・・。

さて、江戸時代は檀家・氏子制度が確立した時代とされていますが、実際は同じ宗派内での寺院や神社の移動、他派への転宗はそれなりに有りました。(実際に借り主が死んだ際に引っ越し先の大家の宗派に合わせて葬式をした例すらあります・・(^_^;))

だからこそ、氏子なり檀家の慰留策を活発に縁日にやっていました。(勿論、藩や幕府が大旦那として援助していたから・・とする論もありますが、それ自体も縁日のイベントを始めとした多くの無駄遣い的な投資・プロモーション活動をしているからこそ、長く強く支持をされたとも云えます)。


さて、今回は縁日が実は信徒・近隣に対してのその支持・援助に対するお返しの日でもあった事を記述しましたが・・・。
今ではキリスト教の一部でしかやっていない信徒への布施行・・・。記述していて何ですが皇悠自身、隔世の感じがします(・ω・)/。多くの寺院・神社は信徒への対応は酷い例が多々ありますから・・・。


では、閲覧頂いた方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。
皇悠より

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2009年10月15日 (木)

何故にして古い寺院や神社は廃れているのか? その1ドレスコード

御覧頂きまして、有難う御座います。

妖術系伝道師な皇悠です。

さて、今回からシリーズで前回の記事並びにコメント欄で取り上げた現在多くの寺院や神社が経済的・存在意義的に破綻したその要因について甚だ未熟ではありますが、考察してみようかと思いますf^_^;。

さて、では現代人が寺院や神社に行かなくなった(廃れた)理由の一つにドレスコードがあります。

因みに、ドレスコードとは服装規定とも云いますが単純に云いますと場に相応しい服装の事です。
さて、信仰者が信仰をする際の喜びの一つに祭礼に参加する事が上げられると思います(・ω・)/

そして、そうした祭礼、特に大祭や本祭は大きなイベントですから集客力のあるのですが・・・、単純に境内や参道の出店で飲食をする位だけならばあまりドレスコードは関係無く普段着等でも良いのですが、俗に冠婚葬祭と云いますが寺院や神社の大きな祭礼はその内の祭に当たりドレスコードが伝統として礼儀作法としてしっかりとあります。

つまり、大祭や本祭時に本殿に昇殿し祭礼に参加するには礼服(理想的には和装の紋付き袴)を、お祭りの花の御輿担ぎ等には法被・半纏・半タコ等を身に付ける/たいモノですが、残念な事に現代人、特に若い二十代以下の人はまず礼服・作法を知らず、また特に祭り用の法被や半纏・半タコ等は思いついたらすぐに手に入れられるモノで無いので(大体、専門店のオーダーメイドモノも多く、またそれなりの値段ですから・・)、往々にして恥をかき易く、また知らずに立ち寄ってみた際には場違いな服装で居るのも辛いモノがあり、なかなかに新参者・新規参入を難しくしています・・・。

しかし、こういうドレスコードが在るからこそ、不心得者を排除し、また参加者の一体感を作り出し得ているので、一概に排除出来ないのです・・困った事に(≧▽≦)ゞ!!

そして、こういう伝統を楽しむには初期費用・準備期間が要るので、お手軽・安易さに馴れた現代人には残念な事になかなか取っつきにくく、またそうした事柄を教えている公的な機関は無く、往古ならその地に先祖代々住み続けた一族に依って順繰りに伝えていましたが、人々が転住する事が当たり前な現代ではそうした作法や技術をどんどん継承の断絶・忘却を起こしています。
残念な事です・・・。

さて、今回はここまでです。

では、御覧の方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より

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2009年10月10日 (土)

困った人々

御覧頂きまして、有難うございます。

エヴァンジェリストな妖術師、皇悠です。

さて、今回はこの界の周辺に生息しております間抜け・罰当たりなマニアについて記述します。

本当に間抜け・罰当たりなマニアには何度か頭の痛い話や経験をさせて頂きました・・(苦笑)。

さて、このような方々はまあ何というか不作法と云うか自分勝手な癖・習性を多々お持ちです。

例えば、自然に神様仏様にカメラを向ける・・・よくいませんか?携帯を向けて寄り目でしかめっ面な人々(因みにこの行為自体も失礼な・犯罪ギリギリで、肖像権・所有権という言葉も知らないのでしょうか)?

他に、以前取り上げた境内の植物や砂等を盗む(窃盗・万引き)、ちょっと前に糾弾した供物の放置(器物・美観破損)、参道や境内に集団で勝手に祈ったり立ち話等を始めて長時間占有し交通妨害(道路交通法・軽犯罪法違反)と云った事をやらかしがちで・・・。

参ります・・(^_^;)。


そして、こういう方々のよくやらかす危険な行為が記念品で多くの所の御守り・御札を持つ事です(*゜▽゜ノノ゛☆。

まさか・・・、真摯な信仰・祈祷・呪術を学ぶ方向けの当ブログを御愛読頂く皆様はやってないですよね?
もし、そうならば、より一層の呪術の公開よりマナー・作法の普及に努めないとイケマセンねf^_^;。

さて、基本的な事ですが「御守りを購入=其処でお祀りする神仏に加護(験)を依頼する呪術」であり、ある意味では「其処の神仏の信仰をする者の一員になると表明する」事でもあります。

これは宗教の枠組み・神仏との関係が信仰する代わりに加護(験)を頂く関係なので、逆に云えば加護(験)を望む=信仰を希望と成るからです。

つまり、多くの所の御札や御守りを持つと云う事は、其れだけ多くの信仰する神仏がいて、其れだけ日々遣るべきお務め/守るべき戒律があると云う事で大変っス(´∀`)。

因みに、購入しながらお務め・戒律を放棄しますと不信より悪い棄教・背信に成るので、まあ何というか「お気の毒ですが・・」と云う事で、皇悠は巻き込まれたく無く、お金を貰っても嫌なので記述しません(((゜д゜;)))。

これは実際の所で単純に其れら捨てればオッケー、お焚き上げして貰って大丈夫とはいかないからです('-^*)/。

では、今回は此処までです。皆様には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。本日の祭りが楽しみな皇悠より

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2009年9月26日 (土)

マイナーな存在・マイナーな呪術 天狗の法

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、お久しぶりの皇悠です。

さて、今回の根太は天狗です(・ω・)/。

え~、当ブログの管理人が信仰してます金毘羅様並びにお稲荷様は天狗と深い歴史的な繋がりがありながらも現在の所では、皇悠の知る限りでは天狗関係の法や呪術はほぼ廃絶・失絶してます。

また、一番の関連株の修験道に於いてさえ一部の地域の中で何とか伝承・伝授されているだけです。


有名な八大天狗関係の愛宕に比良に飯綱に鞍馬等の地も完全に現代化した神道なり仏教なりに成り果ててますから・・・、神仏の像や絵は在れど内情は・・・何ですよねf^_^;。

また、一応は儀記や次第は残ってますが・・、天狗関係の法や呪術をマスターしてます方は笑う位に少ないです(笑)。

本当に歴史書や由来書を見ますれば、天狗関係は頻繁に・・とはいかなくとも、天狗は出て来ますが・・、現在は忘れさられたモノです。
観光客向けに天狗をアピールしてます所もありますが・・・ですよ。

特に天狗関係で難しいのは、正統・伝統的なキッチリした教典がまず無く、更に呪術・行関係で感得・伝授系の体験(談)が必須な場合がある事ですよ・・・。
例えばある法で天狗に変身すると言うか、成ると言うかそういうシーンが在りますが・・・、神道にしろ仏教にしろ現代化した日本の宗教・呪術体系では一時的に身に宿すと言ったのは在りますが、人以外のある霊的存在になる何て訓練・行関係はまず無いのです。だから、現代の体系とは別種の訓練・行が要りますが・・・、この点だけでも天狗関係の呪術・法の難しさが判りますよね(笑)。

また、伝書によっては最後に天狗やその輩が現れて法を授ける何てモノも在りますが・・。
しかしながら、今の日本でそういう感得気質な方はまず日本の呪術・宗教体系に向かわず、ましてその中で特にマイナーな天狗関係の行は修めないものです。
時代の流れってヤツですね。


では、今回はここまでです。

閲覧頂いております皆様には全ての良き皇悠が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より

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2009年9月16日 (水)

自問自答

御覧頂きまして、有難うございます。

まだまだ、へっぽこな金毘羅行者見習いの皇悠です('-^*)/。

さて、当ブログの閲覧頂いておりますユーザーの方々は、皇悠の印象では呪術的・祈祷的な世界観並びに信仰世界の教義的雑学に興味があって御覧頂ていると思いますが・・、どうなんでしょうか?

正直な所であまり実践的な事はアップしてませんし・・・出来ません(^_^;)。
特に呪術的修行の肝・要の訓練方法はワンツーマンで対面伝授しか手が無いですし・・・「書いてて思い出しますが、初めて恩人の前で見せた西洋魔術の基本作法、筆授とも云いますが本で学んだ小五亡星儀式の可笑しさは今でこそ笑い話ですが・・・、独習者の悲しさで・・、とっても変なモノ・姿勢や動きでした。オッイ(*^ー^)ノっていう感じで・・。マジで黒歴史ですよ(・ω・)/。」

また、皇悠が儀式や訓練に祈祷で見聞きし経験した事はあくまでも、皇悠の五感・感覚的な限界・枠組みの範囲内の出来事なのに加えて、記述する技量の限界もありますので、あまり当てには・・・。(丁度、ある出来事を記録する際に携帯の動画/写真かデジカメか一眼レフの写真かで情報量並びに再生時の明確さ、そして特に細部は段違いで、それに似ています('-^*)/)だから、読み物としては面白いかも知れないのですが、さして役に立ちません。
この辺は、あくまでも呪術・祈祷は実践体系ですから自らの体で冷暖自知する如かないと・・・。

また、知識・教義的な内容も既出なモノが多くなりますよね(*^_^*)。主に版権などの権利と礼儀の問題でもう公開された内容しかネットでは記述出来ませんし・・、対面の雑談ならここだけの話形式で・・・もっと具体的に言えますが・・・。

正直な所でたまにブログをやる意味があるのかな?とも感じ・考えます。
一応はそれなりに楽しく更新してますが・・。

などと来月の本宮祭の招待状を崇敬者の一人として、金刀比羅宮東京分社様から頂きまして、「(呪術に祈祷、儀式や祭典は参加しない・自分でやらんと)意味が無いよなぁ~」と思いつつ、翻って当ブログの事を色々と考えました。

勿論、来月の本宮祭は行きますよ('-^*)/。
一年で一番大事な祭儀ですから・・・(・ω・)/。

では、閲覧頂いております方々のご多幸をお祈りしつつ失礼いたします。
皇悠より

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2009年9月11日 (金)

未熟を自覚する日々

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、道楽系妖術師(笑)の皇悠です。

さて、今回は備忘録です。実質的に・・・。

なんとか休みが取れて昨日の十日祭、仕事が早く終わり急遽本日の参拝と水道橋に伺った訳ですが改めて、皇悠自身の未熟さを痛感しました・・・( ̄○ ̄;)。

まだまだ、伸びしろが有るという云う事(?)ですが・・・(^_^;)。
皇悠もまだまだです。

一人しか居ない十日祭をキッチリと神祭りを執行します宮司様。
ロクに参拝者が居なくても護持し、何度となく廃絶の危機を乗り越えて続けさせる使い達。
ついつい、他人の意見や環境に未だに左右されます皇悠には無い強さを感じます。

また、先月は一回しかまともに伺えませんでしたし・・・。
皇悠もまだまだですね。

何かおセンチorネガティブですな・・・(笑)。

話題を変えますか、さて来月の本宮祭(?)こと十日祭は普段の十日祭より盛大らしいので参加者が皇悠以外も沢山いると良いなぁ~~。
でも、ありがちな信心深いお年を召した方々ばっかりはヤです・・・(^_^;)、本当に若僧が一人だと肩身が狭いのですから・・・ね('-^*)/(笑)。

・・・な事を考え感じた2日間の参拝でした。

では、閲覧者様には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より。

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2009年9月 6日 (日)

ネット・ブロク゛の力

御覧頂きまして、有難うございます。

道楽系妖術師の皇悠です(^-^)/。

さて、気がついたらアクセス数累計が10万を超えていて、現在は11万ですよ・・・。小さな市町村の人口を超えた訳で・・・ちょっとした区や都市並みです。

わお、すごいですよ・・・・(笑)。

さて、個人のブログで、それもどちらかというと身辺雑記以外はよくわからない宗教に神仏、妖しい呪術なぞを気ままに書き連ねているだけのサイトに、これだけの累積訪問者があると云う事を素直に慶賀したいと思います。

さて、このような形で色々と発信している事が、世論や世の中の形成上にどれほどの影響力を持ちうるのであろうかわかりませんが、とりあえず判るのは、それは発行部数10万部の「本」のそれとはまったく異質なモノだと言う事です。

具体的には10万部の本の読者は通常その数より多いですよね、立ち読みとか図書館とかの購入しない読者もいますから・・。

だから、このブログの読者もこの一日500人前後の閲覧者やアクセス解析などから「常連読者」を基にして、「ときどき覗きに来る」という人を含めて、マックス1000人くらいの集団ではないかと思います。

実に、これはけっこうな数字です。

現に、30000人の定期購読者がいる雑誌というのはなかなかないらしいですから・・・。

昨年の六月の伝聞の情報ですが、○ERAは「発行部数は一応20万部」で、(創刊号が100万部売れたそうだから、凋落ぶりが痛ましいですよね)。

また、「月刊○代」が、「7-8万部というところ?」で、純文学誌の場合は、月刊で3000部から5000部というあたりらしいです。

因みに「○ばる」では、新人賞を公募したときに10000点の応募があり、「どうして4000部しか売れてない月刊誌の新人賞に2.5倍の応募者があるんだ。せめて応募要項が出ている号くらい買えよ」と編集者が怒りに震えていたそうです・・・・。

これまで純文学誌の読者は「編集者と作家と、編集者志望と作家志望」の4種類しかいないと言われているそうですが、どうも「作家志望」の方はここにはもうカウント出来なくなりつつあるようです・・・。

というような既存の定期刊行物の読者数を基準に取ると、「定期読者1000人」はすでに「マス・メディア」のカテゴリーに入ってもおかしくないですよね。

しかも、これを書いているのは皇悠一人だけの個人です。

編集会議もデスクも営業も広告主も電通も、ぜんぜん関係してこないので、一人の人間が掣肘ぬきで言いたい放題書き放題の「マス・メディア」というものが存立してよろしいのでしょうか?

違う気もします・・・。

現在の皇悠は日常の仕事と行&研究、学習の日々ですが、ある意味で道楽・隠者的生活です。そんな人間の当ブログがそれなりに評価されているのは不思議な気がします。

と言っても、トップブロガーの一日のアクセス数何万とか月間の閲覧数が何百万とかに比べますと本当に底辺ですが・・・。

さて、今回は普段と違う記事をアップしてみましたが何かの役に立てば幸いです。

では、閲覧頂いて居ります方には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

感謝と祝福を込めて、皇悠より。

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2009年9月 3日 (木)

魔術・祈祷を学び日々行う意味

御覧頂きまして、有難うございます。

皇悠です。今回は「何故にして多くの行者・術師が飽きずに更に未知の魔術・呪術などを学び稽古し日々神仏に祈るのか?」をその意味を記述します。

さて、「合理的に生きる。つまり、少ない労力で大きな利益を得る効率的な」技術(具体的にいえばお金を楽に手に入れる事)と「どんな逆境でも災難時でも何が何でも生き延びる」技術は目的が違いますよね。また勿論ですが、それらは拠って立つ原理・理論・思想・訓練も大いに違います。

そして、現代の日本の私達の社会は「合理的・効率的に生きる技術」を教える事には呆れるほどに熱心ですが、「何が何でも生き延びる技術」を教える事には広告もしませんし機会も時間も資金もほとんど投じていません・・・(笑)。

だからか、「全力を尽くさなければ生き延びる事が出来ない状況・当り前の普段の方法論以外で対応する状態」に備えて心身の訓練をしている(特に若い)人を見ることは絶望的にまれですよね。皇悠自身、そろそろ不惑ですからあんまり若くはないですし・・・。

さて、今の殆どの若者にとって「生き延びる事が出来ない」状況というのは「金がない」状況の事でしょうか?

また、老若男女問わずにお金が無いから絶望し、お金が無いから盗み、お金が無いから人を殺し、金が無いから自殺する方は多いですが・・・。この考え方が「あり」だと思っている人たちは「骨の髄まで合理的・効率的に生きる技術主義者」なのですよね。

というのは、貨幣というのは「より合理的に生きる」為に発明された制度だからです。自分で食物や生活必需品を生産・貯蓄・捕獲せずにより負担の少ない手段で生活の糧を手に入れる為に貨幣は発明された面がありますから・・・。

つまりは、「大量の貨幣」は「より合理的に生きられる」ことを保証はしてますが、「何が何でも生きられる」ことは保証していません。

それは例えば「地震や空襲時」とか「明確に銃を殺意を込めて向けられた時」を想像すれば子供にも分かる事です。

そして、魔術・j呪術が目標としているのは「地震や空襲に遭わない」、「殺人希望者に出会わない」事です。

まあ、大抵の方は問題が起きてから魔術・祈祷・呪術に縋りつきますが・・・。基本的には、日々神仏に祈り加護を求め、問題が起きない/遭わないように導かれる事を方針としていますから・・・。

まあ、こんな説明でわかってくれる人はあまりいないのですが・・・。

では、今回は此処までです。

閲覧頂いてます方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より

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2009年8月29日 (土)

近況報告なぞ・・

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、生きてますよ?
道楽系妖術師の皇悠です(^-^)/。

えっとですね、リアルが充実と云うか、忙しかったので、このブログの事をすっかり忘れてましたよ(≧▽≦)ゞ。

管理人としてはどうなんでしょう・・・ね(^_^;)。

しかしまあ~、何というか荒らしって云うモノですか?それとも炎上?
良く知りませがコメントが爆発的に増えてまして、久しぶりにブログを見まして、驚いた次第です・・(=^▽^=)。

以前にある方の御返事に記述しましたが当ブログの規律(ネチケットと言うらしいですが・・)、御返信相手は選別させて頂いてますので、正直ご苦労様としか思いつかないですが・・・(≧▽≦)ゞ。皆様、お元気そうで・・・。

さて、今回のメイン報告に戻りまして、確か宝尽くし様とお約束してました記事・三毒論に対する皇悠の見解(理論としては、なかなかに素晴らしく感じますが、現代人にそのまま当てはめるのは・・と感じてます)を今回にアップするつもりでしたが、立派な教団・伝統宗派で学んだ方にその理論・教学の基本に難癖をつけるのもいかがと感じますので、どうしようか考えてます・・・。

っていう訳で、今回このような近況報告なぞをしました・・(・ω・)/。宝尽くし様、御寛恕頂けたら幸い何ですが・・?

とりあえず、日々それなりにやっております。

しかし、何時辞めても/全削除しても良い程度の事しか記述してないんですので、正直毎日何百人も来られる内容は書いてないんで・・何時不思議です。


どうも、ダラダラ続きそうなので、いつもので締めますね。


では、閲覧頂いております方には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年8月20日 (木)

歴史・・・

御覧頂きまして、有難うございます。

呪術関係には貧欲な妖術師、皇悠です。

さて、今回は戯れ言ッスよ('-^*)/。

え~、皇悠は今まで散々記述しましたが、この道を独立するまでは大手・メジャーな西洋魔術から入り、異端の妖術、そして古伝の神仏習合派神道と学び進みました・・・(^_^;)。

それぞれに良さと限界、味わいが有り、大事な財産です・・・(=^▽^=)。

さて、そうやって幾つもの体系を体験して解るのは基本的には体系的な高低・向き不向きより個人が何処まで工夫し、問い直せるかと言った視座の多様性・異質差の重要性です。

つまり、伝統や定理を敢えて問い直し、その限界を納得し、個人的な弱さ・苦労を敢えて成長の為に取る事ですな・・。

だから、無名かつ胡散臭い当ブログ(の記事)が四百人前後の方が飽きもせずに毎日、訪問して頂いているのも、あくまでも皇悠が実践・体験から記述しているからだと自負してます・・・('-^*)/(もしかしたら、違いますかな・・(^_^;))

さて、話を戻しますとそんな日本人が分かっているようで、誤解してます事の一つが日本語がかなり歪な言葉・思考の表現法であると云う事実です・・・。

古文(この国で確かに使用されていた筈なのに、時代毎に様式を変化させ現代の日本人には使用出来ない日本語)・漢文(現代では滅び去った言語です)に英文(多分、世界一壊れて多様性を持った言語です)の和訳・現代語訳をしたり、読んだりしますれば、如何に個人の日本語が歪つで、また個人の能力・学識・経験の重要性を理解させられますよね。

それらを嫌でしたが理解してますので、皇悠はまた他の方より踏み込んで記述してます。

(ぶっちゃけ、皇悠と同程度以上の方しか理解不能な内容で、皇悠より優れた方は遅かれ早かれたどり着く程度の内容ですから・・、そして皇悠未満の経験・スキルの方は似たり寄ったりな質問をしてますね・・(^o^;)。時にとっくに当ブログ内で記述され答えが出ていてのにも関わらず・・・、コレは皇悠自身何度も経験してますが相手の方が勝っている場合は勝てないと云う当たり前の事実に繋がります(笑))

さて、そんなこんなで今回、今も現在進行形で使用中の日本語を閲覧者の方々も敢えて、研究する事を勧めてみました。

では、閲覧者には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より

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2009年8月18日 (火)

あるサイトからの引用

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回はほぼパクリです。

以下の文章をどう思いますか?

--------------------------------


最近では、学ぶ者も情熱が薄く、
真剣な志を抱いていない。

苦労をいやがり、手軽なことを喜び、
小手先のことで手早く上達するのを望んでいる。

このような者に対して昔のようなやり方で教えても、
修行をする者がいなくなってしまう。

そこで、
師匠や先輩の方からわざわざ手ほどきをして、
重要なところを説明し、
手をとってこれを教えこむしかなくなる。


このようにしてさえ、
嫌気がさしてやめてしまう者が多いのである。


こうして、
理屈だけはだんだん達者になって、
人の説明では満足できなくなり、


ろくな修行もしていないくせに、
ものすごい術を欲しがるのである。


これもまた時の流れなのだろう。
--------------------------------
これは約三百年前のある本からの引用だそうです・・・(若干、文章をわかりやすく整えたそうですが・・・)
なんというか、耳に痛い記事・内容ですよね・・・(≧▽≦)ゞ!
まあ、いつ死ぬか判らないからこそ急いで短時間で結果を求めるのは判る気がしますが・・・?
だからと言って、手抜きを求めるのもいかがなモノかとも・・・?
ネットにはこのようなすばらしい言葉もあるという事で、この記事をアップされた方のサイト自体は皇悠は評価していませんが・・・今回取り上げました。
ただ、そのサイトはあまりに抽象的な内容・文章が多いので・・・(つまり伝統的な実践・神仏や経典・祝詞などのジャーゴンを使ってないので具体的な実践をしていない受け売りなだけな方の可能性・匂いが何故か皇悠にはするので・・・)。
多くの宗教・祈祷・呪術に祝詞や経典には現代語・日常語でない言葉が多いですよね?それは専門用語無しでは説明も表現も出来ない事を表現している訳ですから、専門用語だらけになる訳で・・・。
丁度、化学や高等数学で変な名前の薬品名や化学式に数式だらけの暗号・略語の文章が頻出するのに似ていますね。
さて、今回はここまでです。

閲覧頂いている方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より

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2009年8月16日 (日)

先祖供養の勧め

ご来店、有難うございます(≧▽≦)ゞ。
へっぽこ?道楽派妖術師の皇悠です。

さて、そろそろお盆も終わりますが、閲覧頂いてます皆様は久し振りに墓前なり仏壇なり、皇悠のように神棚の前で亡き家族なり先祖の供養を念入りにされた/これからされる予定の方も多いと思います・・・お疲れ様です(^^ゞ。

さて、今でこそ先祖供養/祈祷をそれなりにやる皇悠ですがやはり先祖供養を気にしだしたのは初めての師から離れて東洋の祈祷法を学び始めてからでした・・・。

実際、やり始めてから解りましたが、先祖供養はやはりそれなりに効果があります。(特に問題の解決系で・・、)

但し、基本的に多量の読経・奏上がメインに成るので大変です・・ね('-^*)/。具体例は尊敬してます(他派ですが)中村師(当ブログからリンクさせて頂いてますから、どうぞ)の最新記事をお読み下さい。

まあ、あそこまで、やれとは言いませんが、まだ少しお盆の時期は残ってますので、御先祖様へ念入りに供養等をお勧め致します。

では、閲覧頂いてます皆様には、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より

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2009年8月 7日 (金)

神具実装、神棚バージョンアップ

御覧頂きまして、有難うございます。

今では立派な我流?独覚派妖術師の皇悠です。

さて、一昨日・昨日と東京は上野・稲荷町の神仏具専門街に行きまして、祭壇・神棚(階段付宮型)を飾る神具・装飾品を色々と購入し(計二万ちょい。また、昨日閉店間際にも関わらず丁寧な対応をして頂いた宮儀の眼鏡の店員様、有難うございます(≧▽≦)ゞ)、神棚に色々と実装しましたよ・・・(・ω・)/。

内容は金/銀狐・守り白蛇・朱の明神鳥居・金幣・旗・真榊・水玉(文字入り)など。

さて、当方の祭神は金毘羅様とお稲荷様こと、大物主と倉稲魂のお二方ですから祭壇もかなりな稲荷テイストを取り入れつつ凝ってみました・・・よ('-^*)/。
(どうしても、お稲荷様への偏愛は止まりません・・・(^_^;))

しかしながら、つくづく思いましたが、神道系は仏教系に比べて祭壇関係は安値ですよね(・ω・)/。

真面目に、仏教系なら仏像だけで十万単位で・・・・(^_^;)。ちゃちい、数センチのメジャー宗門の大量生産品の本尊(大日・阿弥陀仏・不動など)でも万円単位。

ましてや、呪術祈祷のメイン本尊の天部や他の明王部などは特注&百万単位になります。

そう簡単に用意出来ないモノばかりです。

さて、やっと恥ずかしくない形で、神床も整えましたのですから、今まで以上に日々の行に励もうと思います('-^*)/!
(十日には例祭を見る予定ですし・・・、今から楽しみですなぁ~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:!眼鏡のぼけーっとした(?)な兄ちゃんがいたら、多分皇悠です(笑))

では、閲覧頂いております方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より。

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2009年8月 3日 (月)

代償・代価の原理

御覧頂きまして、有難うございます。

(久し振りに、つい尊敬してます中村師のブログにコメントしました)流浪の妖術師、皇悠です。

また、あまり、コメントし無いと宣言しましたが、ついついお節介?応じてしまってもいます。

さて、今回は代償・代価の話ですよ('-^*)/。

ちなみに、かなり前に幾つか記述しました・・・等価交換とか血の供儀とかの話では在りません。

どっちかと云うと、イデア論やパラレルワールド系の話ですか?。

え~、皇悠が二人の師から習って修めた体系には幾つかの禁則だの戒律だの、制限だのがあります。
単純に言えば、行動や生活上に於いてタブーがあります。また、推奨される行動等もあります。

まあ、当たり前・最低ラインは様々な分野の本を読め!とか、礼儀正しく振る舞いなさい!真言宗・修験道に入ったのか?あるフレーズを最低一落叉(十万回)しろ!とかです。

しかし、コレすらなかなか個人の決意では、やろうとしても出来無い面があります。

専門的に云うとやる上で必要なエネルギーが足りないからですよ。特に感情・精神的な資源面で・・・。

皇悠もいまだに減らしはしましたが一部で残存してます心の機能、尊大心とか、自己保存本能とか、嗜好的な貧欲さとかで、普通は浪費しているので験・効果が発揮するどころか、習慣を変えうるまでの燃料自体が全く足りない訳何ですよね('-^*)/。

散々ぱら、師に無くせ!直せ!と言われて、根絶はし無いまでも色々と減らしたモノです・・(^_^;)。

ちなみに、そうやって生活・行動がある程度、任意・自由に変換出来るようになりますと比例して験の発現率は急上昇します。

つまり、日常生活のありがちな楽しみにしている事(精神的・動作的な癖)を代償にして、呪術の験・個人的な自由さ/支配力を得ます。

ちなみに代償・代価は、何故か日常的な行為・喜びを捨てれば捨てるほど効果がありますね('-^*)/。

そういったモノの代表例は仏教の禁酒とか禁性交などです('-^*)/。

しかし、禁酒や禁煙に失敗する方々が多い事からも判る通り、そういった代償を払い、更に禁則を守り呪術を実践して効果が発揮しうる地点までエネルギーを蓄えるのはなかなかに難しいです・・・(^_^;)。

では、今回は此処までです。

では、閲覧頂きます方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・

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2009年8月 2日 (日)

伝法・伝授と代金

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、親しい職業祈祷師に・・・(^_^;)、コメントである方の仏像処分方法を教えて上げました事に忠告された皇悠です。

えっとですね。皇悠は案外詳しく日本仏教や祈祷の色々を教えてますが、実はコレすら破戒行為なんですよね('-^*)/。

というのは、日本密教の中心・根本・基礎経典の大日経の第二章、入曼陀羅具縁真言品に法の伝授に際し、弟子は阿闍梨(密教に於ける師になる資格有る者)には金銀財宝、象、車、家畜等の資材を布施するように説いておりますが、コレって、代価無しで師(日本宗教系の全ての術者)は人に伝授・教えたら駄目だ!と禁止している訳なんですよね(^_^;)。

だから、日本の特に密教の知識は無料で手に入れられるモノ・知識は断片的だったり、初歩の初歩的だったりします。(またコレは、空海の密教招来以来、この国の仏教そして神道は歴史的には密教の影響下にありますから、日本の全ての仏教並びに神道等にも適応しえます。例えば鎌倉仏教の開祖達自身が密教徒として修行し、その教理自体にも密教の知識が混入しまくってますからね('-^*)/)

そして、皇悠自身も神道だの神仏習合だのと言っておりますが密教の知識・教理自体を使用してますから、法の伝授(何かを教えたらから)には金・物品等を取らないとイケない訳なんですよね(^_^;)。

実際、ネット以前より知識を広くバラまく主要手段でした書物・本等は安価とは言っても、きっちり代価を筆者(伝授者)に印税・執筆料という形で与えておりますし・・・。

そういう意味では閲覧者から知識・法を伝授・与えてる皇悠は何も代価(ちなみに当ブログの広告で何か買っても皇悠の財布に行かずにココログさんに行きます。だから、ココログさんのサーバー等が使用出来る訳なんですよね(・ω・)/)は真面目な仏教徒としては、大失格で・・・。また仏教徒で無いのにバラまいてるなら、日本仏教徒の財宝を奪ってる敵とされてもしょうがない立場なんですよね。

まあ、一応は要・大事な注意点等はボカシたり、抜いたりしてますが、バラし過ぎではやはり在ります。

この辺、難しいモノですよね(^_^;)。

では、閲覧頂いてます方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より。

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2009年7月22日 (水)

神仏を如何に定義するか・・・

御覧頂きまして、有難うございます。

悩める/考える妖術師、皇悠です。

え~とですね・・・、当ブログの記事は今では一々ソース・元ネタを上げなくなりましたが、基本的には独自の視点・斬新な見解では記述されてません・・・。せいぜい、一捻り位です・・(^_^;)。

但し、それは逆に伝統的なレベルまでしか験・効果を発現しえないだろうと言う限界を作り上げてもいます。

そして、実は異端・革新的な術マニア・祈祷師の中には伝統的な見解を自己発展させ、遂に真逆的な神仏の定義をする方々がおります。

例えば、火生三昧で有名な不動尊は水神(の属性を持つモノ)である・・・、仏教の諸尊は仏教の定義では一部を除いて殆どが魔・悪神である・・・等です。

無茶しますヨネ~、しかしながらも彼らはそのような思想・見解で他にない独特の効果・成果を時に上げますから、困ったモノです・・・(≧▽≦)ゞ。

しかし、このような他では得られないが必然的に隠匿するしかないような独自の道か、安定性はあるが限界も明確な伝統の道か・・、このような選択は宗派・体系を問う事なく出てきますが・・、決断し選ぶのは大変です。

そして、当ブログはそのような際にも参考になれたら、良いと考えてます。

では閲覧頂いている方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より。

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2009年7月12日 (日)

日本人が仏教徒って?

