« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月の記事

2009年1月25日 (日)

私の経験から、師弟関係・・・

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は師弟関係です。

近年は、セミナーや書物・DVDなどが充実していまして、それなりのオカルト・祈祷関係の事も特に師弟関係なしに基本的な事柄を学び、身に付ける事が出来るようになりました・・・。

で、いきなりこんな事を書いているのはここ、2・3日の間に落語家の立川談春師匠の「赤めだか」という本を読みまして、自分の二人の師の事を思い出し、いろいろと思い出し考え、書きたくなりました。

初めの師は十代なかばから二十代初めまで、次の神道の師は二十代の約一年半位お付き合いして頂きまして、多くのモノを与え・残しました。

で、ですが今回は、あまり語りませんでした神道方面の師についてから書きます・・・。

さて、この師についたのは、ある都内の八幡神社を参拝した際に、丁度、摂社に祭礼がありそこにいた神職の内の一人・その方の祝詞の唱え方に惹かれ聞きほれて、何度もその方の奏上狙いに伺い、何故かよく祝詞を聞いている青年が師の方も気になって興味を持ち、境内で話しかけたら、何故か気に入って、話をする関係になったと言う感じで始まりました。

だから、習いました神道は厳密な意味では素人芸とも言えます。特に正式に教育機関に所属していた訳でもなく、(内)弟子として公開・認知して/されていた訳でもなく、教団とかある神社の氏子・崇敬会などの組織の一員とかでもなく、ある神社に奉職している神職の一人が、個人的知り合いにいろいろと教え・伝授をしていたという感じでしたから・・・ね。しかも、内実は月に数回、二人で神道関係の話をし、たまにやり方をワンツーマンで稽古をつけてくれたと言う感じでした。

ちなみに師弟関係が終了したのは、師が遠い神社に宮司として奉職になり(栄転ですよ!)、そして神職にならないのならばもう教える必要のない位に学び終えていたからです。

師は最後に言っていました。『自分が(皇悠さんに)お伝えし話した事は、もう今では誰も知らず、今では知る人も隠し忘れ消去した事です・・・。この世界(神社・神道の世界)も変わりました・・・、あの戦争を境に変わり、この国の成長と共に変わり、私が多くの先師から古書から学んだ事も今では誰も求めていないモノに成り下がりました・・・。勿論、(皇悠さんが)神職の道を選ぶのならば私は推薦も支援も出来る限りさして頂きます。でも、嬉しい事に選ばれない・考えていないとの事で・・・、良かったです。・・・どうぞ、私との中で得た物をよろしくお願いします・・・』と、頭を下げられて別れました。

もう、何年も前の話です。記憶の脚色も忘却の欠落もあるでしょう・・・・が、何かを託されたのもまた、確かです・・・。

冷静に今から考えますと、二十代の無関係の神道の素人にしか、伝えられない師の悲しさ・時代の変化が理解出来ます。たしかに、今では許容されない面が多々ありましたし・・・。今でも神社本庁系列の神職者が修験・両部系の技法を行い・公開出来るのかは、やはり微妙です・・・。

さて、今回は色々とギリギリで何とか記述し、その為に変な文章の上に、自分語りが多くなりましたが、前段で紹介しました立川談春師匠の『赤めだか』、このブログのメインテーマ・祈祷・呪術とは完全に関係ありませんが古き良き時代からの師弟関係、普通に小・中・高などの学校などの先生と生徒などではない師と弟子関係をよく描かれていますので、お勧めします。本当に誰かに弟子入りするという事がとても丁寧に記述されています。

本当に残念ながら、日本で呪術・祈祷関係で師弟関係を良く記述しているのはなく、強いて言えば訳書のカスタネダシリーズ位しかないので、この本はお勧めです。誰かを師として請い、弟子として過ごす時代の嫉妬・不安・憧れ・恐怖・・・・全て出ています。

しつこいですが、お勧めです・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、何かの参考になれば幸いです。

では、[貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます]ように祈ります・・・。

皇悠より。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年1月24日 (土)

御祈祷の流れと御酒の味

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回は雑談です。

さて、そろそろ今月も終わりですが、全国ではまだまだ一月中・今月の間は新年・初詣の御祈祷を執り行っている日本ですが・・・(本当に沢山で、どれくらいかはわかりませんが・・・。)

そんな訳で今更ですが、神社の御祈祷の簡単な流れを紹介します、そういえば記述していなかったのを思い出しましたので・・。

順番としては以下の通りですね。
1、まず、参加する場所及び参加者等を清める。『偉大なる神様・その眷属達の前に立ち、それと接する訳ですから身を清めて身奇麗でないといけませんよね』←俗に言う、禊・祓いです。
2、供物や賛否をしつつ取引してお願いを伝える・祝詞の奏上をします『なお感覚的な表現ですが祝詞は言うのではなく奏上、つまり奏でるモノです』←内容的にはまず始めに神主が願主の願いを代表して伝える事です、祈祷の肝要・祈願の為の祝詞奏上ですね。
3、 個別に玉串拝礼をする『神に玉串を供えて個別に拝みます』←願主が神主では表現出来ない細部まで具体的に祈願するパートです。
4、 直会(なおらい)『捧げた供物や御神酒(など)を頂く』←儀式・祭礼を終えて、供物の処分を兼ねた宴会です。

おおまかな流れはこういうモノですが、今日は最後の直会(なおらい)についてちょっと掘り下げてみます。

まず、直会ですが、これは「なおらい」と読みます。よく地域や神社のお祭りや何かの行事の後なんかに皆で集まってお酒を飲んだり、ご馳走を食べたりする事があると思いますが、これ何かも直会ですね。これは雰囲気的には足洗いとか精進落としとも言いますが、要は打ち上げみたいな感じで、実質的にはただの慰労会・反省会みたいになりがちではありますが、実はこの直会は神事としての意味もある大切なモノです。

どんな御祈祷・祭事もそうですが祭事では、神様にお米やお酒などを代表として他にも諸々のモノをお供えとして捧げてますよね。それで、この祭りの後に神様・眷属に供えたモノを(これは祭礼時に神様が召し上がったモノの残り物とされるモノですが、現代では何故かだいたい御神酒やお菓子の場合も多いですね・・・)「祭りの最後に自分達も頂いて神様の御力を頂く、自分達の体内に取り入れてより強く御加護を得る。」というような意味があります。神人供食とも言います。

また、他に意味なんかもありまして、御祈祷や祭りではまずお祓いをして身を清め、そして神前で神様と時間を共にしますが、その行為自体が神様と共に過ごすという非日常の世界に足を踏み入れている・異常事態な訳ですから、祭りの最後に直会(なおらい)を行い元の日常の世界に戻る(直る)必要があるという考えから代表的な日常的行為の飲食を行いまして心身を通常状態にする・戻すという事です。スポーツで言う所のクールダウンです。神様と時間を共有する場から元の生活へ戻る為の、神懸りから日常の状態へ戻る儀式というような意味もあります。

また、儀式で消費した生命エネルギーなど(混沌魔術の言うライフフォース・気など)を補給する意味もあります。

しかし、ここで、以前から不思議に思っていた事があります。私は残念ながら下戸で味がよくわかりませんが・・・。それでも不思議に感じるのは時々御神酒を飲んだ方の中でお酒の好きな方は「いつもよりも美味しいお酒だ」とよく言います。これらは実質的には同じお酒ですが片方は神様にお供えをしてその後の要するに神様の飲んだ後のお酒と、それをしていないお店でただ売っているだけお酒。同じ銘柄であれば、お酒自体は同じモノでそう差はないのですが・・・。

勿論、神様にも召し上がって頂くモノですからそれなりに資金のある場所ではそれなりに美味しいお酒を選んでいる場合もありますが、大抵の神社は貧乏で・・・。それに御神酒そのものも、勿論色々あります。一応日本酒とは言え・・・、参拝者が「これをお供えしてください」と酒屋さんで買ってきたお酒をそのまま一応お供えした後にもったいないので祭礼時に流用している場合、他にその神社ご用達の出入りの酒屋の酒などを祭礼の参加人数が多い場合は名前も質も味も色々なモノがある意味混ぜこぜで使用されていたりしますし・・・。

それにお供え物のお酒はやはり、人・神社によりぶっちゃけで言えば金額・質・味は色々ですが、そう特別上等・銘酒という訳ではないです。

しかし、この同じ銘柄のお酒の場合でも、1本は先に神様にお供えをしてその後に飲む場合ともう1方はお店で買ってきてそのままで飲む場合とこの二つを比べると、神様にお供えをしたお酒のほうが美味しい(らしいのです)。また、普段は日本酒が好きで儀式で使うお酒よりもぶちゃけ、高い・良いモノを常飲している方でも美味しいと感じる場合があります。

これは私のようなあまり酒に強い方ではない、というか下戸で日常生活で飲酒をしない人間ですのでよくというか、はっきりとは分かりませんが、お酒に強くてお酒が好きな方でも祭礼をして神様の力が込められたほうが良いとそう感想を述べる方もいます。

つまり好きに飲める自宅で飲む同じ銘柄(場合によってはより高価なモノ)のお酒よりも神事・祈祷後のお酒の方が良いとも言う場合もあります。隠してお供えをしたお酒とそうでないお酒と、一緒に飲ませると、不思議と神事後のこっちが旨い、と明確に言う方もいます・・・。勿論どっちがどっちだとは教えていませんが・・・。これはお酒好きの人ほどその傾向が強いようで・・。ちょっと、不思議な現象ですが、面白いですね。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、何かの参考になれば幸いです。

では、[貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます]ように祈ります・・・。

皇悠より。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月23日 (金)

悪癖・・・注意?

御覧を頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

えーーと、いつも見て頂いている常連の人には今更ですが、初見orあまり来られない方はご存じないので告知おばいたします。

ある方から忠告を個人的に受けたので記述します。

『 当ブログでは、基本的に同じ内容の記事はまず再度の記述を特にしておりませんし、皇悠個人が嫌いなのでまず、しません。

よって、内容的な関連記事やその紹介記事などが以前に記述してあっても改めて紹介・告知をまず、してません。また、以前書いた内容を重複しないように記述されていますので、関連記事や紹介記事が以前あった場合にそれを知らずに読了しますと間違った理解に繋がり易いブログです。

また、往々にして頂いたコメントへの返信により詳しい技法や理論の説明内容・記述がある場合もあります。 』

(よし、これで義理を果たしましたね。見てますか?本日メールをくれたKサン。)

単純に迂闊で、不親切で・面倒だからやらないだけでしたが、どうやらコメント欄を見ない方や内容的な関連記事を再読/再検索しないで記事を閲覧する方がネットではいて、そういう方には当ブログのやり方では往々にして勘違い・誤読しやすい内容・記述方法らしいので今回、忠告というか告知してみました。

まあ、常連サンやそれなりに修行した方には当たり前すぎる内容も多いので、気にせずに好きかってに記述してましたので、告知してみました。

これで、誤解・誤読が減れば良いのですが・・・。

では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ように祈ります。

皇悠より・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月21日 (水)

山系の祓い・・山神祓

御覧を頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。

さて、以前に海で唱える祝詞を紹介しましたので、今回は対になる山で唱える祝詞を紹介します。

やはり、内容的には順当な山の神に感謝し、そこでの無事故を祈願し、また悪いモノに呼ばれたり、拾ってしまうのを防ぐモノです。

また、前回の海神祓は海に住む竜神達に祈るものですが、今回のは天皇家の祖の一つ、全ての山林の主・大いなる大神たる大山祇大神様に祈るモノです。その為、日本国内ならばどの主が分からない山でも使用出来ますね。。(そういえばかなり前に、この大山祇大神のご神名を奉唱すればなんでも祈願成就すると謳う宗派がありましたね・・・閑話休題)

では、行きます。

山神祓(やまのかみのはらい)

『高天原(たかまがはら)に神留座(かみずまりま)す。皇親神漏岐神漏美(すめむつかみろぎかみろみ)の命(みこと)を以(もち)て、

大山祇大神(おおやますみおおかみ)を奉請(おぎまつり)て青體(あおと)の和弊(にぎて)三本(みもと)白體(しらろ)の和弊(にぎて)三本(みもと)を一行(ひとつら)に置立(おきたて)て種々(くさぐさ)の備物(そなえもの)置高成(おきたかなし)て神祈(かみほぎ)に祷給(ほぎたま)えば

速納受(はやきこしめし)て禍事咎祟(あしきこととがたたり)は不在物(あらじもの)をと祓(はら)い給(たま)い清給由(きよめたもうよし)を八百萬神等諸共(やおろずのかみたちもろとも)に所聞食(きこしめせ)と申(もう)す』

以上です。

この祝詞は山開き時にも用いられる事もあるのでご存知の方もいるかな・・・とも思いましたが、あげて見ました。

さて、今回はここまでです。お役に立ち参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月18日 (日)

