真言宗・日本密教における伝授・伝法の資格
御覧頂きましてありがとうございます。
どうも、皇悠です。さて、今回は空海の断り状事件をネタに記述します。
さて、空海と最澄の事を調べますと一つの事件に行き着きます。それは天台宗の祖の最澄が日本における密教の第一人者(多分、当時の東アジア最大級の密教徒)たる空海に理趣釈経(密教の代表的経典の一つ・理趣経の解説書)を借りたいと申し入れたが、空海はこれを断った事実・事件です。これはよく知られてますね。
しかし、これが事実上、日本における密教の分裂、そして後に鎌倉仏教の揺籃の地・天台宗が空海系の密教を断念した事による迷走・多様化の道を開いたのはあまり知られない事です。
さて、この断り状の内容は、空海も最澄も今では押しも押されぬ大宗派の一宗一派の教祖なのであたりさわりのないようにぼかして説明されている事が多いのですがその内容は強烈です。
事実、梅原猛氏の現代語訳した断り状の内容はもかなり生々しいモノです。
『・・・貴方は『理趣釈経』を借りたいと言っていますが、理趣ということは何のことかご存じですか。理趣、すなわち道理に3種があります。耳で聞く理趣、それは言葉です。何よりもあなたの言葉です。貴方はその言葉を貴方自身の中に見いだすはずです。
目で見る理趣、それは物質です。その物質は手近には貴方の身体にあります。貴方はこの理趣を貴方以外に求める必要がありません。
心で思う理趣それはあなたの心です。どうしてよそに求める必要がありましょう。
貴方にはそのことを䏦。近い所に貴方自身の中に理趣がありながら、貴方は別の所に理趣を求めていなさる。貴方は真理を紙の上にのみ見る人のようであります。紙の上より、真理は貴方自身の中にあるのです。
貴方は聖者か凡夫か。聖者なら何も求める必要はありません。凡夫なら仏の教えに従う必要があります。仏の教えに従うならば、誓いを慎む必要があります。誓いを破ったら私も貴方も困るのです。
誓いとは、法は正しい受け手以外には伝えないという事です。正しい受け手は、真言密教の場合、密行の行を修め、その心を大日の心に等しくした人です。貴方は行を修めましたか。あるいは行を修める気があるのですか。
何かが間違っているのです。行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすること。それは本末転倒もはなはだしいものです。
もし本当にあなたが密教の真理を知ろうと思ったら、真の密教僧となり、行を修める支度をしてきなさい。そうしたら喜んで密教を教えましょう。・・・』
(最澄瞑想/梅原猛/佼成出版社から引用)
要するに、最澄は密教の修行はやっていないし、最低限度のその経典についての基本的な事も理解していない。つまり最澄は密教の正しい受け手とは言えない。沙門空海としては、正しい法の受け手ではない最澄に理趣経を伝えるのは破戒となるので出来ないと言う事を懇切丁寧に述べています。
感覚的な低学歴・ヤマンバギャル風にいえば、「はぁーーー、何言ってんの?あんた馬鹿?笑える・・・、もしかしてマジッ!うけるんですけどーーー」という事ですね。
密教徒としての空海から見たら、最澄は不真面目にして横着な密教修行者で、特別な才のない凡夫にすぎない。その凡夫がまして密教を奉じずに天台の教徒のままで学ぶ事は許容出来ないでしょう・・・。
まして、天台の後継者の枠から出て、修行せずに密教の知識だけ欲しがるのは、許せないと感じさせられる激烈な一文ですね。
しかし、こういうさもしい根性(今まで学び・武器にしていたモノを捨てずに、それ以上の両立しない別のモノをも欲しい心・・・)を指摘された当時の国一番の僧侶とされ、天台宗のトップの面目を丸潰れにされた最澄は、その指摘が激烈すぎではありますが、そのものズバリを指摘された為に、終に最澄はこの手紙に反論が出来ずに生涯を終えます。
しかし、空海からの伝授は諦めつつも、密教への関心が消えない最澄は老化による渡航の不可能を鑑みて、弟子に本場の中国から学ばせる手段を取ります。しかし、いくら喧伝しようともその弟子の器は空海以下だった為か不完全or歪な伝授・請来に終わりました。
以後、天台宗は混在化・多様化・整理されないままの並列学習・複合修行の体系になり、(よく天台宗は仏教の総合大学と呼称されますが、つまり学問・信仰として整理されない仏教宗派になり)後に鎌倉仏教という後世の弟子達によるその矛盾の打破、整理化の為に選択された分派を続出させます。
さて、こうした最澄の「まず理屈でそれを知ろう」」とする点は現代人の気風と相似たところがありまして、とても他人事とは思えませんね。この最澄の問題は、現代人全体の問題でもあります。
曰く、「「理屈で納得しないと何も修行をしない」と言う事ですね。」しかし、所詮は先人達の試行錯誤の産物でしかない、行動体系の修行や多くの呪術に信仰・哲理などを如何に突き詰めようと理屈では納得出来ない部分が必ず残るのですよね。
そういう訳で、何故かこの世界には弁や情報は多いのに何も出来ないお間抜けな人が多くいます。自戒の意味も込めて気を付けたいものですね。
さて、今回はここまでです。
では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠より・・。
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コメント
>何かが間違っているのです。行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすること。それは本末転倒もはなはだしいものです
う~ん、なるほどですね。自分もこのパターンかもしれません。字面だけを追って、頭で理解しようとする傾向があると思います。だから お間抜けな人のままなんでしょうけど。
_/ ̄|○
投稿: 伽羅 | 2008年11月23日 (日) 08時01分
どうも、皇悠です。
伽羅様、閲覧&コメントありがとうございます。
そして、返信が遅れて申し訳ありません。m(_ _)m
さて、頭で理解する事は個人的に否定自体はしません。
但しです!あくまでも信者・依頼者に応える呪術・宗教の世界は出来るのか?救えるか?などの実践面が個人的理解よりも重要なので、実践した事による経験による知恵の方が意味・力になると言うだけです。
そして、それはつまり、必然的に理解不能でも「ヤレ!ハイ!・・・何とか出来ました!ヨシ!」
(・_・)エッ....?と言う世界なので、あえてああ書きました。
これが行き過ぎて悪しきグルイズムになりますが、コレがないと弟子が向上しない場合があるので難しいですが・・・。
これで答えになりば、幸いです。
皇悠より。
投稿: 皇悠 | 2009年4月10日 (金) 21時18分