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どうも、皇悠です。
さて、私はよく密教系について、「これより先は良い師と縁を結んで頂いて、伝授を受けて下さい・・・・」という趣旨の発言・記事・投稿をよくしますが、さて、これは具体的にどんなパターンが想定されますか?
失礼ながら、とても非現実的な空論に聞こえるんですね・・・ある種の人には・・・。えーと、普通に密教寺院を調べて、まずはいくつかめぼしい所に出向いて、まずは、一番良さそうな所の行事に参加して様子見る。そこの坊さんと相性が良さそうなら、具体的な講義とかに参加してみる。
駄目なら、別なところに移動。ただ、あまり完璧を求めすぎても駄目ですよ。自分の現状を差し置いて、自分に縁のある寺や坊さんに完璧を求めるのは、仏道とは合わないから・・・、そして、2~3年通ったら、在家のまま得度とかすれば、本山の主催する行事に参加出来るようになったりもします。この辺りは、真言宗は古義系新義系で、結構違いがあるから、自分で調べて下さい。すぐに出家じゃなくても、時間かけて選ぶほうがいいですしね。お見合いみたいなもんですし・・・。西日本だと、そんな苦労せずに善良なお寺に出会い安いかも知れませんが、意外な所に明師・高徳な人はいますから探すのは気長にかつ真剣にやるべきですね。それで、その師が知りたいことをご存知か不明なんですものね・・。
まあ、ある程度、自己努力が必要です。
特に、密教の場合は、自分の師を探す過程が、大事な修行になるので。求められて拒むのも越法の罪ですから、基本的にお断りは直接にはしません。「大変・・・」とか「本気ですか?」ということは言われますが・・・。
だからと言って、それをご存知の人を紹介なんてとても出来ません。たかが、ネットで数回交信しただけの人を大事な友人の近くによせるなどは常識からいって危険で出来ません。
さて、基本的に顕教と密教で得られえる成果は同じですけれど、祈祷・手法等はそういう部分で密門はまったく違い、ある程度のセンスが要ります。
ですので、その面で拒否されたら諦めて下さい。こういうのは文字や会話だけじゃ絶対に伝わらんのですよ。また、文字や表面的知識だけで伝えては駄目なのです。これは、特権意識とか、秘密の維持の為とかじゃなくて伝授者、授法者に加えて、将来密教と縁を持つ者、それ以外の衆生--すべての衆生にとって一番安全かつ責任あるやり方なんですよ。
で、お釈迦様は、教えを隠すことはしなかったとかそういう話があったとしてもそれは、それを説かれた文脈の中で有効なことであって密教には当てはまらないので、ここは誤解してはいけません。以前、私も誤解してました。
密教の場合は、それを理解出来る準備が整わないと、伝授出来ないんですよ。
で、この話に違和感を覚えた人は、別に顕教で修行すればいいのだと思います。向いてないのですし、何故なら、よほどのことがない限り、非常に安全ですから・・・。それに、顕教やその瞑想であっても、普通の人は、十分満足できる結果が得られるはずです。密教に入る場合でも、むしろ、顕教やその瞑想に習熟した人の方が、習得率も安全性も完成度も「高く早い」ですし・・・。
「若し実の如く説かば小機は疑いを致し、
謗を生じて、定めて一闡提無間の人と為らん。
是の故に応化の如来は秘して談ぜず、
伝法の菩薩は置いて論ぜず。」(秘蔵宝鑰)
事実、真言や密門の法をおおっぴらに説かない理由はこれでしょう。
ですので、祈祷の具体的な所・事相について語るのも当然、私は控えています。このブログを閲覧して頂く方には御分かりだと思いますが・・・。この辺に関しては求められて拒むのも越法罪という論は成り立たないと思います。事実、最澄さんに対して空海さんはこのように言って法の授与を拒んでいます。
「秘蔵の奥旨は文を得ることを貴しとせず。
唯心を以て心い伝うるに在り。文は是れ糟粕、
文は是れ瓦礫なり。糟粕瓦礫を受くれば則ち粋実至実を失う。
真を捨てて偽を拾うは愚人の法なり。」(性霊集)