御覧頂きまして、有難うございます。

末は道楽オヤジ志望の皇悠です。
今回は問題提起ッスよ(・ω・)/

えっとですね。日本人のほぼ全てが死んだら仏式で葬られ菩提寺に入り、家の仏壇で祀られていくから、仏教徒らしいのですが・・・。

そうなんですか?間違ってませんか?

(ちなみに皇悠自身は菩提寺は無く住処には神様はいても仏様(故人含む)はいないんですけど・・・ね。更に自身も仏教徒と考えませんし、良いところで何とか神道家でしょうね。閑話休題。)

さて、日本仏教は大乗仏教らしいのですが、大乗仏教って救済、具体的には法の伝授などを含む無料奉仕(つまり利他行・布施行)を他者にするから上座部とは違っているはず何ですけど・・・(^_^;)。

何かやってんですか?
この資本主義の日本で、皆さん?

例えば真面目な出家者、または仏教徒ほど戒律を守り、先師・高徳の教えを紐解き(何という古い形容!)、修行三昧になりがちですが、でもその姿はどう考えても大乗仏教徒(の理想像)の敵、経で散々に否定され、批判され忌避された小乗仏教徒(これって実は差別用語になるんですよね('-^*)/)に近づきます。

あのお釈迦様でさえ、批判され忌避され迫害されましたから大乗仏教徒たるモノ、救済・布施行(具体的には抜苦与楽な対機説法=法の伝授に和顔愛語など)を日々励むのは幾ら辛くとも義務のはずですが・・・、やっているのでしょうか?

皇悠自身が知る限りでは、尊敬しています/いつも楽しませて頂いてます蝉丸Pに、池口師位しか思い浮かばないのですが・・・(^_^;)。

ちなみに布施行は、基本的に縁のある・日々出会う方全てに行う無料奉仕(サービス)ですから日々の習慣・日常になって無いと嘘になります('-^*)/。

でも、皆さんやって無い用語ですから、そういう意味で、日本人が大乗仏教徒と考え・述べるのは嘘でしょうね。


有無、やはり皇悠は和顔愛語が出来て無いんで、日本/大乗仏教徒では無いですねo(^-^)o。

では、今回はここまでです。何かの参考なれば幸いです。

では、閲覧頂いてます方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠より。

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2009年7月10日 (金)

信仰者の日?

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、似非篤信仰者の皇悠です。

さて、本日は十日なので、金毘羅大権現様の縁日なのですが、今回も参拝に行けませんでした・・・(T_T)。

こんな事で金毘羅大権現様の信者として、どうなのでしょうね?
やはり、まだまだですよね(≧▽≦)ゞ。
さて、金毘羅大権現様を信仰し始めてすでに約3ヶ月目ですが、何とか十回は超えましたが、百の大台に行ってません。毎日参拝してれば来月には余裕で達成しているのに・・、まだまだ金毘羅大権現様には愛され受け入れて貰って無い事を実感しますよ!!

さて、金毘羅大権現様の縁日は毎月十日なのですが、皆様は縁日に自身が崇敬する神社・寺院に伺ってますか?

以前、縁日についてちょろっと記述しましたが、こうした縁日、気にしない方々は本当に全く鼻も引っ掛けませんが、寺社によっては珍しい祭典や祈祷、また普段より多い功徳・資糧が得られるとしてますので、少し無理が利くのなら、ちょっと時間を作り伺いたいモノですね。

まあ、浅草寺の確か二万七千日ですか?あれは行き過ぎだと思いますが・・・、そんな訳で此からお詫びを兼ねて念入りに勤めをします。

では、閲覧頂いた方々には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、一礼。

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2009年7月 9日 (木)

相変わらずの参拝風景


え~とっ、そろそろ顔馴染みになったみたいで、何も言わずとも朱印が頂けるように、崇敬神社ではなりました。
どうも、皇悠です。
さて、以前に同神社で参拝した際に感じた事を中心に祈りの作法等の話を書きましたが、特に言葉関連で・・・。


しかし、今回の参拝・祈り後に考えが変わりまし・・・・(^_^;)。

多分、あれはあれで良いんですよ('-^*)/!

その程度の願いだからと言う事で・・・。

本当に叶えたい事なら、稚拙だろうが必死・真摯に工夫、金や環境等の問題・苦難も何とかして、次第・作法なりを学び取って、自ら考え、質を良くして叶えられるようにするはずですし・・・。

逆に、其れをシナイ方はその程度なんですよ・・・、多分。
つう事は、別に・・・(・_・)エッ....?
皇悠が訳知り顔で質問に答えたり、希望もしていない呪術や技法から次第に口訣アップしなくても良かたんと、ちゃいました~~(^O^)か?!

もしかして、自ら考え探し学ぶ手間を省かせ、本人が気づき・学ぶチャンスを奪って・・・f^_^;たか?

あっちゃーーー、やっゃった(^o^;)?
どうしょう(・_・;)。

有無。なら記事を削除しまくって、更新止めてしまうか・・、それとも以後は暗号だらけの記事・全ては皇悠しか理解し得ないようにすべきか?
どうすんべ・・・、楽に探し見つけ出す、実はその手間が必要性有りまくりの場合もあるつう可能性が・・・ある(^o^;)?

やべー、思考回路がヤバい方法に進み始めて来たっぞ・・・
なんか始めの師が教える際に露骨に理不尽・差別していた訳も分かってきたぞ~~(*゜▽゜ノノ゛☆!

ヤバい・・・な。あの恩人のデタラメ&飛びまくり文章を書く必要性が・・・。
狂喜的、ランダム・混沌な作法を皇悠もやるべき時が来たんかいな?
敢えて、馬鹿振る舞いか・・、トリックスター/クラウンは慈悲深さの証って事か単純に照れ隠しと思ってたが・・。
どういう事?好きじゃないんよな・・・。


と、参拝後に馳せ、可能性世界を楽しんだ訳です。

作家の田口ランディ氏は神社参拝は人のOSをバージョンアップすると書いてますが、そういった事・意味も含め、参拝後によくある意識・思考のブースト効果を上げてみました。
験にはこうした事もありますから・・。
では、何かの役に立てば幸いです。

全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝。

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2009年7月 6日 (月)

久し振りの稲荷社・祓い

御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、金毘羅大権現様と(正一位)稲荷大明神様の奴隷(笑)、皇悠です。

さて、本日は仕事が早仕舞いしたので、近所の王子稲荷大明神様の所にいそいそと伺いまして、最近またまた新調/再構築した新たな次第で特に念入りに本殿にてお祈りをさせて頂きました・・有難い事です(・ω・)/。

其処お陰で新たな啓示も頂き、臣下も喜んでいるみたいッスね(この辺は電波なんで流して下さい)!

しかしながら、何というか尊敬してます中村師の話(人少ない寂れている方が神仏意識と繋がり、良い云々・・)はその通りなんですが、一時間以上境内で祈っていて、参拝者が皇悠含めて三人だけと言うのはどうなんでしょうか?

何というか、痛し痒しな感じです('-^*)/。

拝み屋・妖術師としては遣り易く良いのですが、稲荷信奉者としてはこんなにも良いモノが埋もれているなんて!(*^ー^)ノ、オイっていう感じです・・・。

難しいです。

もっと、多くの人が神仏(意識)に親しんで欲しいモノですな(・ω・)/。

ちなみに、皇悠自身の認識では基本的は祭神の入れ替わり以外では同じ神を長く祀ってきた限りはどの寺社も同じような役所の出張所かサイトへの入り口の違い扱いです。

(多分、今も金毘羅大権現様は讃岐に稲荷大明神様は山城にいらっしゃいますでしょうから・・・、行ったことが無いので、これらは完全な推理ですが('-^*)/。)

では、閲覧頂いた方には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より
(追伸、中村師のブログに近頃コメントしてます某信仰者様は当ブログのお馴染みのあの方なのかな?まあ、ネットの世界なので、なりすましもある訳で分かりませんが、まんまの名なのでちょっと気になったので、書き込みました。この辺は、閲覧者様の良識にお任せ致します。では、(・ω・)/)

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2009年7月 4日 (土)

質問の傾向

御覧頂きまして、有難うございます。

皇悠です。

さて、当ブログは現在の立ち位置(皇悠自身の認識しています範囲内で)は基本的には何かを呪術を修めている方やその研究/実践者への見解を広げて頂く事を目的にした紹介サイト系です?!(もしかしたら、違いますか?)

だからこそ、昔のような好きなオタク系(アニメや漫画)の話、皇悠の研究・協力者(師弟)関係の話、また一般の書物やサイトに出てくる内容、業界の暴露話(ある種の勢力闘争やその経緯)などを書かなくしております。
ただ、残念な事に実践者の質問が無い為、内容がどうしても低レベルに終始しますよね。

たまには、「河車が赤だったり白だったり変光(色)しますが?」
「スピリットネットのオブジェクトは市販りナチュラル系で収集すべき事とありますが、どのレベルまでがナチュラルなのでしょうか?例えば樹海、東京湾・・」
「プラネットアワーを太陰暦・旧暦と併用してみて喚起・判断に使用してみてますが何か注意すべき点があれば・・・」
「ダチュラ系をシャドウ・アニマ系に体験した結果で把握したのですが、何故危険性があるとするのか分かりません?」等の師がいた頃等の技術論や工夫に改良系の話が出来なくて、時々ツマラナく感じますねーー。

相変わらず見えた・見えない、良い悪い等の世間八法系ばかりで向上も発展もしない堂々巡りが何故にして多いのでしょうね?

ちなみに、皇悠自身は実は秘密とか天機漏らす無かれとか、隠す必要性とかは全く理解しておりまん('-^*)/。ただ、先人に敬意を払っているだけです。

だって、聞いたってやらない/出来ない奴ら(約100人中98人)は良いところで、半解も出来ずに反発し騒ぐか、忘れるか、聞き流すだけでさして害も無いですから(・ω・)/ね。

また万が一、出来て害を及ぼします呪殺・攻撃系だけ秘密にすれば良いとも考えています。

どうも、近頃ツマラナい相談を何件かされたので愚痴ってみました。

では、閲覧者には全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

たまには滅茶苦茶マニアックな実践系の質問(or知りませんか?=検索して本を買って読んだらわかるだろ♪(*^ ・^)ノ⌒☆、助けて下さい=まずは薬飲んで弁護士&役所の指示を聞いて、人事を尽くすのが先では(*^ー^)ノ!系で無い今の所上手く行ってますが更に良くなる系の質問)も受けたい皇悠より

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2009年6月28日 (日)

霊的負債

御覧頂きまして、有難うございます。

近頃、辛口な妖術師の皇悠です。

さて、今回は霊的影響の話です。
さて、現在の日本ではスピリチュアルコンベンション(略してスピコン)などの霊的なセミナー、伝統宗派による講習会等が毎月どっかで行われていますよね('-^*)/。

見聞を広めるには良いかもしれない事ですね。

しかし、たまにそれらに参加する事で害(具体的には体調不良になる、ミスが増えるなど)を受ける・与える方々がいます。

これは残念ながら、各流派毎に体系・思想が異なる為に、意図せずとも他者に対して有害になる組み合わせが発生する場合がある為です。

これはたまに外気功や幽体離脱系の技法を重視する系統でよく報告されています、相性とか邪気とかパワー差とかの名前で・・・。

しかし、被害者に成らないのは勿論ですが、加害者側にも成らないように気を付けたいモノです。

だからこそ、霊的な達人たちは昔から隠遁していたりしています・・・、面倒を避ける意味で・・。
では今回はここまでです。

閲覧頂いた方々に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より

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2009年6月23日 (火)

進歩&改革・・。

御覧頂きまして、有難うございます。

え~、久しぶりに過去の記事をざっと見返しましたら、当時のブログの内容と真逆な方向性にちょっとビックリした管理人?の皇悠です。

初めの方ではネットビギナーだったので、半端にビビりが入ってるのか、概略系が多くて歯抜けな内容ばかり、たまに具体的・実践的な事を書いてもまあ何というか反応もアクセスも無く、沈み込んでます・・(笑)。

初期の視覚化とか日拝とか、渡りの付け方とか、呪禁道とか・・。ヾ( ´ー`)

しかし、勢いのままに自己開示して(ここまでソロ系で生育歴とか、師とか、現状とか、学んだ体系とか、失敗談とか晒した魔術師?呪術・祈祷関連者は居ないみたいですね、久しぶりに会った呪術師に言われて気付きましたが・・(^_^;))、更に多くの信者・教団を真っ向から存在否定する批判記事を書き込んで(阿弥陀仏信仰関係とか、末法論とか、易の実態とか、六字明王とか)、誰か得するのか判らないですが好きなお稲荷様の関連を飽きずにアップし、まず信者は嫌う現代人の祈祷や御利益・天部信仰の杜撰さの暴露に真面目に説明しない勧請の意義を問うてみたりで、何というか初めはネットデビューしたら同好の士、出来れば師or先輩格の方々が見つかってもっと向上出来たらなぁ~、良いなぁ~などと考えていたりしてましたが・・、噛みついているわ、こんなゴチャゴチャした経歴な奴は真面目な人は避けるだろ~常識的に考えて・・=常考・JKな更新履歴です・・(・_・;)。

「なぁ~にいっ、やっちまったな!」て感じですな(><;)。

ただお陰様で、色々と分かりましたし、何というか意図した通りでは無いですが、向上もしました。
しかし、結構ヤバい記事を書き込んでいたり、かなり罵倒したりしてますがいまだに元気にいるのは何故でしょう?何度となく喰らっている筈ですが大したレベルで無いのですが・・??

師の手伝い・独立専業時の時の方が辛かったですからね!

これもネットの力なのでしょうか??

とりあえず今回はここまでです。

では、全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より。

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2009年5月 2日 (土)

明治神宮・春の大祭

当ブログを御覧頂きまして、有難うございます。

どうも、皇悠です。(^-^)/

さて、当ブログを御覧頂いている方の中にはもうGWに入っておりますので、旅行に趣味にと楽しい予定を消化し始めている方もいらっしゃいますでしょうね?

しかし、当方は残念ながらも連休が取れず、ツマラナいGWになりそうです・・。┐(´ー`)┌

ただ、本日/久しぶりに仕事が半日で終わりまして、ちょうど近いので久しぶりに(約3月振り?)明治神宮に参拝しました所、運良く春の大祭の神前奉納の紅葉笠・島の千歳の長唄等を拝見出来ました・・・。

正直な所、本日が大祭の日と知らずになんとなく参拝する気になりまして訪れたので、ラッキーでした。
(ちなみに、このような出来事を俗に神に呼ばれると云うんですよね。で、こういうのが続くとナルシストに、ユング系に例えれば貧弱な人格は自我の膨張へ、または選民思想に走る馬鹿者になりますが、こういうのは神仏からの日頃の行いへの単純なご褒美のようなモノです。)

さて、今回皇悠は初めて長唄を肉眼で拝見しましたが、とても感動しました。
ぱっと見は、単調なゆったりとした所作の中に演じ手の気迫・指先から視線の先までの緻密さを感じ・・。素晴らしい!!

ただ、残念ながら明日の午前10時からの本祭・崇敬者大祭は仕事がありますので参加出来ませんが、祭典式次第を見る限り、拝見したかったですなぁ・・f^_^;。

また、こういうのは出来れば、仕事着ではなく礼服で拝見・参加したかったです・・。

さて、本当に本日は良い眼福・体験が出来ました。

ぜひ、関東圏でお暇な方は明日・5月3日の大祭の参加をお薦め致します。

明治神宮は呪術的・風水的にも面白い作りをしていますし・・・。

では、来て頂いた方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように、祈りつつ・・・。

皇悠より。

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2009年4月12日 (日)

StarrySky - IKZOLOGIC Remix

御覧を頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回もサイト紹介です。

なんというか、以前紹介しましたが改めて紹介します。ニコニコ動画の書き込み動画のほうが面白くて好きですが・・・。

マッド動画ですがこうゆう一時期話題になりました蟹工船的な今のつらい環境(仏教の基本的前提です、この世はただ苦しいだけな世界)で足掻くプロメテウス的な・・・、逆境を見据えた上で反抗し運命に抗い更には克服へ、なんとか世界を受容し楽しもうとするような歌。

正にロックな楽曲が今ではなくなり恋愛・家族などの讃歌ばかりなので取り上げてみました。

StarrySky - IKZOLOGIC Remix ことhttp://www.youtube.com/watch?v=QUiOrDycqTk

本当にただの推薦記事ですみませんが、こう何というかカッコイイ中にどうしても消せないダサさもイイですね。

この曲は本人曰く非リア充のある大学生(全農連P)が昨年の四月に投稿サイト大手のニコニコ動画にアップしたもので、当時始めて視聴してから辛い時に聞きなおす心の支えの一つになったモノです。

今ではそれなりに有名ですが・・・!?

楽しんで頂けましたら幸いです。

それでは貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・!?

皇悠より~。

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2009年4月 9日 (木)

西洋系魔術について随想

御覧いただきまして、有難うございますね。

どうも、皇悠です。
えーっ、私はこの道を西洋系から入りましたが、まずはそこで驚いたのは日本の魔術系の人の知識・経験量の格差でした。

我が師のK師、秋端師などは本当に博覧強記でした(とてもかないません)し、経験による具体的な話が出来る人でしたが、その弟子筋や周辺の人は無知の人や受け売りに今なら分かりますが自我の膨張したネット上のスラングならば中二病と形容される人などがそれなりにいました。

出来ない・知らない・間違える・失敗するのは人だから当たり前だと思いますが、いかがでしょうか?

私自身、かなり失敗も誤解もしておりましたし、それなりに今もしているでしょうから、そういった事は許容範囲に思いますが・・。

ただ、何故か頭でっかちと言うか、受け入れられられないのか、未熟な自分が当たり前に失敗するのを恐れるのか訓練すらしない人もかなりいました。不思議ですね。

なんで、訓練も活動もしないのに辞めずに所属して居るのか判らない人も多く居ました。

たかだか、初期段階は1日1時間前後なんですけどね。

また特に、西洋系魔術は経験があるので分かりますが基礎が弛緩に視覚化と日本の呪術体系より基本的訓練が楽に見えるので、ちょっと出来るだけですぐマスターしたと判断しがちですし・・・。

後、西洋系魔術の文献が便法でしかない心理学的な言葉を流行りで解説・定義しがちなので、読んで理解したので/から大丈夫(出来る)と考える人を量産しています。

そう言う意味では、知る限りは当時の日本の西洋系の魔術師は全体的には大した事の無い人ばかりでした。

だからか、当時のK師は海外の魔術師と交流や文献の日本語訳に力を入れていました。それが後にゴタゴタに繋がったようですね。

そして、私は恩知らずにも、西洋系魔術や師の体系などを放棄して神道や日本呪術に向かいましたが、それから師の下を去り早十年弱が経ちますが、どうも日本の西洋系魔術の世界はあまり変わっていないようですね?!

新しい団体や体系が出来る訳でもなく、活発に活動していた団体も沈静化した話すら聞きますし・・・。

まあ、関係ない世界ですが、その事は少し悲しく寂しく感じますね。

それでは、今回はここまでです。

貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年4月 5日 (日)

ダンス・・・

御覧を頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回もサイト紹介です。

まず、あまりに有名で今更な感がありますが・・・。。

http://www.youtube.com/watch?v=0vOjrChYDVE&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Sra_MCoMPnY&translated=1

ただの推薦記事ですみません。今の世の中暗い話が多くこういう楽しいものがあるということで紹介してみました。そんな訳で今回はここまでです。

何かのお役に立てば幸いです(なりませんかね・・・・)。

では、いつも通り、貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2009年4月 4日 (土)

日本の阿弥陀信仰について・・

御覧を頂きまして、ありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回は親鸞についてです。

え・・・、このブログでは何度か念仏、というよりも阿弥陀信仰について記述並びに、その信仰・呪術などについて何度か取り上げてみましたが、それについて書こうと思います。

まず、日本において阿弥陀信仰について考えなければいけないことは、日本の阿弥陀信仰は事実上は親鸞の信仰並びにその記述に大きく傾きがあるのがたしかで、かつ親鸞聖人は本当にその思想面及び哲学的な結論、論旨展開はすばらしく、ある意味で究極的な所に位置していますのはたしかですが・・・・。

ただし、一呪術の実践者、過去に西洋魔術/混沌魔術を修めて来た者としてはかなりの抜けが確実にある事/誤解を孕む危険性が存在しているのも指摘しなくてはいけません・・・。

例えば、親鸞聖人は阿弥陀信仰=念仏者は諸天・諸仏に守られるとその和讃で歌い上げていますが、念仏者が発狂死した故事がある事からそれが嘘であるとわかります。(詳しくは2008年9月30日の記事を見てください・・・)

また、彼の弟子にして息子が親鸞自身が否定した祈祷呪術宗教を立ち上げた事。

更に、直弟子自体が親鸞の遺言すら守らねー敢えて書きますが、ろくでなし揃いときてますから彼の残した記述自体が信用度自体が厳密には微妙ですね?!

そういう意味合いでは彼は孤高の人に思ってなりません・・。


さて、今回はここまでです。何かのお役に立てば幸いです。

では、貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。


皇悠より。

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2009年3月27日 (金)

赤坂日枝神社の犯罪

御覧いただきまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、かなり前に記事で取り上げました某東京は赤坂近くの日枝神社でレイプ事件が起きたそうです。

これは、2009/3/27付けの週刊朝日にも記事として取り上げられたのでご存知の方も居れてるかと思いますが・・・・。

しかし、個人的には神仏が居られる神社の境内で、巫女さんに犯行を行った神職のH氏・・・、こういう信仰心のない方に御祈祷を厳粛に受けた方やハレの結婚式を今まで執り行っれた夫婦・親族はかわいそうですね。

さて、今回は少し目線を変えて『聖歡喜天式法』などに出てくる話なんですけれども、霊験譚や奇瑞譚がよくある神仏の祈願先としてがあるので書いておきます。

基本的に願掛け先に聖天様と他の天部の神様を合わせて信心すると良いことがあるようです。ただ、この組み合わせはそれなりに知られているので、某ネットの掲示板とかにも出ていたりしていますが・・・。

では、組み合わせは以下通り。

まず、聖天様で、プラス。

出世関係で、    帝釈天
福徳関係で、    毘沙門天
他の人から愛されたい=人気取りでは、 毘沙門天
勝負(賭博も?)    大自在天
夫婦の愛  帝釈天
皮膚病治し・頭が痛いなど、 炎魔天
家内安全(夫婦和合ではなく)  毘沙門天

さて、特に帝釈天や毘沙門天との合わせ技は何故か経典や次第書を見ていると多いです。

あと、般若心経と観音経を併せてあげるといいことが必ずあるそうですね。これは不思議ですが・・・。

また、他にお不動さんはシヴァ神(大自在天)と同一であるという説もあり、大日如来と同一だからお不動さんと合わせてもいいかも知れないですね。

さて、今回はここまでです。

貴方に全てのよくことが雪崩のごとく起きますように・・・。

何か役に立てば幸いです。皇悠より・・・。

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2009年3月24日 (火)

近況報告/何故にして、稲荷はこんなに東京で多いのだろう・・?

御覧いただきまして、ありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。

さて、表題からいきなり疑問系でなんですが、東京(特に江戸時代に出来た地区)では・・、何故か本当にお稲荷様がそこかしこにあります。

現在の皇悠は、今いる所に近いので下町の浅草や神田などに行く(散歩がてらの巡礼もどきですが・・・)事が多いのですが、この辺は全国的に有名な浅草寺とそのすぐ隣にある三社祭りで有名な浅草神社をはじめ、関東有数の聖天様の聖地・待乳山聖天、神田明神に湯島天神など有名&古参の聖地・霊場がそこらじゅうにあります。

しかし、それらの場所・寺社の多くにその半径100メートル圏内に必ずと言って良いほどにor何故かお稲荷様が隣接して鎮守されたり、その境内の中で摂社や護法善神という形で御祀りされています。東京都民とはいえ郊外で生まれ育ちました身ではまったく知りませんでしたが・・・。

で、・・・ですね。稲荷loveとしてはですね、有名なそれらの祭神・本尊よりも何故か時間&形式的にも念入りに祈祷・お参りなぞをいつもしてします・・・。

でも、なんとなく、有名だから・近くに来て時間があるから、単純に見かけたからと立ち寄り、正に暇潰しで観光(の参拝)で伺った所できっちりと稲荷大明神様が鎮守されているのを見つけますと怖くなると共に、嬉しくなります。

特に、待乳山聖天でお稲荷様を見つけた時は、本当にビビリつつも歓喜/魂が震えてしまいました・・・。(「あの聖天信仰の・・・!まさか、関東有数の聖天様の聖地で!こんな所にも!きっちりとお稲荷様が祭られているとは・・・!!」という感情は聖天信仰を少しでも知る方だとご理解頂けると思います。)

多分に、歴史的には大部分は明治・大正の諸々の神社関係の統制令、そして戦後の混乱期に起きた大規模な区画整理などで移転されたモノが多いと思いますが・・・。

それでも、こう立ち寄り参拝で訪れた神社・寺院にお稲荷様があるのを発見する事が頻発しますとあの戯言『江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に、犬の糞』は真実だな・・・ともしみじみ思います。下町、特に神田・浅草近辺は江戸時代の城下町・中心だったのもあり・・・。

そして、そういう実状を理解しつつもこう発見・出会い現象が連続して(特に時に一日に三ヶ所連続などで)何件も起きますとお稲荷様に好かれ・守られているのをヒシヒシと感じます。単純に偶然かもしれませんが・・・。

そんなこんなで、それなりに幸せ(・・・?)に信仰&生活してます。

それでは、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ように・・・。

皇悠より。

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2009年1月25日 (日)

私の経験から、師弟関係・・・

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は師弟関係です。

近年は、セミナーや書物・DVDなどが充実していまして、それなりのオカルト・祈祷関係の事も特に師弟関係なしに基本的な事柄を学び、身に付ける事が出来るようになりました・・・。

で、いきなりこんな事を書いているのはここ、2・3日の間に落語家の立川談春師匠の「赤めだか」という本を読みまして、自分の二人の師の事を思い出し、いろいろと思い出し考え、書きたくなりました。

初めの師は十代なかばから二十代初めまで、次の神道の師は二十代の約一年半位お付き合いして頂きまして、多くのモノを与え・残しました。

で、ですが今回は、あまり語りませんでした神道方面の師についてから書きます・・・。

さて、この師についたのは、ある都内の八幡神社を参拝した際に、丁度、摂社に祭礼がありそこにいた神職の内の一人・その方の祝詞の唱え方に惹かれ聞きほれて、何度もその方の奏上狙いに伺い、何故かよく祝詞を聞いている青年が師の方も気になって興味を持ち、境内で話しかけたら、何故か気に入って、話をする関係になったと言う感じで始まりました。

だから、習いました神道は厳密な意味では素人芸とも言えます。特に正式に教育機関に所属していた訳でもなく、(内)弟子として公開・認知して/されていた訳でもなく、教団とかある神社の氏子・崇敬会などの組織の一員とかでもなく、ある神社に奉職している神職の一人が、個人的知り合いにいろいろと教え・伝授をしていたという感じでしたから・・・ね。しかも、内実は月に数回、二人で神道関係の話をし、たまにやり方をワンツーマンで稽古をつけてくれたと言う感じでした。

ちなみに師弟関係が終了したのは、師が遠い神社に宮司として奉職になり(栄転ですよ!)、そして神職にならないのならばもう教える必要のない位に学び終えていたからです。

師は最後に言っていました。『自分が(皇悠さんに)お伝えし話した事は、もう今では誰も知らず、今では知る人も隠し忘れ消去した事です・・・。この世界(神社・神道の世界)も変わりました・・・、あの戦争を境に変わり、この国の成長と共に変わり、私が多くの先師から古書から学んだ事も今では誰も求めていないモノに成り下がりました・・・。勿論、(皇悠さんが)神職の道を選ぶのならば私は推薦も支援も出来る限りさして頂きます。でも、嬉しい事に選ばれない・考えていないとの事で・・・、良かったです。・・・どうぞ、私との中で得た物をよろしくお願いします・・・』と、頭を下げられて別れました。

もう、何年も前の話です。記憶の脚色も忘却の欠落もあるでしょう・・・・が、何かを託されたのもまた、確かです・・・。

冷静に今から考えますと、二十代の無関係の神道の素人にしか、伝えられない師の悲しさ・時代の変化が理解出来ます。たしかに、今では許容されない面が多々ありましたし・・・。今でも神社本庁系列の神職者が修験・両部系の技法を行い・公開出来るのかは、やはり微妙です・・・。

さて、今回は色々とギリギリで何とか記述し、その為に変な文章の上に、自分語りが多くなりましたが、前段で紹介しました立川談春師匠の『赤めだか』、このブログのメインテーマ・祈祷・呪術とは完全に関係ありませんが古き良き時代からの師弟関係、普通に小・中・高などの学校などの先生と生徒などではない師と弟子関係をよく描かれていますので、お勧めします。本当に誰かに弟子入りするという事がとても丁寧に記述されています。

本当に残念ながら、日本で呪術・祈祷関係で師弟関係を良く記述しているのはなく、強いて言えば訳書のカスタネダシリーズ位しかないので、この本はお勧めです。誰かを師として請い、弟子として過ごす時代の嫉妬・不安・憧れ・恐怖・・・・全て出ています。

しつこいですが、お勧めです・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、何かの参考になれば幸いです。

では、[貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます]ように祈ります・・・。

皇悠より。

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2009年1月23日 (金)

悪癖・・・注意?

