一念未生詞と神道大意詞、伊勢・尊王信仰と祓いの意義
何時も、御覧頂きまして、ありがとうございます。
どうも、皇悠です。さて、今回は大祓いの祝詞に出てくる天津祝詞の太祝詞と想定されています祝詞の一つと神道の本義を上手く表現しています神道大意詞を紹介します。
では、本文にいきます。
一念未生詞(いちねんみしょうし)
『 一念未生(ミショウ)の処 即ち天津祝詞の太祝詞なり 我が一心は即ち天地と観ずべし 神我が心に入る 我も亦神の御内証に入るや明鏡なり 無心無念の祓なり 此(カ)くの如く 無念無想にして神に向へば 即ち吾れ神明と共に同じく 一切の祈願成就すること円(マドカ)なり 即ち如実に自心を知るの神道にして 我れ入り 我に入るの観なり 』
神道大意詞(しんとうたいいし)
『 夫れ神とは 天地に先立ちて 而(シカ)も天地を定め 陰陽を超えて 而も陰陽を成す 天地に在りては神と云ひ 万物に在りては霊と云ひ 人に在りては心と云ふ 心とは神なり 故に神は天地の根元 万物の霊性 人倫の運命なり 当(マサ)に知る 心は即ち神明の舎(ミアラカ) 形は天地と同根たる事を 』
さて、神道では機前(天地開闢以前の混沌)を重んじます。この機前は一念未生の状態であり、無心無念である清浄な状態なので、清浄であれば神明と同じくなります。
また、万物はこの清浄たる混沌より産霊神(むすびのかみ)の御働きによって展開、生成化育されていると考えているのですが、常にこの混沌たる機前に立ち返って、大神様に見直し、聞き直して頂き、展開後の穢によって生じた悪因縁を切り、良因縁に結び直すのが神道の祓いの原義の一つです。
つまり、大祓詞奏上の際なら、沈黙する場所があることをご存知だと思いますがこの箇所で機前(天地開闢以前の混沌)たる無心無念である清浄を観想し、自らの神性を顕現させるのです。
また、本居宣長は「なにごとも神のしわざ」と述べてますが、清浄たる混沌より産霊神(むすびのかみ)の御働きによって展開される世界に何故、穢れが生じるのかという問題にも繋がります。これはマガツヒの働きとも呼ばれるモノでもありますが・・・。
さて、神道は真(まこと)を重んじます。人間において真(まこと)とは本心であり、本音です。しかし、嘘偽りの無い本心は当然、悪心になることもありますよね。これは万物に関しても同様で、天地開闢後に正邪が分かれ出できたのですから・・・。
また、この為に天孫降臨がなされたと古事記などでは記述してます。天照大神様が地上に悪しき穢れが増えたので御子神を降臨させ、皇孫が統治・平定を行い神国たるこの国が築かれました。このことに大神様達の子孫たる多くの人間がみこともちとして使われ、従う事をされたのです。ちなみに、みこともちとは大神様の命令に従い世界を修理固成する使命を帯びている人及びその子孫のことです。この使命は具体的には天壌無窮の神勅に従い、天壤無窮の皇運を扶翼し奉ることです。このことは政治的、道徳的なことでなく、霊的な実践ですし使命です。
また、人間において、嘘偽りの無い本心は当然、悪心になることもあり、そして穢れや悪心を起こすのは人間の自由意志ですから祓いは大神様により自然に行われるものではなく、人間の義務として常に祓いをしなければいけません。
また、それ以外にも多くの大神様の御力が現れる為には祈らなくてはならないのですが、祈りには祀りが伴い、祀りは務(まつり)です。これこそがみこともちとしての義務に繋がる訳なのですよね。
つまり、みこともちたる人間は祓いを行い、大神様を祀ると同時に、人事を尽くして修理固成の為に務(まつり)を行うのです。
もっとも、人間の運勢で悪いことが起こるのは穢れだけでなく、運命という場合もあります。人間の義務として常に祓いをしなければいけませんが、このことは単に私情と人慾を捨て、普遍的な公の道徳に合わせることではありません。人における祓いとは本来の自分に帰ること・歪んだ運勢を修正するでもあり、単に道徳律に従うことではありません。