真に真言・密法を求めるならば、ネットなどで済まそうなんて気はおこさずに、自ら師を探して入門するのが本道・良いでしょうし・・・。ただし教相・教義に関して議論するなどには問題ないと思います。密教の場合は、それを最低限は理解できる準備が整わないと、伝授出来ないんですし・・・。
また、それは昔の話として今の時代の話を一緒にするのは可笑しいよ・・・。
今のお坊さんに理解出来る準備なんて出来てないと思うけど・・・。
酒は飲むは、女遊びはするは、お金で僧の階級を買う人よりは、まだ印でも知って護身法をしたいっていう在家の人の方が準備が出来てると思うけど ・・・。
などの論もありますが、要するに私が言いたいのは、事相に関しては、節度をもって
必要以上のことを得意になってしゃべるのは上記の論により良くないと言う事です。
勿論、気をつけたいのは、多くの人が知らない事だからと言って、必要以上に秘匿を強調したり、出し惜しみをしたりすることは可笑しいですよ・・、勿論。または、それとは全く反対に伝授で口外を禁止されている事を現代ではそんな事は言ってられないと称して必要以上に公開することも・・・。
ただしです、事相と教相との区分を明確につけるのは本当に困難です。だから、結局はこの節度というのは個人個人の良心に掛かっているとも思います。事実、安易にマニュアル化することは危険ですし、不可能に近く・・・。それなりの本に一八道まで乗ってるんですし…汗。というか一八道の基本をなす印と真言(さらに観想までのってるんでしょうが・・・汗)だけでは修法として成立しないんです。面受の問題だけでなく細かい佛器や仏具の作法や意味もあるし…。
いずれにせよ車も運転方法を文章化して、それを読んだとしても決して完全に安全に人を乗せたり出来ないのと一緒で、衆生救済の為にはそれなりの阿闍梨から面受で授かり、繰り返し繰り返し修法を行うという加行を受ける事でしか、その精神と法は授かる事がまずは出来ないですし、無理だとも思います。十八道位のモノならば、まだ良しとしなくちゃならん事実は、それなりにありでしょうが・・・ね。
ただ、真言法の中には積極的に他者に危害を与えるモノもあるじゃないですかーーーーー。
そんなモノまでをおおっぴらに載せているモノもありますよ。ええ、お世話になってます、某0研さんとか、原〇房さんとかの本には・・・。ただ、だからと言って、効果のあるなしに関係なく、かけられた人が精神的被害をこうむるには違いはありませんから、こういうモノは良心以前の問題でやるべきじゃないですし、私も追随して公開すべきじゃないと思うのですよ。
要するに、総てを公開してもいいって事になると、十八道のようなモノと降伏法のような危険度の高いモノとをいっしょくたにしてしまうような事が起こるんですよ。そうなると大変な事になりますし、私は責任は取れないですし・・・。だから皆さん越法罪なんてことが強調されるのでしょうね。
ただ、こういう事実が真言・天台の坊主の中から、念仏系、日蓮系の教祖が出てきて民に、その法が広まった理由に繋がるんですよね。あれは越三昧耶だからダメ、これは灌頂を受けてないからダメ 、修行や伝法灌頂を否定する訳でないけども法華経の[御仏は人が仏を想い恋い慕うようになった時どこにでも誰にでも姿現し法を説く]という教えの方が分かり易いですし 、実際そういうモノだとも一面で思います。
それに高野山の宿坊もサーロインステーキなぞを焼いて参拝客に出してるのもどうかと思いますし、例えば護身法などは、在纏位の尊の御信心をしている人に乞われた場合、どうしたものか・・・。厳密にいえば×でしょうが・・・ 、教えるべき例外の人は確実にいて、許したい気にもなりますでしょうし・・・。
また、般若心経秘鍵に「賢者の説黙は機をまち人をまつ」云々とありますように(間違ってる??)、機根が備わって無い人に教えるのが、罪深い事だと思うのです・・・。アーナンダも多聞により迷われたそうですから・・・。まあ、後世の事を考えれば、アーナンダだったからこそ、迷えても悟りを開ける貴重な存在であったかもしれないと私は思ってしまいますが・・・。