御覧を頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

えーーと、いつも見て頂いている常連の人には今更ですが、初見orあまり来られない方はご存じないので告知おばいたします。

ある方から忠告を個人的に受けたので記述します。

『 当ブログでは、基本的に同じ内容の記事はまず再度の記述を特にしておりませんし、皇悠個人が嫌いなのでまず、しません。

よって、内容的な関連記事やその紹介記事などが以前に記述してあっても改めて紹介・告知をまず、してません。また、以前書いた内容を重複しないように記述されていますので、関連記事や紹介記事が以前あった場合にそれを知らずに読了しますと間違った理解に繋がり易いブログです。

また、往々にして頂いたコメントへの返信により詳しい技法や理論の説明内容・記述がある場合もあります。 』

(よし、これで義理を果たしましたね。見てますか?本日メールをくれたKサン。)

単純に迂闊で、不親切で・面倒だからやらないだけでしたが、どうやらコメント欄を見ない方や内容的な関連記事を再読/再検索しないで記事を閲覧する方がネットではいて、そういう方には当ブログのやり方では往々にして勘違い・誤読しやすい内容・記述方法らしいので今回、忠告というか告知してみました。

まあ、常連サンやそれなりに修行した方には当たり前すぎる内容も多いので、気にせずに好きかってに記述してましたので、告知してみました。

これで、誤解・誤読が減れば良いのですが・・・。

では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ように祈ります。

皇悠より・・・。

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2009年1月14日 (水)

歩いて疲れた上に、ブログの新装開店

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、またまたプロフィールの内容どころか、ブログのテンプレートに項目の配置を改良というか大変容・新装開店させてみました。どうも、お世話様です、皇悠です。

さて、今回もつらつら雑文を書きます。

えー、久しぶりというか正月に続き、何故かゆっくりと一日時間があったので巡礼という名の散歩をしました。新宿から原宿・渋谷→目黒→代々木→新宿とテクテク歩いた訳です・・・。

参拝した神社・寺院は色々です。基本的に今回は新宿駅周辺を何故か回りました。

覚えている限りあげますと、近頃なじみの花園稲荷神社から雷電稲荷神社、曹洞宗の護本山天龍寺、浄土宗の奪衣婆で有名な正受院、内藤新宿の遊郭で疲れ果て亡くなった遊女が投げ込まれたところで「投げ込み寺」とも呼ばれていた成覚寺、日蓮宗の二つ並ぶお寺の木造の常泉院・高い鉄筋のお祖師堂が目印の常円寺、  曹洞宗で方亀山東長寺などを回り、明治神宮に住宅街をさ迷い、何故か中目黒の駅前に出て、小さな馬頭観音のお社などを見つけては、参拝しました。

ちなみに行き返りは明治神宮の玉砂利の中を歩きましたが、なんというか明治神宮の鳥居の近くに仮設されていました古い破魔矢やお札入れは大盛況でいた・・・。平気で、成田山だ佐野厄除け大師だ、伊勢神宮だとメジャー級からどこあるのかは不明の神社まで、お札からお守り、ステッカー、破魔矢に熊手、本当は頂いた所に納めるのが筋なのに、面倒なのか知らないのか?判りませんが乱雑に投げ込まれていました。

これも日本の宗教事情というヤツなのでしょう・・・。

まあ、もう昨日になりますが、久しぶりに晴れてかつ暖かく絶好の散歩・巡礼日和でした。

ちなみに参拝していますが、特に何かを祈願をしていません。単純に近くに寄りましたのでご挨拶しただけです。

逆に各寺社の祭神・眷属・本尊様に多くの加護を周辺の住民に与えている事を代表して感謝し、祀られている神仏の皆様へより神仏の皆様が一層の開運厄除・威光倍増・富貴繁栄などされるように祈りました。

ちなみに、このような祀られている神仏自体の開運を祈るという行為・作法は今では何故かマイナーな教派神道の黒住教から私は取り入れています。また、神道家の山田雅晴氏もいくつかの書物で広めてもいますので、ご存知の方もいるかと思いますが・・・。

さて、久しぶりに新宿を中心になんとなく歩きましたが、本当に日本は不景気かというくらい、人は多くハキハキ歩いていました。

まあ、新宿のような繁華街、明治神宮のような有名神社を中心にふらふらしていれば、そう感じるのもしかたがないのですが・・・。

世の中には道端で寝ている浮浪者もいれば、仲良く遅い初詣のデートをしているのか楽しそうな若い十代の二人組が幾つもいたり、宝石店から見送られるグラサンのオバサンもいるわけで、本当に面白いものですね。

また、缶ジュースの自動販売機が多いときには直線100メートル内で10台ほど見つけた時に、思わず日本の豊かさを実感しました。ちゃんとそんなに同業他社が乱立していても元が取れているという現実に・・・。

こういう普段、ぜんぜん歩かない環境を約半日、歩くのもいい気分転換・気付きになりますね。さて、また明日から忙しくなりますので、そろそろ寝ようと思います。

では、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より、一礼。

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2009年1月13日 (火)

神社神道における祈祷の作文問題

御覧頂きましてありがとうございます。

どうもの皇悠です。さて、今回は神社神道の祈祷・呪術の概念/規定などについて記述します。

まず、基本的には神社本庁系の神社神道では、まず人に対して基本的に一切呪詛・呪術は行いませんし特に教えていません、事実上の厳禁事項です。

ほぼ祭礼の全ては禊/祓え清め、すなわち修祓と各神社がお祭りしています大神様の神恩への感謝と各祭神へのほぼ個人レベル(時に会社などで組織レベルの)祈願が主体となっています。つまり、基本的にはお祀りする神や眷属の力で誰かを攻撃する事はせずに、崇敬する神に自己を清めてからお願いするだけという構造です。

本当に禊・祓えのその実施は本当に呆れる位に徹底していまして、心身の浄化が進めば、呪詛など受けにくくなるとし、更に例え万が一にも呪詛を受けても、影響を受けないように自分の周りに、祭祀する神様・眷属による守りの覆い・力みたいなものが出来て、悪しき呪詛などから守られるようになると考えているようですね。

また、心身が清浄に清まって浄化がされていれば、なおさら穢れが近寄ってこなくなったり、近寄ってくる穢れをいち早く感知出来るようにもなるそうですね。

ただ、そう言いつつも現在の神社神道においては特に祭礼・祈祷において、個人の才能・技量に依存する儀礼体系を構築していますので、その理論も微妙です。

特に顕著な祝詞作成・使用のケースを例にしても日本人の物事の思考順序、出来れば古語も含め多くの日本語の熟読と文章の熟練が必要となる専門的な分野でありながら、基本的には各回ごとに未熟な者でも祝詞の作成をして祈祷する体系ですので・・・。

特に日本語は私達が普段何気なく使っている現代の常用語句に接続詞ですら祝詞の作文において、古伝の慣用句・術語などに置き換え、言い換えをし、的確に言葉を当て嵌めて、一字一字を祝詞語と言うようなモノにて再構成して祈願文章を肝要な所まで言霊あふれる文章・祈祷用の祈願文として作成し扱います。

しかし、これはよく考えますと日本語を英語に翻訳するのと変わらないわけで、個人の知識や経験・センスに技術力にすごく依存し、頼る危険なモノですよね。

願主からみれば神仏に下手な翻訳で伝達されるかもと思うと正直、ゲンナリします。稀にそれなりに長く神職をされている方でも本当に下手糞な祝詞、それはないだろうという文章を作成され・翻訳された祝詞を聞く事がありますから・・・。翻訳は本当にセンス・才はいりますし、重要です。

しかし、正直なところ文章作成能力はある程度は訓練で向上しますが、やはりセンスや才能の差は大きい分野なのに、こういう危険性を把握している方は少ないです。たまに「えっ、その訳は無いだろう・・・。」という文章を朗々と唱える神社の報道を見聞しますとシミジミ思います・・・。

さて、そういう訳で例えば修験道の行者や密門の僧侶などが基本的には表百などの経典朗誦の前の前文・祈願の文章ですら安易には全文の作文を行わない戒め・慣習などが存在するのに対してこれは本当に大きな違い(のほど)ですよね。

また、その為か、これは信仰の形においてお互いがその領域を深くは侵害しないよう合習・習合しつつも神道と仏教・修験道・陰陽道などの各専門職毎に、というか住み分けをしてきたそういう歴史の系譜を辿ってきた人々の信仰の理由だったりします。それは安易に祝詞や経文を自作・改作を厭う理由でもありますが・・・。

ちなみに、個人的に皇悠は基本的に祝詞や表百の作成をしません。文章作成・翻訳能力が優れていないのを理解しているので、古伝の効果を歴史が証明してきましたモノを流用するようにしています。

この辺は、本当に難しいですよね・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2009年1月12日 (月)

土着の霊的存在に対してニューエイジ・スピリチュアル系の危険性

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回は雑談or諸注意です。

さて、最近の精神世界系の話で非常に欠落している部分があるなと思うのが、その土地の精霊・神などが祟るという話です。

元来、目に見えない土着の霊的存在(鬼神、龍、土地神・・・)というのが、存在していて、世界中、特に祀られている古い精霊・土地の神というのは、元々は、そういった存在が多かったようですね。多くの説話、御伽噺、古書などを見ますと本当にそう思います。

つまり、「神として祀る代わりに、この土地を利用するのを許してください」という感じでしょうか・・・。また、よくある古くから崇敬を受けていた大木を伐った、巨石を動かしたら災害が頻発したというのもありがちな話です。

ところが、近年のニューエイジ・スピリチュアル系の影響で、そういった面が語られなくなってしまいました。特に欧米人つまり白人には神が祟るという発想が分からないのでは?と思う事もあります。祟るといよりも罰を食らわすという神ですからね。

ちなみに現在はスピリチュアル(霊的ということですが、)というモノが大変にブームというか流行ですが、この世界に興味を持って日が浅い人向けに説明しますと、こんな感じです。

さて、実際は、スピリチュアルとか癒し/ヒーリングと言って多くの書籍・メディアで宣伝していますが、それらは昔からある古臭い宗教・信仰やオカルト、呪術・占いの類と何も変わらないモノです。一見現代風に、特に女性が興味を持つように小洒落た感じにしていますが、悪い言い方をするとただの簡略化・衣装変えですからね。まあ、商売としてはパッケージや表面を変えることで新たに未知の客を呼び込むというのは良くあることですが・・・?

だから、実際にそれらの宣伝や記事の内容に対して話半分というより2~3割くらいと考えるようにしておいた方がいいモノもあります。その効果というか霊験という点で言えば、それから更に引かなくてはならないでしょうが・・。更に昔の霊験譚によくある大病の治癒とかはあまり聴きませんから・・・。

言い方は悪いのですが、中国に「羊頭を掲げて狗肉を売る。」という故事があるのですが・・・。(肉屋で、羊の絵を描いた看板を掲げて犬の肉を売っているという内容です。つまり、見せ掛けは立派だけど実物は違う、内容が伴わないという事です。)

残念ながら正に、これにほぼ全てが該当してしまうのです。本当に力がある人は以前書きましたが、囲い込みされていますから・・・。

では今後においてスピリチュアルというものが発展・新人の出現が見込めるかといえば、ノーと言わざるを得ないでしょう。

東洋医学(針や灸に漢方に気功)などは、一部で大学などの公的機関で研究対象になっていますし市場としてこれからの高齢化社会を視野に考えますと拡大発展していく可能性はまだまだ十分にあるのですが、残念ながらスピリチュアル関係はある程度市場は現在は確保出来ているとはいえますが、それ自体が、それ以上になる事・物ではないと思います。今では競争が激しいですし住み分けがなされているわけでなく、飽和状態になりかかっていますし、更に市場というか多くの人に受け入れられる方法論・目安自体がまだまだ拡大するのに十分確立していませんし・・。

勿論、何故か近年流行のアセンションや人類の霊性向上というのは夢の話です。というより、それを主張している人達がまるで・・・という感じですね。それで商売をしている人は、適当に「時間延ばしを行うだろうな」とは思いますが・・・、以前ノストラダムスで商売していた事と意味的・内容的/構造的には同じですからね。

さて、話を戻しまして以前流行りましたチャネリングなどで、こういった神仏とコンタクトが取れることがあるのですが、彼らは決して必ず人間に益をもたらす訳ではなく、実害の方が大きい場合もありますよね。

要は、引っかかった人達を利用してそれら・祭られ封印されていたモノが何かをするという事です。これは日本では大本教を代表とする明治期の神道系宗教の出現時の顛末を調べると面白いですね・・。

また少し前に、中村雅彦師が伊勢白山道を批判したのも一部は同じ文脈・理由です。

さて、少なくとも現代の女性が好きそうなスピリチュアル系の書籍や雑誌等には、無条件にこういった存在を良しとして、古来からの信仰・神仏の非常に泥臭い部分・灰色な要素が欠落してしまっています。そして、付き合う際の多くの注意も・・・。

特に土着の神社や、アジアの各地域で信仰されている無名の神仏・精霊の大半は祀ってあげるから”祟らないでね”という意味の方が歴史的には多いですから・・。今流行のスピリチュアル系に関わる人・(ライトワーカーとかいうんですか?)で事件が急激に発生した理由の一つが、これらと関係あるのかな?と最近思います。つまり、フザケルナという事で鬼神や、祀られている神仏、龍や精霊といった霊的存在が怒らせているのかもしれないという事です。

また、スピリチュアルブームのお陰で、勢力が弱まっていた・忘れられ埋没していた存在や、過去に封じられた・消滅しかかっていた存在にエネルギーや注目などを与えてしまった可能性もありますよね。して、もちろん彼らは、活力を取り戻した・戻すために後には当然の如く新しいエネルギーを求めて、敏感な人達にコンタクトしてくるだろうと思いますし・・・。

ちなみに、彼らは何を食って存在しているかというと、精神的なエネルギーや生命エネルギーと呼ばれるモノです。かなり前ですが国書刊行会のケネス・グランドの翻訳本に幾つか具体的に記述されていますが・・・。

要はお祭り・古い儀礼というのは、とにかく、本来は土着の霊的存在がその土地のエネルギーを吸って・それらを糧にして存在していたのですが、人間が生活するにあたって当然、その土地のエネルギーや生存基盤を奪うのでその分の量(彼らの取り分)が減るわけですよ。そこで、年に数回、大々的にお祭りをする事で、エネルギーor糧を送って満腹な状態or許しを請う事にして、祟らないで、つまり、エネルギーを奪いに来ない・復讐/反撃しないようにしているというのが、理由としてある訳です。

元来は彼らの領域なので、ショバ代を払うのと意味的には同じですね。

勿論、歴史の皮肉というか、ある意味で古い伝来の祭儀の有効性の証というか、それが今では経済的にそういう祭儀を長く累々と行い続けていた事が、ある意味でその土地の独自性・個性になり、観光資源になって今では良い現金収入先・地場産業になっている場合もあるようですね。その良い例が今では諏訪の御柱祭や伊勢神宮の遷宮時は多くの観光客が来る目玉扱いですし、バリ島のバリヒンディ信仰はその文化的な独自性で観光地として目玉になってますので・・。

ちなみに歴史的にはキリスト教の場合、そういった場所に教会を建てて、信仰のエネルギーを封じてしまう・別の方向へ(自分たちの信仰に取り込み)持っていってしまうなどをします。それで、彼らのライバルの力を干上がらせて滅ぼしていったようですね。似たようなことを日本でもたびたび行われていますが・・・。

これらは神・信仰殺しといったテクニックの一つで、こういう存在を忘れさせる・信仰の伝承を断つという方法です。もっとも、彼らも黙って見ているわけではないので、その辺は、歴史的に色々とありましたが・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2009年1月11日 (日)

ある龍神憑きの独白

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、すこしプロフィールを現状に合わせて変えてみた皇悠です。

さて、今回はある龍神憑きと自己定義する人の独白の紹介です。ネット上ではこういう方もいるんですね・・・。

では・・・・。

『 私に龍神が憑いたのは今から12年前の1996年1月1日箱根でだった。神主が祝詞を唱え始めてしばらくすると突然と背骨がウネウネとウネリ始め、傍から見て「何であの人は体をくねらせているんだ?」と思われるので必死に抑えていたが充分には抑え切れず、多分周囲の人々からは異様な光景に思われたはずだった(笑)

祈祷が終わり外に出ると周囲の景色がパッパッと点滅したように見え、自分以外にもう一人の自分が自分の目を通して見てる?とでも表現したらよいだろうか?そんな変な感覚に一時的に陥った。それからというもの飲めなかった日本酒が飲めるようになり生卵も大好きになった。

それまでの私は大体の酒は飲めたモノの唯一日本酒だけはダメで、おちょこ一杯飲んだだけで頭が痛くなるし何よりもあの匂いが嫌いだった。93年の夏に調布駅近くに店を出した時も開店祝いとして頂いた日本酒は全てお客さん用として出していたくらいだ。なんで日本酒のようなマズイ酒がこの世に存在するんだ!?と思っていたし、飲み屋の前を通って日本酒の匂いが漂ってきただけで吐き気を催すほどだったのに、そんな自分がその日を境にして日本酒が大好きになってしまい、よく人からは飲み過ぎだと言われるが週に日本酒三升~五升ほど消費するようになってしまった(但し純米酒で外ではほとんどビール)

龍神と蛇は似て非なるモノで、その性質は全く異なる。

龍神は空を飛べるので地球が球体に見えるほどの高い位置から物事を見れるようになり、何事にもグローバルな視点で考える事が出来る。

だから龍神が憑くと、たとえ自分が恋愛、仕事、対人関係、病気、その他、どんな問題で悩んでいようとも地球にへばり付く莫大な数の微生物のひとつにすぎないような自分が悩んでいるなんて馬鹿馬鹿しいと考えるようになるし、そもそも悩みを悩みとは思えなくなってしまう。

mixiには「宇宙から見たらどうでもいいし」というコミュがあるが全くその通りだ。たとえ自分自身が死に直面しようとも「この地球上では毎日たくさんの人々が死んでいるのだから、その順番が自分に回って来たとて大した問題ではない」などと思えるようになる。そして、こういった考えが良いか悪いかは別として、この解放された究極の楽天的思考になってしまうと不思議なことにほとんどの物事は上手く運んでしまう。自分のことしか考えられないネガティブ思考からは絶対に良い結果は生まれない。

だから自分は、あまりにも悩みに執着した人に対して
「あなたのその悩みが解決しないと地球が滅亡するならそれは大変なことだし、どうにか解決しなければ!だけど、そうではないから、そんな悩みはどうでもいい」などと言ってしまった事が何回かあるな・・笑

一方、蛇は地を這うので狭い視野で物事を考える。
人生で障害物(問題)などに突き当たると、それをどうにかしようと四苦八苦する。たぶん本人は必死なのだろうが、ほとんどの場合はどうでもいいくらいの小さな問題である事が多い。「私の行く手にアリンコが立ちふさがった!だからそのアリンコをどうにかしなければならない!」と考えるタイプで、「そんなアリンコごとき無視して踏み潰すなり迂回するなりして目的地を目指せ!」と言っても「いえ!問題をどうにかしないかぎり私は前進出来ません!」と言う。”私はそれに固執したいから固執する”これ以外には思いつかないような言い訳をして何年も時には何十年も下らん事に執念を燃やして人生を終える人。

よく 「蛇のようにしつこい」 という言葉があるが蛇の性格なんて誰も知らない。多分蛇というよりも蛇の憑いた人はそのような性格に成る事から来た言葉ではないのか?
昔で言えば、親の仇を討つために執念を燃やし、その仇を何十年も探し回って人生を台無しにしてしまうタイプで粘り強さと執念深さでは右に出る者はいないといった利点(?)があるとも云える。・・・ 』

以上です。

それなりに有名な人なので、もうご存知な方も居られると思いますが世の中にはこういう人もいると言う事で紹介してみました。

さて、その伝でいきますと私はお稲荷様を信仰しているので、皇悠は狐&天狗憑きでしょうか、それともただの暇な変人・・・?(笑)。世の中に、このブログを通して、今では信じる人も少ないのであまり意義・意味のないと言えば、意味のない事柄の妄言(?)・知識を広めてますから・・・ね。

では、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、何かの参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2009年1月10日 (土)

呪術・祈祷の道理・倫理

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回はこのブログらしく祈祷師の倫理観等について書きます。

まず、祈祷・呪術においては神仏の道理・思想から外れる行為を行った場合、必ず拝んだ方が自爆・罰を食らいます。特に、相手が憎いから制裁を与えて欲しいとか、敵を傷つけるような祈りは霊的素人はやらないほうがいいです。例外は自分と共に相手が滅ぶ共倒れの祈りだけでしょう・・・ね。

勿論、裏技らしきモノもあるちゃ、言やぁ、ありますが、しかし、それを駆使しても成功率よりも敗北率のほうが高いのがこの種の祈祷です・・・。

さて、基本的に神の目、仏の目に照らして、道理に合わない事を祈願したりすると、拝んだ本人もやられるし、ブーメランのように返ってきます。絶対にしっぺ返しが来るものです。それだけでなく拝んだ本人も依頼した人も倒れたり、命を落としたりと言う事もままあります。よく言われる「人を呪わば穴二つ」は本当の事です。

そう言う訳で呪いという形になると、本人に返って来てしまうので「超克・克服」という概念が必要になります。つまり、相手と同じレベル・場所で張り合うのではなく、敵対するモノを超克し、違う段階で対処するという発想であれば良い訳です。

今、流行の潜在意識理論で言えば、潜在意識は自他の区別がないのですからね。例えば「〇〇さんよ死ね」は潜在意識は「〇〇さん」が抜けて、ただ単純に「死ね」とだけ理解して、それを受け取り、それを叶えるとも言えますので・・・。

そういう訳で、例えばこちらに攻撃してこないように避けれますようにとか、訴えがなくなりますようにとか、・・・。つまりは災いから身を守るという意味であくまでも防衛的に意識の有様を変える事などが肝心ですね。「〇〇よ死ね」ではなく、「〇〇からの害を消したまえ」とか「〇〇から守りたまえ」と祈るわけです。

同じ意味でストーカーとか、嫌な出来事を遠ざけたいと言う事でも問題はなくて、オーケーですね。「縁切り」とか「厄除け」祈願と言う事なので、呪詛にはならないからですからね。

ちなみに、韓国系のクリスチャンの教会はそういう意味ではよく練られた文句・内容・歌詞を使いますね。(近頃、勉強がてらミサなどに参加してみてますが、かの国のクリスチャンは本当に讃美歌や祈りをよく唱えますが、その内容は神の偉大さを称えつつ、個々の信仰の強化と日々の恵み・加護に感謝などをよく訴える内容ですごく勉強になります・・・)

さて、基本的な場合は、術者・祈祷師にはそれぞれが信仰している神仏の加護があります。それは明白な形で外界に具体的な現象を起こしてくれる眷属の働きによる所が大きいのですが・・・。また、これは時に自動的に動かれる事もあります。

けれども、そのような強い加護を受けていている場合も筋違いの依頼を実行したり、神仏の道理に反する祈願をやってしまうと、必ずこちらが負けて祈りは叶わずに、それどころか時にはかなりの罰やハンデを課せられます。あまり、信じられないことですが、特に呪術戦において使い魔・眷属と呼べるモノが逃げ出したり、向こうに懐いたりします。

(眷属が逃げ出すというか失踪は何度か(どれも魔術戦とかではなく不注意や成長による変化による)離反経験がありますし、他に懐いてしまうというのは聞いたことがあります。話によれば、その人が魔術shopで勤めていた時に当時ある最強の使い魔として作成・養育したモノが他の魔女(今でも日本ではそれなりに知られた某GSJの代表的魔女)の所に、行くと言う事を経験したそうです。閑話休題。)

また、祈祷の際に神仏から依頼者の気持ち、動機も問われますし、それが人の生命が脅かされていたり、身の危険から助ける事であるなどそれなりの正当性があれば、神仏の加護は確実に叶え、力になって頂けてその成就に参加して下されます。また、こずるい嘘・誤魔化しで祈祷者を騙すと不成就は勿論ですが、祈祷師が逆に依頼者に罰を課す祈祷をなる場合もあります。こういう場合の祈祷は、ある種の神仏に対する詫びであり、制裁行為として時に命じられる事もありますし・・・。

また、基本的に依頼者の一方的で、自己中心的な動機から来ているモノを、受ければ、共倒れになります。この辺は大抵の術者・祈祷師が最初から厳密に見極めて仕事を受けるかどうかを判断し、受ける筋合いのない仕事はまずは引き受けないモノですが・・・。こういう場合、最初から相手に情けをかけることもないですし、道理や仁義を弁えない者はまず相手にしないものです。しかし、その分、実力者は一度受けた仕事は貫徹し、確実に結果も出すものですが・・・。

よく考えれば、当たり前ですが、何でもします、何でも出来ます、何でも引き受け叶えますという人は、まずどこ業界でもどんな仕事でもいませんよね。

これは、ある意味では時に自分の命を削る祈祷師という仕事では、特に無駄な事に命を差し出すような真似はしないという判断基準ですね。

人によっては更に厳密に命を張ってもいいと思えるような仕事だけを受けている方もいます。また、見返りや金銭的報酬とは無関係な仕事でも引き受ける事もありますが、それは依頼者が個人的に気に入った場合ですね・・・。

また、そういう訳で、誰かを傷つける・呪う事を引き受ける本当に力のある祈祷師・呪術師は実はいそうで、いないのはこういう訳ですね。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2009年1月 8日 (木)

神仏との繋がり

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は神仏との繋がり、自分の守護者を選ぶ事等についてつらつら書きます。

さて・ただ、選ぶなどと、大層な表現を使ってしまいましたが、信仰する神仏というものは、やはりなんというか縁の割合が強いようですね。これを密教系の仏教では、結縁(けちえん)などと呼び、神道では神縁とも言います。宿縁や神の召命という場合もありますが・・・。

そして、それはやはりなんというか選ぶというよりも、その人の心の中に、『神仏にすがりたい/助けが欲しい』という思いが強くなって来た時に、恐らく日ならずして、なんらかの縁が神仏より兆しのようなモノが見えてくるような、導かれるようなモノですね。逆に、準備と言うか機が熟してないのであれば、なかなかその縁・兆しは見えてこないのかもしれませんが・・・。

それは例えば神仏について神道・仏教などの宗教・宗派の事を勉強してみようと試行錯誤をしているうちに、子供の頃から近所で慣れ親しんだ神社やお寺に赴き相談・祈願する行為が、その人の縁を解きほぐしていってくれるかもしれませんね。ただ、その人の真摯な行為が信仰し頼るべき神仏の姿を、何かの拍子に現れさせていくのでしょう・・・。

ただ、大抵の場合で、プロの祈祷師や行者などの場合、本尊をどうやって決めたのか、というと何故か不思議な霊夢や霊験などによって決めたというケースが非常に多いようですね。

皇悠もやはり夢や共時的な巡り合わせなどが大きな要因でした。

当時、色々な生活苦・霊障に悩まされる事になっていたのですが、その過程で、生涯に渡り守護し導いてくれる方・守り本尊・祈祷神仏と呼ばれる方を激しく希求しました。そして、手あたり次第に多くの書物を読み、行を積み、聖地・霊場巡りなどをした経験があります。

そうして、ある時からお稲荷様の夢を頻発して見るようになり、それと同時期に稲荷関係の祈祷・呪術書などを手に入れ、更に幾つかの占いなども使い出来るだけ微力ながらも当時でも出来る限りの情報と考察の上で、稲荷信仰者に成る事を決意し、今に至ります。

それから、守護されるに相応しいように日々努力・工夫を積みつつも、その神恩・加護などを折に触れ味わう日々を過ごしています。

さて・だからこそ、このブログでは、霊的守護者や祈祷本尊・神仏の加護と言ったモノが何度も出てきますし、意図しなくても滲み出てきてますね。押し付けがましくならないように気をつけていますが・・・・(笑。また、この一連の経験は思想的源泉・骨格の一部になっていますので、しょうがない面がありますが・・・(汗。

ただ、現在ではこのように稲荷者として、自他共に認めてますが、そう成るまでに西洋魔術系の師についた事、神仏習合系の行者に学んだのもありますのでそれなりの素養や準備が出来ていたとも言えますが、師事した二人の師共に稲荷信仰は欠片もしていない方でしたので、稲荷信仰をするようになるとは、やはりというかかつての皇悠は微塵も考えていませんでした。

そういう意味で、人生(の流れ)は不思議ですね。

さて、現在は殆どの場合で呪術・祈願・祈祷に関しては、まずはこのお稲荷様という窓口から、大抵はやらせて頂いていますが、これはやはり人それぞれです。まずはお不動様という方もいますし・・・。

おそらく、こういうのは各々の術者本人が感応出来る神仏というのがいらっしゃる事でしょうし、それはそれでいいのではないでしょうか・・・。また、稲荷信仰を押し付ける気もありませんから・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただき、何かの参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますような・・・。

皇悠より。

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2008年12月29日 (月)

笑い・感謝の効能

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね。皇悠です。

さて、今回は感謝と笑顔の話をしたいと思います。

これはベトナム戦争での逸話なのですが、大勢のアメリカ兵が負傷している中で、一人は死にそうで、もう一人は重傷だが助かると言われている兵が二人いました。しかし、その結果は死にそうな兵隊が生き残り、助かるべき兵隊が死んだそうです。

それ何故なのか?その時の病院の医者の話ですと、死にそうな兵隊は「私はもう助からないのでどうか他の兵隊を出来るだけ助けてやって下さい、大変なのに本当に看護し治療してくれて有り難う御座います」と苦しい中にも笑顔で感謝の念を伝えていたそうです。逆に、反対側の助かりそうな兵隊は「痛い痛いっ!こんなに苦しんでいるのにお前達は何やっているんだっ!お前達の為に戦ったせいでこんなになったんだぞ!」と不平不満で怒りを周囲の無関係の人にすらぶつけていたそうです。

さて、その医者が説明するには「人が笑っている時や、感謝している時には人間の体が弱アルカリ性に変化して免疫力や抵抗力、体内治癒力を驚くほどに高めていくので病人や怪我人もその人の性格での影響で大いに変る」と…。そして「逆にいつも陰湿で不平不満を言って怒っている人の体は強酸性に変化して抵抗力や免疫性も低下していき、最終的に治る病気や怪我も治らずに死んだ人を多く見てきた」と・・・。

とても考えさせられる話ですね。勿論、二人の治療にエコヒイキや不手際はなかったそうです・・。

そして、この話を裏付けるような、ある実験結果があります。ある激怒している人が吐いている息を採取して攪拌分離して出来た結晶を溶かして実験用のマウスに注射したところ、即効で死んでしまったというのです。

つまり、感謝や笑顔は人の命を救い、周りを幸せにさせ・・・。逆に怒りは自分の中の最大・生命の敵なのです。さて、普通の仏教ではこの怒りの心を「貪瞋痴」の三毒のひとつとして厳しく戒めています。貪は貪り(貧欲)、瞋は怒り、痴とは愚痴(正確には愚かさ)ですが、自らの生活・運命を地獄・苦しみとしていく業因・要素の元がこれら三毒であるとしています。

さて、確か以前のある記事では、私は感謝の言葉(ありがとう・ありがとうございます・感謝しています等)を呪文・口癖にして運勢の好転を図る今流行の自己啓発の技法群を批判・否定しましたが、勿論感謝する事自体を否定・非難するつもりはありません。

事実、西洋・混沌魔術に限らず多くの宗派・体系にも笑いの行や感謝/喜びを習慣付ける技法群はあります。ただ、それらはあくまで精神の調律・魂の向上/浄化の一つとしてあります。現代の日本の精神世界本やニューエイジ系の願望実現・現世利益を意図してある技法とちがいます。

また、基本的に対象なり、分野なりを限定して使用しています。多くの精神世界の行が「いつでも笑え、感謝していろ」という感じですが、それは如何なものでしょうか・・・?