海系の祓い・・海神祓

御覧を頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。

さて、今回は海に関する祝詞を紹介します。

どうも、ネタが切れかけているのもあり、また多くの人に利益誘導(メリット)を考えるとどうしても何かを紹介する記事が増えますね。コピーや引用で行数を稼げますし、楽ではあるのですが、好きな分析・批評系の記事はそれを知る人間がそれなりにいませんと只の一人語りになり、意味がないので自重しています。

さて、この祝詞はよく海難事故が頻発した際の鎮静&除去、豊漁と安全祈願に使用され、また海での『性質の悪いモノ』を祓う効果などがあります。

只、実はお読み頂くと判りますが、対象が海に住む龍神(しかも明言されてませんので、もしかして何百万という存在)を対象に祈られているかもしれない不思議な祝詞です。

でも、この祝詞はよく海開きの際にも唱えられていますし、各地の冬季の海での禊の会(正月前後になりますと我慢大会風によくメディアに出ますが・・・)などでも定期的に唱えられますのでご存知の方も居られるかと思いますが・・・?ではいきますね。

海神祓(わだつみのはらい)

『高天原(たかまがはら)に神留座(かみずまりま)す。皇親神漏岐神漏美(すめむつかみろぎかみろみ)の命(みこと)を以(も)ちて

大海龍(おおわだつみ)小龍諸龍神(もろわだつかみのかみ)を称え奉り(たてまつり)て、五色(いついろ)の幣帛(にぎて)を五方(いつかた)に取配(とりはえ)て品般(しなじな)の供物(そなえもの)を横山(よこやま)に置足(おきたら)して神祓(かむはらい)に祓給(はらいたま)いて、

清淨(きよ)き心(むね)を悟(さとし)て速納愛(はやきこしめ)し皇神(すめかみ)の御勅(みこと)に依奉(よえいざしまつ)りて大海原(おおうなばら)に有住(あれま)す廣物狭物(ひろものさもの)を神集(かみつどい)に集給(つどいたま)い網目(あみま)に入給(いりたま)い

日(ひ)の守(まも)夜(よ)の護(まもり)に守護給(まもりたま)いて罪咎祟(つみとがたたり)は不在物(あらじもの)をと常磐堅石(ときわかたわ)に清給(きよめたま)いし事(こと)の由(よし)を 八百萬(やおろず)の神達(かみたち)諸共(もろとも)に所聞食(きこしめせ)と白(もう)す。』

以上です。

さて、特に信仰が無くても海辺にお住まいの方や海が好きな方などにご利用を頂ければとも思います。(海の神様に海を利用さして頂いているのですから、その土地の神に礼を取るのは・挨拶し許可を願うのは個人的には必要に思いますし・・・)

では、今回はここまでです。お役に立ち参考になれば幸いです。

「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ように祈ります。

皇悠、拝礼。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年1月16日 (金)

神主さんの信仰要諦と内部闘争

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて今回は一部の神主さんのブログなど紹介されています神社本庁系の信仰告白・神道系の信徒大綱を紹介します。では、・・・。

『 神道は天地悠久(てんちゆうきゅう)の大道であって、崇高なる精神を培(つちか)ひ、太平を開くの基(もとい)である。神慮(しんりょ)を畏(かしこ)み祖訓(そくん)をつぎ、いよいよ道の精華(せいか)を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以(ゆえん)である。ここにこの綱領をかがげて向ふところを明らかにし、実践につとめて以(もっ)て大道を宣揚(せんよう)することを期する。

一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明(あか)き清きまことを以て祭祀にいそしむこと
一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
一、大御心(おおみこころ)をいただきてむつび和(やわ)らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること  』 
 
さて、実に多くの神職の方は、この名を「敬神生活の綱領」の内容をその理念として、それを基に日々ご奉仕しています。また、神社によっては朝のお勤めの時に、ご神前で唱和したり、いろんな会合の時にも皆で唱和していたりします。内容的にも素晴らしいですし・・。
 
さて、ここからは俗な話ですが、由来や関連もバラバラな人物が集う組織で、意識の統一/行動の基準化を為すにはこのような理念の統一化は重要です。 
 
似たようなモノに古い会社での短い社訓の唱和や今一部の会社で流行っているクレドなども、各組織人が自己判断で臨機応変に対応出来るように使用されています。幾らよく聞く報告/連絡/相談を徹底していても、必ずしも組織の責任者・指示者層が常に的確にかつ適時に指示出来るとは行かないので、末端の人間でもある程度は応対する為に、最低限度の基準・行動理由の把握化・取得は重要です。ただ、そんなことは関心が無く、金が利益が入ればいいという所も多いですが・・・?
  
また、ある程度の組織の構成員数を誇る所(百人以上)ではこういうモノが無いとすぐに何故か、派閥化と分裂化が出現し、内部的な権力闘争や不祥事が起きます。そんな事をするよりもクレーム処理、現場/日常の新たな変化の把握、利益率の向上、新商品の開発、既存商品の向上を優先すべきというような場合でもやり始めます・・・、そして大抵の場合でそれが終わった時、市場でのその組織の価値は完全な老舗的状態で、ただ既得権益を維持してなんとか存在しているだけのロートル的な存在になりさがっていたりします。・・・怖いですし、気を付けたいモノです。
 
さて、今回はここまでです、何かの参考になれば幸いです。 
                                                          では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ようにお祈りいたします。皇悠より・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すばらしい座敷童?!

どうも、皇悠です。

えーーーと、よくチェック&リンクさしていただいています中村雅彦師(尊敬しております)の2009年1月15及び16日のブログにて、同師の現在居られる(多分)教会にて座敷童が確認されたそうです。

すばらしい・・・、子供の精霊というのは初めて聞きました。

よく聞く女性の霊などは、史実とは違うのに何故か恐ろしい御霊扱いの新宿のお岩さんとか、源氏物語に出てくる生霊とか、何故かドロドロの恋愛とか苦難の話のイメージが多くありますが、子供の姿の霊はこういうほのぼのしたイメージがありいいですよね。

なお、興味がありましたら右上のリンク集からどうぞ。

では、今回はここまでです。ホットな内に紹介したかったので今回は短いですが、お役に立ち参考になれば幸いです。

では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きます」ように祈ります。

皇悠、拝礼。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

神主・神職についてあれこれ。

御覧を頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回は以前書きました、神職のなり方の補足です。問答形式でいきます、では・・・。

Q女性の神主さんは少ない/いないのでしょうか?
A.いえ、います。結構というかそれなりに沢山おられます。総神主のうちで割合として1割~2割は女性だと聞いた事があります。勿論、それ以外に巫女という職種もありますが・・・。ちなみに、その区分は基本的には祝詞を唱え、祭礼を司る方が神主、その補佐が巫女さんと考えるのが妥当かと思います。

Q又、女性は神主になれない/なりにくいのですか?
A.もちろん、男女平等の現代では資格を得ること事態はできますし、その際のハンデも特にありません。戦前は神主資格は男性にしかありませんでしたが、戦後は女性もなれる/取れるようになりました。ただ、性別や(勿論、普通に社会的に未成年はまず無理ですが・・・)年齢などで男性よりは神社での奉職の際に採用されにくい傾向や、また慣例・神託などにより男性限定やある血族・特徴の方のみ積極的に採用する役職がある神社などはあります。ちなみに、もっと昔、邪馬台国の卑弥呼(ヒミコ)とか平安時代などで、それくらいまで遡ると、女性の神主(今の神主と若干意味合いが違いますが)もあったと言えます。

Qよく聞く神主さんと宮司さんの違いは?
A.神主=神職ですが、神社で神に奉仕する者の事を基本的に神主(神職)と呼びます。そして、その神社の中での奉仕・奉職する者=神主さんの中で最高責任者・代表者である神主が宮司さんです。そして、宮司とは役職の名前ですので、他に役職はありまして、ほかにも、規模により禰宜(祢宜)、権祢宜、などがあります。ただ、普通の一般神社では専属の職員・神職が宮司1人だけとかある家族が代々護持しているという小規模な神社も多く、また主に経済的理由で複数の神社の宮司を1人で多数兼務する土地も少なくないですね。

ちなみに、一般の企業で例えると、
宮司=代表取締役社長、一部の神社では宮司と禰宜の間に権宮司が置かれますが基本的には禰宜・祢宜=専務などの部長以上の重役、権禰宜(祢宜)=課長・係長などに値しまして、そして出仕は平社員です。

ちなみに、基本的にはどれほど古かろうとも、規模が違おうとも、氏子の数が差があっても、神社自体の格や歴史などに関係なく宮司は宮司同士、同格です。この辺は普通の社会と違いますね。同業者同士で会社の規模や歴史などで差がつかないというのは・・・。

勿論、人格や学識、年功や評判などで個人としての敬意の差などはありますが・・・。

ただ、神主に限らず、聖職者にとって若いということは、信頼を得るという点で、また人生経験が不足してるという点で、どうしても補えない・舐められ易い所があり、信頼が氏子さんや出入りの業者さん達から得にくい点がありますので、若い方では苦労されている方も多いのですね。

だけれども、若いからこそ挑戦出来る事、女性だからこそ出来る事が、あるはずで代替わりする事で一気にその神社が変わり、良くなる例もあるので、私個人としては若い神主さんに対しても特に偏見はないです。

ちなみによく神職の方の本で明階、直階などが出てきますが、あれは日本最大の神社の包括団体・宗教法人神社本庁内の神職のライセンス・資格(の段階名)です。つまり、神社本庁において所属する神社の社格に応じて宮司なり、神職になるのに必要な資格の名前です。その為、それを必要としない神社の宮司さんや関連がない宗派の神職の方でない方もそれなりにいますね。この辺も含めて、普通の仏門諸派に比べて、神道では基本的に位階が少ないです。

ただ、これらの資格は残念ながらも個々の霊的能力や祈祷師としての実力には比例も証明もしませんし、関係自体もまたありません。

ちなみに、現在神道系でありながら理論だけでなく実力派でもあると、大活躍の独自の稲荷系行者・心理学者にして神主である中村雅彦師(尊敬しています)は神社本庁外の神道・神社の出で、師の名乗る資格(権訓導)も師の帰属する一宗派内での資格(言い方を悪くするとお手盛りとみなせるかもしれない資格)ですね。

さて、基本的に神社内の役職名・宮司などはどちらかというと法的な経営・責任能力と在籍年数による功績などの証明資格で、それに対して神社本庁の位階は大学などの修士・博士号などの学識証明・経験履歴的要素が強いです。その為、神社本庁で資格を得てから他派の行者・在野の祈祷師・霊能者などに弟子入り・修行する神職の方もちらほらいます。この辺は、人によりますが・・・。

さて、今回はここまでです。お役に立ち参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月14日 (水)

歩いて疲れた上に、ブログの新装開店

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、またまたプロフィールの内容どころか、ブログのテンプレートに項目の配置を改良というか大変容・新装開店させてみました。どうも、お世話様です、皇悠です。

さて、今回もつらつら雑文を書きます。

えー、久しぶりというか正月に続き、何故かゆっくりと一日時間があったので巡礼という名の散歩をしました。新宿から原宿・渋谷→目黒→代々木→新宿とテクテク歩いた訳です・・・。

参拝した神社・寺院は色々です。基本的に今回は新宿駅周辺を何故か回りました。

覚えている限りあげますと、近頃なじみの花園稲荷神社から雷電稲荷神社、曹洞宗の護本山天龍寺、浄土宗の奪衣婆で有名な正受院、内藤新宿の遊郭で疲れ果て亡くなった遊女が投げ込まれたところで「投げ込み寺」とも呼ばれていた成覚寺、日蓮宗の二つ並ぶお寺の木造の常泉院・高い鉄筋のお祖師堂が目印の常円寺、  曹洞宗で方亀山東長寺などを回り、明治神宮に住宅街をさ迷い、何故か中目黒の駅前に出て、小さな馬頭観音のお社などを見つけては、参拝しました。

ちなみに行き返りは明治神宮の玉砂利の中を歩きましたが、なんというか明治神宮の鳥居の近くに仮設されていました古い破魔矢やお札入れは大盛況でいた・・・。平気で、成田山だ佐野厄除け大師だ、伊勢神宮だとメジャー級からどこあるのかは不明の神社まで、お札からお守り、ステッカー、破魔矢に熊手、本当は頂いた所に納めるのが筋なのに、面倒なのか知らないのか?判りませんが乱雑に投げ込まれていました。

これも日本の宗教事情というヤツなのでしょう・・・。

まあ、もう昨日になりますが、久しぶりに晴れてかつ暖かく絶好の散歩・巡礼日和でした。

ちなみに参拝していますが、特に何かを祈願をしていません。単純に近くに寄りましたのでご挨拶しただけです。

逆に各寺社の祭神・眷属・本尊様に多くの加護を周辺の住民に与えている事を代表して感謝し、祀られている神仏の皆様へより神仏の皆様が一層の開運厄除・威光倍増・富貴繁栄などされるように祈りました。

ちなみに、このような祀られている神仏自体の開運を祈るという行為・作法は今では何故かマイナーな教派神道の黒住教から私は取り入れています。また、神道家の山田雅晴氏もいくつかの書物で広めてもいますので、ご存知の方もいるかと思いますが・・・。

