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2008年11月29日 (土)

大本教について

御覧、頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて今回は、古神道・神道を学ぶと戦前に活躍した一大教団・大本教について嫌でも関わる事になりますが、「何故にしてかの教団は壊滅寸前まで弾圧されたのでしょうか?」と言うことを書きます。

さて、この大本教(正確には大本)が現時点で、多くの各宗教団体の組織形成の基盤となっていますし、生長の家や真光など現在の有名教団には大本教をお手本・祖とするのも多々あります

また、出口なお教祖、そして出口王仁三郎聖師は教祖として満州・モンゴルまで広宣活動と世界安穏に奔走尽力なされたようですが、神道系の教団であるにもかかわらず何故に徹底的な弾圧と軍部による破壊工作がなされたのでしょうか?

そして王仁三郎聖師は、神道としては類まれな宗教間縦断をなされた平和主義者という話もあります

そして、神道基盤であるので、現在の多くの仏教教団のように政治介入に違和感をもたれることも少なく戦後に活躍しても良いのですが・・・。どうしてこの神道教団は、我ら日本国人にさえも疎まれたのでしょうか?

そして、戦後、何故にして廃れたのでしょうか・・・。実はこの教団は一面で今で言うアレフ=オウム真理教と同じだったからです。

危険なカルト教団だったからで、だから当時の人々も、弾圧に同意し、戦後はそのまま無視され没落しました。

この辺は中村古峡著『学理的厳正批判大本教の解剖』(一九二〇)(なお、中村古峡氏は日本精神医学会の主幹として日本における心理学の確立に大きな役割に果たした人物です。ちなみに昭和二七年九月十二日没。)に詳しく、第一次大本事件前夜の一般のインテリ層が大本に対してどのようなイメージを抱いていたか・また大本教がいかなる存在かを探る上での貴重な史料で、よく出来います。

さて、『学理的厳正批判大本教の解剖』の本文の冒頭において、中村は次のように言い
放ってます。
「およそ世の中に馬鹿ほど恐ろしいものはない、と云ふ俗諺がある。蓋し馬鹿は、概ね独
りよがりのお先まっくらで、自制や反省の念は薬にしたくても見当らず、おまけに向う見ずの無鉄砲と来てゐるので、何をしでかすか分らないからでらである。余は大本教を思ふ毎に、およそ天下に迷信ほど恐ろしいものはないと、つくづく云ひたくなる。蓋し迷信者は馬鹿と同じく、概ね独断で、無反省で、更に自負誇大の念に強く、ややもすると頑迷不霊に陥り易いので、果して何を云ひ出し、また何をしでかすか、分らないからである」

ちなみに中村は当初、心理学者の立場から大本教祖の「神懸り状態」に関心を持ち、丹波綾部町(現京都府綾部市)の大本本部で現地調査を行ったが「宗教的内容が、予想以上に浅薄で且無稽なのに失望した」そうです。

しかし、大本教がその後、勢力を伸ばし社会問題となったばかりか、中村の所にも「大本教は果して宗教として存在するだけの価値あるや否や、其の鎮魂帰神法と催眠術との関係は如何、其のお筆先と予言の真偽とは如何」などという問い合わせが殺到するようになった為に、この書物を著してその回答に代えようとしたそうです。

さて、大本教は当初、綾部の老女・出口なほ(教祖)の「神懸り状態」に端を発しましたが、教団の基礎を作ったのは教祖の娘婿・王仁三郎で、更にそれが急成長するには東京帝国大学英文科卒のインテリ浅野和三郎の入信が契機となってます。中村はその経緯を踏まえた上で「今日の大本教は、短刀直入にこれを云へば、つまり出口王仁三郎と浅野文学士とが、教祖の『お筆先』を種にして、巧に捏ち上げたものとも云へる」とみなします。

そして、大本教はしょせん「誤つたる一妄想の上に猿とも狐ともえたいの知れない鵺的社会を建設しようとしてゐる一曖昧団」にすぎないと判断します。中村によると、『お筆先』とは「妄想性痴呆患者の濫書症」の産物であり「私達変態心理の研究者に取つては、いささ
か興味ある一研究資料」にしても、それを神聖視するのは滑稽な錯誤だと定義しています。

また、例えば王仁三郎はトリックによる「奇蹟」を演出しているのでそれも暴露してますね。

これはある王仁三郎氏の元側近の証言によるモノで、王仁三郎は『お筆先』の「煎豆に花が咲く』という予言を実証?する為に、人知れず庭の一角に普通の豆をまき、その同じ場所で信者たちの見ている前、煎豆を撒いた事があるという。十数日後、そこから勿論、普通に生えてきた豆の芽にトリックを知らない信者たちは驚嘆したという訳ですね。

また、中村は大本教の大看板・代名詞の鎮魂帰神法で導かれる精神状態(神懸り)が催眠誘導術による変性意識状態である事、教祖没後に公表された『お筆先』は教祖直筆ではなく王仁三郎の捏造になる事、『お筆先』の予言が的中したと称するのは全て後からのこじつけであり、実際には多くの予言が外れている事などを論証しており、そこにはオウム真理教のマインドコントロールや麻原氏による予言の捏造などをも連想させるモノがあります。

そして、この書物で多くの事が暴露されてから大本からは多くの直弟子・有力幹部が続々と離反し、各自が自分の教団を設立し始めます。世界救世教の岡田茂吉とか前述の浅野和三郎などですね。