勿論、意識的に日々の生活で笑う・感謝するようにする事は大変良い事ですが、TPOを弁えて使う必要がありますよね。極端な例ですが周囲が泣いている葬儀中や図書館などで、馬鹿笑いや感謝するのはどうでしょう・・・。

幾ら有効だからとはいえ、多くのそういう分野の本や記述では万能薬・普遍的な安楽の手段にしていて、まるでいつでも笑い・感謝していれば良いと言わんばかりですからね・・・。こういうのは、気をつけたいものです。

では、今回はここまでです。楽しんで頂ければ幸いですが・・・。

貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2008年12月 4日 (木)

仏教の偶像崇拝

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、仏教は、あまり知られていませんがそもそも・基本的には『偶像崇拝』を禁じています。だから、昔は釈迦の像を作らず、『回転する車輪』や『足跡』をそのシンボルとして拝めてました。でも、これって、ただ『人のカタチ』をしていないだけで、『像』を礼拝対象とするという意味では、偶像崇拝であると言えますよね。

よって同じく偶像を激しく禁じるイスラム教においては、動物や植物のカタチを模す事すら偶像崇拝に通じると言う事で、それを徹底的に配して『幾何学的模様』を生み出しましたが…それらのモノですら、『この色は何を表す』『このカタチにはこういう意味がある』と意味づけが与えられている以上は、それは『偶像崇拝』に通じるのではないかと考えると、厳密な意味での『偶像崇拝』に禁止というのは難しいようです・・・。

さて、実は仏像が所謂『偶像』にあたるかどうかは、意見が分かれる所です。

ただ、経典ではお釈迦様は自分の像を造って祀る事を禁止していますが、その一方で、自分の像を創る事を認め、自分が不在の時に僧侶が集まって集会を開く際などに、その像を先頭に置く事を許したと『律蔵』にはあります。

また、ある大乗仏教の経典では、昔悟りを開いたお釈迦様が神々の住む山(須弥山)に登って三ヶ月間、人間界を留守にした際、信者である優填王(うでんおう)はそれを寂しがり、釈迦の像を作りました。そして、再び釈迦が人間界に戻って来た時、この像は自ら立って釈迦を迎え、その際にお釈迦様は『衆生の教化をわずらわせんや、来世を開導したまえ、真にこれ希うところである』と記述されています。

これと同様のモノが西遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘の『大唐西域記』にも記載があり、お釈迦様が模した像に『衆生を導きなさい』と命じた事を、今では仏像製造許可の『根拠』とされています。

さて、奈良の大仏像などのせいで仏像は何故か『それなりに大きいもの』というイメージがありますが、実は経典通りに作ると、意外に小さいモノが多かったりします。事実、マリシ天像などは10センチ以下のモノとかもあります。

また、歴史的には美術品としての仏像は、ギリシャ彫刻の影響を受けている所謂『ガンダーラ仏』の話はよく聞きます。それに対して、願望を成就させる事を目的とした仏像類は、インドのヒンディ教などの影響を受けてるともされますね。そもそも、明王や天部と呼ばれる存在はヒンディ教の神々を取り込んだモノですから似るのは当たり前ですね。

また、元来インドでは、神々の像を、服の布地に縫い込んだり、髪の毛に房を作ってその中に入れるという形でよく所持したので、サイズを小さくする必要があったとも言われています。事実、日本でも戦国時代に武将などが戦場でも持ち運び・携帯出来る様に小さく作成した例もあります。

この辺は、正直よくわかりませんが・・・、面白い話ですよね。

さて、今回はここまでです。参考になれば、幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝・・。

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ある有名占い師(?)の話

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は雑談or逸話です。

これはかなり前の又聞きなので、ご存知の方もいるかなとも思いますが、こんな話を聞いた事があります。

ある女性が、ある占師の所にタロット占いして貰いに行ったそうです。そして、占ってもらっている時、依頼者の彼女の周囲には一匹の大きな蝿が五月蝿く飛び回っていた。身体がとても臭かったのか?時々その蝿は彼女の頭や顔や胸や股間に止まったりもした。

その五月蝿いハエを払いのけていると目の前の占師は占いを終えて、
「残念ですが・・貴女の今の彼には貴女よりも、もっと好きな女性がいますね。彼は今、貴女と別れようかどうか迷っています。彼は1ヶ月以内に貴女に別れ話を持ち出すでしょう・・」と、言ったかどうは知らないですが、とにかく彼女はその占師から悪い未来を告げられてしまったそうです。

あまりにもショックな事を言われたので彼女は落ち込んでしまったが、すぐに立ち直って
「じゃ今度、違う占師に見てもらえばいいじゃん~♪」と考えて、(すごいご都合主義ですが・・・)そこから徒歩10分ほどの所にある他の占い店に入ったそうです。

すると、その店の奥から木星王が出てきて。開口一番「なんやネエちゃん!さっき他の店におって占ってもらいはったやろ?」な、なぜぇ知ってるんや~~!!このオッサン~~!!!とびびりつつ占ってもらうと・・・。

その後、木星王は先の占い店で占ってもらった内容など全てを言い当ててしまったと言いいます。

以上の話は、ある方から聞いた話で、その人は以前、木星王の所で働いていたというか関係者だったらしいので、その辺の話は詳しかった。

また、木星王の店は神戸の三宮にあったので例の災害で 「木星王とその店は大丈夫だったの?」と尋ねたら「あの人は殺しても絶対に死なない人でしょ」 との事・・。

更に続けて彼女はこう言いました。
「木星王は・・ 実は・・ベルゼブブの化身で自由にハエに変身出来るんです・・」
えぇぇぇぇぇ!!それって本当ですが・・・??

その後、同じく木星王に詳しいある別の占師からも同じような話を聞いた覚えがあります。

さて、この木星王の弟子筋の一人は実は心理占星術の鏡氏らしい事はあまり知られていない事です。彼がIOSやSOLの団員なのはそれなりに知られてますが・・・。

また、日本の魔術界創設の立役者の一人、朝松氏がアレサンドリア氏の商売を大否定していたのも意外に知られていません。

こういう業界には、やはり異能力や変な噂はありますが今回、それを書いてみました。楽しんで頂けたら幸いです・・。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より・・。

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知識の拡散と正確さ

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回はしばらく前に、たしか日本の「神仙道の稀覯書を丸々コピーして製本し、結構な金額でネット上で販売される…」という事がありまして、その事について記述します。

これはちょっとした騒ぎになりました。

これについて、売る側の理屈は『知識は皆で所有するべきだ』というモノで、知識を欲する人がお金を出してでも欲しいと思うのであるなら、それを提供するべきだというモノです。それに対して、反対派は『秘密というのは秘されているからこそ意味がある訳で、神仙界の秘密を安易に外部に洩らすような行為は『掟』に背くものだ』と激しく非難したとか・・・。もっとも、その稀覯書は、その時点ではまだ『著作権』が切れておらず、神仙界の掟以前に、人間界の掟を守っていなかったという始末・・・(笑。

さて、オカルトというのは元来の意味自体が『隠された知識』な訳ですから、『秘密』でないといけないという暗黙のルールみたいなモノがあったりします。その『秘密』というのは、『入門』してきちんと順を追って学んで行けば、徐々に『開示」されるモノというのがこの界の建前です。これはよく言われる『(独学だろうとも真摯に学び訓練を積んだ)弟子に準備が出来る(次の段階に進む時期が来る)と(次の段階の技術・知識・局面などを教え導く)師が現れる」という例の諺です。これは、今流行の引き寄せの法則ではないですが、それなりに事実としてあります。

つまりは、途中で《こんなちんたらやってられるか!》とか《私には素質があるから、基礎からする必要はない》という人にストップをかけて、しっかりと学んでいきましょうというシステム・カリキュラム・考えですね。

そして、そのルールを維持する為に、知識を保有・管理し、また後続を教育し指導し、その修行の進み具合をチェクし、認可していく人や権威があったりします。それが外から見ると『秘密主義』的に感じられる訳ですが、それはぶっちゃけ学校の先生とか業界団体の監査役とかと意味・役割的に変わらない訳でして、それはそれで必要なモノです。

こういうのは知識を管理する方法としては必要な訳ですが、自分のレベルや適性を無視して、知識を得ただけでそれが使える、本を読んだだけで会得出来るというのは、本だけ読んで車の運転が出来るというようなモノで無理がありますよね。

しかし、その知識・技術を管理する人達が、何を勘違いして知識を独占してしまったり、技術の肝心な部分を身内だけで固めてしまい、それ以外には知識の出し惜しみをするだけならまだしも、累代の知識や技術を失伝や誤伝したりするようになってしまうと、これはもう困った事です。

既存の宗教なんてモノは、もうこのパターンにおおハマリではないかと思ったりします。秘儀・口伝といい、次世代に継承する事を怠り、伝承者をえり好みしていたら、気付いたら出来る人がいない・判る人が死んでしまったと言う事が多々ありますから・・・。

こういう管理組織がおかしくなってしまうのは、それを構成する《人間》が悪いということであって、システムそのものとは別であると……そう考えたいです・・・・。

実際のところ、その管理する人たちが、実践者を『プロ』と『それ以外』にわけてしまい、完全なプロ・適格者でなければ知識を開示しないという形をとっている場合もあります。しかも、本当のプロになるのに金銭面や人間関係などで高い『壁』を作ってしまう。

そういうプロになる為には、管理者の中の誰かに身元保証人になってもらわないといけないというのは、たしかにそれはそれで大切ですけど、結局はプロを身内で固める為の流れになっているのもまた事実な訳で、そして往々にしてある血族や一族だけですと才能の偏りや枯渇が起き、進歩や向上が止まるのは長い歴史の中では、日本だけに限らずチベットの一時期の氏族教団形式で証明されています。

まぁ昔の隠れキリシタンや隠れ念仏とかの弾圧された『秘密結社・宗教』とかなら仕方がないにしても、『宗教』とかの「実践しなければ救われないモノ/プロにならなければ救われないモノでそれは困る場合もあるよね」とは思ったりもします。

正直言って、『私は既存の知識管理のシステム』がもうちょっと、その「門戸を広くして敷居を低くするべきではないかな」とも思っています。そして、なかなか変わらず・動かない『既製の知識管理のシステム』にそっぽを向いたのが、今のスピリチュアル・ニューエイジ系ではないかなと思ったりもします・・・。

それで、最初の本の話ですが、結局のところで、一度世に出た『知識』というのは、もう『拡散』するしかないわけです、良きにしろ悪しきにしろ・・・、それはどうしたって『回収』出来ないでしょう。

そうすると、もう『秘密、秘儀』と口にしているだけでなく、もっと『的確に使えるプロの数を増やす』というか、管理している知識に対して興味を持っている人をもっと積極的に『教え』て、『セミプロ』を増やすというのも一つの手ではないかと思います。

漏れた知識が間違った解釈をされ、変な誤用や悪用を防ぐためにも・・・。それはもうある意味では『秘密』ではなくなりますが。しかし、逆に考えれば、秘密にする事によってその『正確さ』を保つのではなく、また『知識を管理している人達」に無制限に知識を開示しろと言っているのではなく、普通に学び実践する機会をもっと増やす事で一般的な知識とする事によってその正確さを保つという方法です。

ただ、「その教授出来る人的財産、学べる物理的環境・資本が現在の多くの宗教・体系・組織にあるのか?」と言う事自体も疑問視、否定的です。残念ながら、現在の才能ある人は宗教や祈祷などにまず興味がないですからね。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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文字の法師、暗証の禅師

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は吉田兼好の『徒然草』(のある章)を題材につらつら書きます。

さて、同書には『文字の法師、暗証の禅師、互ひに測りて、己れに如かずと思へる、共に当らず。己れが境界にあらざるものをば、争ふべからず、是非すべからず。』という箇所があります。

これは、『自分の専門外の物事に対して、争ったり批評したりしてはいけない。まして馬鹿にしたり得意になったりしてはいけない』と諌めている箇所の文章なんですが・・・、文中の、『文字の法師』とはお経の意味の解釈にばかり拘泥する僧侶を指し、『暗証の禅師』とは座禅(修行)ばかりして、御経を読まない僧侶を指すようです。

これは中国天台宗の『法華玄義(ほっけげんぎ)』にある語が原型ですが、そこでは『文字の法師』が『誦文(じゅもん)の法師』になっています。この『誦文の法師』とは、御経を『呪文』のように扱う僧侶を意味するそうです。

それで後の文章で、お経の意味を知り、それが持つチカラを信じ、仏教修行を行う事、この三つバランスの取れた実践こそが僧侶に必要なモノであり、その中の一つだけを極端に行い、他の二つを疎かにして馬鹿にするのは良い事ではなと言う趣旨を言っている訳ですが・・・。

これは、当時の僧侶達の有り様を批判している訳ですが、現代のスピリチュアルにも通じる事ですが、どうでしょうか・・・?

つまりは、知識偏向で修行とか呪術の実践を軽んじるのが『文字の法師』。他人の行っている事に対し、知っている事だけが正しいとして、言葉で言い負かす事に拘る人なんかも、これに当たるのではないかと愚考します。

勿論、御経や呪文、あるいは神仏のチカラに頼り切って、知識を学んだり修行を実践する事を軽んじるのが『誦文の法師』。お経だけでなく、パワーストーンやハーブなどのパワー・アイテムに依存しまくる人もコレに当たるかもしれませんね。

で、なんか体育会系で修行や瞑想ばかりやったり、それで得たチカラを自慢して、知識を学ぶ事や、伝統的な作法を軽んじるのが『暗証の禅師』であると・・・。生まれつきのセンスや、目覚めた『霊能力』を自慢して、チカラがない人を軽んじる人もこの中に入るかもしれませんね。

確かに人それぞれにやり方というモノがあり、専門的なモノ、得意なモノというはありますし、好みやその体系で重視するモノの違いはあります。ただ、逆に言うと、自分がやり易い方法に《偏っているといる》訳で、大きな視野で見れば『好ましい事ではない』とも言える訳ですよね・・・。勿論、万能な人はありえませんし、それぞれの限界や特性もあるので偏りが出るのはしょうがない事ですが・・・。でも、それを諦め放置して良いと言う訳でもありませんよね。

さて、兼好法師自身は『文字の法師、暗証の禅師、互ひに測りて、己れに如かずと思へる、共に当らず』と言っているのも、自分が不完全である事に気付かず、相手の不完全な部分を見つけ出して晒しあげる事によって優位性を証明しようとしてもダメであると言いたいのではと愚考し推論しますが、どうでしょう・・・。

各自がそれを自覚し、より高みを秘奥を目指すのであれば、『このやり方が正しい』『他の方法は間違えている』『違う事をやっている奴は、自分より下だ・・・』『霊感を持っていない者は・・・』みたいな考えは浮かんでこないのでは…とか思ったりもしますが・・・。ただ、プライドやコンプレックスが邪魔してなかなか共同研究自体が出来ず、何よりも互いの実力・知識・経験の差でどうしても師弟関係や上下関係が出来てしますので、難しいですね。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、一礼。

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行者の末路は・・・

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は『行者の末路は哀れなものよ』『行者の末路は哀れなり』ともいいますが、これについて幾つか記述します。

これはいく通りの意味合いがありまして。一つは『行者』と呼ばれる人は、基本的に不幸な他人の幸せの為に拝み祈るので、その反動や影響をその身に受けて(被爆とも言いますが・・)、病気になったりして、悲惨な最期を迎え易いと言う事、もう他には、「自分は神仏との仲介者だ、崇めた讃えよ、お前ら俺の言う事をありがたがって聞きやがれ!」みたいな態度を取っている人は、ろくな死に方をしないと言う意味などがあります。

この界の祈祷師・行者というのは、今で言うところの『宗教色の強い霊能者』さんという意味になると思いますが。現代では、スピリチュアラーとかヒーラーとか占い師なんかも入るのではないかと思いますが・・・。どうでしょうか?

それで、まぁ、なんですか。行者と言えども何でこんなによく『自分はこんなひどい目にあっているんだよ、こういう辛い経験をしてきました・・・』ということを自慢するのかな?とも私はたまに思ってしまいます。

そういうのは卑しくもプロを自称する者が、『こういう加持祈祷をするのがしんどい・・・』とか何でか誇らしげに語ったり、霊能を自称する人が『どこどこに行ったら、霊の悪影響で体調壊した』だの『お持ち返りしてしまって、大変だった』とか、気功やっている人が『性格の悪い人の悪い気をもらっちゃた』とか『邪気が・・・』。…そういったことを、何故だか誇らしげに語る傾向が一部であります。

そういうのはアマチュア・素人が、対処方法がわからないので『本当に困る、どうしよう?』というのは判るのですが・・・・。

「どこそこで修行した」とか、「私は神仏や守護霊様の指導を受けている」とか、「生まれ持った素質だから修行する必要なんてない!」と言って、仮にも『プロ』を自称している人が、「そんな泣き言を言うのは、それこそプロとして恥ずかしくないのかな?」とたまに思います。

別に、自分の実力以上のモノにホイホイと関わって、それで痛い目にあってヒイヒイいうのは構わないんですよ。そんなのは私が関与するようなモノではないです。ただ、そんなの他人から見れば『身の程知らず』や『下手糞』なだけなんですよ、ある一面から見れば・・・。

たまに依頼者に対する商売上のテクニックとして、拝んでいたらどこそこが痛くなったとか言う人はいても、自分の力不足を自慢する人なんて(まっとうなプロでは恥ずかしく)いませんね。仲間内で、「あの時はしんどかったね」とか言って懐かしむ事はあっても・・・。

自分を必要以上に持ち上げず、辛いとか苦しいとか言わずに淡々とその時の全力を尽くして仕事をするのがどの世界でも本当のプロに比べて、変に悲劇ぶって、「これだけすごい修行をして、すごい『存在』とつながっていて、心身をボロボロにしながらも依頼者のために頑張っているんだよ!」と自己陶酔する方は、単純に「霊的な力を持っていてすごいんだな!」とか思う前に、この人は「こんな事にも対処出来ずに泣き言や愚痴をこぼす人間だ」とつい思う事があります。それに「そんなに辛いのなら辞めればいいじゃん!続けるなら、貴方の選んだ仕事なんだから泣き言は無しでしょ・・・」と私は考えますが、どうでしょうか・・・?

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠拝。

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機械的呪術・・

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は機械的な呪術についてです。

さて、あくまで噂レベルですが、「ある職場の上司に対して、アブラメリンの護符の内の、ある一枚(アブラメリンの護符の中でも効くモノとそうでないモノがありますが・・・)を波動転写の機械で本人の画像に転写する方法で、半年ほど転写し続けたら、だんだんと顔色が悪くなって、最後に電車に飛び込んで死んだ」と言う話があります。これはチャールズ・コジマノという人の書いた、今ではほとんど入手困難な魔術書「サイキック・コンバット」(霊的実戦)にあるやり方の応用らしいですが・・・。もしこれが事実ならば道具さえ揃えば、呪殺は実は、大して難しい事ではなくなります。

そして、この技法の何よりも便利な所は拝み屋よりも道具のほうが疲弊しないですし、長期間確実に相手に悪い波動・力を送ることが出来る点です。

また原理的には高価な波動転写機を使わなくても、時計と磁石と護符をあるやり方で組み合わせて使う事で、立派に同じ効果をあげることも出来ます。また、このやり方の優れている点は、例えば攻撃的呪術の場合は生活を憎しみで満たさなければ、まず効果が期待出来ないモノですが、このやり方ならば他の金運向上や恋愛成就などの祈願を事実上はその期間中は全部止めなければならないモノが、機械が代わりに呪術をやりますので手抜きが出来る事です。

それと、呪われる側とその周辺の人に、呪いをかけていることを告知しない限りは、このやり方ですと呪術と死との因果関係を法律的に立証する事が更に不可能になる事です。

もし、本人に知られた/せた場合は、脅迫罪になりますが、この場合は術者は事実上何もしていないので成立しません。そして、呪いを掛けると万が一にも返される場合も、自分自身に対しては、呪いを解く護符などを転写していればいいですし、併行して、金運や恋愛運の波動を自分自身に送っても良いので更に楽に便利になります。

実際にこういうやり方ですと効果のある魔術を学びたいなら、ラジオニクスなどを研究するのが近道でかも知れませんね。ただ、機械なので相手が機械以上の実力者の場合は効果がなく、このやり方では対処どころか油断を呼ぶので危険ですが・・・。

さて、今回はここまでです。参考になれば、幸いですが・・・。
では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。皇悠より・・。

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神秘体験について

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は「神秘体験について」です。

例えば、観光地に行くのも、古い神社やお寺に参拝するのも、漫然と行くのであれば、何も起きないですが・・・、それなりの術者・霊能力者であれば、神秘的なエネルギーを感知して云々ということがあるでしょうが、もう市井の凡人である私なんぞにそんな事はまずないです。故事来歴を知らなければ、建物や森林や風景が森閑としている、整然としている程度で終わってしまうものです。何の先入観もなくその場に立って、その神域/境内に立つ事で、自分の内面に直面すると言う事はあるにはありますが、それはそれ別の事です。

よく御稲荷様を調べて思うのは、御稲荷様と狐は関係がなさそうだと言う事の間違いです。稲荷寿司がデパ地下やスーパーに並ば無い事はないですが、稲荷の故事に、身の丈八尺の白髪の老人は出て来ても、狐は出て来ない場合は確かにあります。しかし、狐が出てきて老人も女性も出ない説話・例もあります。

これは単純にその霊能力者・体験者があるエネルギーを感知した場合の、その見え方、表現の仕方は、見た人により全く異なるモノである事と感じ、判断出来ます。

端的に言えば、ある人は狐と見たが、ある人は長身白髪の老人と見たのでしょう。つまりある人は狸の霊が祟りをなしていると見たが、別の人は、そのような路傍の動物霊ではなく、単にネガティブなエネルギーが周辺にあるを見るのです。

逆に言えば、霊能力者の見え方には共通性が無いという事ですが・・・。だから科学になりにくいですし、だから古神道では審神を重視します。

しかしながら、そう言う事を求めて体験する大概の人は自分が神秘的世界にいる事に納得しているモノですから、自らの審神の必要を感じる事も少ないでしょう。そこが神秘の神秘たる由縁であり、そのように現実社会に対して関心が薄くないと神秘体験はしないのだろうとも思います。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2008年12月 2日 (火)

病者加持と呪詛

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は雑談です。

さて、ご存知かもしれませんが呪術・祈祷の中には病人用の病者加持と言うモノがございますが、実はこの法の名人は調伏で悪人殺害出来る可能性も高いんです。

実際に病者加持の場合はその対象者の肉体の一部つまりは病巣に対しての調伏・破壊となるわけですから、同じ伝で対象の者の内臓なり脳なりを調伏すれば良い訳ですから・・・ね。

また、ターゲットが悪しき因縁が強ければ強い程、神仏が正当と見做すのか調伏祈祷は何故か効きます。ちなみに修験の方だと寄り加持祈祷で巫女にターゲットの生霊憑けてターゲットを祈り殺す法なんかがあります。その場合も被害者からの依頼を受けてが条件だと思いますが・・・。

なお、このような調伏・呪詛を請負ってた行者はもがき苦しんで死ぬなど死際に業が出るようで、多くの人物・説話・文献などから何度も私は見聞しました。その為かそれの関連してか「行者はまともに畳では死ねない。」などとも昔からよく言われます。

さて、近年、調伏祈祷で凄まじかったと私が知る限りで有名&評判なのが故白戸快昇大僧正(天台寺門宗)の修験道の師匠である四国の大西行者です。実際、氏は神降ろしで真犯人を探し出し真犯人の生霊を呼び巫女に憑け祈り殺したりと、かなり荒い祈祷も執り行ったそうですね。

ちなみに近年、修験道の本を多く出され有名な羽田守快師は白戸大僧正の弟子さん筋ですね。また、羽田さん所では独特で弟子に5年くらい行積ませてから三井寺で四度加行に入ってもらうそうです。(これはどんなに素質あっても3年は掛かるとの事です。)また、その試験は一人で天蓋護摩(?)を焚けるようになった後だったと思います。また確か羽田師はイザナギ流も修めているようですね。江戸民間呪術や古流修験呪術にも詳しいみたいですが・・・。

この辺の繋がりは中々面白いです。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠、拝礼。

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2008年12月 1日 (月)

ワンパターンな蔵王権現様の造形

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はワンパターンな蔵王権現様の造形について書きます。

さて、さてこの修験道の主神の一人の蔵王権現様は、金峯山のローカル神霊ではありますが、鎌倉から南北朝にかけて色々な説話が付け加えられてはいますし、現代でも信じる人は何万単位でいますが、その由来は金峯山秘密伝によれば、天智天皇の御世に、役行者が金峯山の大峰山頂で修行をしていた。そして、役行者は、末法の世にふさわしく、濁世に現れる魔物を退治できる強力な仏の登場を祈願した所、まず過去仏として釈迦が現れ、次に現世仏として千手観音が現れ、次に未来仏として弥勒菩薩が出現したそうですね。

しかし、役行者はこの三仏の出現に納得せず、更に祈念を凝らしたところ、突然忿怒の顔をした青黒い蔵王権現が出現したので、これを降魔・自分の守護の尊像としたとされます。

ちなみに最も早くこの金剛蔵王権現様が登場するのは、天平の頃です。

天平19年(747年)大仏の鋳造が開始され、その時、聖武天皇は良弁法師に、「金峯山の土地は皆黄金だという噂なので、金剛蔵王に祈って金を手に入れて、大仏鋳造に役立てたらどうだ」と申しつけ、良弁は、早速金峯山に登って祈願したところ、金剛蔵王が夢に現れて、この山の黄金は採掘してはならぬと禁じたという話です。

このようにして当時から様々な人の潜在意識下に登場したはずの蔵王権現ですが、その彫像を見るとほとんどすべてが右手を上げ右足を上げたスタイルなのはどうした事でしょうか?

しかも、同じように修験道で尊崇されています観音様を始め、不動明王様に阿弥陀様などはその姿(立つモノ、座るモノ、振り返るモノ・・・)やバリエーション(本当に衣装から手足・顔に乗り物などに多くの変化があります・・・)は幾つもありますのに・・・、本当に不思議ですね。

多くの人の中に、多くの文書に永続するイメージ・存在として蔵王権現が存在しているならば、色々な人が、生き生きと活躍する蔵王権現を見て、その塑像や絵が作成されているはずですが、そうではなく何故かこのポーズだけです。

その理由としては、「見た人が良弁や役行者に限られ、実は蔵王権現を見なかった人が説話から想像のみで制作してしまった」か、あるいは、「実際に蔵王権現のビジョンを見た人がいないか?」。それか、「よほど蔵王権現は人嫌いor交流が難しい尊格」なのでしょうか・・・?不思議ですね。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

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2008年11月29日 (土)

口伝・秘伝とネット

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は雑談ですよ。

『伝統のある』と言うのは変ですが、呪術色の濃い宗教の密教・修験・神道(古神道・神仙道)・陰陽道などの話をネット上のチャットや掲示板で見ていますと、必ずと言っていいほど『君たちは口伝・秘伝を知らない』と言い出す人がやって来まして、こういう人が参加してくると、もう話が進まなくなってしまいます事がよくあります。

本当に何か話せば片っ端から『君は口伝・秘伝を知らないからそういう見当違いな事を言う』と否定しまくりまして、「本当に実践しているならコレを知っているはずだ」とか「このキーワードで自分が何を言っているのか判るはずだ」などと言い放ち、いざ口伝・秘伝の内容を問われれば『ここで公表する事は出来ない』と逃げます。

それならば最初から口伝・秘伝を持ち出す必要もないですし、往々にして素人でも理解出来る表向きの理由を言うこともせずに逃げる方もいます。

しかも、性質が悪いのは自分の筋(学び修めた宗派/体系に師、基盤となる思想/学んだ文献・経典など)を公表しない方が多く、偏見交じりの独学者や偏った半可通なのか、それともちゃんとそれなりの師なり宗派で修行している方か素人では判断しにくい場合が多いんですよね。

まあ、私みたいに自分の師や経歴、学んだモノを断片的とはいえ公表している方は少ないですが・・・、ただ、現在の日本の宗教・オカルトの分野で、どこの誰の教えを学び、何を根本文献・経典としているか公表していない団体・組織はありえませんから、少しくらいは自分の立場や論拠、基盤を告知しても良いと思いますが、それすらしない方もいます。この辺は、どうなんでしょうね・・・。

でも、私も肝心要の事は全然晒していませんから、同じかもしれませんが・・・?事実、メガや所属していた団体での儀式・訓練、今ではほとんどいない異端系法華神道家の師の直伝技などは完全に書いていませんからね・・・。

このブログの内容も調べれば、ネット上や流通している文献、記事のことしか書いていませんし・・・。

さて、元来、口伝・秘伝などには、『正統の教えの肝要だから、迂濶には公表出来ない』というモノと、『正統じゃないから、公表出来ない』の二種類あります。

前者の場合は、ある程度まで会得してなければ理解も適切に使用も出来ない為に授けれないモノなので、公表しないのが当たり前ですし、場合によっては、それが存在している事すら秘さないといけないモノもあります。

そして、後者の場合は、そういう深い口伝・秘伝を得られなかった人が、手持ちの知識をアレンジして勝手にでっち上げたが多く、部分でみれば既存の正統的なモノにもとづいているように見えるけど、全体的にみればツキハギだらけなんですよね。だから、公表出来ない訳ですね。

また、普通の行者・祈祷師が口やかましく自慢する『口伝・秘伝』などは、大体がこのレベルです。私もそれほどしている方ではありせんが、呆れるほどに勉強不足の人が多いので・・・。

他にも、実践しているうちに『ここは、こうした方がいいかも』『こうしてみたら、効果があがった』などの、自己の経験や他の人のアドレスなどでアレンジを加えたモノなども口伝・秘伝になりますが、こういうのは一人一人の癖や質が絡んできますし、何よりも結局『我流』な訳で、それはそれ、これはこれで、分けて考える必要がありますよね。そういう意味で変に混同してはならないので、口伝・秘伝としているモノもあります。

そういう意味では、口伝・秘伝などは、本当にせまい範囲内でしか通用しないモノが多いです。それに、ネット上で会話する方はほとんどが素人・文献マニアが多く口伝を話しても理解出来ない人が多いんで、口伝とか秘伝を出してもまず意味がないんですよね・・・。複雑な専門書の理解や多くの基礎知識の上に口伝・秘伝はあるので本当にマニア・専門家レベルの事なので理解しずらいですし・・・。

また、よく口伝・秘伝を振りかざし、呪術の『即効性』を強調する行者・祈祷師もいるにはいますが、そういう人に限って拝むと疲れるとか、体調が崩れるとこぼしますが、本当に神仏に語りかけ、自然界・物理世界に干渉したり、人の運命に働きかける事は普通は無理な事ですから、それ相応の反動があるのは当たり前ですよね。

そこら辺の対応が『伝統的な』『基本的な技術』には盛り込まれているの訳ですが、そちらにコストを裂いている分『利きが弱い』『無駄がある』と考える人もいますし、その安全性などを犠牲にして『効率』や『効果』や『即時性』を求めた技術が考え出され、それがある種の異端・外道の危険な技術になりますが、それは求められてそうなっている訳ですからある意味で正しい形ですよね。

でも、「それはやはり伝統的・正統なモノではないので、だから、口伝・秘伝として分けて位置付けられ、ある意味で『隔離』されて口伝・秘伝となるわけで、あまり自慢出来ることでないは」という見方もあります。

勿論、口伝・秘伝などは、やはり新たに必要があってそれは生み出された『新しいモノの方法論・捉え方』なので、重要ですが基本・正統・伝統を踏まえた上で意味を持ち存在しているのでそれだけでは、実はあまり意味がないです。

また、色々なレベルの人が、語り合っているところに『口伝・秘伝』を振りかざして乱入したり、正統・伝統を軽んじる行者が口伝・秘伝を振りかざして自己を宣伝するのは、迷惑だし見苦しく場違いとも思います。

画竜点睛の例えではないですが、口伝・秘伝は竜の絵を完成させる要ですが、『目』の絵だけ持ち出して『これが竜だ!』と自慢するのは可笑しいですよね、と言いたい訳です。

さて、今回はここまでです。参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く 起きますように・・・。

皇悠より・・・。

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大本教について

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて今回は、古神道・神道を学ぶと戦前に活躍した一大教団・大本教について嫌でも関わる事になりますが、「何故にしてかの教団は壊滅寸前まで弾圧されたのでしょうか?」と言うことを書きます。

さて、この大本教(正確には大本)が現時点で、多くの各宗教団体の組織形成の基盤となっていますし、生長の家や真光など現在の有名教団には大本教をお手本・祖とするのも多々あります

また、出口なお教祖、そして出口王仁三郎聖師は教祖として満州・モンゴルまで広宣活動と世界安穏に奔走尽力なされたようですが、神道系の教団であるにもかかわらず何故に徹底的な弾圧と軍部による破壊工作がなされたのでしょうか?