さて、久しぶりに新宿を中心になんとなく歩きましたが、本当に日本は不景気かというくらい、人は多くハキハキ歩いていました。

まあ、新宿のような繁華街、明治神宮のような有名神社を中心にふらふらしていれば、そう感じるのもしかたがないのですが・・・。

世の中には道端で寝ている浮浪者もいれば、仲良く遅い初詣のデートをしているのか楽しそうな若い十代の二人組が幾つもいたり、宝石店から見送られるグラサンのオバサンもいるわけで、本当に面白いものですね。

また、缶ジュースの自動販売機が多いときには直線100メートル内で10台ほど見つけた時に、思わず日本の豊かさを実感しました。ちゃんとそんなに同業他社が乱立していても元が取れているという現実に・・・。

こういう普段、ぜんぜん歩かない環境を約半日、歩くのもいい気分転換・気付きになりますね。さて、また明日から忙しくなりますので、そろそろ寝ようと思います。

では、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より、一礼。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年1月13日 (火)

死後(?)・死に方のお話

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、またまたプロフィールを改良しました。どうも、お世話様です皇悠です。

さて、今回は死後の話です、実に多くの経典・説話では死後幾つか世界があり、そこに行き色々すると述べられてます。

まあ、身体は物質で、物質が永遠たる事はない訳で・・・。ただ、身体の元来の限界年齢って平均で150年前後あるらしいんで、平均寿命が70から80代の今は依然よりは延びたとは言えまだ倍は生きられるんじゃないかという説をどこかで見た覚えもあります・・・。

また、物質の最大の問題点は、その結合・維持等の状態を永遠に維持することが殆ど出来ないと言う事ですが、 ボケ関係の本で最近読んだんですが100歳とかでもボケない老人というのを調査したところで、酒とタバコは全員ノーだったそうです。ごく少数、食前酒をちょびっとみたいなのはあったらしいのですが・・・・。

さて、多くの神話や説話の長寿者・例えば仙人を伝説だと考え、虚構浪漫として楽しむのも個人の好き好きですし、実際にそのようになれると考え修行するのも好き好きです。(^-^)多くの人は、数百歳以上などは不可能と信じているらしいですが、私は、その程度の長寿だけでなく、問題は、そうなれる前に死んでしまわないか、と考えています。(笑)

特に、かつて世界三大長寿地域と呼ばれたコーカサス、フンザ、ビルカバンバは、山間部でしばしば雲に包まれ、その結果、宇宙線・紫外線をかなり防ぐので長寿とかでしたが・・・。ただ、これだけでは長寿の十分条件にはならないらしく、「かつて」と書いたように、ビルカバンバは、今では短命で病人の地域になってしまったそうです。

実は長寿地域として有名になり、米国の外庭と呼ばれる南米にあった為、米国人が大量に押し掛けました。しかし、米国人は不健康な米国流食生活を止めなかった為、長寿に至らないだけでなく、現地人の生活環境を変えてしまい、その結果、健康だった現地人は次々に病気に罹り、短命化していったそうな・・・。どういうことですかね・・・。

これに関連して、ユニバーサルタオという体系では上手い事を説いてます。

「もし良い感情というモノを培っていく事を怠り、ただひたすら、より大量のエネルギーを体の中に引き込もうとするだけならば、結果的に、否定的な感情にパワーを与えてしまう事にもなりかねません。そうした場合、ネガティブな感情はますます強大になり、それらをコントロールすることも、肯定的な感情に変容させる事も、ますます難しくなってしまいます。これがスピリチュアルリーダーと言われる人達の中に堕落し腐敗していく者が少なからず見受けられる理由でもあります。

彼らは自分が得たパワーに有頂天になってしまい、この気を日々の修行の中で浄化し、徳のエネルギーを養う事を怠ってしまうのです。 徳を培う作業は、それが自動的になされるようになるまで、たゆまず続けていかねばなりません。それが実現出来た時になって初めて、マスターと呼ばれる人が本当は何を意味するのかを知る事が出来ます・・・」(タオ人間医学より)

中々に良いことを記述しています。ちなみに、同体系の修練者の死・最後の旅の経路を4つ紹介します。

まず、1五行帰一/エネルギー体(魂体)を魂と霊の乗り物として死の瞬間に我々を目覚めさせる原初の光に付いて行く事ができる。松果体と関連した「内なる羅針盤」を形成すると光に意識の焦点を合わせる助けとなる。(多くの方はこのように死ぬらしいですね。)

2小坎離/男性性と女性性とを再結合させ、神の体を養育するベビーシッターの役割を果たす気の体を生み出す。今生のうちに神の体(霊体)を産み出すチャンスがなかった場合も、気の体だけ使って不死の体を育て上げる。体の多くの物質的要素を非物質的な状態に変容させ、肉体的な死が起こった後に体重が3分の2に減る。(主に多くの説話で屍解仙と呼ばれるものですね。)

3大坎離/神の体が一人前に成長すると、タオの光と同じ周波数となり、光と一つになる事が出来る。タオ以外の伝統では、聖霊やグレート・スピリットと呼ばれる。神の内なる光と外光を結婚させて不滅の神「陽神」を産み出す。肉体を脱ぎ、不死の陽神で旅路に出ると言う能力を体験し、物質世界を越えた命というものが身近に感じられるようになるにつれて、 死への恐怖が消え去る。(これは仙道の出神とか呼ばれるものでしょう・・・。)

4太坎離/体中の全ての物質的な要素が微細な気に変化し、虹の体になる。世を去る時に肉体は爪と頭髪を残して消え去る。 この変容プロセスを加速させる為に、死がまだ必要な段階。(これは、チベット密教のニンマ派とボン教にのみありますゾクチュンの技法です。)

他に、個人的に付け加えますと「御霊、天狗化」と呼ばれる現象がありますね。ある種の特殊な呪術と強力な意思・感情がその人を人ならざる存在に変える事です。生きながら・死にながら化け物に成る訳ですが、主に憎悪や恨み・怒りを含む願いの念で祟り神やその半眷属となります。ちなみに地縛霊とかもこれの一種です。大抵は自殺や変死などろくな死に方をしませんが・・・・、強大な存在になることはたしかです。こういう存在がよく言う何代も何百年も祟る霊の正体です。

このように考えますと死に方というのも色々あります。

ちなみに皇悠は御霊・天狗化を予定・希望してます。死んでしまえばこの世に義理も縁もありませんから、それで周囲がどうなろうと知りませんし、叶えたいモノもあるので・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、一礼。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

神社神道における祈祷の作文問題

御覧頂きましてありがとうございます。

どうもの皇悠です。さて、今回は神社神道の祈祷・呪術の概念/規定などについて記述します。

まず、基本的には神社本庁系の神社神道では、まず人に対して基本的に一切呪詛・呪術は行いませんし特に教えていません、事実上の厳禁事項です。

ほぼ祭礼の全ては禊/祓え清め、すなわち修祓と各神社がお祭りしています大神様の神恩への感謝と各祭神へのほぼ個人レベル(時に会社などで組織レベルの)祈願が主体となっています。つまり、基本的にはお祀りする神や眷属の力で誰かを攻撃する事はせずに、崇敬する神に自己を清めてからお願いするだけという構造です。

本当に禊・祓えのその実施は本当に呆れる位に徹底していまして、心身の浄化が進めば、呪詛など受けにくくなるとし、更に例え万が一にも呪詛を受けても、影響を受けないように自分の周りに、祭祀する神様・眷属による守りの覆い・力みたいなものが出来て、悪しき呪詛などから守られるようになると考えているようですね。

また、心身が清浄に清まって浄化がされていれば、なおさら穢れが近寄ってこなくなったり、近寄ってくる穢れをいち早く感知出来るようにもなるそうですね。

ただ、そう言いつつも現在の神社神道においては特に祭礼・祈祷において、個人の才能・技量に依存する儀礼体系を構築していますので、その理論も微妙です。

特に顕著な祝詞作成・使用のケースを例にしても日本人の物事の思考順序、出来れば古語も含め多くの日本語の熟読と文章の熟練が必要となる専門的な分野でありながら、基本的には各回ごとに未熟な者でも祝詞の作成をして祈祷する体系ですので・・・。

特に日本語は私達が普段何気なく使っている現代の常用語句に接続詞ですら祝詞の作文において、古伝の慣用句・術語などに置き換え、言い換えをし、的確に言葉を当て嵌めて、一字一字を祝詞語と言うようなモノにて再構成して祈願文章を肝要な所まで言霊あふれる文章・祈祷用の祈願文として作成し扱います。

しかし、これはよく考えますと日本語を英語に翻訳するのと変わらないわけで、個人の知識や経験・センスに技術力にすごく依存し、頼る危険なモノですよね。

願主からみれば神仏に下手な翻訳で伝達されるかもと思うと正直、ゲンナリします。稀にそれなりに長く神職をされている方でも本当に下手糞な祝詞、それはないだろうという文章を作成され・翻訳された祝詞を聞く事がありますから・・・。翻訳は本当にセンス・才はいりますし、重要です。

しかし、正直なところ文章作成能力はある程度は訓練で向上しますが、やはりセンスや才能の差は大きい分野なのに、こういう危険性を把握している方は少ないです。たまに「えっ、その訳は無いだろう・・・。」という文章を朗々と唱える神社の報道を見聞しますとシミジミ思います・・・。

さて、そういう訳で例えば修験道の行者や密門の僧侶などが基本的には表百などの経典朗誦の前の前文・祈願の文章ですら安易には全文の作文を行わない戒め・慣習などが存在するのに対してこれは本当に大きな違い(のほど)ですよね。

また、その為か、これは信仰の形においてお互いがその領域を深くは侵害しないよう合習・習合しつつも神道と仏教・修験道・陰陽道などの各専門職毎に、というか住み分けをしてきたそういう歴史の系譜を辿ってきた人々の信仰の理由だったりします。それは安易に祝詞や経文を自作・改作を厭う理由でもありますが・・・。

ちなみに、個人的に皇悠は基本的に祝詞や表百の作成をしません。文章作成・翻訳能力が優れていないのを理解しているので、古伝の効果を歴史が証明してきましたモノを流用するようにしています。

この辺は、本当に難しいですよね・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

瓢箪山稲荷大神

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回は以前お伺いしたお宅で珍しいお稲荷様に会いましたので、それについてご紹介がてら、つらつら書きます。

さて、そこのお宅で御祭りされていたお稲荷様は瓢山稲生大神(ひょうたんいなり)様でした、現在では瓢箪山稲荷大神(ひょうたんやまいなり)とも呼ばれています方です。この方は東大阪の瓢箪山に鎮座されている独立稲荷系の神様で、辻占の総本社といわれる古社の祭神です。

ちなみに辻占とは辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容などを元に占うモノです。この辻占は万葉集などの古典にも登場しています。

さて、この神社は生駒山系の麓に点在する「山畑古墳群」の中でも最大かつ最古とされる、南北50メートルで1500年前の双円墳がちょうど瓢箪の形に見えるところから「瓢箪山」の名が付いたそうです。そして、位置的にはその上に建っているのが瓢箪山稲荷神社です。

由来的には、豊臣秀吉が大阪築城の際、多分伏見稲荷様から鎮護神として招来したモノでしょう。さて、この瓢箪山稲荷神社はいわゆるひさご山の地で鎮り坐す保食大神(ウケチモノオカミ)様の御名で、最も広く世人に親しまれて居られます。なお、同境内の摂社に天照大神や月読様などもおられます。

御神徳は農工商業、産業の開発をはじめ、開運招福、神占、治病等のあらゆる生活の守護神であらせられます。この辺は、ごく普通のお稲荷様の御神徳ですね。

ただ、この瓢箪山稲荷の名を全国に高めたのが、江戸時代の河内名所図絵にも出てくる「辻占」です。これは平安時代から伝わる占いでして、往古は夕方、辻(道の交差点など)に立って道ゆく人の言葉等を聞いて自分の運命を占うモノです、古くは「夕占(ゆうけ)」とも呼ばれていました。これはまた、若い娘たちが恋人の訪れを待ちわびて占ったものだとも言いますね。

さて、現在でも瓢箪山稲荷でこの占いは行われているそうで、やり方はこんな感じです。辻占はまず、おみくじで1~3の数字を出して、番号ごとに鳥居の前に立って、例えば御籤で2が出れば2番目に通った人の姿などを記録します。そして、その内容を社務所へ伝えると宮司さんが宮司家に代々伝わる口伝をもとに神意を伺うというものだそうです。(個人的には実際にはこの占術を知りませんし、体験していないので詳しくは残念ながらもよくわかりませんが・・・)

しかし、世の中には、こういう珍しい祭式・術を保持している稲荷神社もあるんですね。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、何かの参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土着の霊的存在に対してニューエイジ・スピリチュアル系の危険性

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回は雑談or諸注意です。

さて、最近の精神世界系の話で非常に欠落している部分があるなと思うのが、その土地の精霊・神などが祟るという話です。

元来、目に見えない土着の霊的存在(鬼神、龍、土地神・・・)というのが、存在していて、世界中、特に祀られている古い精霊・土地の神というのは、元々は、そういった存在が多かったようですね。多くの説話、御伽噺、古書などを見ますと本当にそう思います。

つまり、「神として祀る代わりに、この土地を利用するのを許してください」という感じでしょうか・・・。また、よくある古くから崇敬を受けていた大木を伐った、巨石を動かしたら災害が頻発したというのもありがちな話です。

ところが、近年のニューエイジ・スピリチュアル系の影響で、そういった面が語られなくなってしまいました。特に欧米人つまり白人には神が祟るという発想が分からないのでは?と思う事もあります。祟るといよりも罰を食らわすという神ですからね。

ちなみに現在はスピリチュアル(霊的ということですが、)というモノが大変にブームというか流行ですが、この世界に興味を持って日が浅い人向けに説明しますと、こんな感じです。

さて、実際は、スピリチュアルとか癒し/ヒーリングと言って多くの書籍・メディアで宣伝していますが、それらは昔からある古臭い宗教・信仰やオカルト、呪術・占いの類と何も変わらないモノです。一見現代風に、特に女性が興味を持つように小洒落た感じにしていますが、悪い言い方をするとただの簡略化・衣装変えですからね。まあ、商売としてはパッケージや表面を変えることで新たに未知の客を呼び込むというのは良くあることですが・・・?

