御覧頂きまして、有難うございます。
どうも、皇悠です。
さて、やっと行・祈願・慣らし運転が終わりましたので、今回はお付き合い頂いた金毘羅大権現様を、皇悠が新たに(嫌々ながらですが・・・)メインの祭神・本尊としてお稲荷様を押しのけて御祀りする事になりました御方の本朝での歴史の紹介です。
(何故にして皇悠がこの方を御祭りしなければならないのかなどの経緯は今度にでも書きます。)
まず、一般的には金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)様は海上交通の守り神として「こんぴらさん」の愛称で親しまれています。
元々はヒンドゥー教のガンジス川の神クンビーラ (Kum-bhira) とされ、ガンジス川に生息するワニを神格化したモノとされ、竜神の一種ともされ、主に仏教では薬師如来に従う十二神将のひとり宮毘羅 (くびら) 大将を示しますね。
またクンビーラは、同じくガンジス川を司るガンガー女神の乗り物(船)だったため、船、航海の守り神としても信仰されており、神仏習合によって弥勒菩薩(他に十一面観音菩薩など諸説ありますが・・・)の垂迹神として金毘羅大権現が成立したともされています。
その姿は基本的にはインド・中国・日本の仏教が伝来した三国の衣裳(基本は武将形ですが)と装身具を身につけ、眷属として大小の天狗尊を従えています。
持つ物はよくあるモノで、右手に握る剣は知恵を表し、一切の煩悩・執着・迷いを断する誓願を示し、左手に持つ宝珠は正しい信仰者の苦しみを除き、あらゆる祈願の成就を表していますとされます。
ただし、修験道系では、大天狗形や神道系の御幣を持つ壮年の神職形の本尊もあります。
ちなみに金毘羅大権現様は琴平山(象頭山)の中腹に鎮まりまして、「玉藻集(たまもしゅう)」(小西可春編・延宝5年<1677年>)や、「讃州府志(さんしゅうふし)」 (菊池武賢編・延享2年<1745年>)などには、それぞれ「この山の鎮座已(すで)に三千年に向(ちか)づく」とあります。
さて、現在は金毘羅大権現様こと金刀比羅神社・琴平神社の総本社である金刀比羅宮の祭神は大物主命様(なお、大物主神様は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)様の子孫で、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)とされ農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様)、
並びに崇徳上皇様(なお、この方は永万元年(1165)に琴平神社の相殿に合祀されました。)としますが、これは近世の平田派の神道教学の捏造・押し付けでした。
それは、『金毘羅大権現は大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社(古伝によれば、大物主神は、瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗う、湾奥に横たわる良き碇泊所であったこの琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています)から始まり、中世以降に薬師如来の眷属の金毘羅・宮毘羅大将と習合して金毘羅大権現と称したとするモノ・学説』で・・・。
しかし、元来は金毘羅・金毘羅様自体はインドの土着の神・鎮守神で仏教の伝来時に、仏法の守護神の一尊として祀られ伝えられてきたモノです。
また、古伝によると金毘羅大権現様は『金光明最勝王経に此の神名がありともいわれ、最勝王経流布の国を守護し説法者を擁護し給はんとの本誓也。
又一説に天竺に象頭山金毘羅神の居所ありと。又曰く釈尊出世の時、仏法を守護の為にとて天竺に出現し給ふ。則ち修多羅、所謂耆闍窟山の金毘羅神是なり。
釈尊入滅の後、舎利を分けて此の地へ渡り給ふと。又説に三輪明神、清滝権現、新羅明神、同神の異名なりとも。
或は素盞鳴尊にして三国流転して仏法を守護し給ふ。震旦には武塔天神、牛頭天王と号し、天竺にては摩訶羅神という。
雲石阿闍梨の曰く、我聞く大物主命、天竺にゆきまして彼の土にて金毘羅といひしとかや。伝教大師が神域に通じ、金毘羅三輪一体と釈し給ふことあり。
経の中に演ぶるに釈尊に提婆大磐石を投げし時、神手をさゝへ給ふは此の神なり。即ち祇園精舎の鎮守とし給ふものなりと。尚権現の霊験奇怪は言語の及ぶ所にあらず。権現の御神躰は本社の上の方に巌窟あり、其の中にまします由。 』とも伝えられています。
さて、上記の古伝の本地堂記事などによれば、松尾寺本地堂本尊はまた不動明王であったとも推察されます。
つまりは金毘羅大権現は要するに、諸説紛々・支離滅裂・詳細不詳でよく分からないということを云っているだけで・・・。
また、本地が釈迦如来というのは松尾寺本尊が釈迦如来であったことに拠るものと推測されますが・・・・。
そして、このような由来は不明ながらも絶大な験と加護を持つお方なので讃岐松尾寺の鎮守神の金毘羅様は流行神仏の一つとして多くの信仰を戦国時代頃から集め始め、更には金毘羅大権現と称し全国に勧進されていきました。
よって、日本の所謂「神」とは何の関係も特になく、また金毘羅大権現が神社とされる謂れもあまりないはずですが・・・。
さて、金毘羅大権現の現存する確実な最古の史料として以下があります。
元亀4年(1573)「金毘羅宝殿棟札」(本宮再営棟札):
(表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権僧都宥雅造営焉 于時元亀四年11月27日記之
(裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之
※なお、この時(元亀4年)には確実に金毘羅堂が造営、金毘羅が祀られたものと解釈されています。
さて、金毘羅様が大々的に全国展開しましたのは、太閤こと秀吉の朝鮮出兵頃からで、大漁を与え海難を避ける海・水の神として漁師・船乗りに知られ、更にまた雨乞いを叶え豊作を与える神(農業神)として農民達の信仰も集め、それが象頭山(海からの航海時の目安となる山)への「御山信仰」ととも結びついて、
終には海難を始めとして全ての厄除け・殖産興業・大漁/豊穣の神として本尊の釈迦如来を凌いで信仰を大いに集めていきました。
そして、江戸中期以降には江戸を始め全国に金毘羅講が組織され、金毘羅参りが大流行。
その一方で、支配層である長宗我部氏、生駒氏(高松)、松平氏(高松)などの四国近隣の大名からも庇護を受け、多くの堂宇が建立されます。
長宗我部氏:三十番神堂修復、仁王門(現賢木門)建立、
生駒氏:三十番神堂修復、鐘楼など寄進、
松平氏:三十番神堂修復、大門新築、木馬舎寄進、本社・経蔵・阿弥陀堂など造営。
そして、近世以来は神威・信仰は益々著しくなり、江戸時代中頃の桃園天皇の御字(みよ)宝暦3年(1753)12月、勅願所とすることが仰せ出される。
同10年5月、日本一社の綸旨を賜わり、明治初年に至るまで、毎年春秋の2回、禁中より御撫物(おなでもの)が当宮別当に下賜され宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)を祈願されるようになりました。
さて、何度も記述しますが元来の金毘羅神は仏教の伝来とともに 仏教を守護する神仏として入ってきた天部の諸尊の一人であり、日本の所謂「神」とは何の関係も無いものであったのですが、大権現あるいは金毘羅神などと称したために、結果として明治維新の神仏分離の標的にされ、現在の形になります。
まず、明治元年の神仏分離令の発令当時の金毘羅大権現の別当(担当住職or祭祀責任者)は松尾寺金光院の法印宥常と言う方でした。
まず、明治元年3月神仏分離令が執行されます。
同4月に宥常の政府への上申書で:大権現は天竺より飛来、仏法を守護・・・・趣旨は日本古来の神ではないという事でした。
しかし、同5月宥常の嘆願書では:豹変して、大権現は大国主尊(大物主神)と同体であると認めます。
同6月宥常の届け出:松尾寺の堂宇を改廃する。大権現の建物すべてを社殿に改めたと申告。
そして、現在の名称の基の琴平神社と改称。
同6月宥常の復飾改名:金光院を琴陵宥常と改名し、復飾。寺中の僧侶に復飾もしくは退去を命ず。寺中の内、万福院は退身して復飾、神護院は復飾して社人に、真光院は当時欠員、普門院および尊勝院は復飾および神社化に強く反対したと伝えらてます。
※普門院は旧地を離れ、松尾寺として現在もなんとか存続してます。
同7月に宥常は完全に軍門に下りまして平田門下へ、大宮司補任を願います。
そして同7月に金刀比羅宮と改称。(現在の名称です)。同8月宥常は社務職に補任。
明治4年に更に事比羅宮に改称。
明治5年裏谷で諸堂の仏像を焼く(観音堂本尊十一面観音、護摩堂本尊不動明王は何とか免れたそうですが・・・)。
明治16年再び金刀比羅宮に名称を変更。
明治19年宥常、宮司に就任。そして、今に繋がります。
時代性を感じさせる話ですね。
ちなみに、金毘羅信仰には実際に参拝出来ない方用の酒樽を海などに流して参詣の意を表す金毘羅樽や犬の代参の風習も見られ、奇異な霊験談も多くあります。
また、あまり知られていませんが般若経典の守護者の十六善神の一人でもあります。
更に薬師如来の眷属の『宮毘羅大将(くびら)』 としては太刀を持つ十二神将形で子の神です。薬師如来の十二願の内で は<第十二願>の『美衣満足、 満足する衣類を得て健全な精神を宿らせる』を司るそうですね。
では、今回はここまでです。
ではいつモノです。
(閲覧頂いている方に)全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
そんな訳で、旧稲荷信仰者・現/新米金毘羅信仰者へクラスチェンジしました皇悠及び当ブログを、何卒宜しくお願いいたします・・・。
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