よくある道徳論で人間の人格は生得的なものでなく、後天的なものなので、教育により、普遍的な公の道徳に合致した人格を育成するというのも、一見合理的に見えますが、私情を否定するものなのであまりよくありません。よくある性悪説ですね。ちなみに本居宣長による儒教批判もこういう点を批判したのですよね。
また、教育勅語の解説なんかでも日本では儒教渡来以前から忠孝を実践していたと説かれていますが、本居宣長が説くような天皇陛下を中心に各々の人が私情を損なうことなく調和していた上古の社会では儒教の忠孝と違い、忠孝も公共の為に自己の私情を放棄するのではなく、もともと人間が持っている情熱が忠孝という形にたまたま一致したものであり、この自己の私情(想い)、個性を公共の為に活かす事という思想です。
ちなみによく神道の理想とする精神状態に「明浄正直の心」がありますが、これは「基本として私情に相反しない形で普遍的な公の道徳を実行することが即ち、明るくさわやかに、ものごとをあるがままに観て、自分の本音に率直であり、自らの権利を放棄することなく公共に奉仕して、慈悲の心と知恵と勇気をもち、感受性を豊かにし、行動するという信念をもつこと」とされています。
ちなみに、忠というのは自己の私情(情熱)・個性を公共の為に活かすことであり、義勇公に殉ずる忠は国を想う情熱ですね。「まこと」という情熱があり、嘘偽りの無い本心、本音から生じる直情、公共への義憤としての情熱ですね。
しかし、この情熱を正しい形で実行するには統制というかそれなりの型が必要ですよね。公共の役に立たない義憤はそれ自体が公共の障害になりますから・・・。また、それが、強制されては本質を損ないます。例えば、国旗の尊重なども忠の行為・型なのですが、強制されてはその本質を損ないます。つまり、各々が自主的に型を参考にし、基準とすることが美しい調和が保たれ、秩序が生じるとしています
それで、この具体的な型が普遍的な公の道徳です。この型である一定の見本を参考にし、個々が振舞うことが天照大御神の神勅・天壤無窮の皇運を扶翼し奉ることができるとされます。
何んか、日々の振る舞いがいかに信仰に繋がるか如実に繋がる話ですなぁ・・。
さて、このような思想があるから多くの神社が伊勢信仰や天皇陛下への敬意をいまだに護持し日々行い学んでいます。それなりにすばらしい考え方・思想ですからね。
さて、今回はここまです。参考になれば、幸いです。
それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・。
では、皇悠、礼拝・合掌。
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コメント
大祓詞の沈黙箇所で、機前の無心無念である清浄を観想し、自らの神性を顕現させるということ、重要なことですね。沈黙する、ということ大事だと思います。
毎日大祓詞を奏上していても、言葉だけ発していて、頭の中では違うことを考えていたり、集中していないと気づくこともあります。祝詞奏上やお経や真言を唱えるという、その行為や形だけに安心してしまうことも。
毎朝の勤めを通して、本当に神仏に繋がるということの難しさを感じます。疑問、雑念、すべて取っ払うはずの祓いの祝詞ですら、雑念の中で奏上していることがあるんですから。
ただ、自分は観想するだけだと、うつらうつら眠ってしまうので、座禅とかでは絶対眠くなるので、毎朝のお勤めが出来ないです。
投稿: 伽羅 | 2008年11月11日 (火) 08時18分
どうも、皇悠です。
伽羅様、コメント&閲覧ありがとうございます。
確かに観想しながら寝てしまう事は、一度癖になりますとなかなか矯正出来ないモノですね。
勿論、直す方法はそれなりにありますが対面教授でないと伝承し難いので書きませんが、観想・瞑想が出来ないのは大きなハンデですので、別の道が開けることをお祈りいたします。
投稿: 皇悠 | 2008年11月11日 (火) 22時11分