だから、実際にそれらの宣伝や記事の内容に対して話半分というより2~3割くらいと考えるようにしておいた方がいいモノもあります。その効果というか霊験という点で言えば、それから更に引かなくてはならないでしょうが・・。更に昔の霊験譚によくある大病の治癒とかはあまり聴きませんから・・・。

言い方は悪いのですが、中国に「羊頭を掲げて狗肉を売る。」という故事があるのですが・・・。(肉屋で、羊の絵を描いた看板を掲げて犬の肉を売っているという内容です。つまり、見せ掛けは立派だけど実物は違う、内容が伴わないという事です。)

残念ながら正に、これにほぼ全てが該当してしまうのです。本当に力がある人は以前書きましたが、囲い込みされていますから・・・。

では今後においてスピリチュアルというものが発展・新人の出現が見込めるかといえば、ノーと言わざるを得ないでしょう。

東洋医学(針や灸に漢方に気功)などは、一部で大学などの公的機関で研究対象になっていますし市場としてこれからの高齢化社会を視野に考えますと拡大発展していく可能性はまだまだ十分にあるのですが、残念ながらスピリチュアル関係はある程度市場は現在は確保出来ているとはいえますが、それ自体が、それ以上になる事・物ではないと思います。今では競争が激しいですし住み分けがなされているわけでなく、飽和状態になりかかっていますし、更に市場というか多くの人に受け入れられる方法論・目安自体がまだまだ拡大するのに十分確立していませんし・・。

勿論、何故か近年流行のアセンションや人類の霊性向上というのは夢の話です。というより、それを主張している人達がまるで・・・という感じですね。それで商売をしている人は、適当に「時間延ばしを行うだろうな」とは思いますが・・・、以前ノストラダムスで商売していた事と意味的・内容的/構造的には同じですからね。

さて、話を戻しまして以前流行りましたチャネリングなどで、こういった神仏とコンタクトが取れることがあるのですが、彼らは決して必ず人間に益をもたらす訳ではなく、実害の方が大きい場合もありますよね。

要は、引っかかった人達を利用してそれら・祭られ封印されていたモノが何かをするという事です。これは日本では大本教を代表とする明治期の神道系宗教の出現時の顛末を調べると面白いですね・・。

また少し前に、中村雅彦師が伊勢白山道を批判したのも一部は同じ文脈・理由です。

さて、少なくとも現代の女性が好きそうなスピリチュアル系の書籍や雑誌等には、無条件にこういった存在を良しとして、古来からの信仰・神仏の非常に泥臭い部分・灰色な要素が欠落してしまっています。そして、付き合う際の多くの注意も・・・。

特に土着の神社や、アジアの各地域で信仰されている無名の神仏・精霊の大半は祀ってあげるから”祟らないでね”という意味の方が歴史的には多いですから・・。今流行のスピリチュアル系に関わる人・(ライトワーカーとかいうんですか?)で事件が急激に発生した理由の一つが、これらと関係あるのかな?と最近思います。つまり、フザケルナという事で鬼神や、祀られている神仏、龍や精霊といった霊的存在が怒らせているのかもしれないという事です。

また、スピリチュアルブームのお陰で、勢力が弱まっていた・忘れられ埋没していた存在や、過去に封じられた・消滅しかかっていた存在にエネルギーや注目などを与えてしまった可能性もありますよね。して、もちろん彼らは、活力を取り戻した・戻すために後には当然の如く新しいエネルギーを求めて、敏感な人達にコンタクトしてくるだろうと思いますし・・・。

ちなみに、彼らは何を食って存在しているかというと、精神的なエネルギーや生命エネルギーと呼ばれるモノです。かなり前ですが国書刊行会のケネス・グランドの翻訳本に幾つか具体的に記述されていますが・・・。

要はお祭り・古い儀礼というのは、とにかく、本来は土着の霊的存在がその土地のエネルギーを吸って・それらを糧にして存在していたのですが、人間が生活するにあたって当然、その土地のエネルギーや生存基盤を奪うのでその分の量(彼らの取り分)が減るわけですよ。そこで、年に数回、大々的にお祭りをする事で、エネルギーor糧を送って満腹な状態or許しを請う事にして、祟らないで、つまり、エネルギーを奪いに来ない・復讐/反撃しないようにしているというのが、理由としてある訳です。

元来は彼らの領域なので、ショバ代を払うのと意味的には同じですね。

勿論、歴史の皮肉というか、ある意味で古い伝来の祭儀の有効性の証というか、それが今では経済的にそういう祭儀を長く累々と行い続けていた事が、ある意味でその土地の独自性・個性になり、観光資源になって今では良い現金収入先・地場産業になっている場合もあるようですね。その良い例が今では諏訪の御柱祭や伊勢神宮の遷宮時は多くの観光客が来る目玉扱いですし、バリ島のバリヒンディ信仰はその文化的な独自性で観光地として目玉になってますので・・。

ちなみに歴史的にはキリスト教の場合、そういった場所に教会を建てて、信仰のエネルギーを封じてしまう・別の方向へ(自分たちの信仰に取り込み)持っていってしまうなどをします。それで、彼らのライバルの力を干上がらせて滅ぼしていったようですね。似たようなことを日本でもたびたび行われていますが・・・。

これらは神・信仰殺しといったテクニックの一つで、こういう存在を忘れさせる・信仰の伝承を断つという方法です。もっとも、彼らも黙って見ているわけではないので、その辺は、歴史的に色々とありましたが・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年1月11日 (日)

ある龍神憑きの独白

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、すこしプロフィールを現状に合わせて変えてみた皇悠です。

さて、今回はある龍神憑きと自己定義する人の独白の紹介です。ネット上ではこういう方もいるんですね・・・。

では・・・・。

『 私に龍神が憑いたのは今から12年前の1996年1月1日箱根でだった。神主が祝詞を唱え始めてしばらくすると突然と背骨がウネウネとウネリ始め、傍から見て「何であの人は体をくねらせているんだ?」と思われるので必死に抑えていたが充分には抑え切れず、多分周囲の人々からは異様な光景に思われたはずだった(笑)

祈祷が終わり外に出ると周囲の景色がパッパッと点滅したように見え、自分以外にもう一人の自分が自分の目を通して見てる?とでも表現したらよいだろうか?そんな変な感覚に一時的に陥った。それからというもの飲めなかった日本酒が飲めるようになり生卵も大好きになった。

それまでの私は大体の酒は飲めたモノの唯一日本酒だけはダメで、おちょこ一杯飲んだだけで頭が痛くなるし何よりもあの匂いが嫌いだった。93年の夏に調布駅近くに店を出した時も開店祝いとして頂いた日本酒は全てお客さん用として出していたくらいだ。なんで日本酒のようなマズイ酒がこの世に存在するんだ!?と思っていたし、飲み屋の前を通って日本酒の匂いが漂ってきただけで吐き気を催すほどだったのに、そんな自分がその日を境にして日本酒が大好きになってしまい、よく人からは飲み過ぎだと言われるが週に日本酒三升~五升ほど消費するようになってしまった(但し純米酒で外ではほとんどビール)

龍神と蛇は似て非なるモノで、その性質は全く異なる。

龍神は空を飛べるので地球が球体に見えるほどの高い位置から物事を見れるようになり、何事にもグローバルな視点で考える事が出来る。

だから龍神が憑くと、たとえ自分が恋愛、仕事、対人関係、病気、その他、どんな問題で悩んでいようとも地球にへばり付く莫大な数の微生物のひとつにすぎないような自分が悩んでいるなんて馬鹿馬鹿しいと考えるようになるし、そもそも悩みを悩みとは思えなくなってしまう。

mixiには「宇宙から見たらどうでもいいし」というコミュがあるが全くその通りだ。たとえ自分自身が死に直面しようとも「この地球上では毎日たくさんの人々が死んでいるのだから、その順番が自分に回って来たとて大した問題ではない」などと思えるようになる。そして、こういった考えが良いか悪いかは別として、この解放された究極の楽天的思考になってしまうと不思議なことにほとんどの物事は上手く運んでしまう。自分のことしか考えられないネガティブ思考からは絶対に良い結果は生まれない。

だから自分は、あまりにも悩みに執着した人に対して
「あなたのその悩みが解決しないと地球が滅亡するならそれは大変なことだし、どうにか解決しなければ!だけど、そうではないから、そんな悩みはどうでもいい」などと言ってしまった事が何回かあるな・・笑

一方、蛇は地を這うので狭い視野で物事を考える。
人生で障害物(問題)などに突き当たると、それをどうにかしようと四苦八苦する。たぶん本人は必死なのだろうが、ほとんどの場合はどうでもいいくらいの小さな問題である事が多い。「私の行く手にアリンコが立ちふさがった!だからそのアリンコをどうにかしなければならない!」と考えるタイプで、「そんなアリンコごとき無視して踏み潰すなり迂回するなりして目的地を目指せ!」と言っても「いえ!問題をどうにかしないかぎり私は前進出来ません!」と言う。”私はそれに固執したいから固執する”これ以外には思いつかないような言い訳をして何年も時には何十年も下らん事に執念を燃やして人生を終える人。

よく 「蛇のようにしつこい」 という言葉があるが蛇の性格なんて誰も知らない。多分蛇というよりも蛇の憑いた人はそのような性格に成る事から来た言葉ではないのか?
昔で言えば、親の仇を討つために執念を燃やし、その仇を何十年も探し回って人生を台無しにしてしまうタイプで粘り強さと執念深さでは右に出る者はいないといった利点(?)があるとも云える。・・・ 』

以上です。

それなりに有名な人なので、もうご存知な方も居られると思いますが世の中にはこういう人もいると言う事で紹介してみました。

さて、その伝でいきますと私はお稲荷様を信仰しているので、皇悠は狐&天狗憑きでしょうか、それともただの暇な変人・・・?(笑)。世の中に、このブログを通して、今では信じる人も少ないのであまり意義・意味のないと言えば、意味のない事柄の妄言(?)・知識を広めてますから・・・ね。

では、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、何かの参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

読経の速度と集中、そしてその数について

何時もかな?御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は経文や祝詞の朗誦の速度や祈祷におけるその数量などについてつらつら書きます。

さて、神社やお寺での専業者が毎日の日々のお勤めをされているような事を、私達(在家・兼業者)が幾ら道具を揃えて、複雑な段取りを踏まえつつやるというのは、実質的には不可能です。質量共に限界があります。

しかしながらも、究極的には、必死さというか神仏に祈願の納受して貰う為の質と量の問題という判断もまたありますから、往古の修験者などは、ゆっくり段取りを踏む時間も道具が無い時などで、いきなり祈祷に入るという、即戦的・実践的な事をしたようです。また、禅宗の傑僧の説話などにも、経も読まず、何も用意をせず、いきなり、烈迫の大喝を放って、危機を除くという例も多く見られます。勿論、相当の熟達者だからこそ可能な、大技なのでしょうが・・・。

さて、私のような凡俗には、限られた時間と環境の中で、言いたくないのですがやはりある意味では片手間にやるのですから、それだけ中身の濃いかという真摯さが問われます。それでポイントとなると、連続性とか継続性や集中度などが重要かなと思っています。それが、例え真言であっても、念仏であっても、アーメンでも、なんでも良いのでしょう・・・、極端に言えば効果があればいいのですから・・・。ある意味で自分が念を込めやすい符牒を、一心に信じ繰り返し使う訳ですね。