そして王仁三郎聖師は、神道としては類まれな宗教間縦断をなされた平和主義者という話もあります

そして、神道基盤であるので、現在の多くの仏教教団のように政治介入に違和感をもたれることも少なく戦後に活躍しても良いのですが・・・。どうしてこの神道教団は、我ら日本国人にさえも疎まれたのでしょうか?

そして、戦後、何故にして廃れたのでしょうか・・・。実はこの教団は一面で今で言うアレフ=オウム真理教と同じだったからです。

危険なカルト教団だったからで、だから当時の人々も、弾圧に同意し、戦後はそのまま無視され没落しました。

この辺は中村古峡著『学理的厳正批判大本教の解剖』(一九二〇)(なお、中村古峡氏は日本精神医学会の主幹として日本における心理学の確立に大きな役割に果たした人物です。ちなみに昭和二七年九月十二日没。)に詳しく、第一次大本事件前夜の一般のインテリ層が大本に対してどのようなイメージを抱いていたか・また大本教がいかなる存在かを探る上での貴重な史料で、よく出来います。

さて、『学理的厳正批判大本教の解剖』の本文の冒頭において、中村は次のように言い
放ってます。
「およそ世の中に馬鹿ほど恐ろしいものはない、と云ふ俗諺がある。蓋し馬鹿は、概ね独
りよがりのお先まっくらで、自制や反省の念は薬にしたくても見当らず、おまけに向う見ずの無鉄砲と来てゐるので、何をしでかすか分らないからでらである。余は大本教を思ふ毎に、およそ天下に迷信ほど恐ろしいものはないと、つくづく云ひたくなる。蓋し迷信者は馬鹿と同じく、概ね独断で、無反省で、更に自負誇大の念に強く、ややもすると頑迷不霊に陥り易いので、果して何を云ひ出し、また何をしでかすか、分らないからである」

ちなみに中村は当初、心理学者の立場から大本教祖の「神懸り状態」に関心を持ち、丹波綾部町(現京都府綾部市)の大本本部で現地調査を行ったが「宗教的内容が、予想以上に浅薄で且無稽なのに失望した」そうです。

しかし、大本教がその後、勢力を伸ばし社会問題となったばかりか、中村の所にも「大本教は果して宗教として存在するだけの価値あるや否や、其の鎮魂帰神法と催眠術との関係は如何、其のお筆先と予言の真偽とは如何」などという問い合わせが殺到するようになった為に、この書物を著してその回答に代えようとしたそうです。

さて、大本教は当初、綾部の老女・出口なほ(教祖)の「神懸り状態」に端を発しましたが、教団の基礎を作ったのは教祖の娘婿・王仁三郎で、更にそれが急成長するには東京帝国大学英文科卒のインテリ浅野和三郎の入信が契機となってます。中村はその経緯を踏まえた上で「今日の大本教は、短刀直入にこれを云へば、つまり出口王仁三郎と浅野文学士とが、教祖の『お筆先』を種にして、巧に捏ち上げたものとも云へる」とみなします。

そして、大本教はしょせん「誤つたる一妄想の上に猿とも狐ともえたいの知れない鵺的社会を建設しようとしてゐる一曖昧団」にすぎないと判断します。中村によると、『お筆先』とは「妄想性痴呆患者の濫書症」の産物であり「私達変態心理の研究者に取つては、いささ
か興味ある一研究資料」にしても、それを神聖視するのは滑稽な錯誤だと定義しています。

また、例えば王仁三郎はトリックによる「奇蹟」を演出しているのでそれも暴露してますね。

これはある王仁三郎氏の元側近の証言によるモノで、王仁三郎は『お筆先』の「煎豆に花が咲く』という予言を実証?する為に、人知れず庭の一角に普通の豆をまき、その同じ場所で信者たちの見ている前、煎豆を撒いた事があるという。十数日後、そこから勿論、普通に生えてきた豆の芽にトリックを知らない信者たちは驚嘆したという訳ですね。

また、中村は大本教の大看板・代名詞の鎮魂帰神法で導かれる精神状態(神懸り)が催眠誘導術による変性意識状態である事、教祖没後に公表された『お筆先』は教祖直筆ではなく王仁三郎の捏造になる事、『お筆先』の予言が的中したと称するのは全て後からのこじつけであり、実際には多くの予言が外れている事などを論証しており、そこにはオウム真理教のマインドコントロールや麻原氏による予言の捏造などをも連想させるモノがあります。

そして、この書物で多くの事が暴露されてから大本からは多くの直弟子・有力幹部が続々と離反し、各自が自分の教団を設立し始めます。世界救世教の岡田茂吉とか前述の浅野和三郎などですね。

また、大本の鎮魂帰神法は単なる催眠術ではなく、自己暗示による人格変換である事から「覚醒後屡々思想の惑乱を来し、遂には精神錯乱に陥つて、とんでもない乱暴をしでかすことがあった」とすら記述してしまします。更に中村は鎮魂帰神法が原因になったと思われる殺人事件の実例まで上げています。

また、この公表・記述以後は多くの信者を集めたこの鎮魂帰神法を大本教では危険と位置付け、事実はネタばれによる権威・威厳の失墜で禁止しています。そして、同組織で何十万という信者・教師が学び修していながら同団体以外のその後継の組織・信者達も封印・拒否するようになりました・・・。

さて、王仁三郎氏の言動、特に予言関係にも麻原氏を髣髴とさせるモノがあります。

例えば大正四年、王仁三郎は火の雨が降るという妖言を流布して、多数の信者を綾部に避難させました。大阪のある老夫婦などは自分の店を売り払ってその金を王仁三郎に献納し、鰹節まで抱えて綾部に逃げ込んだ。当然、火の雨など降るはずもなく、王仁三郎は「あれは幸い幽界だけですんだ」とやって信者たちに随喜の涙を流させたというのです。これは一九九〇年、麻原氏が自ら予言した天変地異を逃れる為、信者達を連れて石垣島に避難したというのとそっくりですね。

また、王仁三郎氏は終生、天動説と地球平坦説を信じ、地球が丸いなどという学者は阿呆だと唱えていまして、このことは後の大本教系の団体の愛善苑の刊行物でも取り上げられています。また、同氏は天皇を批判しながら自分が天皇の血族だと主張しました。

また、先述の元側近の証言によると王仁三郎は大の好色家で「大本教に出入してゐる女達は大抵片っぱしから手を掛けていた」という事も記述してます。これもまたワイドショーや週刊誌に賑わわせた麻原の性豪ぶりと通じるモノがありますね(勿論、恋愛は自由ですが、麻原氏も信者の女性たちには魅力に満ちた男性だったらしいですが、二人とも妻帯者ですので不倫関係をしていたのは褒められた事ではありません)。また、事実、王仁三郎自身が「天下に私ほど不器量な者はない。それでも世の中の女と云ふものは、一度私が秋波を送ると、みんな吸い付けられて来るから不思議だ」とうそぶいていたという記録もあります。

さて、戦前の日本国家が大本を弾圧したのは、別に予言や奇蹟の類がインチキ・詐欺行為だからでも、王仁三郎が今もそうですが当時としても不品行だからでもなく、『お筆先』にある「世の立替」の予言や王仁三郎の大正維新、昭和維新という主張が、時の政府から革命の予告、すなわちオウムと同じく政治的野心・革命の表明・クーデターの告知と受け取られたからです。

事実、第二次弾圧直前には王仁三郎氏は自ら主宰する昭和神聖会のメンバー約三千人を集めて軍事演習まがいの示威行動を行います。このような二・二六事件前後の不穏な情勢下、疑心暗鬼に脅える政府相手にこれでは、弾圧するなという方が無理でしょうね。また、出口王仁三郎氏は当時の陸軍、海軍問わず将校クラスの現役軍人を多数シンパとしており、それがまた国家に大本を畏怖させる原因の一つとなっていたみたいです。

そして、オウム真理教も単なる宗教団体というよりも多分に政治思想団体としての性格を持つ組織で、彼らは「真理党」として九〇年の衆議院選挙に出馬、二五人の候補者を立てるも全員落選してます。また、組織運営には国家を模した省庁制を採用、信者ので軍事演習まがいの訓練を行い、国家権力掌握後に発布するべき真理国基本律(オウム憲法)の草案まで準備するなど政治的野心に燃えてました。そして、地下鉄サリン事件はその革命計画の第一歩だったのです。だからこそ、戦前の治安維持法と同様、本来は政治思想団体を対象としたはずの破防法が大本教と同じくオウムに対して適用される事になったみたいですね。

こういうあたりは麻原彰晃氏も出口王仁三郎氏も司馬遼太郎氏が言うほどには異なったキャラクターという訳ではないですね。似た行動・思想をしていますから・・・。

さて、『学理的厳正批判大本教の解剖』には当時の東洋大学学長の境野黄洋、哲学者の井上哲次郎、インド学の権威・高楠順一郎、社会主義者の堺利彦、河上肇、国粋主義者の三宅雪嶺などが序文を寄せており、またある刷では付録として哲学者・姉崎正治による同書への書評が転載されています

そして、彼らはいずれも当時を代表する一流の知識人ばかりで、その彼らが中村を支持したと言う事に当時の知識階級一般が大本教に抱いていた反感がうかがえます。

また、大本教は出口直というおばさんが始めたと思っている人が多いと思いますが、彼女は金光教の信者だったので、その娘と結婚した王仁三郎氏が実質上の教祖です。

さて、大本教は戦後、今のオウムのように内紛を(第三次大本事件ともいいますが・・)経て、3つに分かれました。 これを別名、大本三派とも言いいますが、 それが大本、大本信徒連合会、愛善苑の三組織ですが、それらは往時の規模も勢いもない地方の小さな一教団です。

では、今回はここまです。楽しんで、そして参考にしていただければ幸いです。

では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・」

皇悠、一礼。

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2008年11月28日 (金)

マイクル・クライトン氏の冒険

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はマイクル・クライトン氏の冒険譚を書きます。

マイクル・クライトン氏は、アメリカの作家です。多くの方がご存知のER緊急救命室の総指揮と脚本をやったり、映画ジュラシック・パークの原作者としても有名な方です。(なお、今回の記事は参考文献:インナートラヴェルズ/マイクル・クライトン/早川書房など基に記述してます・・・)


さて、彼の冒険はある時、マイクル・クライトン氏が、30代のゲーリーと呼ばれる男に会った事から始まります。ゲーリーは、トランスに入ってアカシック・レコードにアクセスして過去・現在・未来の事が判ると説明する方です(ゲーリーとは、ゲーリー・ボーネルのことかもしれませんね・・・)。

知遇を得てからそのうちに、マイケル氏はゲーリーにアカシックレコードに入る方法を教えられたそうです。そのやり方はゲーリーがマイクル氏を深いリラックス状態に誘導し、マイクル氏には四肢の感覚がなくなり、更にリラックスが進むと身体がこわばって行く。それと同時にその部屋や家や外の通りの物音と出来事が強烈に意識され、そして成り行きで、マイクル氏はゲーリーに対してチャネリングを行い、ゲーリーのボストンの知人の女性についての印象を、絶対の確信を持って語ったというやり方との事。

そして、チャネリングする時の感情は同情であり、必要な努力は説明の努力であったそうです。マイクル氏にとってこうした感覚は、チャネリングをしている最中には、ごく当たり前のものであったが、日常感覚に戻るまで数分かかっていることから、その意識状態が相当に深いものだっそうですね。

しかし、マイクル氏は、自分自身の事をチャネリング出来ない事に、まるで莫大な遺産を相続したのにそれを使えないというようなじれったさを感じて、またチャネリングでは何が起きているかを理解出来ず、結局は不満が解消されずチャネリングを辞めてしまいます。

さて、この御仁、マイクル・クライトン氏は、実はハーヴァード大学の医学部の出なのに、医者にはならなかっためずしい方です。(アメリカの医学制度は日本よりもはるかに高額なので、元を取るため大抵はそのま医者になるのですが・・・。)さて、氏は最初は外科医と精神科医を可能性として考えてはいたらしいのですが、一つの胆嚢を見ればすべての胆嚢を見た気がして、外科医というものに終に興味が持てなかったので諦めたそうです。

また、精神医学の方は、大勢の患者を見ている内に、本当に人を助けられるとは思えないようになり、精神医学自体があまり効果のあるモノではないと感じ諦めたそうです。そして、何よりも施設に入院する多くの重症の精神障害者には、精神医学は彼らを治癒させることは出来ないし、大した事は出来ない事実に限界と諦めを見たそうです。また、その一方でマイクル氏の眼には、精神病者ではなく、単に自分を甘やかしているに過ぎない裕福な人達が大勢・何度も精神科病棟にやって来る現状と、にもかかわらずこうした人達にすら精神医学が全然助けになっていないという逆の確信を持ったそうです。

こうして、結局マイクル氏は散々努力と金銭をかけた医学を捨てたそうです。

さて、ゲーリーと出会ってからもマイクル氏は冒険を続けます。イギリス心霊協会で沢山の霊媒に出会い、彼らが知り得るはずのないマイクルのプライバシーの断片を言い当てるのを目の当たりにもしたそうです。

また、あるエネルギー・ワークのセッションを受け、サボテンと会話する事が出来、暗がりで人体のオーラを見たり、ついには自分のオーラを、くしけずって、けば立ててもらったりしたそうです。

また、ある2日間の断食と沈黙行の後で、チャクラ(エーテル体上のチャクラ=チャクラは各ボディにある)を感じるようになる事が出来、また念力スプーン曲げパーティでは、いつのまにか自分も念力を使えるようになり、スプーンをぐにゃぐにゃに曲げて帰宅したそうです。

またマイクル氏は、除霊もやってもらった事もあり、なんか当たるのを幸いに色々と手を出します。

しかし、結局、色々やってみたが、オーラが初めて見えたり、スプーン曲げが出来た当初こそは驚きも感動もしたが、それだけの事だったそうです。何も自分は変わらずに霊とか前世の話などは興味深いだけだったそうです。

色々やった結果がこういう詰まらない結末に行き着くのも興味本位でこの道を行く方にはありがちで・・・、気を付けたいモノです。さて、今回はここまでです。参考になれば、幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝・・。

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2008年11月27日 (木)

ラスプーチンという存在

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回はあの悪名高き祈祷師、グレゴリー・ラスプーチンについてです。

多分、祈祷・呪術を研究をしている方は彼についてそれなりに、もう御存知かもしれませんが・・・。

この帝政ロシア時代の末期に出現したあだ花、彼の各種の評伝や伝記を読みますと彼・ラスプーチンは、独特の願望実現法を持っており、それによってどんな事でも達成出来るし、危険な場合でも自分の命を救う事が出来ると自信を持って語っていたそうです。

その技はラスプーチン自身は、まだ字を書くことができなかった頃より自分の願いを棒の上に刻み目をつけ、印を付ける事で、色々な災難を予防する事が出来たと多くの人に公言していた事から幼少時からの個人的な能力に由来する物のようです。

さて、この技法は彼が長じて字を書けるようになってからは、願い事を紙片に書きつけて、枕の下に入れて寝るというモノになります。ラスプーチン自身の説明によると、睡眠中にその願いは成就するとの事でですが・・・。この辺は現代の成功哲学の技法や混沌魔術の印形魔術などと似てますね・・・、願望を記述し潜在意識に埋め込むというそれに・・・。

また、自分がある人から短剣で刺された時も薬草でもって何気なく癒しており、他人のだろうが、自分のだろうが、人間の肉体をコントロールすることなど朝飯前であったようです。

さて、上記の技法以外にもラスプーチンが政敵ニコライ・ニコラエウィッチ大公をその力でもって打倒したという有名な技法・事件があります。その経緯は以下の通りです。

ある時ラスプーチンがさる陳情を行いにニコライ・ニコラエウィッチ大公を訪問しようとした所で、当の大公から「もし来たら、君を絞首刑に処す」という電報を貰ったそうです。

これに身の危険と激怒を持ったラスプーチンは、すぐに一人部屋に入ると、何も食べないで、ひっきりなしにマデーラ酒を飲み続けながら、黙りこくります。そして突然腕を動かして、まるで誰かを捕まえるかのように飛び上がったり、また拳固を握って威嚇のポーズを取ると何かと戦いを始め、「奴を痛い目に遭わせてやる」と叫び回り、空想の相手を完全に倒しきり、満足するまで閉じこもったそうです。

そして、この行為の数日後、記録によりますとラスプーチンは、政敵ニコライ・ニコラエウィッチ大公をコーカサスへ都落ちさせることに成功したそうです。

さて、これはどう観ても彼の呪詛調伏行為の記録ですが、このようなイメージ・観想系の呪詛・怒りと共に行なっていた所を見ると、彼は現実を変える呪術を駆使できる人物である事は間違いないですね。

ただ、これだけで観ますと彼は呪術・祈祷を利用した政治家というありがちな理解が出来ますが、ただし彼が当時の帝政ロシアの皇帝家族の方からに請われ重用された聖者・行者であること・そして彼が何度も皇帝家族の危機・病を癒している事実を忘れてはいけません。

この事実は如何に怪しい人物でも何度も救われている当時の国の主・皇帝に取っては、手放したいとはなかなか思えないものですよね。同じように皇帝に仕える者が幾ら非難・嫌おうとも・・・。

また、彼のように政治の一端に関わる者にとっては国の大義に殉ずるという視点があり、この呪詛がそうであった可能性もあり、また彼は金銭に執着がなかった事(平気で貧民に金銭をばら撒きを行う癖・習慣が報告・記述されています)もあり、単純に超能力を我欲実現のために使う人物と決め付けられない所が彼の評価を難しくしています。

また、不可解なのはこのような力がありながらも、ラスプーチンが暗殺という悲劇的かつ謎に満ちた最期を遂げ、利己的な目的でそういう能力は発揮出来ない人物の可能性もある事です。しかも、彼は自らが殺人で死ぬ事を予言していたフシもあり・・・。

更にややこしいのは基本的に、彼の味方サイドの記録がまず無いことが評価を難しくしています・・。

しかも、問題なのは彼のように験・奇跡を理解し起こせた人物が当時の帝政ロシアにいない為、彼がどのような信仰・体系を修め・どのような存在に加護を得ていたか不明というのが私自身にも術師として個人的に気になります。

本当に、色々な意味で余人をして彼の評価を難しくしてます・・・。

彼の起こした奇跡は、現在のレベルでもかなりの高度なモノですので・・・。

さて、今回はここまでです。今回も気分で書きました、楽しんでいただけると嬉しいです・・・。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠、拝礼。

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2008年11月24日 (月)

彼岸の浄土

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は信仰者達の中で必ず出現する楽園思想について記述します。

さて、日本の多くの思想・信仰の特に教学面で多くの影響を与えた天台宗の理論的な祖の智顗も、また過激な信仰姿勢(法華以外は全て邪教の)日蓮も、晩年には、彼岸の浄土に生まれ変わる事を念じたそうです。

これは、彼らが他人に説いてきた仏も凡も一体であるという理屈(事実上は密門の即身成仏や大乗仏教の煩悩即菩提なども同根の産物ですが・・・)があくまで理屈に留まっていて、「彼ら自身の実感ではなかったのではないか?」「ただの空論ではないのか?」と判断しうる逸話ですね。

しかし、ひどい目にあうことが多いこの世界・娑婆もまた浄土なのだから、浄土に往生しようが、地獄に往生しようが、そんなことは、自分の知ったことではないという彼らの思想の基本に立ち返らず、いよいよ臨終になって、仏様の浄土への往生を願うというのはどうでしょうか・・・。

それとも、これは実は修行で抑え込まれたモノが、最晩年になって浄土往生への願いという形で死の恐怖で噴出したのでしょうか・・・。

さて、『・・・天台智顗みずから、臨終にさいして西方浄土の弥陀を念じたということが伝記に見え、また日蓮は、初期においては浄土教の相対的二元論を否定して絶対一元の世界を強調しつつ晩年には、弥陀浄土ではないけれども、釈迦浄土(霊仙浄土)を彼岸に対置し、そこに生れゆくゆくことを説くにいたっている。(ちなみに法華経に死後いけるという釈迦浄土はありません、これは日蓮の創作ですね・・)

これは、仏凡一体・娑婆即浄土などの絶対一元の仏教思想が限界につきあたり、崩壊したことを示すものか、あるいはその絶対的一元論から、そのような相対的二元論が説き出しうるものなのか、天台法華にとってのみならず、仏教全般にとって大きな問題であるといえよう。・・・』(仏教の思想5/角川書店/田村芳朗より)

さて、この世を仏国土にしよう、この世界を楽土にしよう、神仏に守られた楽園にしよう・・・という思想は日本史の中で何度も出てきました。例えば、空海の密厳浄土、日蓮の娑婆即浄土(光)などから始まり、戦前の日蓮主義の法華一乗論・国家神道の(皇・)王道楽土、大本教系の弥勒の世・・・本当に色々と出てきました。またマルクス主義の共産主義にナチスの千年帝国などもそうですし、かつての大東亜共栄圏などもそうですね。

しかし、それらは全て夢破れ、何もかも無駄に終わりました・・・。こういう事実(彼らは多くの時間・思考・才に物資を投入しながらも全て崩壊しました事実)から私はこの世に安全・すばらしい場所・組織はありえないと考えています。

また、生きている間は辛くてもせめて死後には楽な幸せな世界へ行きたいという思いは万人の思想・願いだとも・・。例えば、黄泉の国、冥府、浄土・・・死んで自分が完全に消滅するかもしれないという恐怖もあるでしょうが、死んだ後もつらい思いをする所にいきたくないといのも本音ですよね。

皆様はどう考えますか・・・?

今回はここまでです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

彼らのように素晴らしい信仰心がなく、負けた気がしている皇悠より・・。

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2008年11月21日 (金)

ある有名グル 和尚ことバグアンの苦難と覚醒

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。(まず、今回も引用だらけで長いです・・・。)

さて、今回はバグアンことOSHOの彼曰く覚醒前の体験を元に幾つか記述します。

と言う訳で、以下はOSHOの苦闘の記録です。近頃、インドの聖者の本を読んだために何故かインドずいてます。

では、第一章・精神の暗夜

『どんな小さなことでも、疑いまた疑いの連続でしかなかった。・・・・疑問は解答を得られないままだった。ある意味で、私は狂人同然だったと言っていい。自分でも今にも発狂するのではないかと恐れていた。夜は眠れなった。

 夜も昼も・・・・・・わたしは疑問に取り巻かれていた。言うなれば、船も捕まる岸辺もなく、深い海の真っただ中に取り残されていたのだ。そこへ船が通りかかったとしても、自分でそれを沈めるか拒絶してしまっていた。船も航海者も数多くいた。が、わたしの方で・・・・・・ほかのだれの船にも足をかけようとしなかったのだ。

 もしこのこと、つまり自分で自分を溺れさせることが、わたしの生の導いてゆく所だとしたら、それも甘んじて受けいれるしかないだろうと感じていた。

 私の状況はまったくの闇としか言いようがなかった。それはあたかも、暗い深井戸に落ち込んだかのようだった。その当時、私は何度も、底なしの井戸のなかへどこまでもどこまでも落ちていく夢を見たものだ。そして何度となく・・・・・・汗びっしょりになって夢から覚める。その落下には終わりがなく、地面も足を乗せる場所もないのだから・・・・

私に取っては、はっきりとした道などなかった。何から何まで真っ暗だったのだ。踏み出す一歩一歩が闇に閉ざされていた。目的もなく不確かだった。私の状況は緊張と不安と危険でいっぱいだった。』(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)

その後のOSHOは、一年のあいだ、何がどうなっているのか殆ど判らない状態だった。食欲も消えうせて、何日たっても、何の空腹も、何の乾きも感じない。自分に無理やり食べさせ、無理やり飲ませなければならなかった。

OSHOは、自分自身を感じる為に、毎朝毎夕、五マイルから八マイルほど(九~十三km)走ったので、人々はOSHOのことを気ちがいだと思っていた。何か言ったら、自分が狂っているのが判るので、OSHOは、誰にも話しかける事が出来なかったので、自分の部屋に閉じこもっているよりほかになかった。

それは一年間続いた。ただ床の上に横たわって天井を見上げ、1から100まで数えては、また逆に100から1まで数える。まだ数を数えられるというだけで、少なくとも何かではあった。何度も何度も、途中で忘れてしまう。ふたたび焦点を取り戻すのに一年かかった。

しかし、何万もの弟子・何十モノ講和集を出した組織宗教のトップが自分の覚醒以前のみっともない状況を自ら公表することは大変勇気のいる事で、珍しいモノですね。

大体、覚醒以前は「唯の人」なのだから、唯の人がひどいノイローゼか精神分裂病みたいな状態になっていた事を発言するのは、大変珍しいことですね。というのは、この人は自分の講和集ではさんざんピースフルとか、ハッピネスとか、エンライトゥンメントとか言っているくせに、この自身が創始して宗教は、ノイローゼや、精神分裂病になるような事をするのかと世間の人に思われうるからであり、更に手前が(あえて書きますが)気違い・狂人・精神病患者であったとカミング・アウトするのはやはりすごい根性だと思います。それに、組織拡大上の大きなデメリットにもなりますからね。

ただ、そういった部分にこそ、我々唯の人が、そこら辺にある埃程度の存在が覚醒に至るプロセスやヒントが示唆されているのかもしれませんが・・・。OSHOのこのエピソードに限らず、絶対的な光明・英知の前に、精神の暗夜とか自我の死というのは避けて通れない事を、シャーマンになるためのイニシエーションや多くの伝説・説話でも、世界各国の神話も中でも、暗示してますから・・・。

また、このように暗夜とは、ほとんど精神病の事なので、こんな状態では、社会生活を営むのは非常に難しいです。しかしそういった状態を通過していかないと、宇宙意識、ニルヴァーナ、神、仏といったものに、最終段階のアプローチが出来ないのもまた現実なのですよね。ちなみにこれの詳しい実例集は掃いて捨てるほどありますが、私としては精神科医のユングの自伝がお勧めです。

さて、社会全体の視点から見れば、こうした状態の人を無条件に社会から排斥、隔離するのが現代社会の実態ですね。勿論、このような精神病(いまでは統合失調症と言いますが・・・)の患者の中にもそうした人は数少ないだろうが、高い精神性をはらんでいるかもしれない人をも社会は受け入れず、分離してしまう・・。こういう大きなジレンマが、現代社会全体に突きつけられた、次の時代の精神性を迎えられるかどうかの一つの鍵になっている気もしないでもありませんが・・。

そういうわけで、私としては微力ながらまずそうした状態があると言う事について理解して貰いたいと思います。

第二章・苦難の終わり/光明の始まり

さて、都合OSHOは、約一年間このような精神の暗夜・苦闘を過ごしました。そして、7日間の神秘体験を経て、1953年3月21日に大悟したと独白してます。

さて、その七日間の始めに、OSHOは自分自身と取りくむのをやめて、探求がやみ、何かを追い求めなくなり、何かが起こるのを期待しなくなったそうです。OSHOは、実に希望のないお手上げ状態で生きていたが、同時に何かが湧き上がってきてもいたそうで、その状態を「希望が不在だったが、とても平静で、穏やかで、まとまっていて、中心(センター)が座っていたので、希望も絶望も消え失せていた。」と描写しています。

希望も絶望もないこの状態は、原始仏教の分類で言えば、無所有処定(なにもかもがないという意識)または、非想非非想処定(なにもかもがないという意識もないという状態)で、混沌魔術ではニーザー・ニーザーとでも言うのでしょうか・・・。さて、どちらにしても、窮極の状態ではなく、一歩前の段階であるようでその先に彼は進みます。また、これほどまでに細かく心境を描写して貰わないとこうした分析すら出来ない物だけれど、わざわざ判るように説明してくれたOSHOのマメさ・親切心には頭が下がります。

さて、『その希望のなさは、絶対的で全面的なものだった。希望が消えて、それといっしょにその片われである絶望もまた消え失せていたのだ。それはまったく新しい経験だった。希望がないという状態---。それは否定的消極的な境地ではなかった。・・・・・・完全に肯定的、積極的だった。それはただの不在ではなかった。ある<現存>が感じられた。私の中で何かが溢れ出していた。氾濫していた。

そして、私がお手上げだったと言うのも、辞書に出ているような文字通りの意味ではない。それは単に、わたしが無自己だったということだ。それが私のお手上げという意味なのだ。私は自分がいないという事実を認識した。

だとしたら、自分というモノに依って立つことは出来ない。だとしたら、自分自身の地歩に立つことは出来ない。・・・・・私は・・・・・底なしの奈落に落ちこんでいた。しかし、そこに恐怖はなかった。なに一つ守るべきモノはなかったからだ。そこに恐怖はなかった。誰も怖がる者がいなかったのだから---。』
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)

さて、これより先は彼は詳しい説明・記述をしていませんが・・・。

第三章・光明/神の体験

『私は眠りについた。それはとても不思議な眠りだった。体は眠っていたが、わたしはさめていた。それはじつに奇妙だった。まるで、自分がふたつの方向に、ふたつの次元に引き裂かれているかのようだった。まるで、二極性がその極致に達したかのようだった。自分が同時にその両極であるかのようだった。正と負が出会っていた。睡眠と覚醒が出会っていた。死と生が出会っていた。それこそ、「創造主と創造物が出会う」と言うにふさわしい瞬間だ。   

 それは気味が悪かった。生まれて初めて、それはまさしく根底から貴方にショックをあたえる。あなたの基盤を揺るがす。その体験のあと、あなたは二度ともう同じ貴方ではありえない。それは貴方の生に一つの新しいヴィジョンを、一つの新しい質をもたらすのだ。

 十二時近くになって、突然目が開いた。私が開いたのではない。眠りが何か別なモノによって破られた。私は、部屋の中の自分の周りに一つの大いなる<現存>を感じた。それはとても小さな部屋だった。私はあたり一面に脈動する生命を感じとった。大いなる波動だ。ほとんどハリケーンといってもいい。光の、喜びの、エクスタシーの大いなる嵐---。
 それが実に途方もなく現実的であるあまり、何もかも非現実的になってしまった。部屋の壁が非現実的になり、家が非現実的になり、自分自身のからだも非現実的になった・・・

 その夜、もう一つの現実(リアリティー)がその扉を開いた。もう一つの次元が姿を顕わしたのだ。突如として、それはそこにあった。もう一つのリアリティー、分離したリアリティー、本当に現実(リアル)なるもの・・・あるいは呼びたければどう呼んでもいい。<神>と呼んでもいいし、<真理>と呼んでもいい。<ダルマ>と呼んでもいいし、<タオ>と呼んでも、ほかのどんな呼び方をしてもいい。

 それは無名なるものだった。しかし、それは厳然としてそこにあった。実に透き通っていて、実に透明で、しかも手で触れるぐらい確固としていた。その御蔭で、部屋の中は窒息しそうだった。それはトゥーマッチで、私にはまだそれを吸収する力がなかった。(中略)

まるでなんでも好きな事が出来るかのような、途方もない力が湧いてきた。そこに私はいなかった。ただその力だけがあったのだ。』
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)

この体験の前半の「光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐」は、既に個人の心理現象ではないと見ると、物質も、精神も超えたところにいるようであるので、原始仏教の分類で言えば、滅想定(心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な禅定)と考えられます。

さて、この体験の後半で、ようやく言葉では表現出来ないものに、OSHOは出会ったみたいですね。

さて、彼の体験で面白いのは、基本的には彼は公式には師やある種の体系に沿わずに我流で訓練を行いながらも、西洋魔術・魔術カバラの至高の三つ組みの体験をしています。これは神秘のカバラーをお読み頂くと納得頂けると思います。ただ、彼の場合に残念なのは、以後の彼の人生を彼の評論集・自伝をみますと確かに彼は至高の、または大いなる深淵を行き英知と力を得たのだろうと思いますが、彼の弟子から彼と並び証される人物が出てきていないことから、彼は偶発的に出た人物だったと分かります。

呪術や祈祷の世界に限らず学問・技術の世界で、後継者・次期宗家が出ないという事はその技術・体系はある意味で不完全だったと言えますからね。もしちゃんと技術・体系として一部でも完成・構築していれば師の亡き後に技術・英知の弟子による批判の上に改変や先鋭化などが起こるものですが・・・、残念ながら彼の弟子は彼のやり方をリピートしているだけに、見えます。彼の弟子の本を見る限り・・・。

まあ、私とは縁のない体系なので、気軽に引用&批判しました。何かの参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より・・・。


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2008年11月20日 (木)

古今修行者気質

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は臨済宗の白隠禅師の故事から古今修行者気質について記述しようかと思います。

さて、禅師の幾つかの文献によると、白隠禅師の時代の修行者には、臨済宗の約千七百則の公案を、その全てを完全かつ一点の疑念・問題も残さず了解・体得を致しましたと、遠慮会釈なく公言&大言壮語する者が、割合として八、九割は存在する旨を記述しています。

そこで禅師は物は試しに一則の公案を出して彼らに見解を問う(その理解度を調べる)と、過去の大禅師や禅匠などをまねて拳をにゅっと突き出す者もいれば、カーッと大声で怒鳴る者もいるが、ほとんどの者は参ったと礼拝するだけだったそうです。

つまり、知識もなくて古い禅僧の文章も真似も出来ず、一欠けらも理解出来ない者が多く、まして見性(悟り)の事も判らない口だけ・見掛け倒しな修行者がほとんどだったそうですね。

さて、こうした出来の悪い修行者が、全部の公案を透過しましたというのだから、大胆不敵な奴らとでも言うべき者どもですね。しかも、平気で仏教徒の禁(悟りに至っていないのに至るという・知らないの知ると公言する破戒をしているのですから驚きです。当時の禅宗のレベルが知れますね。まあ、天台・真言の密門も男色・女色に飲酒の破戒の花盛りでしたから、こんなものかも知れませんが・・・)

ただ、禅師曰く、こうして輩も何故か四、五年も過ごしていると、かの無頼の修行者は、寺からいつのまにかいなくなっていることが多かったそうです。(自浄作用でしょうか・・・?)