そう考えれば、今の真言・天台宗のシステムは一部か、大部分かにおいて確実にかなりの罪を作っていると思いますよ。その罪は、現に犯罪坊主や不良坊さんの出現に現れていると思います。それに、機根論はかつての真言宗学などでは盛んに議論された所ですが、近年では全くといってよいほど論じられる事自体が無いですしね。
大体上根か下根か、なんて簡単に伝授の資格の客観的判断は出来ない事ですし、更には極端な話で、差別問題にも発展しかねませんし・・・。ただ、僧侶全般のモラルが低下していることは確かです。その内、だんだんと淘汰されていって、ホンモノだけが残るという事になるんじゃないでしょうか。そうして、慈雲さんのような中興とか称されるすごい人が出てくるのじゃないでしょうか・・・希望半分ですが・・・。
でも、「ただよく受けて修行することあたわざることあり。もし求法の人、未だ五種の灌頂法を受けざれば、まさにこの瑜伽法を与授すべからず」とあるんですよね。
このほかにも挙げだしたらきりがありません。弘法大師さんだって『秘蔵宝鑰』の中に引用しているじゃありませんか。
要するにですね、後の宗団の人間が宗団の利益などの為に越三摩耶というのを作っただけなのであったならば、私もこんなに書かず、こだわらないんですよ。でも経典の中に書かれていたら、しょうがないじゃないですか。
経典に「ヤメレ」って書いてあるのですから、ここは素直に随わなくてはならないのじゃないですか? 信じ学ぶ者として、それとも、経典の意に背いてまでも越三摩耶を犯す意味がありますか?
あと、真言には確実に副作用もあります。具体的にどういう事かわからなくちゃ、そう単純には結論づけられないと思いますが・・・。
例えば、商売繁盛をお不動さんに祈って、その真言の効果が出たとしますね、あまりにも繁盛しすぎてその金をめぐって色んな人が寄って来て、最終的には不幸になってしまう、ということを言ってるのかもしれないですし・・。あるいは不動の真言を唱えて効果が現れた分、その福徳がどこかから差っ引かれてしまう、ということを言ってるのかもしれないですし・・・。色々なケースが考えられるじゃないですか?
教化に熱心な方の「越三昧耶」の問題には必ずこういうのに直面する訳ですが、現状、ここまでいろいろなメディアに情報が出ている状況で、何でもかんでも「隠すべし」はいろいろな意味で危険かとも思っています・・。
ただ、それら断片的情報(護身法にしても、口伝の部分は大抵は省きましていますでしょ?)で、見よう見まねの自己流をやってしまう方(また、それで事足れりと勘違いすること)が危ないとは思いますが、それは公開者の責任にはならないですよね。
勝手に自作・改変した行で自爆しているわけですから・・・。その意味で「越三昧耶」は有効ですよね。それに現実問題として、希望者全員に得度・授戒・加行をさせる訳にもいきませんし・・・ 、どんな境涯の人に、何をどこまで、という問題は一纏めには出来ないモノの、人的資源・環境的リソースは限られて物理的に無理なものは無理ですし・・・。
それに以前、神職の教育課程を書きましたが、神道は最終的に責任を神様・眷属に押しつけられるんですよ。基本的に祈願を叶えるかどうかは神様・眷属次第というスタンスですから・・・。ただ、密教は基本的に伝法を受けた僧は菩薩と同格なんですよ、だから明王部や天部、垂迹部なんかの神仏に対して祈祷(つまり、仏門として禁に触れる調伏・呪いのような事を命令出来る訳ですよ・・・。)は祈祷僧の責任になります。だからこそ、バレた際に呪いを掛けたとされる僧はこの国の歴史上で多く裁かれるんです。神職は裁かれた例はほぼ無いにも関わらず・・・。
これらの意味で、密門は人を選びます。真実、密教僧でない習合系神道と西洋魔術系を修めた私にも判る位に、密教には伝授・教授に対して問題・障害があります。他の仏教の門派よりも祈祷・呪術・加持を看板にしているので、特に・・・。
さて、今回はここまです。参考になれば、幸いです。
では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より・・。
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