例えば信じるという事で少し話は変わりますが浄土(真)宗などでは、南無阿弥陀仏と一心・熱心に信じ唱えますが、日本浄土門の代表者の親鸞は念仏を唱えれば厳密には必ず極楽往生出来ると言っていた訳ではありません。「絶対的に信じよ」というのが、骨子であって、「信じられれば念仏などいらない、」と言うような立場でした。事実、「(法然などに)騙されて地獄に落ちてもかまわん・・」見たいな趣旨の発言を残していますし・・・。ただ、念仏を唱える事で、信じようとする気持ちが強化される効果というのは、認めていたのではないでしょうか・・・。さて、親鸞が要求した信仰のレベルは、大変に高水準である為に、その後の信徒たちは、念仏を唱え込む事で、その絶対帰依に近づこうとしたとも言えるのでしょうが・・・。ともすると、唱える事で救われる、と信じたフシも無い訳ではありませんね。

さて、密教などでは、真言になりますが、元はサンスクリット語やパーリ語で、訳してみれば、なんという言葉でも無い・大した内容でもない事が多いです。ただ、それを半ば呪文のように、真言を繰り返す事で、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経なども同じようですが、呼吸法と強制的な酸欠状態からくる、一種異様なトランス・集中状態に近い生理現象をもたらす効果もあります。そういう意味では念や法力というのは、そういう中で生まれてくると言えますね。私自身も、時に応じて、南無阿弥陀仏や、南無妙法蓮華経を唱えますが・・・、ただ、日常的には、使い慣れたモノを用いています。この繰り返しの作業が、体内六十兆個の細胞というかなかで積み重ね鍛え上げ磨いてきた何かを覚醒させ駆動させるコツなのだとも思います。お経でもそうですよ。

さて、多くの人がよく唱えられる般若心経という短いお経は、古来、これそのものに呪力性があると言われてきました。事の真偽はともかく、わずか三百字足らずの短文ですが、よく木魚をぽくぽくしながら、お坊様がお葬式などでゆっくり読経されている様子を目にします。私の場合は、般若心経全文を、数分ほどの時間のうちに、超特急というか時に早口で読経します。速さを競っているわけではありませんが、超高速の読経によって自身の中に、高揚する緊張感を感じるからかもしれませんが、そちらのほうが験が得易い傾向があります。また聞いたところでは、高野山系の僧侶でもそうした超高速の読経を唱える方もいます。

ただ、近所の禅宗のお寺では、祈祷の時にはやはりかなりの高速で読経をしていました。別の禅宗のお寺では、経・真言ともに、かなりスローペースなもので、これは、行者の念の込めやすい速度というので、いいのでしょうね。

ただ、速度の速い念誦の場合、言葉がおろそかになってしまうことが多々ありますから、それはそれで注意しています。速かろうと、遅かろうと、雑になったり、漫然としてやっても、意味がないのですから・・・ね。ただ、妙というか三昧と言うかテンションを保ちつつ、深め行く訳です。

さて、ではどれくらい唱えるのかは時や場合に寄りますが、基本的には合計で数百以上から数千回です。複数の祝詞・祭文・経典を行きつ戻りつ使うので合計でどれを何回と数えて事がありません。興に載ると平気で予定上の数を唱えこむの常ですので・・・。

ただ、それではあまり参考にならないので具体的な数を、経典の連唱系祈祷の雄、日蓮宗の祈祷法から病人などに対するモノ・疫神加持を題材に引いてみますと基本的に五日間の祈祷ですが、(実は日蓮宗の祈祷は基本7日です)最低限祈祷僧が唱える法華経の数はなかなかです。

まず、初日に方便品を13回、寿量品が6回、六番神呪が600回。二日目に普門品が50回、陀羅尼品が33回。三日目に祈祷肝文経という特別な経を33回、普賢菩薩呪が800回、題目3000回。四日目で寿量品が33回、神力品で33回、薬王品or普門品を33回。最後の五日目で陀羅尼品が100回だそうです。また、初日から最終日まで祈祷の最後には必ず祈祷用の特別な「疫神教化抄」という祭文を唱えるそうですね。そして、この祈祷で必ず疫神は退散すると言いますが万が一にもしない場合は更に施餓鬼法要も行うそうですね。しかも一人でとは限らず、三人とか十人とかもあるそうです。更に日々の勤行でも祈祷時には普段よりも題目などを増やし真摯に祈願成就を諸天善神・本尊などに冥助神佑を頼むそうです。

また、西洋魔術でもエクソシズムや魔術戦で名をはせたD・フォーチュンは現世利益的なモノを含め魔術で願望の成功・失敗か否かの判断は「(毎日とは行かなくても頻繁に施行して、)やり始めてから半年から一年位はしてから判断すべし」という趣旨の発言を残していますから、儀式を最低でも数十、しかも一日一回とは指定していないので場合によっては数千回やれという含みがありますよね。

そう考えると、最低100回位は唱えこむべきなのかもしれませんね。まあ、こんなことはそれなりの祈祷師、呪術師から見れば当たり前の話ですが・・・、何故か公言されていません。少なくても数回、経典なり祝詞を唱えただけで祈願成就という話は、庶民向けの霊験譚・説話にもないですしね。

もし、あっても実は普段から唱え込んでいたとか、特別な事情で唱えこんでいた人が実は助けてくれてとかいう落ちがつきます。勿論、私が知らないだけで本当に数回祈祷時にだけ唱えるだけで霊験や妙を得る人はいるかもしれませんが・・・。

さて、今回はここまでです。何かの参考になり、楽しんでいただければ幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠より、一礼。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月10日 (土)

呪術・祈祷の道理・倫理

御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。さて、今回はこのブログらしく祈祷師の倫理観等について書きます。

まず、祈祷・呪術においては神仏の道理・思想から外れる行為を行った場合、必ず拝んだ方が自爆・罰を食らいます。特に、相手が憎いから制裁を与えて欲しいとか、敵を傷つけるような祈りは霊的素人はやらないほうがいいです。例外は自分と共に相手が滅ぶ共倒れの祈りだけでしょう・・・ね。

勿論、裏技らしきモノもあるちゃ、言やぁ、ありますが、しかし、それを駆使しても成功率よりも敗北率のほうが高いのがこの種の祈祷です・・・。

さて、基本的に神の目、仏の目に照らして、道理に合わない事を祈願したりすると、拝んだ本人もやられるし、ブーメランのように返ってきます。絶対にしっぺ返しが来るものです。それだけでなく拝んだ本人も依頼した人も倒れたり、命を落としたりと言う事もままあります。よく言われる「人を呪わば穴二つ」は本当の事です。

そう言う訳で呪いという形になると、本人に返って来てしまうので「超克・克服」という概念が必要になります。つまり、相手と同じレベル・場所で張り合うのではなく、敵対するモノを超克し、違う段階で対処するという発想であれば良い訳です。

今、流行の潜在意識理論で言えば、潜在意識は自他の区別がないのですからね。例えば「〇〇さんよ死ね」は潜在意識は「〇〇さん」が抜けて、ただ単純に「死ね」とだけ理解して、それを受け取り、それを叶えるとも言えますので・・・。

そういう訳で、例えばこちらに攻撃してこないように避けれますようにとか、訴えがなくなりますようにとか、・・・。つまりは災いから身を守るという意味であくまでも防衛的に意識の有様を変える事などが肝心ですね。「〇〇よ死ね」ではなく、「〇〇からの害を消したまえ」とか「〇〇から守りたまえ」と祈るわけです。

同じ意味でストーカーとか、嫌な出来事を遠ざけたいと言う事でも問題はなくて、オーケーですね。「縁切り」とか「厄除け」祈願と言う事なので、呪詛にはならないからですからね。

ちなみに、韓国系のクリスチャンの教会はそういう意味ではよく練られた文句・内容・歌詞を使いますね。(近頃、勉強がてらミサなどに参加してみてますが、かの国のクリスチャンは本当に讃美歌や祈りをよく唱えますが、その内容は神の偉大さを称えつつ、個々の信仰の強化と日々の恵み・加護に感謝などをよく訴える内容ですごく勉強になります・・・)

さて、基本的な場合は、術者・祈祷師にはそれぞれが信仰している神仏の加護があります。それは明白な形で外界に具体的な現象を起こしてくれる眷属の働きによる所が大きいのですが・・・。また、これは時に自動的に動かれる事もあります。

けれども、そのような強い加護を受けていている場合も筋違いの依頼を実行したり、神仏の道理に反する祈願をやってしまうと、必ずこちらが負けて祈りは叶わずに、それどころか時にはかなりの罰やハンデを課せられます。あまり、信じられないことですが、特に呪術戦において使い魔・眷属と呼べるモノが逃げ出したり、向こうに懐いたりします。

(眷属が逃げ出すというか失踪は何度か(どれも魔術戦とかではなく不注意や成長による変化による)離反経験がありますし、他に懐いてしまうというのは聞いたことがあります。話によれば、その人が魔術shopで勤めていた時に当時ある最強の使い魔として作成・養育したモノが他の魔女(今でも日本ではそれなりに知られた某GSJの代表的魔女)の所に、行くと言う事を経験したそうです。閑話休題。)

また、祈祷の際に神仏から依頼者の気持ち、動機も問われますし、それが人の生命が脅かされていたり、身の危険から助ける事であるなどそれなりの正当性があれば、神仏の加護は確実に叶え、力になって頂けてその成就に参加して下されます。また、こずるい嘘・誤魔化しで祈祷者を騙すと不成就は勿論ですが、祈祷師が逆に依頼者に罰を課す祈祷をなる場合もあります。こういう場合の祈祷は、ある種の神仏に対する詫びであり、制裁行為として時に命じられる事もありますし・・・。

また、基本的に依頼者の一方的で、自己中心的な動機から来ているモノを、受ければ、共倒れになります。この辺は大抵の術者・祈祷師が最初から厳密に見極めて仕事を受けるかどうかを判断し、受ける筋合いのない仕事はまずは引き受けないモノですが・・・。こういう場合、最初から相手に情けをかけることもないですし、道理や仁義を弁えない者はまず相手にしないものです。しかし、その分、実力者は一度受けた仕事は貫徹し、確実に結果も出すものですが・・・。

よく考えれば、当たり前ですが、何でもします、何でも出来ます、何でも引き受け叶えますという人は、まずどこ業界でもどんな仕事でもいませんよね。

これは、ある意味では時に自分の命を削る祈祷師という仕事では、特に無駄な事に命を差し出すような真似はしないという判断基準ですね。

人によっては更に厳密に命を張ってもいいと思えるような仕事だけを受けている方もいます。また、見返りや金銭的報酬とは無関係な仕事でも引き受ける事もありますが、それは依頼者が個人的に気に入った場合ですね・・・。

また、そういう訳で、誰かを傷つける・呪う事を引き受ける本当に力のある祈祷師・呪術師は実はいそうで、いないのはこういう訳ですね。

さて、今回はここまでです。楽しんで頂きまして、参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、拝礼。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月 9日 (金)

日本呪術の源流の一つ 呪禁道を元に日本の呪術・作法について

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて今回は日本の呪術の源流の一つ、呪禁道をベースに日本の呪術・祈祷の基本・技法についてです。

内容自体は以前に書きました記事の改訂版ですよ。

また、今回もとても長いので呪術・呪禁道などに興味のない方は、今回は避けてください・・・orz。

では、まず呪術の歴史からです。

まず、私達の日本という土地に住み着いた先祖が神々の単純・素朴な呪術行為を試行錯誤しながら継承していた古代神道に六世紀末頃・新羅(朝鮮)の百済王が、天文科学、その他の先進技術、仏教経典等と共に、呪禁師(ジュゴンシ・ジュキンシ)達を、我が国の朝廷に献上した事から混交がおき次第に隆盛となった呪法(道教仙術=民間の呪術信仰)が呪禁道(ジュゴンドウ・ジュキンドウ)です。

そして始めは、時の政府は呪禁師を典薬療の医療期間の治療師(医者)として優遇しましたが彼等・呪禁師達に委ねた専門の仕事は神秘的で不可解な出来事(事件)に対する原因と対策を究明検討して、それを治療する治療師・解決業者としてであったようですね。

ただ、彼等はその仕事に飽き足らずに、徐々に時の政府の要請を利用して、予防学、予知学としての占術部門(巫術、巫占、仙術等)へ、更に原型の道教仙術等を媒体として、攻撃的な武器(体術・武術幻術・経絡気孔・鍼灸等を原型とした技術群)としての呪術を発展させ、次第にその勢力を拡大して行ったのであったようです。ちょうど呪禁師版の僧兵ですね。

さて、元来が妖怪に霊の祟り、呪詛に憑依、天災・人災などの異常気象、その他の生活全般に至る相談者、医者、予防治療学等の権威者であった呪禁師達はその地位を利用し、政治・行政・軍事等へとその勢力を拡げ、終には軍事顧問の地位を確保するに到ったみたいですね。

(なお、中国の道教では教団道教と民衆道教とがあり、教団道教は[老子、荘子]を開祖として、自然に即応した無為自然な生き方(仙人になる事)等を理想とした教理を基礎として、更に養生法、錬丹法、房中法等が加味され組織体系化された宗教です。それに対して民衆道教とは民間の俗信に古来の神仙説が加わり、一般民衆の信仰対称としての信仰が加わり自然発生的に出来たので、教団道教のような理論も組織体系を持たない旧来の俗信仰をそのまま受け継ぎ継承しています。なお、民衆道教の代表的な神々は関帝、〇〇娘娘(ニャンニャン)などの多くの土地神でありますが、一応は民間道教の主神は「玉皇大帝」と云われています。)