さて、このような彼らの見解・実力は虫歯の薬にもならないカス(糟)の見解であり、世間一般の誠実な人達にも劣る見識であると禅師は記述しておりますが、実にこうした見識であっても最初は信じる人もいるようですが、やはり次第に檀家・信者など周囲にもバレていき、忌み嫌われ行方不明になってしまうのが、当時の風俗であったという事ですね。当時も今もこの辺はあまり変わりません・・・、偽モノはあまり長く活躍しないみたいですね・・・。

ただ、初めはこうした人であっても、目覚めた意識での修行の努力(正念工夫と禅師は記述しておりますが・・・)を一心に継続していると、やがて手も足も出ない、回りが空洞で、心身ともに消失したような心理状態になると記述し、ここに至りそのような修行者もこうなっても恐れず修行を続けていけば、豁然と開けることがあると禅師は記述しています。

ただ、白隠禅師はそのような修行者を記述しつつも日々彼らを叱咤して、いい加減な考えや感情や憂鬱や睡魔と戦い、厳しい生活環境とも戦い、禅に打ち込むことを勧めており、その真っ直ぐでけれん味のないところには心打たれるものがあります。ただ、白隠の弟子に際立った人物がいないのですから彼は教育者or師としての実力も運もなかったみたいですね・・・。

さて、翻りまして最近の禅道場は、当時と違ってこんな状態ではないところが多いと信じたいものですが、禅僧から犯罪者が出る事からも大差ないのかもしれませんね。

また最近の風潮では、こうした悟りや神仏などを求める激マジ系の人や大イベント、集まりなどは遠慮され引かれる傾向があるようですので、偽坊主・嘘神職・詐欺行者が幅をきかすのもしょうがないのかもしれませんね。つまり本当に大切なモノ、本当に重要なモノとは何かということに直面せずに、目先の面白い事をまず求めるように心性を操作されているのか、単純に面倒ごとを厭い安易さを求める人の業からくる愚かさの証明であるという事でしょうか?

よくわかりませんが・・・。さて、今回はここまでですね。今回も投げた内容ですが、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

妖術師・皇悠より・・・。

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2008年11月19日 (水)

クロウリーについては 個人的見解

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はアレイスター・クロウリーです。(なお、今回は西洋魔術についての最低限度の予備知識がないとつまらん内容です。彼の業績・歴史などはとても多すぎますので今回はカットです。)

さて、彼についてはどう考えますか・またはどう判断すべきなんでしょうね?

彼は、未来を正確に予知しただの、敵を呪殺しただの、ポルターガイストを引き起こしただの、透明人間になっただの、多くの伝説が残されておりますが、どこまで本当なのやら・・。しかも、複数の証言です・・・。

それに、彼と実際に付き合いのあった人達の印象・証言も、まちまちです。ある者は「真の達人」と呼び、またある者は「山師」「ペテン師にすぎない」と言いますてますし・・・。

ただ、私個人の意見を言わせて頂きますと、「超一流かかなり有能な呪術師・魔術師だった」ですね。

と言いますのも、彼の残した膨大な著作物は、(魔術の理論書だけではありませんよ・・・)彼の魔術の「実践の記録」もありますが、これらの中には彼の死後に活字になった物も多々ありますが、これらを読む限りにおいて、彼は相当な達人・理論家にして行動派だったと判ります。実際、西洋魔術を実践すればするほど、彼の書いてあることが本当だったと分かってきたりしますし・・・。

まあ、これが真実=普遍的事実だと実証することは出来ませんが・・・(笑)。後、そもそも実践の面でも優れていなければ、彼のような「実用を前提とした」理論書は書けません。

また、彼の超能力やわが師の発火能力を体験しつつも白状しますと、私は、俗に言う超能力については否定派までは行きませんが、かなり懐疑派です。幾らでも嘘やトリックができるので・・・、また霊魂の存在については、一応・不可知論の立場を取っています。従って私は、魔術は超能力や霊能力だとは思っておりません(これについては、実践派の間でも意見は分かれます。ESPや霊を信じている魔術師も沢山いますしね)。

じゃあ、魔術は何かと問われれば、「魔術は魔術だ」としか言えませんね。これじゃ、ずるいのなら「魔術は精神の訓練、技術だ」ってとこでしょうか・・・。例えば、私は日常の生活では、天使なんて信じてはいません。しかし、儀式で天使を召還する時だけ、一時的に信じるのです。西洋魔術・祈祷と言うのは、霊能力ではなく、実践者の精神の作業だと私は解釈しています。

事実、祈祷や魔術の成果と言うものは、物質的な形では、めったに残りませんし・・。ですから、クロウリーが魔術の実践で成し遂げた成果を、自然科学的な方法論で、実証することは不可能だとも思います。そんな訳で、クロウリーが魔術師として一流であったかどうかは、あくまで「私的個人の意見」としてしか言えないと思っております・・・orz。

でも、私はクロウリーは性格・習慣に本当に多々問題を抱えてはいたモノの、20世紀の西洋魔術への業績は高く評価すべきだと思ってます。ただ、フォーチュンの弟子達が言う通り、彼の残した魔術書は、(魔術師にとっては)はかり知れない価値を持つモノの、その体系は一種の綱渡り的な部分も含んでいて、「彼の教え・技法は選択・分別しなければならない」訳なんですよね。

彼の残した著書は、本当に凄まじい量が存在しますが、「777」、「トートの書」、「魔術 3部作」、「アレフの書」、これらは西洋魔術の歴史に残る名著です。誰がなんと言おうとも、好き嫌いに関わらず、これらだけは西洋魔術の実践派なら、いずれは読まざるを得なくなる本だと思いますね。

ただ、彼の魔術体系は、GD系、OTO系、テレマ教系の3つから成り立ってますが・・・。この3つは元々が関連のない別の流派なのですが、クロウリーはこれらを敢えて一体化させて教授・記述しました。しかし、これがまた魔術の学ぶ者の混乱の原因にもなってます。

取りあえず、無難に標準的な魔術をやりたいのなら、GD系に絞る方が良いでしょう(OTOも悪くは無いんですが、GD系の方が親切な名著が沢山出てて、比べ物がないほどに作業・訓練がやり易いです)。

しかし、クロウリーの著書は、純粋なGD流とは言い切れないモノが殆どなので、そうした無難な標準的な道を進もうと言う人にとっても、あまり向いてないんですよね。しかし、純粋なGD流を目指そうと言う人にとっても、やっぱり彼の著書は宝の山なんですよ(解毒不能の毒入り&劇薬入りの)。ここがジレンマなんですね。

また、私は、霊能力についても、その存在自体、非常に懐疑的です。「存在しない可能性の方が遥かに高い」とすら思ってます。散々、霊験とか神仏の御蔭話をしつつも、ですが・・・。

しかし、魔術やってると、本当に色々と妙な物が見えてきます。聞こえてきたり、体験します。しかし、「見えるからと言って、それが存在するとは限らない・・・」とも思えるんですよね。ぶっちゃけた話で魔術の実践者は、パスワーキングによって、アストラル界(この用語、最近安易に使われすぎてますね)を旅行した、と思っても、脳生理学者は別の解釈を持っているだろう、と言うことです。つまり、霊能力で見たものってのは、実は実践者の意識・脳が作り出したヴィジョン(幻覚・夢?)だろう、と言うことです。

例えば、スェーデンボリが幻視した霊界なるものも、彼の脳と意識が作り出したヴィジョンでは無いでしょうか? 彼は幽体離脱によって、太陽系の宇宙旅行もしているのですが、その内容は、現代の天文学から見れば、事実とはだいぶかけ離れています。ただ、霊界は太陽系と違って、宇宙探査船を送って調査する事は出来ませんから、もっともらしく見えるだけで・・・。

さて、ここからが大切です。

唯物論者や科学万能主義者達は、だからそんなのは無価値なんだ、と短絡的に結論するでしょう。それも一つの見解です。しかし、魔術の実践派は違います。実は、このヴィジョンをうまく利用すれば、いろいろと面白いことが出来る、と考えます。勿論、アタル・正確であると言うのも重要ですが・・・、それで商売にしないのならば関係ありませんし・・・。

これは、スェーデンボリの例で言えば、彼はこの幻視のお陰で「自分の意識の中の高位の自我」と会話をして教えを受け、哲学を深め、道徳観を確立し、新たな宗教すら創設出来た訳ですし、彼の自己意識・精神・人格・運命などが向上・好転した訳です。

また個人的判断ですが彼が接触した高級霊なる存在は、多くの西洋魔術の実践派が接触したがっている「聖なる守護天使」に近いモノでしょう・・・。または仏教・如来蔵派で言う「仏性」というモノでしょうか・・・。こういう存在はもう私は飽きましたが・・・。

ここにも重要な意味がありまして、GD系の言葉に有名なのがあります。

「天使が存在するかどうかは、さして問題ではない。大事なのは、天使がいるかのように作用する、ということだ。」これもたしか、クロウリー作。

以上です。上手いですよね、勿論、これらは私「個人」の意見・偏見・選択です。

ただ、そういう西洋魔術にも、病気や怪我の治療はもちろん願望達成の術は、まったく無いかと言うと、そうでも無いんですよね。魔術の技法は、その多くが願望達成に「応用できる」わけです(効果があるかどうかは別にして)。その良い例が、護符魔術ですね。カバラと占星術のシンボリズムを学べば護符をデザインできますし、視覚化の訓練が出来ていれば聖別の儀式も実行できます。また、「ソロモンの鍵」等の古い魔術書にも、願望達成のまじないの記述が山ほどあります。

ですが、少なくともGDやOTO等の近代以降の魔術では、願望達成がメインになる事はありえません。言わば、副産物的に少しはあるって所でしょう。ただ、魔術師によっては、その副産物が好きで、効果があると信じてる人がいるのも事実です(そのようなタイプの人でも、それをメインにする事はあまり、ありませんが・・・)。

また、一時期、日本でも流行りました近代「魔女術」と近代「魔術」との決定的な違いは、前者が「宗教」であると公言して自己をそう定義し言っている事です。従って、魔女術の実践者達は、宗教の司祭であって、活動のメインは8つのサバトに代表される「宗教儀式」です。でも、魔女達は、魔術師よりは、願望達成の呪術に寛容な人が多いですよね。と言いますのも、彼等は「ヨーロッパの農村のシャーマン」の末裔を自認しており、「人助けのための呪術」をしばしば行うからで・・・。事実、未逮捕の連続レイプ魔(正確には連続婦女暴行犯)を公開で呪うとかしますからね・・・。

そして、彼らの中には、そうした「人助けの呪術」の延長として、呪術グッズを販売する店を開く人もいます。無理も無い事ですが、日本では、こうした店で売ってるグッズを使うことが魔女術の実践だっていう誤解が生じてしまっています。けど、やはり彼らにしてみても、メインは宗教儀式です。願望達成の呪術がメインになることはあまりありません。「おまじないをしたい」と言う動機では、まず絶対にカヴンへの入会は許されないでしょうし・・・。

勿論、私は、他人の宗教の信仰については、ノーコメントですので、彼らの呪術の効果についての意見は、ご容赦を・・・(実は友人に、バリバリの実践派の魔女がいまして、うかつなこと書くと、また怒られる・・・)

また、所謂、左道派と呼ばれるモノも西洋魔術にも存在します。また、性魔術も。過激な流派になりますと、儀式的な交わり・乱交や同性愛・獣姦・死姦・死骸使用などすら実践したりしてます。これらは、何らかの形でクロウリーの流れを含んでいる場合が多いようです。ただ、私の考えでは、「これ等の派閥も究極地点へのそこに至る道順が違う」だけで、「目的地は同じ」と解釈していますが・・・。と言いつつも、個人的には好きではありませんが・・・。

また、左道派タントラは勿論ですが案外、立川流も同じだったのでは無いでしょうか?理念や目指している地点は・・・。最近では、宗教学者の間では再評価も高まってきていると聞いていますし・・・。また、歴史学者達の研究によると、立川流は一時期大勢力で、邪教とされていなかった事も事実あったみたいですし・・・。(それに、たしか近頃発売された「破戒と男色の仏教史(?)」という平凡社新書からの本では中世の日本仏教僧が常習的に女及び少年と性交をし、破戒僧だらけであった事を論証・考察していますが・・・。)

確か、日本においては「理趣経」の解釈の差でしたよね?大きな教義的な問題は・・・。この「大日経」とならぶ密教の重要なお経には、「男女の交わりも清浄な菩薩の境地である」みたいな記述があって。真言宗などでは、伝統的にこれを金剛界と胎蔵界の例えである、と解釈してるのに対し、立川流はそれを字義通り、解釈した・・と。

後、よく誤解されやすいのですが、左道派と黒魔術はイコールではありませんよ。それに、現在の僧も神職も大部分が公然と妻帯・肉食・飲酒しているので今更、左道はうんぬんはおかしな話です・・・。なお、ここでの左道派とはその宗派の伝統的な戒律がない、または戒律をあえて破る事を時に許容する一派・教義を信奉する派閥として、記述しています。具体的には性及び死体などを利用する一門ですが・・・。

なお、魔術それ自体は、基本的には中立の技術です。黒か白かというのは、個人・社会の道徳上の問題だと思います。包丁に例えれば、それを料理に使うのなら「白包丁」、強盗や殺人に使うのなら「黒包丁」って所でしょう。包丁それ自体には、黒も白もありませんよね? 魔術も同じですし、個人の技量なんかや状況・センスもあります。戦争や戦いで窮地の味方を救うために銃や剣で敵を何十何百と殺してもそれは善い事ですしね?TVや映画ではそれを奨励してすらいますし・・・。でもしかし、基本的には銃や剣で人を殺すのは悪い事ですよね・・・?そういう事・訳です。

勿論、俗に言う左道派の中にも、実に様々な流派が存在します。殆ど右道派と区別のつきにくい流派もありますし、かなり過激な流派もあります。左道派の「過激派」の人達の中には、儀式的な性交のみならず、ドラッグを使ったり、流派によっては小儀礼の時に、伝統的に邪悪とされる逆五亡星などの象徴を使い描く人達もいます。また、悪魔や邪神・渦津神と定義される存在を崇拝する方もいます。そして、西洋魔術で左道とか黒魔術と言うモノを悉くクロウリーは過去に手を出し試しています・・・。その経験・事実があるからこそ彼の記述は面白く・役に立ちますが・・・。

さて、こんな話・例を聞くと、確かにクロウリーやそういう宗派を「黒」と思われても無理はないと思いますが、目的が社会や他人に迷惑をかけることはなく、純粋な個人の修行であれば、それは「黒」では無いとも、私は時に思います。(あと、ドラッグの使用は微妙・・・ここまで、社会に広がりますと社会の迷惑ですと言い切れないです、犯罪に繋がり易いのも確かで・・・、難しいです。今度のアメリカ大統領自身も使用を一時期の疑われ、半公認していますからね・・・)

さて、今回はここまでです。お役に立てば幸いです。

では、貴方に全ての善き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より・・・。

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2008年11月18日 (火)

ある祈祷僧の独白

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は私も親しくさして頂いております、ある僧の独白を書きます。この話をお読み頂いて、少しでも考えて頂ければと思いましたので、上げます。

『 ・・・神社との関わりか今でも日本の多くの家庭では、仏壇と神棚の両方祀ってあるが、外国ではそのような事は無く、他国の人からは奇異な目で見られている。キリスト教徒の十字架と道教の祭壇が並列しているようなモノだからね・・。

さて、神社のルーツを辿ることは繁雑になり過ぎるが、大まかに考えて、古代人にとって、太陽の神などの自然を神と崇拝するのは、農業と結び付いていた生活をしていた為、何よりも必要な信仰だったみたいだ。この太陽の神への信仰は将来は天照として信仰されるのであるが、記紀(天皇の勅命によって編纂された、公認の歴史書であるが、当時の権力者によって都合よく書き換えられることは、想像に易い・・・)にあるように、皇室の祖神でもなく女神(?)でもない。嘘だと思うなら、天照の正体という題の本は幾らでもある・・・。調べてごらん・・・。

しかし、神道が何故か仏教の外、陰陽道や儒教などと影響を及ぼし壱千数百年も長きに渡って、仏と融合してきた神仏習合という関係にあった。その時から神社との拘わりができ、他の仏も行き来した。しかし明治維新時に神仏分離令と廃仏毀釈により本家本元の寺や仏像が壊され、そこにいれなくなり、全ての仏は寺に戻った。

さらに、怨霊を鎮魂の目的で、神社を建立しお祀りした神社は多い。NHK教育テレビにもよく出演されている哲学者の梅原猛さんも、「聖徳太子・菅原道真(学問の天神)平将門(たいらのまさかど・などは類い希なる怨霊で映画の帝都大戦で知れ渡る)などを祀る数多くの怨霊鎮魂の神社がある。」と読売新聞の地霊鎮魂京都物語という欄で述べられたりしている。

当時 将門の乱が起きた時、神護寺の不動明王が、怨敵調伏の為に関東に出陣した。その不動明王が、成田山新勝寺の、本尊不動尊。神仏分離令発布から百年以上たった今、神社とは全く拘わり無くなったのに、巷の習慣で神社のお札をお祀りしたり、初詣をしたり、お祓いをしたり、結婚式をしたりするが、仏教徒はこの事を考えなくてはいけない。

明治維新の廃仏毀釈をした時、伊勢神宮の入り口には、「僧侶不浄な者につき立ち入るな!」と看板をたて当時天皇を生き神とした政事をし、仏を虐待し打ち壊しにより寺院の数を一割ほどにまで減らした。散々、多くの神社が僧から供養や法話を受けながら・・・。

また、政策の為に神社を統廃合し、祭神を記紀に合わせる為に圧力をかけ神社本来の在り方をも大きく改悪をした明治政府は大きな過ちを犯した。

そして、それらの特に仏への咎をいまだ誰も濯いでもいない・・・。そして、歪んだ法はいまだ蔓延り、盛んだ。

皇悠よ(正確にはこの方は私の本名で呼ばれましたが、今回・公開のためにネット上の固定ハンドルネームの皇悠にしています)、知っての通り、先達に「焼付け」のようなモノを行ってもらわない限りは基本的に真言にしても印にしても効力を発揮しない。もしくは発揮しても微々たる範囲でしかない。

しかし、私のいる当派に限らず、他派でも信者がよく護摩・法要の時などにどこからか学んだ印を組んで必死にお祈りしてる人がいるが信じているだけに物の哀れを誘う。また、それを必死で一般人から隠そうとし商売にしている輩も、哀れだ。

要は行者・祈祷師の力の問題で「ちゃんとした観想・観念法が出来ているか、如法にやっているか、」ということが大事なのに、だ・・。

在家の場合、教本・礼拝作法に従って、集中して読誦すれば大丈夫という輩もいるがそういうものではなかろう・・・、修行していない者の気が散っているような状態では咒を読んでも効果はない、本義としてもだ。それに、読経して、精神を段々集中せしめてから咒を読むと大分違うはず。また、真言は一遍で十分、回数の多寡は、結局瑜伽の為の方便、という解釈の方が好きな輩もいるが・・・。

さらに、よく回数を指定して、真言×3回で**の功徳、×7回で***の功徳、×1080回で*****な功徳・・・っていうのは、結局は真言の本義から外れることになりはしないか?

さて、話を戻すが、このような明治政府の政策の為に寺院は極減し、今だ回復していない。去った人々は神社に移り。今となっては明治維新以前は仏教徒だった事も知らない神社の信徒・氏子も多い。

仏教徒として、そういう神社のお札を祀る事や真似は、恩知らず・二股信仰となり、たいへん好ましくない。仏教徒の神棚には、無病息災や商売繁盛・福徳円満などを願って、不動明王(お札含)や毘沙門天王という方々をお祀りするべきではないだろうか・・・。 』

言われてみれば、その通りで・・・。色々とお聞きしてから反省しました。

このような事をしでかしていたら、幾ら祈ろうとも先の大戦時に日本人に加護・神風が起きなかったのもしょうがない気もします。さて、皆様はどうお考えですか?

我々は、いい意味でも悪い意味でも先祖の遺産を引き継いでいます、この記事が何かのお役に立てば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠拝。

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2008年11月17日 (月)

真言密教と日蓮法華経の疑問

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は真言密教と日蓮法華経の疑問という事で疑問を羅列してみたいと思います。

さて、以前、真言密教と法華経の話をちらほら記述しましたが、実は空海も最初は法華経をあまり重要な教典とは見做してなく、晩年にやっと認めたらしいですね。

また、日蓮も日蓮で自分が感得した大曼陀羅で脇侍に法華経典には出てこない愛染、不動の両明王が梵字で描かれてるし前から法華大曼陀羅に両明王が梵字で描かれてるのを不思議に思ってましたが日蓮が天台僧だった名残りなんでしょうか? それとも切り離そうとしても切り離せない関係だったのか? と色々考えた事がありますが実はそれは日蓮が密教僧だった頃に愛染明王・不動明王を感得していたので個人的に日蓮自身の結縁の仏尊だったのが直接の理由だそうですね。

事実、今でも日蓮直筆の感得を伝える文書が存在していて日輪の中を馬に乗って走る異形の愛染(獅子冠をつけてない)と梵字で書かれたウン・タキ呪、感得の日時の記されたもの月輪中に髪を逆立てて、持物は剣と絹索で丁字型(蔵王権現のような感じの姿と思ってください)、その前に木と官服姿の男が座っているという姿と梵字の一字呪、感得日時を記したものという物です。

但し、不動に関しては密教の法華曼荼羅にも出てくるのでそれが元でないか、の説もあります。もう一つ付け加えれば、初期の日蓮の曼荼羅には大日如来の種字を記したものが存在するようですね。

また、特に愛染明王は金剛頂経系の経典と儀軌にのみ登場する尊格で疑問に思っていたんですが、日蓮のマンダラは面白いですね。

不動と愛染の種字の間にある題目が、久遠実常をも象徴するなら、密教の目から見たら大日三尊曼荼羅にも見えてきます。確かに日蓮上人がそれを意図していたとすれば実にあの曼荼羅も興味深いものとなりますが、日蓮上人自身は密教批判の中で「釈尊は実際父母がいるけれど、大日如来には父母がいない(即ち、釈尊は実体のある仏だが大日如来はそうでない故に久遠実成の釈尊に劣る)」という発言をしたほどですのでどんなんでしょうか・・・。

しかも、その割には日蓮の教義は多く密教のものを取り入れていると思いますが・・。

何より金剛界の愛染、仮に不動を胎蔵界、中央の題目を宝塔として釈迦・多宝を更に金剛・胎蔵の大日に当てると金胎不二の大日に両部の教令輪身が配当されている…なんていうのはまー無いんじゃないかと・・・。

あと日蓮繋がりですが、以前信貴山で結縁灌頂を受けに行く人を見た時に髭題目書いた笈摺着て受けに来た人を見ました。あと念仏を大書した笈摺の人も。本当にこういう人たち、自分の所の教義を気にならなかったんでしょうか…。

また、七面山って今は日蓮宗の山だけど元は密教の山だったみたいで関係ないのかな??あと四国の名刹で真言宗の寺なのに法華経にしか登場してないはずの大通智勝如来を本尊にしてる寺もあるし、どんな修法されるんだろ? それと何で真言宗他って法華経の普門品25だけはあげるの?現世利益の高いお経だからかな・・。

それに、日蓮宗の七面山って今は日蓮宗の山だけど元は密教の山だったみたいで関係ないのかな?? そうそう修験の役の行者ゆかりの山で何故か今でも七面で山伏、見かけるし・・。

こういうアバウトさが日本仏教が他の国の仏教から偽者・パチモノされる由縁でしょうね・・・。空海さんにしろ、日蓮さんにしろすごい人だとはお思いますが出鱈目なところはありっちゃありますから・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂けたら幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より・・・。

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2008年11月15日 (土)

伯家神道と陰陽道

何時もご覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。ついに参加さしていただいております「精神世界ランキング」で先ほど久しぶりに拝見しましたら30番代に入って居りました。これもどこの誰とも知れない変人の不定期な気ままブログを応援してくれます。皆様のお陰です、ありがとうございます。

さて、今回はなぜか近年脚光を集める伯家神道と陰陽道について幾つか記述します。

さて、伯家神道については何故かとても誤解があるようですね。 まず、かの伯家というのは、名門職の神祇伯の長官であって、 実質的な祭祀・秘儀を代々伝えてきたというよりは、 今の大臣が、事務方の書類を読に承認することが仕事みたいな事と同じように、 名前だけのモノ・名誉職であったようですが、 江戸時代あたりから、徐々にいろいろ取り込み教義を調えていってから歴史ある重代の神道伝授と言い出したようです。

その為、明治・大正期に市井の行者の方にたいして(この人もかなりの有徳の方ですが・・・、名前は秘します)、伯家神道の奥義を知っていると当時の伯家の長が述べた逸話・事例もあります。

さて、そういうわけで実際はそれほど古くからのモノがあるのではぜんぜんありません。 勿論、諸流からの伝授を受けて構成されていますから、古伝もあるのは事実ですよ。 しかし、世間で騒がれ貴重視されているような性質のものではないのが実際です。勿論、独特の傾聴法や鏡を利用した瞑想に呼吸法などもありますが・・・。

また、現在普通に本屋さんで見かける陰陽道関係の出版物は、 そのほとんどが内容の無いモノなのが悲しいですね。 そのほとんどが漢籍道経(道蔵)からの再借用なのか、または垂加神道を輸入してからの陰陽道から派生した土御門神道に過ぎないですからね。 陰陽道は以前書きましたが実に何度も半壊した上で滅んでいるんですよ、歴史的には・・・・。有名な金烏玉兎集も偽書ですし・・・。

さて、道教に関してですが、ずいぶんと悪い印象を持たれている方もいるように思われますが、実は かつては道教・陰陽道といえば、密教の邪流にさかんに利用されたために
道教や陰陽道そのものが淫祠邪教の如くみられた時代もあります。また、 最近ではかなり研究が進んできて、そのような見方はされなくなっていますが・・・。

ちなみに私が道蔵(道教系の経典・論書など)を読んでいたのは、道教の方術などを実践するためではなく、 純粋に宗教学としての観点からも勉強していただけです。 この方面を勉強すると、ものすごく漢訳経典の理解が深まります。 勿論、私の呼んだのは初心者レベルのそれでしたが・・・。例えば、空海さんの『三教指帰』には道教に関する記述もありますし、そのほかにも『御遺告』の最後の方なんかは 陰陽道の知識抜きにその内容を理解することは出来ません。あと、即身成仏という成仏のありかた、これは私の推測なんですが、老荘思想と深いかかわりがあると思います。 ちなみに道蔵の中には『老子』『荘子』『列子』なども入ってます。

また、修験者と陰陽師は、昔は同じようなモノ/ほとんど双子のような関係で、 明治になって禁止令がほぼ同時に出た事も似てますが、 陰陽師、例えば有名な安倍晴明なども、熊野で一千日の修行をしたといいます。 これなどは、陰陽道は関係なく、修験の行・理論です。

ただ、本来の陰陽道なら道教的の用語・神仏でその祓い・儀礼をしているはずですが・・・。 それか、陰陽道から派生した土御門神道ならまったくの垂加神道すなわち、 吉田神道流のやり方ですね。土御門神道は、一時伝承者が絶えて吉田神道系の垂加神道から神道伝授を受けたのは、有名な話です。

事実、実によく調べていますマンガの陰陽師でも、晴明が「吉田神道の十宝印をくんで、 とほかみえみため、かんごんしんそんりこんだけん、 はらひたまひきよめ(○←本当は一字はいる場合もあり)たまふ。」 と吉田神道式で祓っていましたね・・・ 陰陽師が、ただ公家の装束を着ていただけなら、ただのコスプレです。 斎服(神主さんの真っ白の服)ならともかく・・・ 。

また、本当にその方式が陰陽道なら、ほとんど中国の神様の名前を唱えて、 火を使うにしろ、それなりの霊符を焼いたり、密教や神道とは、 感じの違う修法を使うはずですしね・・・。

大体、専門の泰山府君や北斗、南斗、聖獣などに祈らずに、何に祈っているのかな? ただ神道や仏門の神仏に大祓や真言をだらだらと唱えているのは、僧侶や神職、拝み屋か修験者ですね。よくメディアにでる某Ⅰ田氏は本当に修験崩れにしか見えません。

また、陰陽道には独特の都状や祭文と呼ばれる陰陽道式祝詞であるとか、 御幣にしても、色々とありますし、やはり、占術で判断する(たとえば六壬や式盤くらい使って)とか、独特のモノがあります。

そういう視点からみますとメディア上のは多くは偽者ですね。

さて、今回はだらだらと雑話を書きましたがお役に立てば、幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年11月14日 (金)

ある説法

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は私が感動したある問答の話の一部を紹介します。

『 Q,真言の功徳というものは何回くらい唱えれば目に見えて実感出来るものなのでしょうか?お教えください。

実際に私は何々の真言を何回唱えた所、こういう現象があったという例がもしあればなお有り難いですが、無くても結構です。どなたのでも結構ですので是非、ご回答をお願い申し上げます。ちなみに私は迷える在家の信仰者(多数)です。