また、大本の鎮魂帰神法は単なる催眠術ではなく、自己暗示による人格変換である事から「覚醒後屡々思想の惑乱を来し、遂には精神錯乱に陥つて、とんでもない乱暴をしでかすことがあった」とすら記述してしまします。更に中村は鎮魂帰神法が原因になったと思われる殺人事件の実例まで上げています。

また、この公表・記述以後は多くの信者を集めたこの鎮魂帰神法を大本教では危険と位置付け、事実はネタばれによる権威・威厳の失墜で禁止しています。そして、同組織で何十万という信者・教師が学び修していながら同団体以外のその後継の組織・信者達も封印・拒否するようになりました・・・。

さて、王仁三郎氏の言動、特に予言関係にも麻原氏を髣髴とさせるモノがあります。

例えば大正四年、王仁三郎は火の雨が降るという妖言を流布して、多数の信者を綾部に避難させました。大阪のある老夫婦などは自分の店を売り払ってその金を王仁三郎に献納し、鰹節まで抱えて綾部に逃げ込んだ。当然、火の雨など降るはずもなく、王仁三郎は「あれは幸い幽界だけですんだ」とやって信者たちに随喜の涙を流させたというのです。これは一九九〇年、麻原氏が自ら予言した天変地異を逃れる為、信者達を連れて石垣島に避難したというのとそっくりですね。

また、王仁三郎氏は終生、天動説と地球平坦説を信じ、地球が丸いなどという学者は阿呆だと唱えていまして、このことは後の大本教系の団体の愛善苑の刊行物でも取り上げられています。また、同氏は天皇を批判しながら自分が天皇の血族だと主張しました。

また、先述の元側近の証言によると王仁三郎は大の好色家で「大本教に出入してゐる女達は大抵片っぱしから手を掛けていた」という事も記述してます。これもまたワイドショーや週刊誌に賑わわせた麻原の性豪ぶりと通じるモノがありますね(勿論、恋愛は自由ですが、麻原氏も信者の女性たちには魅力に満ちた男性だったらしいですが、二人とも妻帯者ですので不倫関係をしていたのは褒められた事ではありません)。また、事実、王仁三郎自身が「天下に私ほど不器量な者はない。それでも世の中の女と云ふものは、一度私が秋波を送ると、みんな吸い付けられて来るから不思議だ」とうそぶいていたという記録もあります。

さて、戦前の日本国家が大本を弾圧したのは、別に予言や奇蹟の類がインチキ・詐欺行為だからでも、王仁三郎が今もそうですが当時としても不品行だからでもなく、『お筆先』にある「世の立替」の予言や王仁三郎の大正維新、昭和維新という主張が、時の政府から革命の予告、すなわちオウムと同じく政治的野心・革命の表明・クーデターの告知と受け取られたからです。

事実、第二次弾圧直前には王仁三郎氏は自ら主宰する昭和神聖会のメンバー約三千人を集めて軍事演習まがいの示威行動を行います。このような二・二六事件前後の不穏な情勢下、疑心暗鬼に脅える政府相手にこれでは、弾圧するなという方が無理でしょうね。また、出口王仁三郎氏は当時の陸軍、海軍問わず将校クラスの現役軍人を多数シンパとしており、それがまた国家に大本を畏怖させる原因の一つとなっていたみたいです。

そして、オウム真理教も単なる宗教団体というよりも多分に政治思想団体としての性格を持つ組織で、彼らは「真理党」として九〇年の衆議院選挙に出馬、二五人の候補者を立てるも全員落選してます。また、組織運営には国家を模した省庁制を採用、信者ので軍事演習まがいの訓練を行い、国家権力掌握後に発布するべき真理国基本律(オウム憲法)の草案まで準備するなど政治的野心に燃えてました。そして、地下鉄サリン事件はその革命計画の第一歩だったのです。だからこそ、戦前の治安維持法と同様、本来は政治思想団体を対象としたはずの破防法が大本教と同じくオウムに対して適用される事になったみたいですね。

こういうあたりは麻原彰晃氏も出口王仁三郎氏も司馬遼太郎氏が言うほどには異なったキャラクターという訳ではないですね。似た行動・思想をしていますから・・・。

さて、『学理的厳正批判大本教の解剖』には当時の東洋大学学長の境野黄洋、哲学者の井上哲次郎、インド学の権威・高楠順一郎、社会主義者の堺利彦、河上肇、国粋主義者の三宅雪嶺などが序文を寄せており、またある刷では付録として哲学者・姉崎正治による同書への書評が転載されています

そして、彼らはいずれも当時を代表する一流の知識人ばかりで、その彼らが中村を支持したと言う事に当時の知識階級一般が大本教に抱いていた反感がうかがえます。

また、大本教は出口直というおばさんが始めたと思っている人が多いと思いますが、彼女は金光教の信者だったので、その娘と結婚した王仁三郎氏が実質上の教祖です。

さて、大本教は戦後、今のオウムのように内紛を(第三次大本事件ともいいますが・・)経て、3つに分かれました。 これを別名、大本三派とも言いいますが、 それが大本、大本信徒連合会、愛善苑の三組織ですが、それらは往時の規模も勢いもない地方の小さな一教団です。

では、今回はここまです。楽しんで、そして参考にしていただければ幸いです。

では、「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・」

皇悠、一礼。

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