さて、彼等の呪法は、未だ対一人用ではありましたが、防衛に優れ敵を排除する上では、距離を無視し攻撃出来る術を兼備していた為に、当時としては「戦闘武器としての呪いのスペシャリスト」としての地位を確保する必要にして十分な条件を満たしていたようです。今で言うボディガードのような存在でした。

それでは、彼等の呪法がどのようなもので有ったかと言いますと、「大宝律令、続日本書紀、神明経、日本霊異記・・・」等から推測すると、凡そ、次の様なモノらしいですね。

まず、武術or呪術的な一種の護身術(バリヤー)と呼べるモノです。

多くの文献によれば、呪禁道の呪術/仙術を身に付けると、熱湯、火、刀剣等にも損傷される事が無い強靭な肉体と、猛獣、虎狼、毒虫、精魅(物怪)、怨敵、盗賊等々、如何なるモノも襲い来たる事も進入する事も出来ない強力な結界(バリヤ)を張り巡らす事が出来るとされ、当時としては画期的で斬新な呪術であったようです。つまり、不死身で無敵の人間になれると云う売り込みですね。これはどうやら、現代で言う硬気功系のそうとう過酷な身体の鍛錬に依ってのみ身に付ける事が可能な武術的仙術で、現在の気功法、太極拳等の原型らしいですね。

また、呪禁道の法はこれ以外にも、怨敵が如何なる場所や遠隔地に隠れようとも、呪い殺す事が出来ると云う「厭魅(エンミ)の法」がありました。

これ以外にも動物の魂魄(全ての霊魂・動物や虫・人間まで)を操り外敵/害敵を呪い殺すと言う「蠱毒(コドク)の法」と言うモノもあります。

なお、併せた厭魅蠱毒法と云う恐ろしき呪法も存在していたらしいですね。

さて、始めに、まず厭魅法の「厭」とは、魘とか嫌悪とかと同意義の襲われる意味があり、厭+土=圧(アツの旧字体)とも云われ、その字義の通りに悪魔等に襲われる意味やそれ等を(悪魔や悪霊等)を抑え込み・鎮める意味があります。

又、厭魅法の魅は物怪、化生、妖怪、病魔、睡魔、夢魔等の邪悪なモノ達のことで、池や沼に住む精霊達・不快な者達や障りあるモノ・邪気等の人を害するモノ等の魔性全てを指す言葉の意味もあったみたいですね。

そして、これらの上記の意味から厭魅の法にて呪詛をされると、遠隔地や如何なる場所に潜み隠れようと関係なく何か邪悪な者に憑依され、圧迫され金縛りの状態で操られているような状態となり、更に毎夜・一定の時間になると悪夢などに襲われ、その恐怖から不眠不休の状態となり、終には体は衰弱し、次第に精神が錯乱狂乱して行き死に至らしめる事を目的として考案された呪法らしいです。今で言う呪詛・呪いのイメージはほぼこれから来ています。

つまり人が鬼と化して行う現代のオーソドックスな呪詛の〈丑の刻参り〉の原型がこの時代に既に出来ていた事になります。

また、厭魅法の中には呪う相手を人形に見立てた〈呪い人形(形代・カタシロ)を作る事から始まる一連の法があります。この人形の材質は千差万別で、板、布、粘土、飾身具、骸骨等の何でも良く、人に作る所を見られない条件の他は、何等特別な条件は無かったみたいです。更に色彩、形状にも拘りがなく曲がりなりにも人形と目鼻を書き入れれば良かったようです。

(ただ、平安朝の厄払いであった雛人形〈流し雛〉もこの風習の流れで、密教や陰陽道が盛んになると、少々不気味な様相を持ちます。形代も、葦、藁が多くなり、形代に変わるものも、頭髪、陰毛、櫛、絵像、下着、所持品、粘土等々も追加され、生年月日、生命、名前等も大いに利用されました。加えて呪術師の衣類の色にも拘りが出来、向かう方角、時刻、日、期間、月の満ち欠け等々にも規定が設けられました。勿論、一般人と呪術師が行うモノの形式には随分差異があったようですが・・・。)

こうして、人形が出来上がると、深夜の一定の時間と期間を定め、法に則り、寺社、墓他、深山、大木等にて、人形(形代)の顔、胸、腹、陰部等々の急所に、針や、釘等を金槌にて、恨みの怨念を込めて打ち込んで、規定の満願となったなら、逆さに貼り付け、刀やハサミにて、切り刻み、火で焼く、川に流す、神社(寺院)の縁の下、道路に捨てる等々恨みの強弱に依り千差万別方法があったみたいですね。

勿論、その効能も千差万別であったようです。形代を紐等で縛ったり、針、釘を打ち付けたりする行為は紐、釘、針・・等に魂を封じる力があると解釈されていたからで・・・。逆に刀や挟み等はそれを「切断したり、削除したり、開放追放したり」する力があると考えられたのでしょう。

更に形代等を切断したり、壊したり、流したり、土に埋める等々の行為は魂の「悪霊部分・魔性部分」等を特定の場所に送る為の転移、再生、転生・変易変容等の儀式等と考えられる一面もありました。

これらが今に残る慣習としては厄払いの節句の雛祭りの人形・流し雛・灯篭流し・盆の送り火・正月の締飾りの釘止め・丑の刻参り等がありますね。

又、神仏の像に針や釘を刺し願望成就の祈願の奇習、更らには神仏像(神仏像の額に針や釘等を刺してあるのは、神魂・佛魂を神仏像に封じる為のもの) に針や釘、刀等を刺す等の奇習をしたり、願望成就を完璧しようとして神仏像を熱湯等に入れたりする鉤召法の秘儀も伝承されています。

これらは主に密教・神道・陰陽道が行う鉤召法の一つでもあり、その中に飯網法(茶吉尼天法)等々も継承されています。故に、悪法のみに利用されたのではなく、汚れを封じ、穢れを拭い去る、祓い清める等の意味から、浮気封じ、厄払い、家出人の足止め、病気追い出し・・・等種々応用範囲の広いものであったようです。しかし反面人を呪う呪詛法にも様変わり出来るものでもあったようですね。

さて、前述の神々の呪詛は、言霊と同じくその他のモノにも霊魂が宿るとの信仰から始まったようです。厭法はこれに〈文学〉にも霊魂が宿ると云う思想を併せて呪符(祈祷札)を作った所にその特性があると思われ、そこに後述する邪霊を操る魅法が加わり厭魅法と云われる恐ろしき呪詛法が完成されるに至ったみたいです。

だが、この厭法の呪詛を解く方法はそんなに難しい方法ではないようで・・・。相手(敵対する者等)を赦そうとするなら、呪う行為を中途で止めれば良く、逆なら、呪う者の呪い方法を探り、形代等を取り除くか、当事者が和解すれば良く、又、呪う者の能力にも大いに関係が有りました。又、厭法は神仏に捧げる生贄の儀式や蘇生の儀式等に使われる生贄や殉死、人柱などを人形(形代)に変え形骸化したと云う歴史的な意義も大きく、日本の墓相形式「殉死・順死・葬儀方法・人柱・・・」等にも多大な影響を与えたのであったようです。

次に厭魅法の「魅法」について説明すると、魅法の呪詛法は呪いの為に所定の呪い文字を書いた札(呪符)を作成する事から始まります。つまり、これは言葉だけでなく象形的な文字にも霊力が宿るとの思想があってのことで・・・。また、札の材質は、木切れ、木葉、布、紙、金属、骸骨、動直物の革や繊維等々色々で、札の中央部を縛る覆いや全体を隠すもの等は他の呪者との区別の為のものであり、自分の呪法を他に知られ盗まれる事を危惧して使われ出したようです。それも始めは布きれ・縄・糸・藁・蔦、藤・植物の繊維・・・等と種々雑多であった。呪字を書く筆具も血、墨、葉汁の他、釘、先の尖った者、妖しげな物の筆状のモノとか、手の指に浸けて書いたモノも多かったです。

なお、札の形状は菱形・円形・方形など種々雑多で次第に搭形・燈形となり、現在の上部を三角形の細長の長方形が一般的となり、また誇張や権威を込めた自らの符牒を印した呪符をも作り出して行ったようです。こうして準備したもので、多少の呪文もあり・・・それを唱えながら、人に見られない様に注意を払い、人知れず密かに呪字を書き、作法も行い一定期間、早くて三日間か七日間。通常は二十一日間。長くて百ヶ日~一ヶ年に渡り怨念を凝らす事もあったようであるみたいですね。

さて、一連の全てが終れば呪符は恨みの強弱にて、燃やして灰とし、土中に埋めたり、川に流したり、切り裂いたり、墓場に棄てたり・・・等の色々な工夫が凝らされたみたいです。つまり厭法と似た事を行い、呪いのある者、敵対する者、怨霊・・等々害する者を呪い殺そうとする呪詛法であったみたいです。またその反面、前述の神道の魔性を祓い清める(大祓)等に類似する呪法でもありました。 

さて、魅とは前述の如く「化物、妖怪、物怪」等々の意味で、精霊に通ずる意であるので、つまり、魅法とは人型以外の形状の「札状」のモノに呪文や呪字にて、邪悪なものの妖力を封じた呪符(魔呪+マジナイ札)を作り、相手を滅す道具(武器)として利用、応用した所に厭法と違った特性が有ったようだ。

(厭法も魅法も考え方によっては素晴らしきモノで、本来は共に悪魔封じや災難除等のマジナイ札で有ったようです、魅法はこれより一歩前進し、邪霊、物怪、妖怪等を鎮める方法「淨霊・除霊・鎮魂」等から、特定の〈もの〉に封じる方法「霊封じ・神封じ・悪魔封じ」等となり、更には、邪悪な者を駆使する方法「霊寄せ・神寄せ・興神・生贄・供養」等を考案し、他に転移させる方法「神移し・霊移し・霊祓等を考案した事に特徴があります。魅法に良く見られる文字に後で説明する陰陽道でも利用される「霊、宿、動の字・合成文字・呪い用の特殊文字シッタン文字・サンスクリット・梵字(仏の種字を示す為に考案されたもの)」等もあるのであったようですね。)

そして、この魅法と厭法が合体して、より強力となった呪詛法が厭魅法です。

故に、呪禁道の呪禁師達は「呪禁道を修業すれば、何物にも害される事のない強靭な肉体、無敵の肉体と結界(バリヤ)を手に入れる事が出来、更に、形代、呪文、呪符に依り、如何なる場所に敵が隠れ潜もうと、怨敵を滅す事も排除する事も撲滅する事も出来る。」と豪語したのでしょう。この事は次の蠱毒法を説明すれば、如何に妖しげで、陰湿な呪術であるかが更に明確になります。

このように自らの身心を過酷なまでに鍛錬し、身を護る為の護身法を体得した超人間的存在の彼等の働く道が、人を害する武器として一部の権力者に利用されるのは、昔も今も軍隊において特殊部隊などがある種のエリート教育を受け、超人化するように変わりは無いですね。

さて厭魅法は、これ位にして、以下蠱毒法を紹介します。本来、蠱の意味は蠢めくものを指す意味であったので、穀物に付く虫 人を害するモノ、人の腹の虫、悪気、邪気、毒蠱、巫蠱(マジナイ用に使う虫)、妖蠱(人を殺傷するなどの邪悪な用途で恨みを晴らす為の専用の虫)等に拡大解釈されて、総じて呪いに用いられる虫や動物を意味する言葉となったらしいですね。

また、蠱毒の「毒」とは御存知の通り、損なう病毒・害毒、災いあるもの、悪いもの、怨毒等の意味があります。だとすると、蠱毒法は前述の意味から、毒薬、毒虫、その他の邪悪、不気味なものを用いて、隠密裡に、怨敵、邪魔者等を排除抹殺する事を目的とした呪詛の法であると定義出来そうですね。

では、その呪詛法はというと次の如くであったらしいです。

一、主に毒蠱と呼ばれるものですが、異種雑多な虫を、数十匹程を一つの容器(檻)に入れ餌を与えないで一定期間放置。その間に虫達は生き残る為に「共食い」を始める。そして最後に残った虫、それが毒虫なら毒蠱、蜘蛛なら蜘蠱等と呼び、次第に妖しげな妖蠱(マジナイ専用の虫に特別に品種改良したもの、異国の虫も多く名も不明な虫も多かったようです)を使うようになったと云われます。こうして生き残った虫を育て飼い慣らし、直接人を襲わせたり、人を呪う為に使ったり、殺して燃やして灰とし、間接的に怨霊悪霊等と戦わせたり・・・、相手の呪術師の蠱毒等と戦わせたりしたらしいです。