A,弘法大師様がよいお手本だと思います。
一例として、虚空蔵菩薩の求聞持法(百万返)。

その昔、弘法大師様は当時、由来も真偽のはっきりしない御真言をお唱えしていたそうですからね。真言宗自体なく、虚空蔵菩薩すら知られていない時代にその御真言の功徳は、今の貴方以上に疑わしかったに違いないと思います。しかしながら、もしかしたら何の意味も無かったかもしれないのに弘法大師は大いなる成果をあげられたそうですからね。少なくとも多くの説話・伝説ではそう書かれ、私もそう信じ・習いました。

そして、あれほどに、論理的に説明をする方が、最後の最後は御真言に関しては「不思議」との見解です。

私が一つ言えるのは、まさに一心であったから、遂げる事が出来たと思います。回数では無く、精神をいかに不動に集中するかではないでしょうか?お唱えして行く内に、だんだん不安になって余計に迷ってしまうのは「信」の差でもありましょうし、自分の弱さに気づくチャンスでもあるとは思います。

ただ、間違った心で一心になってしまうと危険です。十善戒など、戒律と照らし合わせて、ベースが真っ直ぐであるよう心がけてはいかがでしょうか?また、光明真言などが非常に功徳が甚大であると伝えられております。今、残る真言は歴代の先師先徳が取捨選択し確かめてきた末にあるので、基本的に功徳があると思いますよ。

また、弘法大師様に関して、自分の迷いの闇を払う目的は、衆生を救う事が最終の目標にあったのでしょう。また、利他の精神が無い状態での御真言に成果があった話は聞いた事がありません。これは大乗仏教・日本仏教の命題でもありますから忘れないでください・・・。

どうしても利他の気持ちが起こせない人は小乗の例えば、阿含経の修行法をしている方が良いのかも知れませんね。・・・ 』

素晴らしいです。このような話し方が出来ると最高なのですが、どうしても長々と記述・話します。信や慈悲、戒律、そして真言に限らず祝詞・祭文などを含めた全ての行の大切さが過不足なく述べられています。

今回は、これ以上書くことはありません。汚しそうなので・・・、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠、拝礼。

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行と素直さと感謝

何時も、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、いきなりですが、祈祷にしろ呪術にしろ行というのは 繰り返し続ける事によって、力がついてゆきますよね。そして神仏に自分の心が通じ易くなります。慣れや馴染みもありますが・・・。そう言う関係の上で自分が気のつかない危険が迫ったときは危険を知らせて下さったり、救って下さりします。

さて、よく聞く話で素人判断でこんなことをするだけで、「悪因縁が消滅するはずがない」、「効果がない」と言い放ち・思われる方がいますが、そういう方は、礼拝行(例えば、正座した状態で体を前に倒し額を床につけ、手は耳の横に手のひらを上にして。、次に直立し手は合掌する。この動作一回によく知られる普礼真言を一回唱える事や五体投地礼など)を毎回二十一回づつして、その後に独尊法を毎日一座、それらを千座も続けてから、効果が無い時に否定すると良いと思います。本当にやらないで、判断するお馬鹿さんは多すぎます・・・orz。

所詮、素人の判断は正しく行をすれば崩れる脆いモノが殆どなので・・・。まあ、こういう方はやり遂げられない方が殆どなのでしょうがないのですが・・・・。

さて、私の神仏習合系神道の師は昔は素直に、「南無大師遍照金剛」という弘法大師の行徳に感謝する言葉を言えなかったのが、礼拝行をしてから素直になれたといっていました。

また、このような「素直さが仏様の慈悲のエネルギーを自分に取り入れるためのキーポイントとなる」と教えてくれました。(勿論、教条主義や洗脳では無いので批判する面は批判するべきですし、改善したい点はすべきだと思います。)そして、その慈悲を感じた時に感謝する事が、次の更なる験・慈悲をいただく基礎となると私は習い、そう思います。

特に信仰でお救い頂くには、感謝で始まり感謝で終わるモノです。ありがちですが・・・。特に初めの感謝は生きて神仏に手を合わすことが出来る感謝であり、次に神仏に助けを求めれる事に対する感謝でもありますね。縁がないと祈ることすら出来ませんから・・・。そして、素直に成る・いる事は、自分の浅薄な知識や経験の上にある自我を調伏する事でもあります。

さて、今回はここまでです。今回は久しぶりに気ままに書きましたが、楽でいいです。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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呪術・祈祷の独学の危険と利点、そして伝授条件・・・

何時もご覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回はあまり考察されないソロ・独学で祈祷・呪術をする際の危険などを、よく知られた仏教・神道を題材に考えて記述してみようかと思います。

ではいきますね。

さて、仏門では最低限度として(有名なところで般若心経とか、観音経などの)経本、数珠、本尊(自分が信じ頼る仏様/仏様の宮殿たる曼荼羅の描かれた御影や刻まれた尊像などのことですね)が、なにか行を行う際は最低限度として必要で、これぐらいそろえて行いますよね。神道ならば祭神であり、祝詞集などですが・・・。

それで、ここで難しいのは本尊です。以前曼荼羅は経典の視覚・物質的な表現ということを書きましたが仏尊もほぼ同じで、ある経典を選び信じ行うということはある仏を頼み行を行う(本尊とする)ということと等しいです。神道では規格化と公開・汎用化が進んだので、現代ではこれはあまりありませんが・・・。

その為に自分が好きな仏と日々朗誦したい経典がずれた場合、それは苦痛・矛盾になります。あまりありませんが・・・。大抵、どちらかが先にあり、そこから進みますからね。ある仏を選ぶ⇒その仏に関わるお経を使い始める形か、ある経典を使いはじめる⇒その経典に説かれる仏・その経典を信仰する者を護持すると誓う仏を祀るという形になりますからね。

また、特にこれは仏門と神道両方で起きることですが行を積み、向上・学習・浄化などの変化が進むと(大抵一年以上経過していますが・・・)ある種の経典・祭文などを唱えること自体を体が拒否するようになる場合があります。つまり、いままで唱え愛用し信頼していた経典・祭文が「自らの祀る神仏に相応しくない、より良いモノがあるのでは?」と不信・疑問が発生したり、どんどん満足自体が出来なくなるのです。

または、その逆に、なんとなくお試し感覚でも使い始めた経典や祝詞・祭文の方が祀る神仏よりも上位・高度・有益な場合は新たに別の神仏の勧請、最悪の場合は別の神仏への信仰の移動(棄教と改宗)する場合もあります。

これは、特にソロの術者に起き易い現象で、どんどん自己創意&工夫で改良・改変・増設をしてしまうのでそれが行き過ぎてしまい、結果的に参照・参考にしていたその宗派・宗門の枠から出てしまう(一面では堕落・異端化)という現象が起きてしまうわけですね。

ちなみに、歴史的にはそれが公的に認められれば新流派の創生や教義の維新(バージョンアップ)になりますし、そしてそれが拒否されれば弾圧されるのが通例ですね。

これは歴史上でよくある現象で、研究者肌の人物はどんどん進めば進むほど他者が学び理解するのが難しくなるので異端・孤立化し易く、逆に教授・教育者タイプの人物はより多くの人に伝授・伝達しようとするので結果的に多くの人が学び理解しやすく苦労が少ない方向に進み、本人も既知の普通の知識・技術(大抵は道徳論や基本的行法)などにのみ特化しがちというアレです。自分の質的向上よりも公開・教育活動をするのですから当たり前ですが・・・。

ちなみに多くのスポーツ業界で「名選手、名監督にあらず」という考えがあるのも同じ理由ですね。名選手は基本的により効率的にして効果的、精密にして高度な自己に有益な特化した身体技法・考えでどんどん改良・増設・変化していくので、結果的にそれを伝達しようとしても、共通基盤・容量自体をほとんどの方が持たないままにその人だけが先に進みますので、結果的に相手が受け取り、理解すること自体が出来ない/間に合わないということになるのです。

丁度、最低限度、PCレベルの機能・容量が要るのに相手が携帯電話レベルの機能・容量しかないとデータの伝達・共有自体が無理・成立しないのと同じですね。例え、幾ら教えを授けてもこの場合は相手は一部しか利用・理解出来ないままに終わります。そうやってどれほどの流派・技法が消えたことか・・・。

大事なことなのでもう一度、言います。「この現象・現実の為にどれほど多くの技法・思想・知恵が失伝し消えていったことか・・・(泣)。」

そして、この事実を自覚せずにボーとして、師の死後にあわれにも取り残される弟子、追従者のなんと多いことか・・・orz。

ごくたまに、逆の現象が弟子が師を超えるという現象は弟子が師の必要にして十分な基盤・技能を身につけ終えて、更に師よりも師の持つ先行者利点・既得権益よりも遥かに進んだ研究・学習をなしえたという素晴らしい場合が起きたときだけ起こる、ある意味で奇跡ですね。

さて、翻って私自身では、ある面では師よりも勝り越えていると自負していますが、完全には受け取りきれず、条件を満たしきれずにこぼした事が多いので超えたとは言えません。せいぜい、PCに例えると上位機種や発展形ではなく派生した専門機・特化型という存在でしょう。全体的なスペックでは師達よりも一・二段劣りますからね。

さて、今回はここまでです。長々とお読み頂きまして、ありがとうございます。

これからもよろしくお願いします。

それでは、『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』

それでは、皇悠より。

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2008年11月10日 (月)

祈祷の源泉と寄り加持についての幾つか

何時もご覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は呪術・祈祷業界のことを幾つか書いてみようかと思います。

まず、祈祷して実際に動くのは大部分はお願いしている神仏の眷属霊(部下)です。位が高い神仏ほどなかなか直接は動いてくれないです・・・・。神仏はある種の意識・エネルギー場/塊ですから気というかエネルギー(?)が届くだけです(例外もありますが)。また眷属霊を動かす目的の巡礼は拝み屋さんは当たり前にやってます。大体が寺院や山岳で祝詞や経典を奏上しながら必死に念込めて拝むだけなんですけどね。

また、眷属霊と交信出来る能力者だと交渉して自分のお堂に連れて帰ったりするそうです。拒否される場合も多々あるそうですが・・。ちなみに眷属霊の協力が欲しい場合は寺社巡礼重ねるのが一番効果的なようです。伏見稲荷大社だかだとそれ目的の巡礼グループもいるそうです。特に国津神が眷属霊持っているとも言われてます。ただ、眷族神霊を利用したい人間側が問題ですよね、眷属神は感情的に動かれる事が多いと聞きますが、その神社なり寺院の本来の主の御祭神なり御本尊様の許可はいるでしょうし・・・。。

また、こういうのは、私の主観ですけど位の高い神仏、御祭神なり御本尊様は意識・エネルギーの溜まり場・渦みたいなモノでそれを利用・使用させて貰う感じですね。勿論、偉大な魂というか意志が宿ってますので許可というか同調してですよ。神道系の言葉に恩頼(みたまのふゆ)という言葉もありますし、神社に参拝するのも同じ意味だと思います。行者などは神仏の発する気などを吸収し同化して験力を徐々に伸ばしてるのが大体の場合です。地道な修行というか充電作業というか・・ですけどね。

ちなみに作家の田口ランディ女史はこういう行為「聖地とか神社の参拝・巡礼など」を自己のオーエスのバージョン・アップ行為なんて書いていますが・・・、芸術家・創作家と呪術・祈祷師の違いでしょうか、感覚世界の事なので説明するの少し難しいですね。

ちなみに、私はお稲荷様及び自然なんかを源泉としてます。 稲荷は合う人には凄く合うみたいです。多分、所謂、神気というかプラーナというか生命力と言うかそういうモノを利用しているのでしょうね。また、安倍晴明も稲荷の眷属霊狐も使役したようです。京都の稲荷山でも修行してたそうで安倍晴明の霊力の源泉は稲荷とも言われてます。安倍晴明神社にも稲荷末社ありますし狐伝説もありますしね。

ちなみに多くの真言・天台の密教系の祈祷僧は信仰対象の不動尊を源泉としているようですが、祈祷では密教の場合は現世利益目的なら天部で祈祷する事が大半ですね。真言宗が特にそうですが祈祷本尊としてまた教学の基本にいる不動明王様は独特の仏だと思います。先祖供養にも適してますし退魔や悪因縁祓うのにも適してますし・・・。また呪術力というか祈祷の技能を伸ばすのにも向いてますし、さすが弘法大師様一押しの万能型の仏ですね。

ちなみに、天部は供養よりも事細かな祈願(家内安全など)に向いてると思います。悪人を懲らしめる調伏法に向いてるのか毘沙門天や摩利支天などの天部に攻撃的なモノが多いですね。

それと霊告とか啓示、それに寄り加持などの場合ですがこれらに答え、動かれるのは菩薩までは直接降臨・憑依する場合もあります(滅多に無いです)が・・・。如来だと絶対直接降りません。我は大日如来なりとか天照大神・・・などと言い出したら低級な霊・存在です(笑) 御嶽行者などがやる神降ろしも低級霊では無いのですが神仏本体というよりその遣いの神霊が降りてると思います。

ちなみに神道系修験道である木曽御嶽行者の神降ろしは具体的にはこんな感じ。

まず、前座行者が祝詞、神歌、九字で神霊を降ろし霊媒である中座行者に気合と共に憑けるとされてます。正式には四天と呼ばれる4人の行者が前座と中座を囲み悪霊が入らないように防御するようです。私はかなり実践的システムを持つ修験道だと思います。

また、これは本田霊学系の帰神法にも言える事だと思います・・ね。ある日蓮宗の神降ろしやる方も降りるのは高級ではあるが本人ではないのだと言ってました。これは人間社会と同じで上の立場の者は監督や命令などをし、下の者が動き走り回るということはどこも同じですね。この辺り難しい問題なのですが単なる眷属霊とも違うと思いますし、多分、神仏本体のエネルギーの極々一部(分霊)が降りるのかなと考えてます。全部入ると強過ぎて容量的にも無理で即死すると思いますが・・・(笑)。

それと神降ろしは行者(術者)の力により降りるモノが違うとはよく言われてます。眷属と言っても我々から見れば神仏の霊と言ってもいいような存在だと思いますし・・・、我々も神仏の分霊・一部を頂いているという意味では八百万神とも言えるとも思いますので・・・、難しい部分ですが・・。

例えば、お稲荷様の白狐(眷属)降りる場合もあれば神本体のエネルギーの一部が直接降りる場合もあるように思います。実際、神降ろし執り行ってる人も完全に把握してるのか疑問ですね。取りあえず低級霊や邪神で無ければ大丈夫って感じなのかもしれません。天部行者だと猛獣使いみたいな部分がありますからね、聖天なら十一面観音、青面夜叉金剛なら孔雀明王に守護して貰いながら使いますからね。

あと霊を説くようになったのは真言密教の影響です。日蓮宗も霊を説きますが(霊断法あり)密教と修験道の加持祈祷法を換骨奪胎し日蓮宗祈祷法とし作り直したみたいです。日本の禅宗の祈祷は元は完全に密教です。あと、彼らがどこにいるのかなんですが実はよくわかりません。ズレや矛盾が多くの書物や伝承をみるとあります。

また、古神道系の天行居の友清翁曰く
『誰彼が天狗界に居るとか仏仙界に居るとかいう所伝があっても、そうとばかりも申されない事実がある。また神仙界と仏仙界が対立したり敵対したりしているというようなことは
明治以来抜本的に何度も霊界が改革された今日では決して無いのであり人間界が十九世紀の常識から甚だしく飛躍しているがごとく霊界もまたそうである。』とのことです。

この辺、本当に仰せのとおりで神界、仏界の違いなどに極端に拘るのは良くないです。カルトなどはどの伝統信仰からも排斥すべきかもしれませんですが・・・・、神仏習合で信仰すると明治時代の廃仏毀釈なんかは些細な事で揉めてたんだなと自然と想うようになります。融和・共存し互いに補完していると思うんですけどね。神、仙、仏などの違いはあっても術や構造上の互換性があると言いますか・・・、パクリあっているというか・・・融通がかなり利きます。

また、密教阿闍梨を後継者、宮司として欲しがる神社もあると聞いた事がありますし・・・。加持祈祷に長けた強い僧は神道の神様を拝んでも祓いも強いですね。密教が神道と反発する物であれば力発揮されないはずですけども・・・、私の経験からしても一ノ宮とか御稲荷様とかで経文も唱えますが特に問題なんかありませんからね。

それと私の知る限りでは今でも神霊降ろしを頻繁にやってるのは御嶽教(教派神道系)と御嶽本教(御嶽神社直轄団体系)、それと日蓮宗祈祷僧も執り行う時がありますが幾つか位ですね。本当に少ないです。真言密教にもアビシャ法というのがあるのですが、今でも執り行うアジャリさんの噂は聞きませんしね。その場合でも スピ系霊能者が語る守護霊は少し妙な部分ありますね。彼らのは常にベッタリ寄り添うように守護してる感じがしますし・・・(笑)。

ただ徳の高い祖霊が子孫を加護する事はあると思います。韓国だと山岳修行入る前に先達シャーマンが6~7人集まり3日3晩続けて神授け(高級祖霊授け)を執り行う場合があります。魔の障碍も含め邪気入らない肉体にする為に執り行うそうですね。実際ソウル郊外などに儀式専用の大規模なレンタル施設なんかもあります。儀式の進め方としては浄霊・浄化→先祖供養・祈願→祖霊授け(加持受け)となっているようです。

私自身はこれはこれで有りかなと考えています。日本でも長期の山岳修行に入ろうとビクともしない修験者などは自身も強いですが徳の高い祖霊も加護していると思いますしね。社家の宮司などもそうだと思いますが、代々の祖先が守り支えている部分はあるようですね。実際、霊障受けてた人に浄霊・除霊後に先祖供養も執り行うと再発防止になります。これだけの事でリピーターが出て来ませんからね。面白いものですね。

さて、今回はこんな感じです。四方山話ですが楽しんでいただけたら、幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

ここ三日間興に乗りすぎて、怒涛の記述で疲れた、皇悠より。

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神祀り・霊験・信仰について

何時も、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回も神道・神祀りについて幾つか書こうと思います。

さて、神社を崇敬し神道にまつろう(尊信する)場合の大きな問題の一つが、いざ神棚を祀り、祈願してもそれがモノの見事に霊験が現れないということがあるということですよね。霊験が現れるようになる為にはそれなりの"信頼と専修"が必要ですが・・・。

その訓練をしてくれる所は少なく、また訓練がいるという事実を教えられる事も少なく、何より良い師に巡り合える人も少ないですからね。やはり祈祷や呪術は人が行う技術ですから文書や図だけで学ぶのには限界があります・・・。実地に誤りを修正してもらう事や手本を見せてもらう、そういう事は師や先輩がいないと出来ませんからね。

さて、神棚を祀るまでは期待が大きいのですが、祀った後でも霊験が現れないとまあ、なんというか10人中10人が失望して「効かないんだな・・・」と思い込んでしまんですよーー。

でも、最近はそうでもないですが、すこし前は天気予報が外れることも結構あったはずで、当たらなくて元々なんて感じがありましたよね。でも、その天気予報が当たらなくても、別に誰も天気予報そのものを疑う人はいなかったのですが、何故か祈祷・祈願などは一度でも霊験が現れないと、信じられなくなる人が本当に多いです。面白いですよね。

勿論、前回・前々回とまあ、長々と書きました神勅を理解・実行していないので普通の祭式では験が得られるわけがないという論理もありますが・・・。

さて、これには毎日、祈願して何回か霊験を経験すれば解決される問題ですが、納得のいく条件下で数回にわたり検証しないと、霊験なのか偶然の結果なのか判別出来ないので、信じることが難しいというのも仕方ないのかもしれませんね・・・。

それに、注意しなければいけないのは基本的な作法や手順が出来ないうちに検証して結果がかんばしくないと諦めてしまう事です。こういう場合、祭神に祈願する以前の願いを伝える力がないという事ですからね。幾らやっても無理ですからね。

また、祈願の際には気合いというか切実さがないと効果が現れにくいですね。その辺、神仏もよく見てますから・・・。

さて、祈願・祈祷についてですが、注意事項で食べ物にも注意したほうがいいです。例えば、神棚の朝拝でしたら朝食前にすれば問題ないのですが、当日の神社に参拝する前は獣肉類などは避け、また集中出来ないほど腹を満たさないほうが無難です。こういうのを精進潔斎というのですが、知り行う人はどれだけいるのやら・・・。

また、お墓参りや病人へのお見舞いなどは、なるべく参拝の後にしたほうがいいですよね。礼儀として・・・。

更に、神道は神の道と書きますが『神に随って、自ずから神になる道』ということでもあります。だから、験がいただけなくても信じ、お祀りを継続し、日々作法を学ぶのも大事です。そういう姿をみて少しずつ関係が出来ていきますから・・・。

加えて、古事記などで大活躍する著名な御祭神の方が神格が高く、そういうご祭神・有名な神社だから誰にでも必ず御利益があるというわけでもありません。

無名な身近な神様の方が細かいことにも気を配って頂けて個人に対して御利益があることも多いです。こういう事実が産土信仰や稲荷信仰など記紀にて活躍しない神でありながらも支持される理由でもありますね。

さて、これ以上は色々とヤバイので、今回はここまでです。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月22日 (水)

告知の返答その4 セイタカドウジ様・伽羅様へ

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は告知の返答シリーズのラストです。

セイタカドウジ様、伽羅様、コメント及び御質問ありがとうございます。

なお、今回の両氏の質問はリンクしているように思われるので、一つの記事・投稿内で合わせて返答させて頂きます。・・・orz。

さて、まずセイタカドウジ様の御質問は、

『本地垂迹説をインドの神々と日本の神道の神々はそれぞれお認めになっておられるのでしょうか?』ですね。

これに関しては一部分からない点があるのでそれを踏まえてお答えいたします。

まず、現在の日本で崇拝されているインド由来の多くの神々は、現在のインドでは遥か昔にその信仰自体がほとんど廃れ、捨てられ消えた方々です。有名なところでは不動明王に愛染明王、大日如来に阿弥陀様、帝釈天や毘沙門天に大黒天、鬼子母神、大自在天、荼吉尼天・・・などは現在のインドの国教のヒンディ教では、マイナーor抹殺された方々です。いまだに、それなりの信仰を集めているのは弁財天様と聖天様位ではないでしょうか・・・?

ちなみによく勘違いされますシヴァ神と大黒天・不動明王などは同じ淵源の別の神仏です。よく同じ神仏とされる記事・文章がありますが、かなり違います。確か、以前にも書いた気がします・・・。

さて、そういう意味で生誕の地で忘れ去られ、廃棄されたインド伝来の神々が生き残るために、渡来の地たる日本の神々と融和・協調するのはある意味で当たり前だと考えています。

さて、片方の日本の神々は、幾つかの説話などを見る限りは仏門およびインドの神々との融和・協力に友好的に見えます。また、非協力的な神々は習合せずそのまま距離をおいたようです。ちなみに排除に動いた神々及び信徒集団は物部氏が代表的ですが戦いに負け歴史の闇に沈み、消えました。

この辺の歴史は山本ひろ子氏の中世神話(岩波新書)、義江彰夫氏の神仏習合(岩波新書)などに詳しいですね。

ちなみに、現在の神仏習合・融和の絶滅/分離状況は、どこかの神・神々の啓示・指示などではなく、明治政府およびその後継の政治的理由からであり、少なくとも日本なりインドなりの神々の意志は介在していないと思います。神仏習合の禁止令は仏門に大ダメージを与えたイメージがありますが、事実は南方熊楠などが反対しましたように、多くの神社が明治・大正と時の政府の名の下に境内、社などが奪われ伝来の祭祀も改変や禁じもされ、望まぬ移転・統廃合などをさせられましたから・・・。また、この流れは今も伊勢神宮や出雲大社などにも少なからず影響を与えました・・・。

そういう意味で、基本的に現在もインド伝来の神々も日本古来の神々も本地垂迹説、または反本地垂迹説なりを取りつつも融和・協調関係にある=それなりに認めていると思います。少なくとも時に古の作法・本地垂迹説などを基に神社で般若心経をお寺で大祓の祝詞を唱える私のようなものがまだまだいる限りは認めているようですね。

さて、この唱える事に関連して、お待たせしました伽羅様の御質問にお答えしようと思います。まず、伽羅様のご質問は以下の通りですね。

『皇悠さんのブログ、まだ全部読んでいないので、お伺いしたいことはたくさんあるのですが、とにかく、
修行の中で、祝詞や真言などを、何度も何度も唱えるということを書いておられます。

祝詞を一時間とか二時間とか、唱え続けることにより、脳内の変化が起こってくるのでしょうか。それとも別の次元の存在が、そこに興味を持ってくれるということなのでしょうか。
それなしに拓かれる道はないのでしょうか?』

さて、何故私が修行及び礼拝、儀式などにおいて祝詞・祭文・経典の連唱を勧めるのかは、幾つか理由があります。過去の記事にその理由も幾つか書いておりますので覚えている方には、またかと思われるかもしれませんが改めてお答えしますね。

まず、第一に我が国もそうですが多く国の神仏の祭礼・祈祷では基本的に信仰心とその証たる供物をささげること、代価による交換を重要視しています。そして、経典・祝詞・祭文を唱えることは良い信仰の証、供物とみなされています。また、極端な話で毎回毎回、供物の御香や食物、財物、宝石などを用意をするのは難しいので私は繰り返しの朗誦を勧めています。

次に、催眠術や洗脳、行動心理学などで証明されていますが人には何度も同じ内容を口に出し、行いますとその内容・意味・行動を自らの信念・価値基準などに取り入れ行動・生活パターンが変容させる特徴があるので、清め払う祝詞なら自然と穢れを避け浄化を心がけるようになり、富貴繁栄の経典を読み込めば自然と豊かに栄える行為をするようになるのも理由の一つです。

さらに、付け加えますと、朗誦以外の視覚化、幻視、憑依、薬物摂取、舞踏、夢見、呼吸法などにより神仏との繋がりを求め祈祷する技法は基本的にそれなりの訓練時間・熟練・才能がいるのでネットのような公的な場所では、紹介しても理解は出来ても独学の習得差は個人差が本当にひどく、また利用・応用しにくい為、あまり相応しくないと考えますので記述・公言を避けているのも事実です。

勿論、私もかつては混沌魔術などをそれなりに修めた者なので、無言・空手・無動作で幻視・夢見などだけで祈祷・儀式をすることもありますが、これはあくまで例外です。やはり朗誦あり、道具使用あり、動作ありのほうがやり易いものですので、無言・空手・無動作などはお勧めしません。

また、長く同じ言葉を唱えることによる意識の変容(俗にいうトランス状態の一種で単純作業と自己暗示系の精神疲労性トランスです)は時間がかかり、かなり大変ですが万人向けの有効性があるので勧めやすいのも事実です。

正直なところで、どんな人でも同じ祝詞なり、経典なり、祈祷文なりを、何十時間も何千回も唱えるといやでも悪魔だろうが、天使だろうが何かしら現われ見れるようになります。

(そういえば、はじめの魔術の師はある大悪魔の召喚儀式で古来の祈祷文の連唱でやるとあまりに大変で団体の会報で悪態をついた記事を書いたことがあります。閑話休題)

また、優れた舞台装置(例えば寺院やパワー・スポットなど)を紹介しても人それぞれの相性があり、更にやはりそれなりに経験・熟練がないと慣れない場所の見知らぬ他人がいる中で祈祷・儀式をするのは難しいです。

また、良い道具などを自作・用意するのはそれなりに腕や運がいるので難しく、いきおい祝詞・祭文・経典の紹介およびその朗誦などへ私のブログへの内容・記述などが偏り・比重がいくのも事実です。この辺は気をつけていますが私の力不足で難しいです。

勿論、他に伽羅様がやり易い方法があるのならば、そちらを行うのが良いと思います。私の弟子ではないので私の好みを強制しません。

正直なところで、連唱系の技法は行為自体は簡単ですが、儀式や薬物、瞑想などよりも時間も労力も慣れも要ります。

ただ、このような朗誦技法は、場所を問わず使え(異界や夢の中でも使えます)、使用前提がまずなく(瞑想は騒がしい場所や動きながらはまず無理ですし、薬物は安全が確保されないと命に関わります・・・)、道具なしに出来(儀式をイメージだけで行うのはかなりの熟練が要りますよね・・・)、何より一度強力な幻視・トランスに没入しますとその時唱えた言葉を再唱することでより早く同じレベルの状態に再体験し易く、また多くの他の技法にも組み合わせられるので私個人としては気にいっています。ただ、こういうのは最後は好みの問題ですので難しいですが、ご理解頂けると良いのですが・・・?

それでは、今回は此処までです。長々とお読み頂きまして、ありがとうございます。お役に立てば幸いです・・・。

では、いつもの『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』

今日は本当に大量に記述し、疲れた皇悠より・・・orz。

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告知の返答その3 楓様へ

いつも、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回も変わらずに告知の返答シリーズその3です。

御質問&コメント頂いた楓様ありがとうございます。さて、楓様のご質問はかなり長文ではありますが的確に返答するには、必要と考えますのでアップさせていただきます。

『いつも興味深く拝見させていただいています。
皇悠さんの豊富な神仏の知識をお借りして質問させて頂きます。

牛頭天王について伺います。
日本の神仏習合を表したかのようなこの神とも仏ともとれる異神を拝む事に何か注意するような事はありますか?
自宅にて祭る場合、神として祭るのがよいのか仏として拝むのがよいのかどちらでしょうか?
また多くの牛頭天王を祭っていた神社が明治の改革により、スサノオを祭神に変えてしまいましたが、それでも天王さん、祇園さんと地元に親しまれている神社があります。
そういった神社に牛頭天王を参るために行くのは良くない事でしょうか?
さらに本来疫病神であったとされるこの神を素人が験をあやかろうと拝むるのは危険でしょうか?
当方、難病を抱えておりまして、ある日夢見にこの神が現れ「生活を基本から見なおせ」と言われ、それ以来、出来る限りのことをし続けた結果、快方にむかっております。
ただ近くには牛頭天王をおく寺はなく、代わりに天王さんと呼ばれる神社に参りました。(現在の主神はスサノオです)
神社関係にても仏教関係にしても、ある種のタブー的なところがあるらしく、なかなか詳しく教えていただける機会がありません。
皇悠さんの知識で何かお分かりの事がありましたらお答えいただけると幸いです。 』

以上ですが、すばらしい見識と現代的な個人の信仰の実情がでていて大変、個人的に考えさせられました。というのは私が御祀りしている稲荷明神様も古来より神仏習合が強い神仏だからです。

まず、楓様は異神という言葉を使われましたので、異神という言葉を発明したかの名作『異神』山本ひろ子著(勿論、牛頭天王様が出ています)をすでにお読みの上でと考えて、お答えいたします。

ちなみに牛頭天王様を題材にとり扱う本では、他に『牛頭天王と蘇民将来伝説 消された異神たち』 川村湊著(作品社)、『第六天魔王と信長』藤巻一保著(学研)、『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』宇月原清明著(新潮文庫)などがありますので、よろしければ御参考に未読ならばどうぞ、お読みください・・・。

では、一つずつ返答していこうと思います。

まずは、「神とも仏ともつかない異神を拝む事」自体に特別な注意は要りません。ごく普通に神仏への敬意と感謝と作法通りの振る舞いがあれば十分です。また、「さらに本来疫病神であったとされるこの神を素人が験をあやかろうと拝むるのは危険でしょうか?」に対しても答えは同じです。基本的に牛頭天王様は庶民信仰で支えられた方なので大丈夫です。特定の神職限定の神(ある時期の大物主など)やある位階の僧限定の仏(大元帥明王など)とは違います。

次に「自宅に御祀りする場合、神として祭るか仏として拝むか・・・」ですがこれは、どこから勧請したかに依りますね。基本的にお寺からなら勿論仏様ですし、神社からなら神様としてですね。勿論、勧請(この場合はある寺社からご自宅へお迎えする)からにはそこの祭礼に合わすのが当たり前ですし、従いたくないところから勧請するのは言語道断・意味がないです。

その次の「また多くの牛頭天王を祭っていた神社が明治の改革により、スサノオを祭神に変えてしまいましたが、それでも天王さん、祇園さんと地元に親しまれている神社があります。
そういった神社に牛頭天王を参るために行くのは良くない事でしょうか?」ですが、

これは大変に考え方と術者のセンスが問われる問題ですねというのは、これは大変に重要であり、多分このような習合されていた神仏(異神)の崇拝で私が注意・気に掛かる点でもありますので、

『実に殆どの寺院・神社で牛頭天王様などの異神とカテゴリーされる多くの方々は(ー番近いもので修験道ですが・・・)元来神仏習合形式で奉られているべきモノでありながらも、現在では神式か仏式のいずれかの片手落ちの祭式でしかない祀り方で行われていて、これはまずおかしいのではないか?』という疑問があげられ

次に、『殆どの人がそれらの事実を知らずに同じ神仏のままと見做しているようだけれども、勿論ご神体が変わらなければ同じ神仏とも見做せますが、名前・祭礼などが違うということはやはり、この場合ならば牛頭天王様は実はもうお祭りしておらずに別の神であり、違うのではないか?それならば牛頭天王様として参拝するのはおかしくないか?』という考えに繋がるからです。

しかし、正直にいいますと、実際面では変な話ですが神式or仏式の片手落ちになりながらも往古の神威があるところもあれば、確実に力を失っているところもありますのでそれを考慮に入れて臨機応変に私は崇拝すれば良いと考えます。力が衰えているならできる限り往古の礼拝をするようにすべきですし、変化がなければ当世風にしても良いでしょう・・・。

ちなみに、これは、あまり使いたくない言葉ですが現状判断は霊視で判ります。

ただ、これだけでは証拠が乏しく、応用も効かず汎用性もないので、その神社なり寺院の来歴を使い判断します。つまり、祭礼変更・改名後に本殿が焼けた、境内が災害で破損した、現在は往古より利生譚(霊験)が聞かれなくなった、いまだ以前より戦災などで破損した施設の復興がなされていないなどが重なればどう考えても以前より神仏の加護・力が落ちていると考えるべきでしょう・・・。逆にそれらがないということは神威・仏の加護はいまだ健在ということですね。

(なお、あくまで個人的な意見ですが、私としてはやはり牛頭天王様とスサノオ様は別の存在だと考えますので、今でも戻さない多くの寺院・神社の改名行為などは今まで支え守ってきた方への裏切りだと考えています、そして、今でも天罰を与えずそれらの存続を許しているのですから牛頭天王様は十分に慈悲深い方と思いますね)

また、ご質問に「神社関係にても仏教関係にしても、ある種のタブー的なところがあるらしく、なかなか詳しく教えていただける機会がありません。」とありますが、それは当たり前の話でして、現在の住職や神職の彼らの殆どは明治時代そして太平洋戦争時代に自ら牛頭天王様を捨て離れた者の子孫・後継です。

ですので、当時の捨てた者たちが自らの弟子・子供に自らの恥・罪たるその歴史・祭礼・儀式を教えるとは考えにくいので、現代の多くの僧侶・神職はまず学んでいないので、聞かれても答えられないのではないでしょうか・・・?

また、万が一にも現職の彼らが知っていても自らの祖先の罪(信仰者が信仰する神仏を捨てるということは、当たり前ですがどうかんがえても大罪です)を見たくない・触れたくない・言いたくないので教えないでしょう・・・。

さて、最後に、楓様は夢見にてお告げ・・・古い言い方ですと夢告を頂き、牛頭天王様とのご縁・御加護を頂いている(これは信仰する際にやはり大変重要な事です、ほとんどの信仰者はその縁や加護が得られずに彷徨っていますから・・・)と思いますので、その感謝を忘れずに加護をいただいている方の意に沿うように日々考え振舞っていれば、思う通り感じられる通りの信仰をされても良いと感じます。ですので、今はどんな名前だろうとも由縁のある神社や寺院への参拝や牛頭天王様への信仰を持たれても十分に大丈夫&その資格がある方だと思います。

それに、もし駄目だとしたら牛頭天王様が気をつけていれば判る形でお教えいただけると思います。信仰の信は信頼の信ですから、それぐらいの信じ頼る気持ちがあって良いと思います。また、少し、楓様は畏敬の念、恐れる気持ちが強すぎる気がします。大丈夫です、同じように要所要所で導きがあるものです。

さて、では今回はここまでですが、かなり書き込みすぎて乱文ですが、些少でも楓様のお役に立てば幸いです。

では、貴方/そしてお読みの皆様に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

追伸、なお、ご自宅で御祀りする際は、金銭的には仏式よりも神式のほうが経費・初期投資は遥かに全体的に安くつき、往々にして初回に高価な仏壇(何百万円)をどーんと買い、その大投資で日々の供物の困窮を呼ぶ仏式よりも始めは安く小さな神棚(数万円)から少しずつ豪華な供物・社・神棚にする神式の御祀りのほうが、私は好きなのでそちらをお勧めします。

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告知の返答その2 エピクロス様へ

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

さて、今回も返答シリーズです。エピクロス様、閲覧&コメントありがとうございます。

さて、エピクロス様からは色々とご質問を頂いたので誤解があるといけないので、その全文をあげます。質問内容は以下の通りです。

『夢見術と呼ばれるような、見たい夢を自由に見れる体系化された技法は実在しますか?

 もしあるのなら、呪術的にはどういった意味や価値がありますか?

 まったくの素人でも習得するのは可能ですか?

 習得するのに必要な条件や修行法はどういったものですか?

 単純に、娯楽目的で行っても副作用はありませんか?

 夢見術を応用して何か他の術を習得できますか?』 以上です。

では、一つ一つ答えていきますが、まず夢見術は存在しますが、私の知る限りでは体系化された汎用性のある技法で教授・伝承している流派・一門は存在していません。

(しかし、今回、個人的にこの分野の質問が出るとは思いませんでしたので、驚きました。実は今まで記述・公開したことがありませんが、私の重要な技法は夢見術から来ています。というよりも私が二人の師の下で研鑽を積んだ結果、夢見術のある分野の使い手になりました。閑話休題)

また、この才が私をK師の弟子に迎えられた理由の一つ・原因・理由といまは考えています。

では、質問に戻りまして、見たい夢を自由に見るという技法は残念ながら存在していません。ある程度固定されたシリーズの夢を断続的に見る技法は存在してますが・・・。また、呪術的な意味や価値としては未来予知、千里眼、眷属および神仏との対面・交渉・契約、遠距離攻撃、力の物品の捜索などに使用が可能です。その為、多くの体系で夢の活用を考えますが・・・、実情はお寒い限りで・・・。

さて次に、『まったくの素人が習得が可能か?』ですが、これが実は一番の問題です。実は夢見術は習得する技術というよりもある種の天稟・素質が開花・練磨することで発現する類の技術群です。その為、ずぶの素人がめきめきと実力を伸ばすかと思うと、別の分野では実力がありながらも未修得に終わる場合も多々あります。

そして、訓練方法・修行方法は基本的なモノは夢の日記とその内容の分析・解釈ですね。ただ、これぐらいですとただの夢占いですが、殆どの人はここで終わります。(ちなみに不二龍彦氏の夢の辞典がなかなか使い易いですね。また、詳しい解釈の仕方や分析のコツは対面でしか伝授できない類のモノなのでここでは、省きます。)

さて、夢占いから夢見術に進化させるには睡眠中の夢からの目覚め・夢の自覚がいります。多分、エピクロス様も多くの方も無の書やカスタネダ、グルジェフなどの本でご存知だと思いますが、例の『夢の中で自分の両手を見る』というあれです。

正直、これが出来ないと先には進めません。これが出来ないと夢がただの夢のない睡眠になるという生理的移行現象に勝てず、手が何も打てません。どんなに入眠幻覚・パスワーキング・スクライングなど観想・瞑想系の技法を利用して睡眠時の夢の状態に入ろうとしても、生理的な睡眠・夢を自覚夢・夢見に変えれる機能がないとただの睡眠でほとんど終わります。

また、これは正直にいいますとセンスのある健康な心身の持ち主が十分な睡眠が取れる状態で約三ヶ月から半年挑戦してやっと出来るかどうかのモノなのでかなりの人が時間が取れず、諦め敗れます。また、センスのある人でも成功までかなりの忍耐がいるので辛く大抵は挫折します。

逆にいえば、これに成功しますと睡眠・無意識的な夢の状態の自分を任意の行動に方向付け出来る才があるわけですから、あとは流派なり自分なりの好みの行動を取るようにプログラムすれば良いわけですね。どこどこに行きたいでも、だれだれに会いたいでも、なになにを知りたいでも好みで自分の夢を方向付けが出来ます。

勿論、一度決めた行為・方向を変えるのはなかなか難しいので注意は要りますが・・・。

また、ある程度、夢の自覚が出来るようになりますと、基本的な幻視・視覚化能力は身についてますので魔術・呪術修行はかなり楽になります。これが、ご質問の夢見術の応用の出来ることの最大の点・面ですね。ただ、副作用ではないですが下手にするとサイコセンサーが壊れ、廃人・精神分裂病者(正確には統合失調症者ですか・・・)に向かいます。

また、この夢見術は個人(自分)の無意識から来るモノと神仏など霊的なモノとを感覚的に区別する才を与えてくれます。基本的に夢は個人の無意識から来るモノが殆どなので神仏や魔性との違いが浮き彫りになり易くなるようです。

さて、質問の順序がずれましたが、最後に「娯楽目的に夢見術が使用できるか?」ですが、使用は可能です。ただ、私が夢見術と考えるレベルでは娯楽で使用することはないと考えますが・・・?なぜクトルゥーに会え、弥勒と対面し、多くの高祖先徳・古の賢者に学べ、未知の幻獣・神鳥を見れるのに詰まらないそこらにあるような娯楽行為にするのでしょうか?

では、最後によい参考になる文献をあげますが、夢見術に関しては事実上、仙道家の高藤総一郎氏の絶版本と、かなり断片的な記述が散乱しますがカルロス・カスタネダのシリーズ本ぐらいしかありません。

あとは、

夢学(ユメオロジー)-創造的な夢の見方と活用法 パトリシア・L. ガーフィールド (著)白揚社ー多くの夢見術が出ています。

ナムカイノルブ師の『夢の修行~チベット密教の叡智』(邦訳:永沢哲訳、法蔵館、2000年刊行)ーこの本は夢の自覚のその先、夢を通して神仏の交流などが出ています。

以上ぐらいですね。

さて、今回、かなり基礎的なことを書きましたが、正直多くの人にとってもあまり意味のない分野を書いた気がしますが、お役に立てば幸いです。

それでは、皆様/貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠拝。

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告知の返答その1 常盤様へ

何時も、御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回から告知の返答をシリーズで記述します。ただ、内容・文章量が大変多くなりますので個別にお答えしたいと思います。

それでは、今回は常盤様(閲覧&コメントありがとうございます)のご質問に微力ながらお答えいたします。

質問の内容は民俗学の本でお勧めのモノの紹介でしたので、私にとって益があったモノをご紹介いたします。

まず、漫画からいきます。一応完結したモノを紹介しますね。

大塚英志氏の「北神伝綺」「木島日記」ーどれも民俗学ができた時代の風潮やまた当時の人々の考え方・かなり歪んでいますが民俗学を創始した人たちも出てきて彼らを理解する一助にはなります。

増田剛「御石神落とし」ーエロものですが民俗学の一分野・性神信仰と日本の歴史的習慣がよくわかります。

水木しげる『猫楠 南方熊楠の生涯』ー逸話の多い有名民俗学者の生涯がコミカルに書かれています。 講談社上・下、角川文庫ソフィア1996年

次に、まじめな関連文献・本をあげます。基本的に手に入れやすい文庫を紹介します。

小松和彦氏の

日本の呪い 「闇の心性」が生み出す文化とは 光文社カッパ・サイエンス  のち同文庫ーこの本は呪いとその祓いの重要性、広範囲の多くの呪術の概略が出ていまして、大変勉強になりました。

『憑霊信仰論 妖怪研究への試み』伝統と現代社、1982 のち講談社学術文庫ー祈祷における祓いと現在も多くの人に影響を与える憑き物に正面から考察した本です。

鬼がつくった国・日本 歴史を動かしてきた「闇」の力とは 内藤正敏共著 光文社カッパ・サイエンス 1985 のち同文庫

妖怪草紙 あやしきものたちの消息 荒俣宏対談 工作舎 1988 のち学研M文庫 ー同二書は鬼・部落・悪党など差別され忌避された一族・存在の歴史的影響を記述しています。

赤松啓介氏(同氏の本は差別・性習慣を赤裸々に取り上げているので好き嫌いが分かれますのでご注意ください)の

『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』ちくま学芸文庫

『差別の民俗学』(明石書店、1995 のちちくま学芸文庫 2005年)

『非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話』(明石書店、1986 のちちくま学芸庫 2006)

近接分野の妖怪関連から

百鬼解読 妖怪の正体とは?講談社文庫 多田克己ー多くの妖怪の由来・解説がでています。

妖怪馬鹿―化け物を語り尽せり京の夜 (新潮OH!文庫) 京極夏彦・多田克己・村上健司共著ー妖怪・歴史をキーに馬鹿話が広がっています。個人的に好きです。

さて、まだまだ、書きたいモノはありますが、まずはこの辺から入られるのが良いと思います。

かなり硬いものからエロにオカルトまで取り揃えてみました。お役に立てば幸いです。

それでは、貴方/皆様に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月21日 (火)

幾つかの質問に答えて

何時も、御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は過去の記事に対して、幾つか質問がありましたのでそれについて幾つか答えようかと思います。

コメント・閲覧頂いた皆様順不同でありますが、妙蛸様、エピクロス様、伽羅様、セイタカドウジ様、たこ様、nor様・・・(名前の記述に間違いがあればすみません・・・)ありがとうございます。

まずは、前回(眷属・盟友・奴らとの関係性と危険)の記事で私の説明レベルが不足していましたので、一部誤解がありました・・・、申し訳ありませんでした。

まず、眷属および神仏と交流することは心身に多大な負担をもたらすということをメインで書きましたが、これはあくまで最高or高水準の作業を行う場合です。普通の魔術・呪術で必要とされるレベルの交流ではさほど、と言うのは語弊がありますが、個人の趣味レベルでは大して心身に影響はありません。そこまで、追い込まれることもこともまず無いですし・・・。(具体的にはかなり初期の視覚化の記事の中のテストに合格するくらいのレベルは必要であり、そのレベルはかなり心身に負担を与えるということですね。)

また、まず普通の公開されている行や作法・術は基本的に中抜き・簡略化しているので禅病・偏差・負担などはまず起き得ず無いですね。私が問題としているレベルは単純にいって、物理的に行者・呪術師として作業・実験するのに必要な(意識)状態のことを書いています。極端にいえば呪殺or呪詛払いが出来るか否かのレベルの話です。もし、「するなら前回の記述される負担レベルぐらいは必要だ」という話なだけです。

これは、有名なところですと「呪いの研究」で名を馳せる中村雅彦師の各種の記事・文献、少し古いですが「エクソシストとの対話」という本にも、またアマリンゴ師の「アマゾンの呪術師」などに出てる体験・試練などです。上記の本では術者が呪詛・祓いを行う際にどのような苦難・負担・代償を得るのか色々な形で出ていますね・・・。

さて、もう一つ、妙蛸様の質問で師の一門が数人しかいないというお話ですが、これは単純に処世術・対人関係へのスタンスの問題です。

当時(多分、現在もそうでしょうが・・・)、師は相手のレベルに合わせて伝授のレベル・保持する技能どころか、交友関係などですら抑えたり・隠したりしていました。私も弟子入りの際、そして修行時代も当時は師と兄弟弟子以外の前では、BPWの会員ではあってもKBの団員であることも、師のメガの弟子であることも公表どころかそぶりも出していませんでしたし、また出すこと自体を禁止されていました。勿論、BPWの只の会員に対しても隠していました。

理由は幾つかありますが、一番くだらない理由をあげますと、「同じ訓練も学習もしない口だけの関係、読書・又聞きしただけの存在に教え、見せる必要がない」ということですね。所詮は、一門に入らないよそ者ですし・・・。

また、逆にいえば、所詮タダの情報・話ですから身内でもない他人に真実を伝える義務も責任も無いわけで、隠したり煙に巻くのは別に道義的な問題も無いわけですから、反対する理由もありませんでした。もしかしたら嘘も許容されるかもしれません・・・。

勿論、私も当時は真摯な弟子として従いましたので、交流会などで出会う秋葉師や鏡氏など他団体の方の前でも、只のBPWの平会員として振る舞い・隠していました・・・。あえて、嘘やけむに巻くことはしませんでしたが、向こうが勝手に誤解していても訂正してはいませんでした。(まだ弟子なので詳しくは)「知らない/わかりません」、(BPWでは)「平会員ですので・・」などとカッコ内を省きしゃべればよかったので楽でしたが・・・。

ちなみに、現在私が暴露していることももう10年近くたった過去話であり、公開している技法もメガおよびKBの独自の技法ではなく、基本的にはもう一般に流通・公開している文書・教えをもとに記述しています。

また、誰もずばり書いていませんがメガの教えは基本的に有償(金額などは任意でしたが、やはり誠意やその人の経済状態は考慮していました上で判断していたようですが・・・)でした。

ここがBPWやKBの教えとの一番の違いでしたね。『金銭で払うか、労働か、物品か』は別でしたが、私も現在の貨幣価値にに換算しますと多い時では約1年間に合計で最大100万近くのささげモノ(経費・代価)を使い・払いましたか・・・・。

憎悪師も贈り物という形で代価をMMMで書かれてますよね。これは、今でも悔いもない良い買い物だったと考えていますし、その事で感謝しています。良い訓練と稽古に試験をつけて頂きましたから・・・ね。

ちなみに、憎悪師については[混沌魔術はここ中心で語ろうPart1]などに出ている通りです。彼の逸話や専門・当時の興味は当時のBPWの会報に出ている通りですので、二度書き・孫引きなどはしたくないので省きます。

正直な所で、メガ関連の体験談や師の周囲で起きた出来事は、どこかの説話かトンデモ話位にしかならない信憑性ゼロのことが多いのであまり語りたくありません。自分で経験していてなんですが、あまりに荒唐無稽な事が多かったので秘密にさせていただきます。

話しても信じない人は最後まで疑問を持ち続けるでしょうし、理解・出来る人/する人は別にここで書かなくてももうネット・書物などに出ている情報だけで判断し、信頼されるでしょう。残念ながら、体験談は会話・文章で理解出来るものではないので、最後はその人のセンスや訓練量、実力に左右されますので何度か師の逸話を人に伝えた事がありますが初めから猜疑心や不信、疑問を持つ人は幾ら詳しく説いてもかなりの方が解かれないモノでした。まあ、弟子でもないので今では詳しく説く必要もないと諦めました。

また、師自身が説明をメガについてはあまりなされていませんでした。正直なところで、理解しても出来ない者には価値が無く、他者に説明出来なくても出来る/克服/成就することに価値があるので、メガの教授に関しては訓練法とその試験、それと幾つかの逸話や実践上の質問に対してのヒントがメインでした。

その為、以前書きましたがメガの定義や考えは弟子の中でもかなりズレていました。最悪、意見がぶつかりましたらこの界の不文律、呪術・実力で方を付ければいいのですから、楽なモノですよね。

(ちなみに、同門同士の個人レベルの呪術戦は事実上、当時は黙認されていたようです。ただ、幸運にも嬉しい事に私の修行時代ではそれは起きませんでしたが・・・。また、弟子同士の討論や対立も師は基本的に放置していました。メガに関しては友好的・博愛主義の面を師は出さず、基本的に互いに協力的である事を要請していましたが、個々の訓練と向上と献身のみを求めていたようでした、メガが個々の信念体系であるからにはしょうがないのですが・・・)

さて、私個人としては師との数年の間に、色々と多くの奇跡・霊験を体験さしてもらい、歴史に語られる仙人や超人の実在を確信出来るようになりました。また、あれらがよく出来た奇術・トリック・ペテンだとしたらそれはそれで良い見世物を体験さして頂いたとも考えています・・・。まあ、個人的には狂気の支配・抑制、使い道を教えて頂いただけでも、十分に感謝しています・・・。

ちなみに、少し話は変わりますが個人的には『真面目に日々訓練する誠意と試験に挑戦する勇気、代価を払う意志があれば多分当時も今も師は弟子入りぐらいはさせて頂ける』と考えています。それなりに大変ですが・・・。

しかし今でもですが何故、当時も弟子入りしないで師について話を聞きたがる・知りたがる人がいるのか不思議です。何故、私のような者・半端モノに聞くのか?嘘吐きでは無いつもりですが所詮身内でない者に師の不利益になるかもしれないのに真実・核心をべらべらと語る者・恩知らずとでも考えているのでしょうか・・・・?

私は基本的に疑問/そういう思いがあり、そういうひねた考えを持つに人間でしたので、「身内になれば師の実力がわかるだろう・・・」と考え当時も色々言われていたがゆえに、逆に興味が出来て師に近き、それが巡りめぐり師に誘われたのを契機に弟子入りしました。

そして、そこで経験した事が予想以上で感動・驚嘆しましたので弟子入りを決めた当時の自分の勘・センスと決断は私の密かな自慢です。

さて話を戻しまして、イエズス会の記事でも一部に誤解があったようですね。

まず、基本的前提として当時の宣教は莫大な費用が掛かりました。今のように高校生が2ヶ月もバイトすれば地球の裏側までいける時代と違いまして、正に一つの国家か大商人以外は海路で地球の裏側の日本・アジアに行く事は西欧人には不可能でした。ここから導かれるのは、経済的な利益なしには国も商人も[最低でも初期投資としての初回の渡航費位は完全に持ち出し・自己負担ですから、援助を受けるには利益なしには・・・]動きませんから、教会(ローマ・カトリック及びイエズス会)としても勢いその活動は経済面が強くなり、必然的にそれは商人的な打算を含んでいるのが大前提になります。

何故か、このような経済的・物理的な理由をスピリチュアル系の人は無視し、考えに入れませんのでこの記事ではあえて、ドロドロとしたごりごりの経済面[儲からないと宣教・布教師の派遣・維持・継続は無理という事実を基に色々な事]を書きました。金をかけずにスピリチュアルをするには一人で孤独に瞑想するぐらいしか手はありません。

(ここで記述しているだけでも、電気代だ家賃だ睡眠時間だと代価は掛っていますからね・・・。)

そして、当時の宣教事業は奴隷貿易以外で日本に対しては対価になるものはありませんでした。幾ら殉教する意志があろうと最低限の金銭なしには当時は完全に渡航・布教は不可能です。そのため、私個人としてはイエズス会が奴隷商人であろうと武器商人であろうと彼らの行為は非難されることは無いと考えています。

正直なところ、当時の日本人の権力者および庶民にたいして武器で接触したのは上手い手だと考えます。当時の我々の御先祖達は戦場で互いの首を狩り、それで主から恩賞を得た首狩り・戦闘一族でしたから・・・・。

それでは、今回はここまでです。

また、長々と色々と書き散らしましたが、お読み頂いた皆様/貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月16日 (木)

釈明

どうも、皇悠です。

いつも、御覧頂きましてありがとうございます。

さて、前回試験的に約半日と言う短い期間ですが、御覧の頂いている皆様がどのような疑問があるのか?

遠慮しているのでは?何か聞きたいことがあるのでは?

もしかして、「初期の頃の西洋魔術・混沌魔術の記事に興味があるのではないのか?」という疑問から告知してみましたが、結果はあまり変わりませんでしたね。

某Ⅱtyanneru内でもあちらしか見ない方からの質問自体も少ないですし、やはり今まで通り気ままにそのとき書きたい内容を書き、書きたくなければやめるスタンスで良いのでしょうか?

この辺は思案のしどころです・・・。そろそろ始めて約一年、このブログも書き貯めたものを放出して、綺麗に終焉を迎えるべきモノかもしれませんね・・。

それとも、ネット上の資料として、年一回に書き貯めたものを放出しココログから消去されないように残すべきか・・・?

色々考える時期に来ていますね。

それでは、貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2008年10月15日 (水)

告知

どうも、皇悠です。

緊急告知、某ⅡTYANNERUの

「混沌魔術はここ中心で語ろう Part2」

で本日午後10時までいますので、混沌魔術・西洋魔術関連について応えます。/応えています。

ではまた、皇悠より。

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2008年10月12日 (日)

師弟関係あれこれ

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、お久しぶりですね。皇悠です。さて、今回は私の見聞や経験を基に師弟関係について、幾つか記述しようかと思います。

まず、現在の私の立ち位置を表明します。

現在、私は呪術上の師の下から離れていますし、ほぼどこの団体・組織とも繋がりを持たずにソロの呪術師・祈祷師崩れとして自ら学び鍛え活動しています。

その為、当ブログ内の批判or賞賛、尊敬or軽蔑記事・発言などは全て私個人の意見・見解です。また、私は個人的な成長・学習、皆様のご意見などにより、記事・意見の訂正・修正・削除などを行うことは適切と判断した際はすることに吝かではありません。

さて、今回の記事・投稿の趣旨を改めて表明します。私自身二人ほど師匠と呼べる方がいますが、呪術・祈祷の世界では師の重要性と危険性は良く語られますので、今回はそれについてあれこれ蛇足かもしれませんが記述しようかと思います。

さてまずは、師匠を持つことの可否、なかなか難しいですね。こちらが望んでも弟子にして貰えるかどうかは不明ですし、望まない方から誘われ苦労することもありますし・・・。

それに、師を持ったとしてもある意味で師に従い服従し、奴隷になるぐらいの気概がないと危険時・逆境時に助けてもらえない場合もあります。私の兄弟子の一人は言いつけを守らず、弟子の地位に安住し訓練をサボり驕った為に自業自得な問題で、見捨てられ最後は破滅しました。私個人も正直なところ、その兄弟弟子を助ける気にならなかったので、助けを求められましたが断り、破滅するのも放置/助勢しましたが・・・。

また、師弟関係はある意味で完全な上下関係なので、師が無茶な命令・指導をされた場合において弟子の立場はすごく弱いモノです。実質的には常に従うか拒否して関係を断つかしかありません・・・。だからこそ、師を探す際に最大限の努力をすることを多くの方が述べています。

その為、よくいる自分の好きにしたい、束縛されたくない、面倒くさいので・・という気持ちでソロ・独学のままでいる方もいます。ただし、その場合は学習の停滞時や逆境時には、あまりに無力です。特に呪術・祈祷をビジネスとして行う場合では、時にサポートがないと大変です。利害が絡み合うと個人と個人だけでなく組織対個人の戦いになりまして本当に辛いですね。何度か、そうなりましてエライ目に遭いました・・・。

さらにまた、よくいる「師が見つからない・・・」、「弟子に誘われない」と嘆く方。また、「申し込んでも試験もして貰えない・門前払いされるような方」は大抵、何かが抜けてる場合も多いです。

中村雅彦師の「呪いの研究」に出ていましたが、才能ある人には勧誘や出会いもそれなりにあるモノですし、私の初めの師は自分で基礎練習をコツコツと数年間、今から考えても何故魔術の訓練をしていたのか自分でも判りませんが自習していてから出会いました。大抵の術師は優れた弟子が欲しいものですから、基礎能力が出来ていたり、真摯にやる気があったり、センスがある方ならば誘う傾向はあります。

ただ、指導できる人数というのがあるので難しいですが・・・。海外の西洋魔術団体に多い、ただテキストを渡して独習させ試験して合格したら、更に上の学習を許すという方式はある程度の基礎能力・センスがある人しか事実上、不可能ですし・・・。

だからといって、マンツーマンで通い・住み込みで教えるとなると師の方がどこかの組織に所属する職業祈祷師でないとまず無理です。まず。生活出来ませんから・・・ね。その場合では、師弟ともに組織の祭る神仏・祭祀方式以外はまず出来ないという限界・枠組みが与えられ縛られます。反面でこの縛りがある意味で向上心、好奇心溢れる有望な人が独立・離脱する原因になり、また弟子入りを忌避される理由になり、本当に教授方法は難しいです。

金儲けならば、テキスト商法は良いほうなのですが、実力はまず期待できないのですし・・・。

また、ある人に弟子入りしたくても私には教える事がないからと拒否されたり、逆に面白いことに向こうの方が弟子入りさせてくれという場合も極少数ですがあります・・・。さらに以前、ある記事で記述しましたように人格的にある種の技法・祭祀を行う上で向かない・行う上での要素がないために断られる場合もあります。

このように師弟関係については、色々な問題・要素・利点があります。先にこのような事をあらかじめ知っているだけで避けれる危険もあるので今回書いてみました。

また、当ブログを閲覧される方は呪術・祈祷などに興味があって、ご愛顧いただいているようなので呪術・祈祷を学ぶ際に避けれない師弟関係について少々書いてみました。

お役に立てば幸いです。

では、今回はここまでです。今回も長々とお読みいただきまして、ありがとうございます。

それでは、「貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・」。

皇悠拝。

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謝罪/告知と三大稲荷・・・

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

まずは謝罪と告知です。

『前回の投稿記事で最後に四件ほどリンクを張りましたが、そのうちの一部が正しくリンクされていませんでした、申し訳ありませんでした・・・orz。

投稿直後一時間以内に修正しましたが、何人かの方が見れない状態でした・・・、現在は正しくリンクされていますので、まだご興味があればよろしくお願いします・・・・orz。 』

それでは、気を取り直しまして、今回は私の好きな稲荷信仰について、またまた記述します。

さて、稲荷について調べますと必ず出てくるのが三大稲荷という区分だと思います。ご存知の方も多いと思いますが・・・。

まず、稲荷信仰の総本山という京都府の伏見稲荷大社(711)、次に佐賀県の祐徳稲荷(1687)、そして愛知県の豊川稲荷(1441)、または茨城県の笠間稲荷(651)という組み合わせが多いですが・・・どうですか?  ご存知のモノと同じでしたか?

さて、他にも別の区分もありまして、伏見、豊川、そして岡山の最上稲荷(752)とするモノもあります。

更に、他にも熊本県の高橋稲荷神社(1496)や宮城県の竹駒神社(842)、岐阜県の千代保稲荷神社(1469~1486)などを当てはめる場合もあります。

さて、稲荷信仰の最高権威、伏見稲荷大社自体も三大稲荷がどの組み合わせか「ワカラナイ」という始末です。その為、他にも多くの稲荷神社が我こそ三大稲荷の一つと名乗りを上げています・・・。

日本人の権威主義はここでも出ていて私は好きです。

ちなみに( )はその神社の創建されたとされる時代です。(資料が少し古いので各社の創建が間違えていたら済みません。)

ここで面白いのは、稲荷信仰で総本山とみなされる伏見よりも笠間の方が古いということですね。

また、各神社の由来も必ずしも伏見および伏見大社の創立一族の秦氏と関係がある訳ではありません。意外ですよね、大抵の稲荷信仰についての語りや書物の記述では大抵、上記の二つと絡めますからね・・・。

例えば竹駒神社は小野氏の小野皇創建(勧請は伏見からですが・・・)ですし、千代保稲荷は河内源氏源義家の流れの森八海の創建(しかも、稲荷と関係ない祖神・ご先祖様への信仰から始まったという説・・・)です。

さらに、普通は稲荷系神社では伏見系の宇迦之御魂大神「ウカノミタマのオオカミ」様が祭神ですが、豊川稲荷さんは妙巌寺という曹洞宗系のお寺で荼吉尼真天とい