宗教的表現を借りるなら、生き残るだけの生命力と人を怨み憎み呪う力を併せ持つように訓練され育成した虫=蠱毒にて邪魔者を排除する為に人等を襲わせると言う方法と、虫(虫の魂と虫の体に寄生する邪霊=宿魂)を殺す事に依って、宿魂(邪霊)を怒らせ応用し敵に宿主に憑依をするように、虫自体の怨霊と怒らせた宿魂との両者を怨敵に憑ける間接的な方法とがあったようです。

また、呪術師自身が、自ら飼い慣らし製造した、蠱毒、妖蠱等にて、自ら命を落した話も多く伝わっています。

次に動物を使った蠱毒を紹介しますと、先ず、異種雑多な動物を一つの檻に入れ、餌を与えないで「共食い」させます。そして、生き残った動物が蠱毒となり、恨みの念が吹き込ませて、使用します。その方法は飼い慣らし直接人を襲わせるか、生き残った動物を殺して、霊媒に憑依させる。或いは、死骸の一部(主に頭部)を手厚く埋葬し、他は燃やして灰とする。埋葬する場合は何かの神として祭祀するのが通例であったようですね。

また、生き残った動物が蛇なら蛇蠱、狐なら狐蠱等と呼び、蛇なら「・・・大明神、・・・龍神」 狐なら「・・・稲荷大明神」 犬なら「・・・犬神」等と称され祭祀するやり方もあったらしいです。この行為が現代に続くあまりに雑多な稲荷信仰・龍神信仰の源泉の一つでもあります。ただ、その地位・力・影響は余程の妖力や魔力が無い限りは神々の眷属、使い魔としての地位と性格とを兼ねていた様ですね。

さて、この灰は非常に利用価値が高く貴重な物として珍重されたらしく。怨敵に送っても、怨敵の居る家に撒いても、怨敵に飲ませても良く、その相手は霊に憑依された状態となって、苦しみ抜き、骨と皮となり、恐怖の余り精神が錯乱狂乱して、自ら死に至るとされる類の空恐ろしい呪詛法だったらしいです。

又、間接的に呪う相手以外の者や動物等にこの蠱毒の灰を飲ますと、その者は奴隷や使い魔の如くとなり、呪術師の言う通りに命令に服従し、催眠術を掛けられた如く記憶無いままに役目を果すとも言われてます。更に、この蠱毒法は人の秘密を探り出すスパイ的な役目は勿論、財を盗む事、財を護る事、鉱山等を探し出す事等にも駆使され、実に広範囲に渡り珍重された様であったみたいですね。

しかし、人を呪う為の呪詛術が財を豊かにする呪詛であるとは何とも皮肉な訳で、俗に言うゾンビ・パウダーみたいなモノですね。

なお、この呪術は何故か後世の縁者、血族に受け継がれ血脈相承になると言われてます。つまり、修業も何もしなくとも子孫の誰かにその能力が血脈として、遺伝として、継承伝承されて行くと言う事らしいです。更により多くの蠱毒法をマスターした者が、より強力で強大な霊能力、呪術力等を有す者として、尊敬され重視され人々から支持されるに至ったらしいです。この真偽は不明ですが、現代にもこの血統血脈は密かに受け継がれているとの噂もありまして、犬神伝説や飯網伝説(茶吉尼伝説(狐))、竜神(蛇)伝説等があり、人間が犬の遠吠えや狼鳴きする家系等々も珍しくないらしいですね。

ちなみに、稲荷行者で活躍中の中村雅彦師自体が元来が代々稲荷を祀る家の方であるなど、今でもこの蠱毒・筋とまではいかなくてもその家系による特性はやはりあります。

皇悠自身もある経典を使う際は確実にその効果が飛躍的に向上する特性がありますが、それが実は父・母共に宗旨が違いますが代々ある経典を護持・重視する宗派を渡り歩いてきた家系だったと知り、驚いた経験があります。

さて、これらの不思議で不可解な呪法に対して、時の政府(奈良朝)でさえ、時が立つにつれて、この厭魅・蠱毒法が、外敵害敵に広まる事を恐れたり、その怪異性に恐怖してか、再三に渡り厳しく規制したり・罰したりして弾圧しましたが、逆効果となり、次第に地方の貴族や豪族達に広まり、その時代時代の政治や個人の野心、野望、私腹を肥やす欲望の道具として利用されていきました。

こうなれば憎悪に満ちた者同士の呪詛合戦は言うに及ばず、各地で謀略等による泥試合の様相を始めて、時の政府自体にも、その勢力を押さえる事が出来無くなり、終には民族部族間紛争の末、京都へと都を移す事を余儀なくされたみたいですね。しかし、一度拡散した知識・技術は後世まであとを残し、多くの後継宗派・技術の基幹技術・思想として組み込まれていきました。

さて、長々と書きましたが記述された呪禁道系の呪法は、終には後世の宗教的呪詛の根幹となり、現代に於いても、この類の宗教的行為をそのまま継承していると思われる宗教が結構多く、類似の呪術自体は多くの文献で記述されていますので、ご存知の方も多いでしょう。

では、今回はここまでです。今回・私の長年の研究を書きました。長文・乱文気味ですが参考になれば、幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 8日 (木)

神仏との繋がり

御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は神仏との繋がり、自分の守護者を選ぶ事等についてつらつら書きます。

さて・ただ、選ぶなどと、大層な表現を使ってしまいましたが、信仰する神仏というものは、やはりなんというか縁の割合が強いようですね。これを密教系の仏教では、結縁(けちえん)などと呼び、神道では神縁とも言います。宿縁や神の召命という場合もありますが・・・。

そして、それはやはりなんというか選ぶというよりも、その人の心の中に、『神仏にすがりたい/助けが欲しい』という思いが強くなって来た時に、恐らく日ならずして、なんらかの縁が神仏より兆しのようなモノが見えてくるような、導かれるようなモノですね。逆に、準備と言うか機が熟してないのであれば、なかなかその縁・兆しは見えてこないのかもしれませんが・・・。

それは例えば神仏について神道・仏教などの宗教・宗派の事を勉強してみようと試行錯誤をしているうちに、子供の頃から近所で慣れ親しんだ神社やお寺に赴き相談・祈願する行為が、その人の縁を解きほぐしていってくれるかもしれませんね。ただ、その人の真摯な行為が信仰し頼るべき神仏の姿を、何かの拍子に現れさせていくのでしょう・・・。

ただ、大抵の場合で、プロの祈祷師や行者などの場合、本尊をどうやって決めたのか、というと何故か不思議な霊夢や霊験などによって決めたというケースが非常に多いようですね。

皇悠もやはり夢や共時的な巡り合わせなどが大きな要因でした。

当時、色々な生活苦・霊障に悩まされる事になっていたのですが、その過程で、生涯に渡り守護し導いてくれる方・守り本尊・祈祷神仏と呼ばれる方を激しく希求しました。そして、手あたり次第に多くの書物を読み、行を積み、聖地・霊場巡りなどをした経験があります。

そうして、ある時からお稲荷様の夢を頻発して見るようになり、それと同時期に稲荷関係の祈祷・呪術書などを手に入れ、更に幾つかの占いなども使い出来るだけ微力ながらも当時でも出来る限りの情報と考察の上で、稲荷信仰者に成る事を決意し、今に至ります。

それから、守護されるに相応しいように日々努力・工夫を積みつつも、その神恩・加護などを折に触れ味わう日々を過ごしています。

さて・だからこそ、このブログでは、霊的守護者や祈祷本尊・神仏の加護と言ったモノが何度も出てきますし、意図しなくても滲み出てきてますね。押し付けがましくならないように気をつけていますが・・・・(笑。また、この一連の経験は思想的源泉・骨格の一部になっていますので、しょうがない面がありますが・・・(汗。

ただ、現在ではこのように稲荷者として、自他共に認めてますが、そう成るまでに西洋魔術系の師についた事、神仏習合系の行者に学んだのもありますのでそれなりの素養や準備が出来ていたとも言えますが、師事した二人の師共に稲荷信仰は欠片もしていない方でしたので、稲荷信仰をするようになるとは、やはりというかかつての皇悠は微塵も考えていませんでした。

そういう意味で、人生(の流れ)は不思議ですね。

さて、現在は殆どの場合で呪術・祈願・祈祷に関しては、まずはこのお稲荷様という窓口から、大抵はやらせて頂いていますが、これはやはり人それぞれです。まずはお不動様という方もいますし・・・。

おそらく、こういうのは各々の術者本人が感応出来る神仏というのがいらっしゃる事でしょうし、それはそれでいいのではないでしょうか・・・。また、稲荷信仰を押し付ける気もありませんから・・・。

さて、今回はここまでです。楽しんでいただき、何かの参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますような・・・。

皇悠より。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

十一面観音様のお経・十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経

何時も、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は久しぶりに経典の紹介です。なお、今回のお経は観音様の中でも滅罪・救済をそのメイン功徳・権能とされる十一面観世音菩薩様の経です。

名を十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経こと十一面陀羅尼経と呼ばれるモノの紹介です。ではいきます。

『 如是我聞。一時。仏在補陀落山。為衆説法。
にょーぜーがーもん。いちじ。ぶつざいふーだらくせん。いーしゅーせっぽう。
爾時。観世音菩薩。白仏言。我有神咒。
にーじー。かんぜーおんぼーさつ。びゃくぶつごん。がーうーじんじゅー。
若有受持者。除却一切病患憂苦。消滅一切悪業煩悩。
にゃくうーじゅーじーしゃ。じょーきゃくいっさいびょうげんうーくー。しょうめついっさいあくごうぼんのう。
令身口意。皆得清浄。心中百千萬億等事。
りょうしんくーいー。かいとくしょうじょう。しんちゅうひゃくせんまんおくとうじ。
無不成就。我此神咒。有大神驗。一切諸仏。
むーふーじょうじゅ。がーしーじんじゅ。うーだいじんけん。いっさいしょーぶつ。
讃歎護念。我於過去無量劫前。受持此咒。見十方仏証。
さんだんごーねん。がーおーかーこーむーりょうごうぜん。じゅーじーしーじゅ。けんじゅっぽうぶつじょう
無生法忍。復得慈悲喜捨平等法門。能令一切有情。
むーしょうほうにん。ぶーとくじーひーきーしゃびょうどうほうもん。のうりょういっさいうーじょう。
安立於無上道救諸険難。令得安穏。若毎日誦一百八遍。
あんりゅうおーむーじょうごうぐーしょけんなん。りょうとくあんのん。にゃくまいにちじゅーいっひゃくはちへん。
萬病消滅。寿命長遠。常為十方諸仏護念。
まんびょうしょうめつ。じゅーみょうちょうおん。じょういじゅっぽうしょーぶつごーねん。
財宝衣食令無所乏。獲得衆人恭敬愛念。
ざいほうえーじきりょうむーしょーぼう。ぎゃくとくしゅーにんくーぎょうあいねん。
不復更為一切災横。鬼蛇。刀杖。毒薬。咒詛。怨賊。
ふーぶーきょういーいっさいさいおう。きーじゃー。とうじょう。どくやく。じゅーそー。おんぞく。
水火之所能害。遠離怖畏。獲得安穏。臨命終時。
すいかーしーしょーのうがい。おんりーふーいー。ぎゃくとくあんのん。りんみょうじゅーじー。
見十方仏。往生極楽。不堕悪趣。爾時。仏讃善哉大士。
けんじゅっぽうぶつ。おうじょうごくらく。ふーだーあくしゅー。にーじー。ぶっさんぜんざいだいしー。
為諸有情欲宣此咒。我亦受持。汝速説之。時観世音菩薩。即説咒曰
いーしょーうーじょうよくせんしーじゅー。がーやくじゅーじー。にょーそくせっしー。じーかんぜーおんぼーさー。そくせつじゅーわつ。

おん まーかー きゃろにきゃ そわか

説此咒己。白仏言。若有男女。誦此咒一遍。十悪。
せっしーじゅーい。びゃくぶつごん。にゃくうーなんにょー。じゅーしーじゅいっぺん。じゅうあく。
五逆。一切罪障。皆悉消滅。除諸病苦。離諸怖畏。
ごーぎゃく。いっさいざいしょう。かいしつしょうめつ。じょーしょーびょうくー。りーしょーふーいー。
超生死海。到涅槃岸。若復有人。称念千萬億那叟多諸仏名号。
ちょうじょうじーかい。とうねーはんがん。にゃくぶーうーにん。しょうねんせんまんのくなーゆーたーしょーぶつみょうごう。
不如暫時至心称念我之名号。得福勝彼。宿福薄者。
ふーにょーざんじーしーしんしょうねんがーしーみょうごう。とくふくしょうひ。しゅくふくばくしゃ。
不聞此咒及我名。何况輙得受持読誦。若能至心。誦咒念我。
ふーもんしーじゅーぎゅうがーみょう。かーきょうしゅーとくじゅーじーどくじゅー。にゃくのうしーしん。じゅーじゅーねんがー。
現身獲得飛行自在。神通変化。如我無異。復次有人。
げんしんぎゃくとくひーぎょうじーざい。じんつうへんげー。にょーがーむーいー。ぶーじーうーにん。
貧窮。下賎。多病。愚癡。暗鈍。不辨善悪。若能受持此咒。
びんぐう。げーせん。たーびょう。ぐーちー。あんどん。ふーべんぜんなく。にゃくのうじゅーじーしーじゅー。
称念我名一切所求必定成就。富貴自在。無病安楽。
しょうねんがーみょういっさいしょーぐーひつじょうじょうじゅ。ふうきーじーざい。むーびょうあんらく。
得智辨才。世出世事。無不称意。乃至証得無上菩提。若有女人。
とくちーべんさい。せーしゅっせーじー。むーふーしょうい。ないしーしょうとくむーじょうぼーだい。にゃくうーにょーにん。
願捨女身。誦持此咒。転女成男所生之處。常在仏前。
がんじゃーにょーしん。じゅーじゅーしーじゅー。てんにょーじょうなんしょーしょうしーしょ。じょうざいぶつぜん。
蓮華化生。若在人間。得為輪王恒転法輪。究竟涅槃。
れんげーけーしょう。にゃくざいにんげん。とくいーりんのうごうてんほうりん。くーきょうねーはん。
爾時。観世音菩薩。説此咒己。一切大衆。
にーじー。かんぜーおんぼーさつ。せっしーじゅーいー。いっさいだいしゅう。
歓喜讃歎。繞仏三匝。作礼而去。
かんぎーさんだん。にょうぶつさんそう。さーらいにーこー。 』

以上で十一面陀羅尼経の全文は終わりです。観音様のお経といいますと観音経や十句観音経などが有名ですがこのような経典もあると言う事で紹介してみました。

参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますような・・・。

皇悠より。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 6日 (火)

ある説法会での審議応答

何時も御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回はある内輪の説法会での審議応答の一部を書きます。これは、ある真言系の高僧と在家信者との対話です。すばらしい内容ですので、アップしました。

では、お楽しみください。

『 Q、灌頂を受けてない全くの素人・在家でも本に載っている観想法や護身法を見よう見まねで行ったならばその危険度は別にして、効果は(言い方が良くないかもしれませんが)ゼロでは無いという事でしょうか?

A、その通りです。力はそれなりにつきます。しかし、師匠がいないので最善の方法で出来るかは分りませんね。

しかしながらも、師匠の技量にもよりますので、師匠に仕え、学ぶ事だけが最善と言う事は言えないとも思います。

事実、在家でも、もちろん出家者のための加行(僧侶となる為のプログラムされた修行)を行う場合はモノは同じでその修行の次第、すなわちプログラム・カリキュラムから何を見出すかは個人差があります・・・。

ただ、どの修法でもその根底に秘められたノウハウをいかに引き出して修行等に利用するかが決め手となりますと、個人の独学では難しいようですね。ただ、(弘法)大師のようにかなり後まで正式な(密門上の)師がなく独習された方もいますので、やはり人それぞれですね。

また、現在では加行をし灌頂を受けた僧侶自体と在家もそんなに変らないレベルの場合がありますが、そういうレベルの僧侶が、今では残念ながらも沢山居ます。才能がないのか、修行が足りないのか、学ぶ気がないのかは分かりませんが・・・。

また、これに関連すると思いますが、在家と学・行共に良い人レベルの僧侶が、密教の全ての所作をしても、とくに弊害は起こりません。単純に効果が出なかった・出ないだけです。これは素人・在家と変らない結果と考えられますね。

しかし、このような情けない現状でありながらも閉鎖的な加行・灌頂などの一連の学習システムを作って厳守・統制しなければ、教団としての仕組みを守る事が出来なくなりますし、後継者・次世代の育成も出来ないのも事実です。そこで、越法罪とかいって、マインドコントロールして、規律を守らせる訳ですね。また、そういう脅しで修行に励ませ、やる気のある者を奮起させる意味もあります。

勿論、やはり気功でいうところの基本功・よくいう基礎修行を適切に行うとそれなりの実力・技能が取得されるからこそ、一連の学習システムや戒律があるのは勿論ですが・・・。

Q、素人でも、独学である方法でそういった力・法力が程度の差はあれ身につけることが出来るとの事ですが、先生がよく説話・経験談などでも証明しよくお話して頂いていますが私はマイナスの効果(自分に)が現れるのでは?と常に思ってしまいます。

A、そうですねぇ・・・、たしかに師匠・監督者無しで在家の者が加行に近い事まで修したなら、まったくリスクが無いとは言えないと考えます。

例えばそれは、自分と関わりのあるモノが助けを求めて貴方にアプローチする可能性がありますし、そういう場合に師匠が(力があればですが)いれば助けてくれます。

また、独学者がトラブルを起こした・巻き込まれた場合に対応出来るほどの完璧なシステムが完備された教本などは存在していませんしね。また、どう考えても個人差や状況・環境の違いがあるので作りようがありませんし・・、こういう場合やはりその道の先達・指導者が要りますね。

この為か、古来より師の必要性を密教では重視しています。ただ、優れた師を見つけるのは至難ですし、得られるかどうか、拝師が許されるかは微妙ですね・・・』

どうでしょうか・・・。すばらしい内容です。

しかし、今から思い出しても、この高僧の方の返答は見事です。小さなお寺の住職さんでしたが、個人的に大好きでした。淡々とした中にも深い見識が滲み出ています。

あまり、有名な方ではなくても、このような方もいると言う事で書いてみました。

参考になれば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますような・・・。

皇悠より。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 5日 (月)

法華神道とは・・・

いつも御覧頂きまして、ありがとうございます。

お久しぶりです。

そして、遅れながらも、新年明けましておめでとうございます。どうも、皇悠です。

年末から年始にかけて、初詣がてら縁のある神社の巡礼(数社の寺社を歩いて約20キロの行程を一日がかりで歩き巡礼)したり、今回ちょっとしたコネで某日蓮宗系の女神を奉賛する寺院のあるお堂に御籠もりさせて頂いたりと中々に充実した日々を過ごしました。

皆さんはどうでしたか?

さて、今回は今では名前しかない日蓮宗の神道、法華神道の紹介です。

この神道の信仰・教義の中心になるのは、法華三十番神説です。事実、所謂、法華神道三大書と称せられる「番神問答記」「法華神道秘訣」「神道同一咸(酉扁+咸)味鈔」を始め、「鎮守勧請覚悟要」「神仏冥応論」「法華三十番神抄」等の法華神道書を紐解いて見ても、多くは三十番神の解説が中心ですから・・。

要するに法華神道は、日蓮の国神観を基にして展開して行った神道説と云えます。何んにせよ、室町時代に入るとその中心思想である三十番神として法華神道は全盛を極めます。これは、日蓮宗では法華経を唯一の正当な仏教の正法とし、その法華経の守護の神・役割として日本の神祇を形の上では認めてますが、実は裏事情もあります。つまり、対立宗派の密門の尊格や当時の他派の神仏や本場中国の流行神を利用出来ない日蓮宗は神道の神を利用したわけですね。ある意味で・・・。

では、「法華神道の起源は?創始人は誰か?」となりますと、簡単に言えば、法華宗(日蓮宗)自体で、明確な所は不明です。歴史的には日本では奈良時代以降、神仏習合はごく当たり前の出来事ですから、日蓮宗の発展とともに法華神道が広がっていったと考えるのが普通でしょう・・・。ただ、伝教大師こと最澄が日本では比叡山で祀ったのが始めという説もありますが・・・。

経緯的には、日蓮宗が、当時の先行・ライバル宗派の浄土宗、禅宗などと異なりつつも積極的に独自性と自派の権威付けに古来からの神祇の信仰を取り入れ教義的に位置づけたのが可能性としては実情・起源でしょう・・ね。

では次に、「法華神道の教義はあるか?三十番神のほかは、また、どんな信仰がある?」となりますと、法華三十番神自体が、我が国の著名な神々が、一ケ月三十日の間、毎日番代・日替わりに「法華経」を守護せられると云う信仰で・・・、より具体的に三十番神については毎月の三十日間を30の神々が受け持ち、これを十二ヶ月繰り返すとして神々の選定は二十二社の神々に比叡山関係の地方神を加えて天台宗の番神思想を受け継いだと言われています。

また、いわゆる三十番神は三十の当時の有名・権威のある神です。そして、法華神道ではひと月三十日の間、毎日一人の神が日蓮宗の信徒を守護してくれると考え、信徒たちは一つひとつの神社へ別々に参詣する必要はなく、三十番神を祭った日蓮宗の寺院に参詣すれば良いという考え方をしています。この思想・信仰自体は既に元ねた・先行宗教の天台宗にあり、よって、番神信仰が何時、どのようにして日蓮宗に受容せられたかを明らかにし窮めることが、実は法華神道の起源を明白ならしめることにもなりますが、難しいですね。

では、その受容自体を無理して概略しますと以下のようですね、

(一)日蓮(貞応元年~弘安五年・1222~1282)に始まる説と、
(二)日像(文永六年~興国三年・1269~1342)に始まるとの二説があります。

更に(一)には、二説あります。即ち(イ)建長元年(四年とも)、日蓮が比叡山の定光院で読経していた時、法華守護の三十番神が列をなして姿を現した。(ロ)日蓮が吉田兼益より神道を伝授され、三十番神の守護を法華経によって勧請した、との二説です。しかし、どれも怪しくこの思想が更に弟子筋の日像によって三十番神信仰へと受け継がれ、それがのちに展開されて行ったとみるのが正しいようですね。

さて、日蓮が創案した曼荼羅には勧請諸尊の中に当時も今も大きな権威・霊力を誇る天照大神、八幡大神の2神が書かれ、そしてこの2神でもって日本の全神祇を代表させています。

これは、日蓮が開教した当時の日本の政府組織・権力者が平安貴族・天皇系の宮中と武士団・源氏系の幕府の二大・並立政治であり、それぞれの守護神が伊勢=天照大神、鎌倉八幡=八幡大神という時代背景も絡んで来ています。

さて、日蓮宗では教義の特徴として『神々は正法によらなければ力を発揮する事が出来ず、もし法に従わなかったら罰せられる』としました。

ちなみに、これは日蓮宗独自の信仰形式です。つまり、全ての神々の上に法華経が存在するという信仰です。



なお、「法華神道の形成と発展はどのようにいったか?そして、その時代と現実にどんな影響があるか?」と言うことでは、あくまで独立して宗教として存在したわけではなく、日蓮宗の信仰形態の一種・事実上は付属ですから、日蓮宗自体の歴史・教義をお調べいたほうが分かり易く、本稿から少しずれるので今回はカットです、すみません・・・。

さて、関連事項として大きな出来事としては室町時代後期、室町幕府に支えられて神道界の支配者として実力を占めつつあった吉田兼倶は法華宗に宗論を挑んで日蓮が卜部兼益から三十番神の伝授を受けたと主張し、法華三十番神が吉田神道に発する事を法華宗側に承認させました。

具体的には「明応六年二月六日(九日とも)吉田兼倶はこの三十番神について、(一)天台宗の三十番神か、(二)内侍所勧請のものか、と云う質疑状を発します(番神問答事件)。これに対し日蓮宗では、「此事当流独歩の稟承、他人不共の秘曲なり」と、天台宗勧請の三十番神を継ぐものでないとし、「練磨・実義」の二語で以って独特の解釈を加え、名実共に三十番神は日蓮宗独自のものになっていきました。このような解釈が生じたのも吉田神道の影響があったらしくその為、法華宗側は神祇大副(次官)の吉田家と結ぶことによって法華神道に大きな権威を与え、吉田神道は法華神道の広大な地盤に進出する事が出来るようになりました。つまり、真言宗と稲荷信仰のように協力とまではいかなくても、互いにある意味での融合・補完関係を構築しています。

しかし、明治維新に始まった廃仏毀釈運動で1868年10月政府により法華三十番神思想及び関連の全ては禁止されました。

また、法華神道の系譜にある一派・富士系の三鳥派は江戸幕府による八丈島流罪をはじめとする徹底的な弾圧の為に伝持の人もなく、文献・史料も跡形もなく残っていないです。余程酷い宗教弾圧だったのでしょうね・・・。

さて、現在では神道は一見素朴な教義・信仰体系のように思われますが、実は仏教の影響を濃厚に受けてます、その反面仏教への対抗意識は強いのが特徴で・・・。なかんずく今では廃絶した多くの理論神道諸派からの流用・参考にした部分が多く現在の神道に果たした役割は大きいです。

例えば、まず山王一実神道・今も多く残る東照宮系の神道ですが、これは仏教の特に天台宗と神道が融合した「仏本神従」の神道から来ました。それゆえ天台神道とも言われます。

この神道は教義的には「人間の生命(一念)に現象世界のすべて(三千)が欠けることなく収まる」という天台教学の一念三千を教義に援用してます。

因みに「三十番神」説を主張する仏教の日蓮宗と神道が融合した「法華神道」は、事実上は天台神道の分派であると見なされています。

さて、今回はここまでです。何かの参考になり、楽しんでいただければ幸いです。

貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。

皇悠、一礼。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »