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2008年10月の記事

2008年10月31日 (金)

基本理念としての勧請、勧請と眷属使用法の意味、

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はあまり知られてませんが勧請の基本理念と眷属の使用法じの注意などについて書きます。今まで何度か勧請について書いてきましたが、今回のは俗信・伝統的な考えの一つです。

まず、例えば、伏見稲荷に行ってそこで稲荷紳の眷属である狐霊などを頂く、三輪山に行って蛇霊などを頂くといったことは、実はそんなに難しくは無いのです、基本的に幻視と相手の了解だけで出来ますからね。 ただし、その眷属の主たる神を勧請なり、許可なりを受け、自宅などまで連れて来てそれを滞在させる理由・施設が必要ですが・・・、 幾らつれて来ても術者に従うか・帰らずそばにいるいないかは別ですからね。マイケル・ハーナーがいうパワーアニマルが数年でいなくなると記述しているのと似てますね・・・。

つまり、そこの神を自宅に勧請すれば、その神に仕える眷属も家に来ますし、あるいはその神社の神に『神使も一緒に勧請させてください』と言えばそれをしてくれる形になるわけです。少なくとも神社に眷属が帰るリスクは減りますね。

また、自宅で神を祀れば、その神の使い・眷属が、神本人に代わって祈願者の為に動き働く事もありますし、わざわざ毎回毎回祈願ごとに神社に参拝しなくて済みます。だから、少しでも関係を深め、眷属がよく働くように、勧請をし、またその神の為のお供え物とは別に眷属の分のお供えをしたり、神使のために祝詞を一回多く読んだりすればそれを喜び、普通に神を奉るよりも多めに働いてくれるとも言われます。

加えて、普段から自宅などで正式に神仏を勧請・崇拝し、神使・眷属などに謝意をあらわしていれば、特別な呪文や祝詞や作法を知らないでいても、必要な時や助けを求めたときには自然と動いてくれる事もあります。ただ、神や神使の勧請にはそれなりにお金(神社への謝礼など)が、またその神を祭るための神棚や祭壇・道具に神器の購入に日々の供物もやはりお金が掛かりますね。

さらに勿論、それ以外にも日々朗誦すべき最重要な法器たる祝詞・経典などの経費も掛かります。

あと、勘違いしてしている方も多いですが基本的に大事な儀式や祭儀には神仏の前で聖典を唱える際は間違えがあるといけない・失礼なので、いかに暗記しどれだけ唱え慣れていても経文・祝詞を見ながら朗誦するのが正しいやり方です。

さて、毎日(あるいは日を決めて)神にお供え物をし、定められた礼拝作法(神社できちんと教えて貰えますし、自分で断りを入れてある程度オリジナルの祭礼も可能です)を続けるのも、それなりに辛いものがありますが、 それでも、人ならぬ存在を相手にする以上は日々の定期的な供養・神事は欠かせませんから、本気で御蔭や眷属(=神使)などを得たいと思うのなら、それぐらいは続けるぐらいの覚悟と誠意は必要だと思います。

これは自然界のエネルギーや個人的な生命力などで式神を造る、霊力や法力で神霊的な存在を呼び出し縛り使役するという考えではなく、そういった存在を配下に持つ神や仏を信仰し、その見返りとして『ある種のお使い』として遣していただくようにお願いする…と言うのが一番安全かつ、一番現実味のある眷属・使い魔・式神などの使役法であると思います。

 ちなみに、上に書いたのは、言ってみればある意味で不可視な存在との『約束事』ですよね。

そういった『約束事』が前提にあるからこそ、御利益を願う人が神社に詣うで、神を勧請して自宅で奉るのでしょう。

また、そこの神社に勤める神職などは、古来から伝わる効果的とされる定められた方式・修行を行っているのですから、何事も素人が行うよりもその専門家に依頼したほうが安全で確実であるようにその神社の神職に任すのがよいと思います。 後は、神を勧請した私達の側の責任ですからね。誠意をもって決まり通りに接していれば神罰とかは起きないはずです。

ただ、例外的な諏訪大社の神などは、鳥が供え物をつついただけでも神罰で死ぬ…というぐらい荒振る神ですし、幾つかの『無言での神事』の最中に言葉を発しただけで神職が死ぬという神社もあり、また神社では『そこの神の姿』を見ただけで死ぬという場所もありますが、むしろそういった神社のほうが少数です 。

なお、普通の神社で表立って祀られていて方は、基本的に信者が接しているのは『神の和魂』であるケースが多いですから、『管理を怠ったら一族郎党皆殺し<末代マデ呪ッテヤル>の刑に処する神』なんて今時まずいないですね。確かに、人が悪いことをしていたり、神の『おかげ』を受けていながら神をないがしろにしていたら、警告としての『災厄』は起きるとされていますが、一族が皆被害をこうむるような『タタリ』というのは、よほどのことをしない限りないです。

よく言われるようなタタリを為す神というのは、『性質の悪い・危険なモノ』を神として祀っているだけであって、そちらのほうが例外的であるともいえます。

また、確かにその神様がマトモでも、その眷属までがマトモかといえば、確かにそうではない例もあります。普通に人材派遣会社そのものはマトモでも、そこと契約して派遣されてくる人物がマトモではない可能性というのは充分にありますからね。ただし、その場合はそういったことが見受けられた時にすぐに本社(勧請先の神社の神)に申し上げればいいだけですし、最悪の場合は自宅での祭祀をやめてお帰りいただければ良いだけですからね。そういう作法は勿論ありますし、私自身それを何度かしたことがあります。(あまりに駄目というか、効果のない場合はそうしました。勿論、それなりの様子を見ますが、さすがに長くて一年がいいところですね)

これは普通の派遣業ならば雇い主が会社にお金を払い、会社からそこの社員に給料を渡すという形をとりますよね。それと同じように、本社にあたる神への祭礼の手を抜けば、眷属の働きも悪くなるし、逆に災い・問題をもたらしかねないですが、祭礼・支払いを正しく行いながらもあまりに仕事・出来が悪ければ、人を変えてさせてもらう事や取引先を変えることは普通のことです。

ある意味で、それは当然の報い・行いといえます。勿論、日常から神をきちんと祀っているのが大前提ですが・・・。

また、もしよくされていながらも神を祀る続けることが出来ないと判断したなら、その時は元の神社に礼を尽くしお帰り願えばいいだけです。なかなか言い出しにくいですがちゃんとそういうことをやってくれる神社などもあります。

さて、神仏を祀るというのは確かに手間がかかることですが、TVに出て『私には霊能力があります』といって活動している人も、家や事務所ではきちんと神仏を祀っているものです。 TVに顔を出さない、私にような野の祈祷師・呪術師も、大抵は神仏を祀っていて、個人の所有能力よりも、神仏の力を上位においてその力や眷属の力を『お借りする』という形を取っている方が多いですね。(少なくても個人の力よりもバリエーション・威力が増えますからね。)

以前、記述しました勧請とは自宅に専用のPCを持つ、専用回線を引くというの例はある意味で西洋魔術系の表現・記述です。お気付きになられましたか?

さて、今回はここまでです、ただ、感覚的なことなので上手く表現できないのが少しもどかしいですが・・・。お役に立てば幸いです。

では、『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。』

皇悠より。 

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般若心経千座の法

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、お久しぶりですね、皇悠です。今回は久しぶりに祈祷法を紹介します。

さて、般若心経の祈祷法は色々なモノが伝承されていますが、ここに書いたのは一例ですが、実際やってみて絶大な霊験のある方法です。

きちんとした指導者についてするのが、当然ですが一番良いですが、比較的安全な方法ですので紹介します。参考になれば幸いです。

やることはきわめてシンプル。

『 

まず本尊「祈る対象ですね。」を決め、日を限って、般若心経を1000巻分唱えます

一日10巻なら100日間、50巻なら20日間、途中切れ目無くやります。 マッチ棒やお数珠などで数を数えるのも可です。

1000巻ワンクールで、三回もやれば、なんらかの手応えがありますし、望んだとおりのことにならなくても、自分自身が納得する、なにかの示唆が、必ずあります。

本尊との約束ですから、途中で霊験のあった時も、かならず1000巻分を全て唱えます。

本尊は大本山や札所など、500年以上の歴史ある祈願所の方がお薦めですが、自分が頼りたい方・所でもいいですね。ただ、その場合は一回以上はお参りにいって、丁寧に、「これから祈願を初めます・中ですのでお願いします」と頼んできて、また最初の一巻目あるいは最後の一巻はそこの本尊の前で唱える事。

また、どのような御供えをするかは何日も行うと心に浮かびますが、普通は、最初に一回、お菓子や、野菜などを本尊に御供えします。また、お参りにいく場合は、こころばかりの賽銭ですね。

さて、静かな邪魔の入らない綺麗な部屋で、香を焚いて拝み、なるべく正座(長時間になりますので、不自然な姿勢は腰を痛めます)が良いのですが、この辺は状況・場合に依ります。

修法中は身体の調子が悪くなったり、時間がどうしても取れなかったり、忘れてしまったり、障害が起きますが、出来る限り、頑張ってください。

どうしても続けられなかったら、本尊に理由を丁寧に述べて、日にちをズラすなりして、工夫しても、結願の日だけは守ってください。基本的には本尊との約束・契約ですからね、守らなかったら、しばらくは加護は無いものとお考えてください。

さて、おやりになればわかりますが、実際、かなり大変です。拝んで奇蹟を起こすのですから、大変で当たり前。
ぐったり疲れたり、激しい眠気や頭痛に関節痛などに襲われたり、お経が堂々巡りして終わらなかったり、色々な事が起こります。

これは行試し・本尊の神仏からその真摯さ・本気さを見られている場合もありますので、本尊を信じて、頑張って下さい。

では千巻心経の次第です。

まずは本尊に三回拝礼、出来れば五体投地。 

次に懺悔文を三唱。

我昔所造諸悪業     がしゃくしょぞうしょあくごう
皆由無始貪瞋痴     かいゆうむしとんじんち
従身口意之所生     じゅうしんくいししょしょう
一切我今皆懺悔     いっさいがこんかいさんげ

次に祈願・お願いをします。

小さな声で、祈願を一つだけ、本尊に具体的に伝えます。

 例 「本尊観世音菩薩様、****(名前)当病平癒・・・」

最初の日だけは「ただいまより、**(結願の日付)日までに、一日最低*(一日に唱える巻数)巻、全部で1000巻、般若心経をお唱えして祈願いたします」とはっきり宣言します。もちろん期日より先に終わらせても良いですよ。

コツとしては「願います、とか、祈願したてまつる」とかの頼むような言葉でなく、祈願が成就した状態を表現します。
    例えば、家内安全、身体健全、試験合格、恋愛成就、心願成就、心身健康 などです。

そして、本題の読経です。慣れれば、一巻一分位で唱えることが出来る様になります。

そして、最後・またはその日の規定の数を唱え終わりますと感謝を込めて御礼をします。

「以上です、ありがとうございました。(また)どうぞよろしくお願いします・・・」とか、

以下の回向文を唱えるのも良いですね。

願以此功徳      がんにしくどく
普及於一切      ふぎゅうおいっさい
我等與衆生      がとうよしゅじょう
皆共成佛道      かいぐじょうぶつどう

そして、改めてご本尊に三礼をして終了です。     』

ちなみに、まさか私の当ブログで知らない方はいないと思いますが、一応,,般若心経の全文も上げときます。

『 般若心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識 亦復如是。

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。

以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。

故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦 羯諦 波羅羯諦  波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。般若心経。 』

 

なお、この法は先祖供養や慰霊にも効果・功徳があります。

供養の場合は、本尊とは別に霊分として、期間中毎日、お茶やお菓子を御供えをしてください。その場合、霊分のお下がりは食べないという考えもありますがこの辺は好みでどうぞ・・・。

また、施餓鬼にするのなら・略式ですがそれを「餓鬼さんへ」と念じながら水辺などに散じ捨てます。

では、今回は以上です。貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

それでは、皇悠より。

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2008年10月30日 (木)

愛宕神社の祝詞

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はあまり知られてません防火で有名な愛宕信仰、およびその信仰者には必見の愛宕神への祝詞です。現在は東北圏を中心に某有名愛宕神社などでも使われている祝詞です。ただし、読みは少し現代語風に改変してあります。

では、本文に行きますね。

『 掛けまくもかしこき、天照大御神、愛宕大神達の大前(おおまえ)を拝(おろが)み奉(まつ)りて、恐(かしこ)み恐みも曰(ももう)さく、

大神達の広き厚き御恵みを辱(かたじけな)み奉り、高き尊き神教(みおしえ)のまにまに、直(なお)き正しき真心もちて、

誠の道に違(たが)うことなく、負ひ(おい)持つ業(わざ)に励ましめ給ひ(たまい)、家をも、身をも、健やかに、栄えしめ給(たま)へと、恐み恐みも申す。 』

さて、お読み頂くとわかりますが、この祝詞には古伝の神仏習合時代の本尊ー勝軍地蔵や修験道系の大天狗・太郎坊、現代の神式の火産霊命などを全て愛宕大神(あたごおおかみ)の言葉で統一し、それに伊勢系の太陽神・皇祖神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)を加えて礼拝しています。

あえて、陰陽五行で規定すると陽の火性の祝詞ですね。つまり火や熱の支配者の火神・太陽神に祈り、火災を予防し多くの加護を頂こうという祝詞です。

ちなみに、防火以外に全体的な除災や開運効果もあります。色々な意味でなかなか珍しい祝詞ですね。

さて、今まで私はいろいろな神仏の祭文や祝詞、讃歌、経文を紹介してきましたが、勿論ですが別に全て暗記する必要はありません。皆様が信仰する神仏関連のお好みのモノだけ覚えて頂き、ご利用いただければ幸いです。

下手に覚えても、信仰していない・信仰する気のない神仏のモノを覚える暇があれば崇敬する方の祝詞・経を一回でも多く真摯にご神前で本尊様の前で捧げ朗誦して関係・加護を深めたほうがましですからね。

(ある方から「やはり、少しでも多くのモノを知っているほうがよく、出来れば今まで記述された全てのモノを覚えたほうが良いのですか?」とご質問いただいたので、多くの方には言わずもがなですが、あらためて記述しました。)

それでは、今回はここまです。

「貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・」

皇悠、拝礼。

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2008年10月29日 (水)

愛染明王について

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。なんとなく書きたい気分でしたので、三連続でアップしました。

さて、今回は日本密教特有の尊格である明王の1つである愛染明王(あいぜんみょうおう)様の紹介です。これで不動・大威徳・六字・大元帥と来て明王部の仏尊は五人目の記述ですね。

さて、梵名でラーガ・ラージャ(Ragaraja)は、インドなどの仏典にその名は見られず、また、インドでの作例もまずない不思議な忿怒形(怒り顔)の仏尊です。

なお、サンスクリット語では「ラーガ」、「ラーガラージャ」、「マハーラーガ」などとも呼ばれ、「ラーガ」とは赤、愛欲の意味で、古代インドの神の名前です。よって愛染明王との関連をいう人も多いですね。また、元来ラーガという言葉は、染付け、色つけなど染色の意味もあり、やがて愛着とか、執着とかを意味するようになりました。

加えて、ラーガの漢訳語として、もっとも頻繁に用いられるのが貧、貪欲ですが、愛着と染付けを合体しますと、愛染という言葉も出来上がりそれが和名になりました。 また、ラーガというのは、色の中で赤色を意味します。この為、愛染明王様の尊像は、身体の色が赤いものが多く、さらに光背は日輪を表す円形をしていますが、これもまた、赤い色が塗られています。まあ、元来密教では愛欲関係・敬愛関係を赤で彩色・象徴するので当然といえば当然の配色ですね。

さてまた、胎蔵・金剛界の両部曼荼羅にもその姿は何故かこの愛染明王様は描かれていませんが、金剛王と大日如来を本地として弘法大師が唐から伝来させた「金剛峯楼閣一切喩伽喩祗経」(喩祗経)の所説にもとづき出た正当な明王様です。

なお、『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』では、愛染王品第五に「三世三界中一切無能越 此名金剛王頂中最勝名 金剛薩捶定一切諸佛母」とあり、つまり「すべての世界でこの明王を越えることができない。 この明王の名は金剛王の中で最高である。金剛薩捶は、(この方を)すべての仏の母である(と定めました)。」と記述されています。なんとも、すごい賞賛です。ちなみに全ての仏の母とこのように表現される方は他に仏眼仏母尊や文殊菩薩様などがいます。

また、別の説で愛染明王様の起源を学説的には不明ですが、愛染明王の真言の一つの「フーン タッキ フーン ジャハ フーン」から、後期密教における十忿怒尊のタッキ・ラージャ(カーマ・ラージャ)と関連あるとし、タッキは正確な語源は不明ですが愛とか死を意味するとも言われ、また、タッキをダーキニー(茶枳尼天)に求める説もあります。また、ダーキニーはしばしば魔女とされることから、タッキ・ラージャを邦訳するならば魔女の王といったところですね。タッキはあるいは失われた神・仏格か俗語なのかもしれないですが・・、それに関連して、愛染明王様の前身をダーキニーとする考えもあります。つまり、ダーキニー→クラスチェンジで愛染明王ということです。

なお、同じように弓持つギリシャ神話のエロス(ローマ神話のキューピッド)と同じルーツという説もあります。

では、具体的なお姿を見ていきましょう。

まず、目が三つあり、それは三界(あらゆる世界)を見通す事を示してます。この三つの目には三徳、仏部(如来)蓮華部(菩薩)金剛部(明王)の仏の威徳の全てをこの身体の中に有している事を表しているそうです。また、額に第三の目を持ちますが、俗にこれを女性器を表したものだという説があります。しかしその出典は不明で、真偽も不明の俗信です。

その頭に被っている獅子冠・忿怒眼は仏敵を降伏させる事を表し、頂上にある五鈷は衆生の五智を成就させる事を表し、天帯(頭に巻いた帯)は何も聞かずに如来自身の持つ清らかな欲望の心を知る事が出来るほどの帝王である証である事を表しています。

また、その腕は六本、これは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道の全てを救う意味です。その持ち物の順番は右手には手前から順に五鈷杵(ごこしょ)・矢・蓮華、左手は五鈷鈴・弓・握りこぶしです。

ちなみに五鈷杵と五鈷鈴は健康や息災、時には恋いのライバルや、嘘、不純なモノなどから守るため。矢と弓は恋愛を叶えるため。蓮華と握りこぶしは、女性の優しさと男性の力強さを表わします。蓮台の下の壷は宝瓶(ほうびょう)といって真理、智慧、悟り、の三つの徳の宝石がはいっています。また、握りこぶし内に祈祷の目的毎に願いを書いた紙・象徴の描かれた紙を持たせ祈祷する方法・説もあります。

それ以外にも、天に向かって弓を引く容姿で描かれた姿(高野山に伝えられる「天弓愛染明王像」等)や、双頭の不動明王と合体したモノなど異形の容姿で描かれた絵図も現存してます。

さらに、日本密教では伝法の系譜で大日如来---金剛薩捶---愛染明王という流れがあり、太陽に縁が深いので日輪のなかに坐っています。

さて、弘法大師によって日本に伝えられた愛染明王は、特に鎌倉時代以降に広く信仰されるようになりました

この愛染明王は広く本尊として息災、増益、降伏で修法されますが、特に敬愛を祈るのを愛染明王法といい、敬愛法=愛染明王というイメージがありました。また、愛染という字義からか、特に女性の信仰の対象になりました。ちなみに、わが国における信仰は、12世紀ころ、白川・鳥羽院政期に真言宗の広沢流(仁和寺)系の僧侶によって、もっとも華やかに展開をみたとされています。(ちなみによく言われる源氏の八幡信仰、平家は厳島と来るなら愛染明王は春日と並ぶ藤原氏の歴代の長などが頼りました守り神・本尊の一つです。さすが、天皇家に自分の娘をどんどん嫁がせて子作りさせ、血縁関係で権勢を確保した一族と長ですね、崇め頼る方も愛欲と子授けの仏です・・・。閑話休題)

また、この愛染明王には「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」とする功徳も持っているそうです。

さて、この愛染明王様はとてもご利益がある代わりに、とても恐ろしい仏様で、仏像を専門に彫っている仏師の人達の一部では『愛染明王を彫ったら命を取られる。』と言われるほどです。

ちなみに具体的な御利益は有名な愛染明王の十二誓願で判ります。では、以下に上げてみますと、

『智慧の弓、方便の矢を以って愛敬を与え幸運を授けよう。
悪心を加持して善果を得せしめよう。
三毒の煩悩を破って浄い心を起こさしめよう。
諸々の邪見驕慢の心を離れて正しい心に住せしめよう。
諸人との争いの縁を断って一生平和に送らせよう。
諸々の病苦と天災の難を去って天寿を全うさせよう。
貧弱飢渇の苦を除いて無量の福徳を与えよう。
悪鬼邪神の厄を払って安穏快楽ならしめよう。
子孫の繁栄と家運の増長を守って福緑を断たせまい。
前世の悪業の報いを清めて後生は浄土に生まれしめよう。
女人には愛を与えて良縁を結ばしめ善児を授けん。
女人にはお産の苦しみを免れしめ、生まれた子には福徳愛敬を授けん。』

の以上です。

さて、この愛染明王は日本では教理的に金剛愛菩薩がもっとも尊格としては近く、インド伝来の愛の弓を引く弓をもつ愛の神を取り入れ、密教の菩薩として解釈されたのが金剛愛菩薩であり、その憤怒尊が愛染明王ではないかという説もあります。

また、真言宗の常用経典の理趣経を表す仏が愛染明王という説もあります。

なお、愛染明王信仰は、また「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護神としても信仰されてもいます。さらに愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっています。

さて、以前に不動明王様の記事でも書きましたが日蓮系各派の本尊(髭曼荼羅)にも不動明王と相対して愛染明王が書かれ、空海によって伝えられた真言密教の尊格であることから日蓮以来代々梵字で書かれてますが・・・。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされます。

では、ここで愛染明王様を理解し易いようにある愛染敬愛法をされる祈祷師の方の考えを引用・紹介しますね。

『神仏は人の持つさまざまな感情面を示したものだと考えられる。人間そのものは大日如来であり大日如来から派生した諸仏の側面をもつ。よってこの派生した諸仏は人のそれぞれの面を表したものである。世で一般に信じられているような、どこかに偉い神仏が鎮座していて、我々はお願いするということではない。

仏は人の一面をあらわしており、その一面をコントロールし易くする為の方法論が密教であるという方法論です。

つまり、例えば愛染明王が対人関係を支配するのではなく、我々の人の対人関係を表した姿が愛染明王だ、と考え、愛染明王の存在意義が、自己愛から成る他者への愛からスタートし、すべてを自己のごとく慈しむことができるようにというのは人間の辿るべき理想を示している。

愛染明王に祈るということは、自己という小宇宙の中で、愛染明王である部分をクローズアップすることで、それにより小宇宙から外界という大宇宙へ影響をつむぎだすことに繋がります。

古来、密教のみならず宗教ではあやまったアプローチを神仏にすると罰があたるという。しかし、上記のように考えると、自己の内面を変えたところで罰のあたりようもない。例外があるとすれば、願望により自己もしくは関係する相手の不利になる場合だろう。

愛染明王にお働きいただくには、愛染明王像を見ながら入我我入(にゅうががにゅう)の瞑想をします。

密教では身口意(しんくい)が一致していることが必要。よって愛染明王の画・像を見つめ(身)、真言を唱えながら(口)、愛染明王の特質を語り、愛染明王の精神(意)を思いと同化し、自分と愛染明王の境界がない状態、つまり自分の愛染明王の部分に集中します。

その状態で、明王(自分)のもつ弓から放たれた矢が、一筋の光となり、自分と相手の心をつなぐ糸に変化する様を瞑想します。そして相手が見事、想いを受け入れ、同じように光り輝く状態(互いに尊敬しあう状況)を瞑想するのです。』

以上です。

さすが、現役の祈祷僧ですね、なかなか含蓄のある教えです。

ちなみに敬愛法とは人と人との争いをなくし、多くは夫婦間、異性間、上司と部下間などの全ての対人関係を良くするための法です。

ちなみに根本愛染明王真言は

『オン マカラギャ バサラ ウシュニシャ バサラ サトバ ジャクウン バンコク (ウン タキウン シャ)』

訳:オーム・大愛染金剛最勝尊よ、金剛薩捶よ、弱吽鑁斛

よく、十万遍唱えると大臣になれるとか(正確には王の師とか帝の友人などと表現されますが・・・)、万人に敬愛されるとか次第書に書かれてますね。

さて、基本的に仏教では特に男女間の敬愛・恋愛や性愛などを神聖なモノというよりも、煩悩・欲の最たるモノと考え、穢れた忌避すべきモノと考えています。よって、タイなどでは僧は女性に触れただけでそれまで積み上げた全ての功徳を失うという考えすらあります。また、女性の僧・尼を認めない仏教の宗派もあります。

ですから、日本のように僧が尼僧と共に修行したり、妻帯するのはかなりの異端の習慣です。そういう意味でも性愛を肯定する愛染明王信仰が日本にしかまずないのも日本人の精神性を表しており、興味深いです。

それでは、今回は此処までです。今回も長々とお読み頂きまして、ありがとうございます。お役に立てば幸いです・・・。

では、いつもの『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』

なお、現在、愛染明王様の祈祷僧として有名な方に、吉野山人でネットでは知られる金峯山修験本宗宗務総長・金峯山執行長の田中利典師がおられます。師はもう20年以上、自坊の愛染明王様に月供養等で願掛けし、見事に宗門と自坊の復興を成し遂げられました。さらに、師は吉野を含む熊野地域を世界遺産にした影の功労者の一人です。

師は修験道の代表・宣伝マンと自認するように多くの活躍をされるのでご存知の方も多いと思いますが、師の著作は平淡な中に伝統と体験に裏付けされた真実があります。修験道の信仰者・宗教者としての飾らない話を知りたい方には、お勧めです!

では、皇悠より・・・orz。

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稲荷・荼吉尼の真言とその信仰

どうも、皇悠です。

いつも、御覧頂きましてありがとうございます。さて、今回は私が愛用しています稲荷・荼吉尼の真言の紹介です。

近年、稲荷行者の中村師や飯綱行者の羽田師、日本の秘教研究の藤巻氏などの活躍で稲荷/荼吉尼系の真言はそれなりに知られていますのでご存知の方はいるかもしれませんが・・・?

さて、今回、私が紹介する真言はこれです。

『 オン ダキニ サハハラキャテイ ソワカ 』

日本語訳の意味は『おお(orああ)、偉大なる人喰い神(ダキニ)よ その眷属(の人喰い鬼たち)よ 恐れ(称え)申し上げます 』

または『おお(orああ)、人喰いの強き華(の如きモノ)よ 恐れ(称え)申し上げます 』です。

ただ、単純に考えるとこの真言はダキニ(及び稲荷神)の最大の特徴であり忌避される面、人喰い属性をあからさまにか、あえてか判りませんが称えているだけに見えます。

しかし、これには複雑にして深い意味があります。それはキリスト教のアガペーの思想や大乗仏教の慈悲の理念、真言・天台宗に特有の曼荼羅思想、大地・農耕系の豊穣神が抱え込まざるを得ない暗黒面、無我及びチベット系の断(チュウ)派の般若論、ヒンディ教のバクティ(熱愛系)信仰の特にクリシュナ及びカーリー・ブラフマン崇拝に繋がる信仰の極地形などと共に、人類の戦乱の歴史上で起きた恐ろしい思考様式なども見て取れます。

それは「何故、どう考えても我々の命を奪う忌避すべき人喰い鬼・夜叉神たるダキニを崇めるのか・・?」「何故、人喰いの属性の神としてこの真言では称えているのか?」と考えて見ますと答えが出ます。

正直に言いますと、二人目の古神道系の師からこの真言を習いました際、どういうことかまったく判りませんでした。しかし、教えを受け、さらに自分で考え調べてみますとこの真言が廃れず残り続けた意味と必要性が判りました。

書くとすごく長くなりますが今回も書きますね。なお、ある程度、判り難い言葉を省いて書きます。

まず、当たり前のことですが現在の貿易大国になるまで基本的に食料を得るためにわが国は代々農業を営んできました。今のような食料自給率が50%以下になるまで牧畜や貿易、工業や工業ではなく我が国の基本産業は農耕でした。また、多くの国でも基幹産業が農業という国・地域はゴロゴロあります、たとえばアメリカの中南部地帯やフランスなどは現在も大農業国です・・・。そして、あまり自覚も意識もされませんが、農耕には豊かな実りのためには二つのモノが必ず必要で行われます。

それは、あまり話題になりませんが、一つは畑を荒らし実りを奪う盗人・動物・害虫などの排除とその殺生行為。

そして継続的に豊かな実りを得るために田畑の肥料にすべく動植物を殺生しその死骸の確保し利用する事です。

(今ではこの日本で化学肥料などで動物などの死骸を使う事自体は減りましたが、虫や鳥・野生の鹿・猿・猪に人などから田畑を守るために駆除・間引き・監視することは普通に行われています・・。)

つまり農耕という行為自体が継続的な殺害行為を含みます。その為、農耕神・豊穣の神は一面で殺人を含む殺生を肯定し行う神でなければなりません。ただ、土を耕す行為だけでも大地にいるミミズや虫を鍬で切り殺すのですから殺生行為の肯定は仕方ありませんし、必要です。ある意味で、大地の神・豊穣神はその豊穣・恵みの代わりに血を望み殺生を望む神でなければなりません。そういう意味で、元来血を肉を好み、多くの恵みを与えるとするダキニは適切な神になります。

(また、それ故に戦国時代に仏門の大地の仏、慈悲深き地蔵菩薩は勝軍地蔵という戦の神という形を持つようになりましたし、またインドなど古来よりの農業国では豊穣・恵みの神は一面で血や戦いを好む神(カーリーやシヴァ、ビシュヌ、ドルガー・・・)として存在していす・・・。閑話休題)

また、日本の大日系の曼荼羅思想では曼荼羅上の食人鬼や魔性なども仏の表れ、大日の化身と考えますから、けっして空海の請来以来曼荼羅に配置されたダキニを忌避することは出来ません。それどころか称える位の気概が必要です、彼らも崇拝すべき大日・仏なのですから・・・ね。

さらに、キリスト教のアガペーの考えや大乗仏教の慈悲思想では不遇者・弱者などが代表的ですが、他者のために信仰者が身の粉にして尽くし救うことを礼賛しますから、人を食べるしかないという(不遇の)境地にいるモノ=ダキニに自らの身体を捧げることなども大変な善行ですし、基本的に忌避しえません。事実、チベツトなどでは慈悲の思想より死者の肉体をハゲワシなどの猛禽に捧げる鳥葬が近年まで普通でした。

そして、それが自らの信仰する神仏のためならば・・・。自らの信じ愛し崇める神仏の為に、供物を用意するのは信仰者として当たり前の考えです。そうするからこそ加護が得られ日々守られますからね。

よって、その神が人喰い(肉食)ならば自他の生命を奪い殺しその肉片で宴・供物を用意するなどは信仰者としては当たり前の考え・行いにすらなります。事実、古の諏訪信仰やカーリー崇拝や観音信仰の源流の一つのビシュヌ信仰ではそれをしました。神のための自殺・他殺、狩りを・・・。

更に戦乱の際に一番に信頼し役に立つ=信じるに値する神は、自らの身を守る神よりも自らの身を危うくする敵・存在を排除し滅ぼす神です。つまり戦いならば勝利をもたらす神=敵を殺してくれる存在ですね。自分の身を守れても戦争に負けて、奴隷や臣下になるのは本末転倒ですからね。

よって、人を喰うモノがいて、それを信仰すれば自分は食べれれずにすむ上に、自分の敵が人ならばそのモノに喰べてもらえば良い。まして(人)肉を饗すれば饗するほど加護が得られるのなら、敵を殺して捧げれば捧げるほど信仰の証になるし殺生の罪悪感も抱かないで済むと戦いや殺人・殺傷を恒常的に行い続ける事が宿命・生業の者にとっては稼業=信仰行為・礼拝供養ですから一石二鳥以上ですよね。

ごく普通に稲荷/荼吉尼は良くある豊穣・農耕の神だから日本で信仰されたとかは浅い見解です。江戸時代初期まで日本の農業従事者は基本的に武装したパートタイムソルジャーでした。(ちなみに武田軍や上杉軍など多くの戦国武将が長く決着が付かないままダラダラ続いたのは、彼らの主力が基本的に一年の内で半年は農耕をしなくてはいけないパートタイムソルジャーだったので相手を殲滅する前に戦争を切り上げる必要があったからです。逆に戦国時代に織田家が信長の時代から台頭した理由の一つが彼の主力がフルタイムソルジャーつまり専業軍人・本格的な武士団に変わったからです。閑話休題)

さて、これらのような考え・背景から武士や百姓を中心に日本で稲荷/荼吉尼に対する信仰が広がり支持されました・・・。

勿論、稲荷信仰が爆発的に広がった戦国時代前後では、百姓も武士も関係なく日本中で日常的に戦場で万人が互いに殺し合い奪い合いをしていましたのもあります。あの時代はいつ殺され奪われるかわからない時代でしたから・・・、だから神仏に頼る心は今とは比べものになりません。

ちなみに、この自らの命を捧げる・殺人を肯定し戦う信仰様式には他にも幾つか理由・利点があります。例えば、我々の恐怖心や多くの業・煩悩は自らの命を惜しみ肉体を維持したい欲望から来ます、逆に言えば捨て身・自暴自虐になってしまえることは、色々な面で一つの有効な手段・武器になります。また、戦争時に自分が敵が味方がかのカミカゼ・アタックが出来るか否かは殺し合いをする際、一つの大きな要素です。その為、専門用語で死兵とも呼ばれる捨て身・死を覚悟した兵士を作ることは軍人教育の大きな目的です。その為、多くの戦国大名などもこの人食いのダキニを大いに率先して信仰をし、広め始めました・・・。

ちなみにこれに歴史的に大成功したのが旧日本軍と一向宗、そしてアサシン教団などですね。その基本的なやり方は殺人=善行、死後の平安・来世の保障でした。そして、現代でも海外のニュースにたまに聞かれる聖戦とかジハードなどの言葉にこの信仰様式・理念の残滓が見られます。

さて、まだまだ、この稲荷/荼吉尼の信仰・真言については考察・記述したいことがありますがかなり長くなるので、今回はここまでです。今回は稲荷・荼吉尼の人喰い属性から考察してみました、お役に立てば幸いです・・・。

それでは、『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。』

皇悠より。

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大元帥明王について

何時も、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は、かなり過激な戦闘仏の大元帥明王様、(東密では伝統的に「たいげん」と読みます)の紹介です。

この方は、古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴァカ(Āṭavaka)直訳すると「林に住む者」、「林の主」で漢訳ですと「広野鬼神大将」です。元は 毘沙門天の眷属である八大夜叉王の一人でアタバク夜叉大将ともアタバカ鬼神元帥とも記述されます。

さて、このアータヴァカとは本来、辺境を守護する屈強な山岳民族アータヴァカ族のことで、インドの支配階層・アーリア人にとって彼らは慰撫しがたい戦闘民族であったが、逆に手を結び国境の警護に当たらせることで国を安定させる者たちへと変化したと言われてます。これは中国や日本でもたびたび行われた蛮族・異族を形式的にでも従属させ他の蛮族に利用したということっすね。故事に曰く「夷を持って、夷を制す」です。

また日本の御霊信仰のように、弾圧・迫害した彼ら・彼らの祖先を祀ることでその霊の復讐・災難を抑えようとしてアータヴァカという夜叉神が生まれたのではないかという見方もあります。

さて、このようにアータヴァカは、インド神話において弱者・子供を襲って喰らう悪鬼神とされましたが、密教においては毎度お馴染みの大日如来の教化・功徳により善神へと変じたとさrてます。なお、別の伝ではお釈迦様に出会い佛法に帰依し勇猛果敢な軍神となるとされてます・・・。さて、その慰撫しがたい大いなる力は中国・日本では個人の願いに留まらず、国家をも守護する護法の力へと転化させられます。この辺の流れは某ダキ〇天様が日本の宮中で尊崇された経緯と被る気がするのは私の気のせいでしょうか・・・?

なお、大元帥明王は大元帥の名が示すとおり、明王の最高尊である不動明王・愛染明王などに匹敵する霊験を有するともされ、一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」とすら記述されます。

まお、日本への伝来は、『続日本後紀』によれば空海の弟子で小栗栖の常暁によって請来され、常暁は栖霊寺・文祭から太元法を受けて、諸尊像や経軌を書写して持ち帰り、840年(承和7年)に法琳寺(江戸時代に廃寺になりました)に安置されて以降、宮中で修法されるようになりました。なお、鎮護国家・戦勝・外敵降伏の呪力を持つ明王とされたこの尊の「太元御修法」(たいげんのみしほ)は極秘とされていた。以後、日本においては「太元御修法」の本尊とした禁裏・宮中に於いてのみ重用され19世紀まで国家の大法として脈々と秘術が行われます。

ただ、常暁以後入唐し秘術を習得した僧侶もいましたが、まず帰国は出来ずに五大山などで殺害され、また中国での密教の没落後は、この法は日本でのみ存在するとも伝えられます。

さて、大元帥明王は国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われ、「戦勝祈願」・「怨敵粉砕」「領土防衛」の祈願として宮中では古くから大元帥明王の秘法(大元帥法)が盛んに厳修されましたが、この辺の動きは、チベットにて大威徳明王こと金剛畏怖の修法が流行り使われた歴史とほぼ同じ動きですね。ただ、日本では僧侶と権力者が別人で分離していますが、かの国でほぼ同一人物が多いというのが違いといえば違いですが、所変われども人のやることは変わらない証拠がここにあります。

なお、古い大元帥明王の仏像は奈良市は秋篠寺に日本で唯一の像がありますが、秋篠寺では秘仏として安置され、時代的にも多分・最古のこの尊像は鎌倉時代の作ですね。また、そのお姿は絵巻や掛軸等は全国に残りますがその数は多くはなく、描かれた姿も一面六臂からその姿は四面八臂、四面四臂、六面六臂、八面十六臂、十八面三十六臂などまで様々です。

さて、この秋篠寺に残る大元帥明王像では一面六臂(手)の憤怒相であり、東大寺の仁王像を彷彿とさせる筋骨隆々たる逞しい体つきで六本の腕に武器を構え、軍荼利明王と同様、身体に蛇を巻き付けている。顔はもはや憤怒相を通り越してまさに鬼神そのものとも言うべき恐ろしい相であり、髪は怒りによって天を衝くように逆立ちます。(なお、某少女小説・〇殺鬼シリーズでは、この方の姿をTVや映画で有名な大魔神と形容しています・・・「上手い!」と驚き、この記述を始めて読んだ時は吹き出しました。)

なお、軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王から取られているという説もあります。

ちなみに大元帥明王様の真言は「ノウボウ タリツ タボリツ ハラボリツ シャキンメイ シャキンメイ タラサンダン オエンビ ソワカ」
 
さて、次にこの恐ろしい忿怒の仏様のその縁起を少し転記しますね。

「「たいげんみょうおう」とは、大聖無辺自在元帥明王といって、宮中においてのみ修せられるべく御治定の鎮護国家の大法大元帥御修法(たいげんのみしほ)の本尊として重んじられて、何地においても勅許を得ざる修法、尊像の造顕奉置も禁じられ、その結果日本で唯一の像として、奈良の秋篠寺のみに伝えられている」そうです。

ちなみに、儀軌・次第書・経典などではこのように記述されてます。

『阿娑(?)薄倶元帥大将上陀羅尼経修行儀軌』
『我信じ我礼し我帰し奉る元帥大明王、此れは此れ大毘慮遮那の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生の父母にして不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の功徳心等一切を摂して衆徳荘厳せり。

或は金剛忿怒の相を現じ、或は菩薩大慈悲相を現じて類に随って擁護したまう。今願力の故に以って大元帥明王となし、諸尊中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。

若し一切世間有情の類、宝呪を持し宝号を称せんに、内外諸障を除きて、必ず世間出世間の願にこたえん。菩提心を成ぜんと願じ、乃至金剛心無畏心に住せん等の出世間の大願を発せんに正法護持の故に悉く願成就せん。

又衆生あって、正因縁に住し、災を息めんものは即ち願成就し、栄福を求めんものは即ち願成就し、勝利を為さんものは即ち願成就し、横病を離れんものは即ち願成就せん。明王の名を聞いて一度讃嘆せんものは、世間の宝果悉く円成す。』

さて、では歴史にどのようにこの戦勝の大元帥明王様が関わったかを見てみますね。

まず、有名な所で西暦939年、朝廷に反旗を翻した平将門は勝手に天皇に即位して、「新皇」と名乗ります。この反乱・将門の乱にあわてた朝廷の意を受けて、京都・東寺の高僧泰舜は、将門調伏の秘法を執り行いました。そして、修法のさなかに壇上にはおびただしい血がしたたり、さらに秘印を結ぶと、独鈷杵(とっこしょ)という法具が半分に折れてはるか東に飛んでいくではありませんか。まさにこの瞬間、平将門は藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されたといわれています(東寺文書『真言伝』による)。では、いったい、将門を討ち取ったこの「秘法」とは何でしょうか?

これこそ「大元帥法」(たいげんのほう。「帥」は発音せず、大元明王の法とも書くモノもあります)で、我が国の最高の密教秘術とされてきたこの法の私の知る限りで、一番古い日本の政治/歴史での活躍の記述です。

なお、この秘術は請来以来、毎年の正月8日から14日までの7日間、宮中の治部省で、国家鎮護のために行われていましたが、国の最高の法なので、朝廷以外で行われること自体が固く禁じられていましたが、ところが995年、藤原伊周がひそかに執り行い、大事件となりました。

これが世にいう長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれる政変で、これをきっかけに藤原伊周を排除した藤原道長が大権勢を振るう事になりました。

この時、どうして大元帥法が問題になったかというと、この法は正月以外に臨時で行われる事もありますが、それは基本的に当時の政権の戦争時の敵への戦勝などのためにやるのです。つまり国家の敵を潰すため・・・。要は、藤原伊周の行為は、大げさでなく当時の政権・天皇家への革命と見なされたわけですね。 

さて、この敵国降伏の秘術が次に大々的に行われたのが、元寇時でした。ここで元寇について詳しくは書きませんが、2回あったのはご承知の通りですね。

☆文永の役(1274年10月)と弘安の役(1281年5月~7月)です。

そして、ほぼ有史以来初めての外国(正確には日本の政権担当者が別の国家・政権)からの侵略・宣戦布告された事に対して、当時の最高権力者たち、鎌倉幕府・亀山上皇などはなり振りかまわずに伊勢神宮や春日神社、日吉神社などに参拝し、多くの寺社に祈祷を依頼、勿論大元帥法も大々的に執り行いました。この時、上皇は「我が身をもって国を救え」と宸筆(直筆)の願文を書いたほど・・・。同時に日本中で有志による「敵国降伏」の祈願が数多く行いました。これらの記録は尾張の性海寺や阿蘇の宮原両神社など、当時の記録はいくつもの社寺で残っています。

そして、その挙国一体の大祈祷の御蔭で神風が吹いたわけですね。台風で元国の約6万艘が沈んだというんだから、これはすごい神風です。

ちなみに、最近の研究では、文永の役では神風は吹かなかったとされています。今の暦では11月の終わりにあたり、台風が吹くわけがないからだそうです。事実は単純に偵察のため、最初からすぐに引きあげる予定だったというわけですね。また、弘安の役ではたしかに台風が来たようです。ただ、日本側は石の要塞を約20キロにわたって作っていたため、蒙古軍はなかなか上陸できなかったのでかなり運が絡んでいたそうです。つまり、彼らの得意な騎馬・陸上による戦いではなく、海戦で上陸できずに慣れない海に停泊していた所に台風が来たという訳ですね。

さて、近世では、日清、日露戦争では大元帥法の記録はありませんが、実は太平洋戦争では大元帥法が執り行われたと言われています。高野山で護摩を焚き続け、フランクリン・ルーズベルト大統領を暗殺したというんですね(1945年4月12日に死亡)

ただ、これはネットや一部の書籍上ではよく見る記述なんですが、公的な資料で確認が取れないので、多分後世作られた伝説でしょうか・・・。そういえば、某mu-で記事を見た記憶がありますが・・・。

さて、現代の大元帥明王法の使い手としては真言密教僧の観蔵院和田住職が有名ですね。師は同法などによりさまざまな難病患者を癒し、また世間のいわゆる超能力・オカルトブームを痛烈に批判しながら、密教の教えや加持祈祷の原理などを判り易く説かれています。

さて、今回はここまでです。御役に立てば幸いですが・・・。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

近頃、長文書き気味の皇悠より・





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2008年10月27日 (月)

六字明王について

何時も、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はメディアで大活躍の某〇モ女史が自らの祈祷本尊・守護仏にして有名な六字明王の紹介です。

さて、この明王でありながら菩薩形で表される特異な明王様、六字天・黒仏・黒六字とも呼ばれる事もあります。六観音の修法や六字経法の本尊ですが、特に関係教典などに全く像の姿は説かれず、古来より典拠不明という怪しいお方です。

陰陽道との関係のなかで生まれたのか、そのお姿を描かれた曼荼羅などを見ますと暦の十二支に似た魔神・鬼神が周囲を侍っています。

さて、その姿を詳しく見ますと一面六臂の菩薩形[青年のインド貴族風]で、頭部に猿猴冠をいただき、腹前で左右第一手で陰陽反閇印を結び、四手で日・月・戟・剣を持ち、右足を引き下げて左足で蓮華座に片足立ちしているのですぐに判ります。

その御真言は

『オン ギャチギャチ ギャビチ カンジュカンジュ タチバナ ソワカ』 

この真言を唱えれば、伝統的に『除災(祓い)、それと特に呪い返しによる怨敵降伏』の効果があるとされます。

さて、この六字明王様はたしかに調伏法の本尊として修法が昔はおこなわれていたのですが 、この尊格は本来、そんなに分からない尊格ではないです。『荘厳實経』では如意輪観自在菩薩 の真言である「オン(帰命)マニ(宝珠)ハンドマ(蓮華)ウン」という六字大明
を特に尊格化したのが六字明王であり如意輪観音の変化身と考える事ができます。

さて、基本的にここまで記述して何ですが、明王にしろ観音・菩薩にしろもっと使い勝手の良く、更に多くの面・分野に応用が聞く仏尊はいるので私としては、啓示・夢告などの向こうからの思し召し(と偶然)でもないとお付き合いしない方の一人で、お勧めもしません。

ただ、本当のこの方の代表的な往古の儀式は、水辺(時に船上)で行うモノなので、使い勝手の悪さとあまりに権能が限定的なため、廃れ忘れられて当然の神仏の一人です。正直なところ、幾つか経文・次第書を見ましたがとても現在では出来ない大掛かりなモノでした・・・。

さて、此処から悪口です。正直、某女史は六字明王の使い手として名を馳せますが、私が見るところで術師としては二流です。彼女は修験・真言宗系の出と名乗り、その背景の下に行うような感じでいいますが、基本的な知識・教理を知らずにその術式・発言・記述をしてますので私としては彼女を評価してません。

これは尊敬する中村師のサイト(このブログからもリンクさせて頂いてます)に出ていた松山の記事を読み改めて、女史の評価は私の中で暴落しました・・。

だから、女史が独立・一派を立てたのも当然と考えています。あまりに、ズレた行為をしているので本山としても互いを切れざるをえないでしょう・・・。

正直、TVで除霊に一度目は失敗をしながらも全額、規定通りにその回の分も徴収していた姿を見て情けなくなりました。そこは普通はその分はタダか必要経費分だけだろうと思うからです。(逆に前に約束・契約していればその一回で成功すればいくら頂こうと構わないと私は考えますが・・・。)皆様はどうお考えですか?

また、女史の相談・祈祷料は聞いた話では案件に関わらず最低30万~というのも気に入りませんね。

まあ、女史を信じる方には馬に念仏ですし、僻みみたいなので今回はここまでにいたします。

それでは、長々とお読み頂きまして、ありがとうございます。お役に立てば幸いです・・・。

では、いつもの『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』

皇悠より。

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2008年10月25日 (土)

延命十句観音経について

何時も、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、前回の告知の返答シリーズは大体好評でして良かったです。これから更新が減るので良いサービスになるでしょうか・・・?

では、今回の記事はすごく短いお経の紹介です、その名を「延命十句観音経」といいます。

しかし、この『延命十句観音経』とは、いわゆる正統な「経典」ではありません。

実は仏教の「経典」の定義としては、一定の形式に則って伝えられてきた仏陀の言行録であり、だからこそ、仏教における聖典になります。しかし、この『延命十句観音経』は、末尾に「経」とはあるものの、仏陀の言行録などではなく、いわば何処かの誰かの「個人的信仰告白文」とでも言ったほうが良い内容で、しかも実はその経の教えを創始した方は不明・受け取り手の系譜は殺人者からというモノです。

ちなみに本文は以下のとうり・・・。

『観世音 (かんぜおん) 南無仏 (なむぶつ) 与仏有因 (よぶつういん)
与仏有縁 (よぶつうえん)仏法僧縁 (ぶっぽうそうえん) [*本来は「仏法相縁」、] 常楽我浄 (じょうらくがじょう)
朝念観世音 (ちょうねんかぜおん) 暮念観世音 (ぼねんかんぜおん)
念念従心起 (ねんねんじゅうしんき) 念念不離心 (ねんねんふりしん)』

ね、まさに信仰告白ですよね。

皇悠式に超訳しますと、「縁あって、仏様に従ってから何時(朝から晩まで)も私の心に観音様がいて、助けてくれるので清らかで楽しい!」です。

どこのミーハー?まさに熱狂の信徒が激白!まるでヤバイ薬をやったジャンキーか馬鹿ップルのタワゴトみたいな内容ですね。

ちなみに、この延命十句観音経の由来について記されている最も古い文献は、中国にて西暦1269年に著された『仏祖統紀(ぶっそとうき)』という書物です。

これは、南宋の天台宗系の志磐(しばん)という僧侶が、開祖・釈尊をはじめとするインド・中国の高僧達の伝記や諸宗派の歴史を編纂したもので、全54巻という比較的大部のものです。

その中の巻36に「劉宋の元嘉二十七年(450)」の事として、以下のような話が載っています。王玄謨(おうげんぼ)という武将[多分、日本のゆるい仏教と違い原型に近い救済・禁欲志向の戒律のきびしい中国仏教では殺人職種・戦闘職種の彼が仏教徒のはずはないでしょう・・・、日本の歴史にたびたび出てくるような戦国武将などのつまり大量殺戮者、政争と虚栄に明け暮れ満ちた平安貴族・政治家が僧侶を兼任出来るのは仏教としては異常です]が、北方の征伐に失敗し、斬殺されるという日の前夜、「この『観音経』を一千回唱えれば、刑を免れるだろう」という夢を見、『観音経』を授けられます。そして、王玄謨が、夢のお告げの通りにしたところ、刑執行の中止の報せがあったといいます。

そして、この『観音経』とは、現在一般に流布している『法華経』の一章たる『観音経』ではなく、上記文言のものでした。

さらにまた、巻53には、ある女性[この人も仏教信者か不明]が失明してしまって失意の中にあるとき、夢に在家の人が現れて『十句観音経』を唱えるようにとのお告げがあった話が載っています。その女性は、その人のお告げ通りに唱えると、その両目はふたたび光を取り戻したといいます。

つまり、このお経はどう考えてもメイド・イン・チャイナ。しかも、人殺しの罪人や凡人の在家が夢の中で啓示で教えてもらった経典です。

つまり、普通の僧や仏教信者が行う義務であり仕事である修行も学習も否定し、儀式や修法もなく朗誦するだけで救い助けるという恐ろしい経典です。

ほんとに罪人が読経しただけで言葉通りの意味で、験を頂き、命を救われ罪を許されるということを実証してしまい、しかも凡人が凡人に教えても(普通、験のある真言やお経は有徳な僧や学識・行を積んだ方からの伝授や解説がいりますがそれもなく・・・)病気・障害が消える下手なお経よりも色々な意味で凄いモノです。

本当に、この故事が正しいとしますと、例え毎日最大級の仏門の罪・殺人を行う人でもこのお経を毎日1000回唱えればオール・オッケーという事になりますからね。・・・どうしよう。

もっとも、そこでは「仏法相縁」となっており、現在一般に流布しているものと「僧」の一字だけが違っていますが・・・。(*「相」の字の方が意味がよく通るので、本来はこの字を使用した方が良いでしょう。でも、唱えているときは音は同じなので関係ないですが・・・)

そして、日本でこの経文が広がった理由を、江戸中期に活躍した禅の教えを庶民に平易に説いて廻ったことで知られます臨済宗の白隠(はくいん)禅師(1686-1769)という僧侶の『延命十句観音経霊験記』の中で、日本で『延命十句観音経』が広まったきっかけとして、以下のような逸話を記しています。

寛文年間の頃(西暦1663年頃)、第百十二代天皇(霊元院法皇)が、天台宗の霊空光謙(れいくうこうけん)という僧侶に対し、仏典の中で一番功徳のある経典を選び出すことを命じます。そして、霊空が選び出したのが、『十句観音経』であり、以来日本でこの経典が盛んに読誦されるようになったというのです。

つまり、ここで天皇の(今で言えばノーベル賞ぐらいの)権威・公認が与えられました。仏教徒かどうかも不明な人物が受け取った経文がです・・・・orz。

また、『仏祖統紀』にはなかった「延命」という文字を付け加えたのは、白隠禅師らしいですね。

もちろん、白隠禅師は、『十句観音経』が「経典」ではない事を充分知っていましたでしょうが、古来数々の霊験があると伝わり、今も多くの霊験があるからと人々に読誦を勧めたようです。

そして、白隠禅師が『霊験記』を著したことによって、『延命十句観音経』は世間に知られ、現在も、臨済宗を始めとして日本中で出家在家門派問わずに多くの人によって唱えられています。

正直、このお経、色々な意味でヤバイ位に効くモノです。[やはり、大体一日千唱以上を継続すると・・・]

また、上記以外に日本では北野天満宮の北野天神様(本地=本来の御姿が十一面観音様とされます)が、老僧の御姿で現れて人に伝えたとされる伝説もあります。

さて、このお経は特に観音信仰の方や禅宗系の人には特にお勧め出来る法文です。そして、観音ゆかりの神仏、北野天神・稲荷明神[如意輪]・天照大御神[観音、十一面観音]・聖徳太子[救世および如意輪]・元三大師[如意輪]などが好きな人にも・・・。

さて、今回はここまでです。御役に立てば幸いです。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

近頃、長文書き気味の皇悠より・・。

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2008年10月22日 (水)

告知の返答その4 セイタカドウジ様・伽羅様へ

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は告知の返答シリーズのラストです。

セイタカドウジ様、伽羅様、コメント及び御質問ありがとうございます。

なお、今回の両氏の質問はリンクしているように思われるので、一つの記事・投稿内で合わせて返答させて頂きます。・・・orz。

さて、まずセイタカドウジ様の御質問は、

『本地垂迹説をインドの神々と日本の神道の神々はそれぞれお認めになっておられるのでしょうか?』ですね。

これに関しては一部分からない点があるのでそれを踏まえてお答えいたします。

まず、現在の日本で崇拝されているインド由来の多くの神々は、現在のインドでは遥か昔にその信仰自体がほとんど廃れ、捨てられ消えた方々です。有名なところでは不動明王に愛染明王、大日如来に阿弥陀様、帝釈天や毘沙門天に大黒天、鬼子母神、大自在天、荼吉尼天・・・などは現在のインドの国教のヒンディ教では、マイナーor抹殺された方々です。いまだに、それなりの信仰を集めているのは弁財天様と聖天様位ではないでしょうか・・・?

ちなみによく勘違いされますシヴァ神と大黒天・不動明王などは同じ淵源の別の神仏です。よく同じ神仏とされる記事・文章がありますが、かなり違います。確か、以前にも書いた気がします・・・。

さて、そういう意味で生誕の地で忘れ去られ、廃棄されたインド伝来の神々が生き残るために、渡来の地たる日本の神々と融和・協調するのはある意味で当たり前だと考えています。

さて、片方の日本の神々は、幾つかの説話などを見る限りは仏門およびインドの神々との融和・協力に友好的に見えます。また、非協力的な神々は習合せずそのまま距離をおいたようです。ちなみに排除に動いた神々及び信徒集団は物部氏が代表的ですが戦いに負け歴史の闇に沈み、消えました。

この辺の歴史は山本ひろ子氏の中世神話(岩波新書)、義江彰夫氏の神仏習合(岩波新書)などに詳しいですね。

ちなみに、現在の神仏習合・融和の絶滅/分離状況は、どこかの神・神々の啓示・指示などではなく、明治政府およびその後継の政治的理由からであり、少なくとも日本なりインドなりの神々の意志は介在していないと思います。神仏習合の禁止令は仏門に大ダメージを与えたイメージがありますが、事実は南方熊楠などが反対しましたように、多くの神社が明治・大正と時の政府の名の下に境内、社などが奪われ伝来の祭祀も改変や禁じもされ、望まぬ移転・統廃合などをさせられましたから・・・。また、この流れは今も伊勢神宮や出雲大社などにも少なからず影響を与えました・・・。

そういう意味で、基本的に現在もインド伝来の神々も日本古来の神々も本地垂迹説、または反本地垂迹説なりを取りつつも融和・協調関係にある=それなりに認めていると思います。少なくとも時に古の作法・本地垂迹説などを基に神社で般若心経をお寺で大祓の祝詞を唱える私のようなものがまだまだいる限りは認めているようですね。

さて、この唱える事に関連して、お待たせしました伽羅様の御質問にお答えしようと思います。まず、伽羅様のご質問は以下の通りですね。

『皇悠さんのブログ、まだ全部読んでいないので、お伺いしたいことはたくさんあるのですが、とにかく、
修行の中で、祝詞や真言などを、何度も何度も唱えるということを書いておられます。

祝詞を一時間とか二時間とか、唱え続けることにより、脳内の変化が起こってくるのでしょうか。それとも別の次元の存在が、そこに興味を持ってくれるということなのでしょうか。
それなしに拓かれる道はないのでしょうか?』

さて、何故私が修行及び礼拝、儀式などにおいて祝詞・祭文・経典の連唱を勧めるのかは、幾つか理由があります。過去の記事にその理由も幾つか書いておりますので覚えている方には、またかと思われるかもしれませんが改めてお答えしますね。

まず、第一に我が国もそうですが多く国の神仏の祭礼・祈祷では基本的に信仰心とその証たる供物をささげること、代価による交換を重要視しています。そして、経典・祝詞・祭文を唱えることは良い信仰の証、供物とみなされています。また、極端な話で毎回毎回、供物の御香や食物、財物、宝石などを用意をするのは難しいので私は繰り返しの朗誦を勧めています。

次に、催眠術や洗脳、行動心理学などで証明されていますが人には何度も同じ内容を口に出し、行いますとその内容・意味・行動を自らの信念・価値基準などに取り入れ行動・生活パターンが変容させる特徴があるので、清め払う祝詞なら自然と穢れを避け浄化を心がけるようになり、富貴繁栄の経典を読み込めば自然と豊かに栄える行為をするようになるのも理由の一つです。

さらに、付け加えますと、朗誦以外の視覚化、幻視、憑依、薬物摂取、舞踏、夢見、呼吸法などにより神仏との繋がりを求め祈祷する技法は基本的にそれなりの訓練時間・熟練・才能がいるのでネットのような公的な場所では、紹介しても理解は出来ても独学の習得差は個人差が本当にひどく、また利用・応用しにくい為、あまり相応しくないと考えますので記述・公言を避けているのも事実です。

勿論、私もかつては混沌魔術などをそれなりに修めた者なので、無言・空手・無動作で幻視・夢見などだけで祈祷・儀式をすることもありますが、これはあくまで例外です。やはり朗誦あり、道具使用あり、動作ありのほうがやり易いものですので、無言・空手・無動作などはお勧めしません。

また、長く同じ言葉を唱えることによる意識の変容(俗にいうトランス状態の一種で単純作業と自己暗示系の精神疲労性トランスです)は時間がかかり、かなり大変ですが万人向けの有効性があるので勧めやすいのも事実です。

正直なところで、どんな人でも同じ祝詞なり、経典なり、祈祷文なりを、何十時間も何千回も唱えるといやでも悪魔だろうが、天使だろうが何かしら現われ見れるようになります。

(そういえば、はじめの魔術の師はある大悪魔の召喚儀式で古来の祈祷文の連唱でやるとあまりに大変で団体の会報で悪態をついた記事を書いたことがあります。閑話休題)

また、優れた舞台装置(例えば寺院やパワー・スポットなど)を紹介しても人それぞれの相性があり、更にやはりそれなりに経験・熟練がないと慣れない場所の見知らぬ他人がいる中で祈祷・儀式をするのは難しいです。

また、良い道具などを自作・用意するのはそれなりに腕や運がいるので難しく、いきおい祝詞・祭文・経典の紹介およびその朗誦などへ私のブログへの内容・記述などが偏り・比重がいくのも事実です。この辺は気をつけていますが私の力不足で難しいです。

勿論、他に伽羅様がやり易い方法があるのならば、そちらを行うのが良いと思います。私の弟子ではないので私の好みを強制しません。

正直なところで、連唱系の技法は行為自体は簡単ですが、儀式や薬物、瞑想などよりも時間も労力も慣れも要ります。

ただ、このような朗誦技法は、場所を問わず使え(異界や夢の中でも使えます)、使用前提がまずなく(瞑想は騒がしい場所や動きながらはまず無理ですし、薬物は安全が確保されないと命に関わります・・・)、道具なしに出来(儀式をイメージだけで行うのはかなりの熟練が要りますよね・・・)、何より一度強力な幻視・トランスに没入しますとその時唱えた言葉を再唱することでより早く同じレベルの状態に再体験し易く、また多くの他の技法にも組み合わせられるので私個人としては気にいっています。ただ、こういうのは最後は好みの問題ですので難しいですが、ご理解頂けると良いのですが・・・?

それでは、今回は此処までです。長々とお読み頂きまして、ありがとうございます。お役に立てば幸いです・・・。

では、いつもの『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』

今日は本当に大量に記述し、疲れた皇悠より・・・orz。

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告知の返答その3 楓様へ

いつも、御覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回も変わらずに告知の返答シリーズその3です。

御質問&コメント頂いた楓様ありがとうございます。さて、楓様のご質問はかなり長文ではありますが的確に返答するには、必要と考えますのでアップさせていただきます。

『いつも興味深く拝見させていただいています。
皇悠さんの豊富な神仏の知識をお借りして質問させて頂きます。

牛頭天王について伺います。
日本の神仏習合を表したかのようなこの神とも仏ともとれる異神を拝む事に何か注意するような事はありますか?
自宅にて祭る場合、神として祭るのがよいのか仏として拝むのがよいのかどちらでしょうか?
また多くの牛頭天王を祭っていた神社が明治の改革により、スサノオを祭神に変えてしまいましたが、それでも天王さん、祇園さんと地元に親しまれている神社があります。
そういった神社に牛頭天王を参るために行くのは良くない事でしょうか?
さらに本来疫病神であったとされるこの神を素人が験をあやかろうと拝むるのは危険でしょうか?
当方、難病を抱えておりまして、ある日夢見にこの神が現れ「生活を基本から見なおせ」と言われ、それ以来、出来る限りのことをし続けた結果、快方にむかっております。
ただ近くには牛頭天王をおく寺はなく、代わりに天王さんと呼ばれる神社に参りました。(現在の主神はスサノオです)
神社関係にても仏教関係にしても、ある種のタブー的なところがあるらしく、なかなか詳しく教えていただける機会がありません。
皇悠さんの知識で何かお分かりの事がありましたらお答えいただけると幸いです。 』

以上ですが、すばらしい見識と現代的な個人の信仰の実情がでていて大変、個人的に考えさせられました。というのは私が御祀りしている稲荷明神様も古来より神仏習合が強い神仏だからです。

まず、楓様は異神という言葉を使われましたので、異神という言葉を発明したかの名作『異神』山本ひろ子著(勿論、牛頭天王様が出ています)をすでにお読みの上でと考えて、お答えいたします。

ちなみに牛頭天王様を題材にとり扱う本では、他に『牛頭天王と蘇民将来伝説 消された異神たち』 川村湊著(作品社)、『第六天魔王と信長』藤巻一保著(学研)、『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』宇月原清明著(新潮文庫)などがありますので、よろしければ御参考に未読ならばどうぞ、お読みください・・・。

では、一つずつ返答していこうと思います。

まずは、「神とも仏ともつかない異神を拝む事」自体に特別な注意は要りません。ごく普通に神仏への敬意と感謝と作法通りの振る舞いがあれば十分です。また、「さらに本来疫病神であったとされるこの神を素人が験をあやかろうと拝むるのは危険でしょうか?」に対しても答えは同じです。基本的に牛頭天王様は庶民信仰で支えられた方なので大丈夫です。特定の神職限定の神(ある時期の大物主など)やある位階の僧限定の仏(大元帥明王など)とは違います。

次に「自宅に御祀りする場合、神として祭るか仏として拝むか・・・」ですがこれは、どこから勧請したかに依りますね。基本的にお寺からなら勿論仏様ですし、神社からなら神様としてですね。勿論、勧請(この場合はある寺社からご自宅へお迎えする)からにはそこの祭礼に合わすのが当たり前ですし、従いたくないところから勧請するのは言語道断・意味がないです。

その次の「また多くの牛頭天王を祭っていた神社が明治の改革により、スサノオを祭神に変えてしまいましたが、それでも天王さん、祇園さんと地元に親しまれている神社があります。
そういった神社に牛頭天王を参るために行くのは良くない事でしょうか?」ですが、

これは大変に考え方と術者のセンスが問われる問題ですねというのは、これは大変に重要であり、多分このような習合されていた神仏(異神)の崇拝で私が注意・気に掛かる点でもありますので、

『実に殆どの寺院・神社で牛頭天王様などの異神とカテゴリーされる多くの方々は(ー番近いもので修験道ですが・・・)元来神仏習合形式で奉られているべきモノでありながらも、現在では神式か仏式のいずれかの片手落ちの祭式でしかない祀り方で行われていて、これはまずおかしいのではないか?』という疑問があげられ

次に、『殆どの人がそれらの事実を知らずに同じ神仏のままと見做しているようだけれども、勿論ご神体が変わらなければ同じ神仏とも見做せますが、名前・祭礼などが違うということはやはり、この場合ならば牛頭天王様は実はもうお祭りしておらずに別の神であり、違うのではないか?それならば牛頭天王様として参拝するのはおかしくないか?』という考えに繋がるからです。

しかし、正直にいいますと、実際面では変な話ですが神式or仏式の片手落ちになりながらも往古の神威があるところもあれば、確実に力を失っているところもありますのでそれを考慮に入れて臨機応変に私は崇拝すれば良いと考えます。力が衰えているならできる限り往古の礼拝をするようにすべきですし、変化がなければ当世風にしても良いでしょう・・・。

ちなみに、これは、あまり使いたくない言葉ですが現状判断は霊視で判ります。

ただ、これだけでは証拠が乏しく、応用も効かず汎用性もないので、その神社なり寺院の来歴を使い判断します。つまり、祭礼変更・改名後に本殿が焼けた、境内が災害で破損した、現在は往古より利生譚(霊験)が聞かれなくなった、いまだ以前より戦災などで破損した施設の復興がなされていないなどが重なればどう考えても以前より神仏の加護・力が落ちていると考えるべきでしょう・・・。逆にそれらがないということは神威・仏の加護はいまだ健在ということですね。

(なお、あくまで個人的な意見ですが、私としてはやはり牛頭天王様とスサノオ様は別の存在だと考えますので、今でも戻さない多くの寺院・神社の改名行為などは今まで支え守ってきた方への裏切りだと考えています、そして、今でも天罰を与えずそれらの存続を許しているのですから牛頭天王様は十分に慈悲深い方と思いますね)

また、ご質問に「神社関係にても仏教関係にしても、ある種のタブー的なところがあるらしく、なかなか詳しく教えていただける機会がありません。」とありますが、それは当たり前の話でして、現在の住職や神職の彼らの殆どは明治時代そして太平洋戦争時代に自ら牛頭天王様を捨て離れた者の子孫・後継です。

ですので、当時の捨てた者たちが自らの弟子・子供に自らの恥・罪たるその歴史・祭礼・儀式を教えるとは考えにくいので、現代の多くの僧侶・神職はまず学んでいないので、聞かれても答えられないのではないでしょうか・・・?

また、万が一にも現職の彼らが知っていても自らの祖先の罪(信仰者が信仰する神仏を捨てるということは、当たり前ですがどうかんがえても大罪です)を見たくない・触れたくない・言いたくないので教えないでしょう・・・。

さて、最後に、楓様は夢見にてお告げ・・・古い言い方ですと夢告を頂き、牛頭天王様とのご縁・御加護を頂いている(これは信仰する際にやはり大変重要な事です、ほとんどの信仰者はその縁や加護が得られずに彷徨っていますから・・・)と思いますので、その感謝を忘れずに加護をいただいている方の意に沿うように日々考え振舞っていれば、思う通り感じられる通りの信仰をされても良いと感じます。ですので、今はどんな名前だろうとも由縁のある神社や寺院への参拝や牛頭天王様への信仰を持たれても十分に大丈夫&その資格がある方だと思います。

それに、もし駄目だとしたら牛頭天王様が気をつけていれば判る形でお教えいただけると思います。信仰の信は信頼の信ですから、それぐらいの信じ頼る気持ちがあって良いと思います。また、少し、楓様は畏敬の念、恐れる気持ちが強すぎる気がします。大丈夫です、同じように要所要所で導きがあるものです。

さて、では今回はここまでですが、かなり書き込みすぎて乱文ですが、些少でも楓様のお役に立てば幸いです。

では、貴方/そしてお読みの皆様に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

追伸、なお、ご自宅で御祀りする際は、金銭的には仏式よりも神式のほうが経費・初期投資は遥かに全体的に安くつき、往々にして初回に高価な仏壇(何百万円)をどーんと買い、その大投資で日々の供物の困窮を呼ぶ仏式よりも始めは安く小さな神棚(数万円)から少しずつ豪華な供物・社・神棚にする神式の御祀りのほうが、私は好きなのでそちらをお勧めします。

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告知の返答その2 エピクロス様へ

何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。

さて、今回も返答シリーズです。エピクロス様、閲覧&コメントありがとうございます。

さて、エピクロス様からは色々とご質問を頂いたので誤解があるといけないので、その全文をあげます。質問内容は以下の通りです。

『夢見術と呼ばれるような、見たい夢を自由に見れる体系化された技法は実在しますか?

 もしあるのなら、呪術的にはどういった意味や価値がありますか?

 まったくの素人でも習得するのは可能ですか?

 習得するのに必要な条件や修行法はどういったものですか?

 単純に、娯楽目的で行っても副作用はありませんか?

 夢見術を応用して何か他の術を習得できますか?』 以上です。

では、一つ一つ答えていきますが、まず夢見術は存在しますが、私の知る限りでは体系化された汎用性のある技法で教授・伝承している流派・一門は存在していません。

(しかし、今回、個人的にこの分野の質問が出るとは思いませんでしたので、驚きました。実は今まで記述・公開したことがありませんが、私の重要な技法は夢見術から来ています。というよりも私が二人の師の下で研鑽を積んだ結果、夢見術のある分野の使い手になりました。閑話休題)

また、この才が私をK師の弟子に迎えられた理由の一つ・原因・理由といまは考えています。

では、質問に戻りまして、見たい夢を自由に見るという技法は残念ながら存在していません。ある程度固定されたシリーズの夢を断続的に見る技法は存在してますが・・・。また、呪術的な意味や価値としては未来予知、千里眼、眷属および神仏との対面・交渉・契約、遠距離攻撃、力の物品の捜索などに使用が可能です。その為、多くの体系で夢の活用を考えますが・・・、実情はお寒い限りで・・・。

さて次に、『まったくの素人が習得が可能か?』ですが、これが実は一番の問題です。実は夢見術は習得する技術というよりもある種の天稟・素質が開花・練磨することで発現する類の技術群です。その為、ずぶの素人がめきめきと実力を伸ばすかと思うと、別の分野では実力がありながらも未修得に終わる場合も多々あります。

そして、訓練方法・修行方法は基本的なモノは夢の日記とその内容の分析・解釈ですね。ただ、これぐらいですとただの夢占いですが、殆どの人はここで終わります。(ちなみに不二龍彦氏の夢の辞典がなかなか使い易いですね。また、詳しい解釈の仕方や分析のコツは対面でしか伝授できない類のモノなのでここでは、省きます。)

さて、夢占いから夢見術に進化させるには睡眠中の夢からの目覚め・夢の自覚がいります。多分、エピクロス様も多くの方も無の書やカスタネダ、グルジェフなどの本でご存知だと思いますが、例の『夢の中で自分の両手を見る』というあれです。

正直、これが出来ないと先には進めません。これが出来ないと夢がただの夢のない睡眠になるという生理的移行現象に勝てず、手が何も打てません。どんなに入眠幻覚・パスワーキング・スクライングなど観想・瞑想系の技法を利用して睡眠時の夢の状態に入ろうとしても、生理的な睡眠・夢を自覚夢・夢見に変えれる機能がないとただの睡眠でほとんど終わります。

また、これは正直にいいますとセンスのある健康な心身の持ち主が十分な睡眠が取れる状態で約三ヶ月から半年挑戦してやっと出来るかどうかのモノなのでかなりの人が時間が取れず、諦め敗れます。また、センスのある人でも成功までかなりの忍耐がいるので辛く大抵は挫折します。

逆にいえば、これに成功しますと睡眠・無意識的な夢の状態の自分を任意の行動に方向付け出来る才があるわけですから、あとは流派なり自分なりの好みの行動を取るようにプログラムすれば良いわけですね。どこどこに行きたいでも、だれだれに会いたいでも、なになにを知りたいでも好みで自分の夢を方向付けが出来ます。

勿論、一度決めた行為・方向を変えるのはなかなか難しいので注意は要りますが・・・。

また、ある程度、夢の自覚が出来るようになりますと、基本的な幻視・視覚化能力は身についてますので魔術・呪術修行はかなり楽になります。これが、ご質問の夢見術の応用の出来ることの最大の点・面ですね。ただ、副作用ではないですが下手にするとサイコセンサーが壊れ、廃人・精神分裂病者(正確には統合失調症者ですか・・・)に向かいます。

また、この夢見術は個人(自分)の無意識から来るモノと神仏など霊的なモノとを感覚的に区別する才を与えてくれます。基本的に夢は個人の無意識から来るモノが殆どなので神仏や魔性との違いが浮き彫りになり易くなるようです。

さて、質問の順序がずれましたが、最後に「娯楽目的に夢見術が使用できるか?」ですが、使用は可能です。ただ、私が夢見術と考えるレベルでは娯楽で使用することはないと考えますが・・・?なぜクトルゥーに会え、弥勒と対面し、多くの高祖先徳・古の賢者に学べ、未知の幻獣・神鳥を見れるのに詰まらないそこらにあるような娯楽行為にするのでしょうか?

では、最後によい参考になる文献をあげますが、夢見術に関しては事実上、仙道家の高藤総一郎氏の絶版本と、かなり断片的な記述が散乱しますがカルロス・カスタネダのシリーズ本ぐらいしかありません。

あとは、

夢学(ユメオロジー)-創造的な夢の見方と活用法 パトリシア・L. ガーフィールド (著)白揚社ー多くの夢見術が出ています。

ナムカイノルブ師の『夢の修行~チベット密教の叡智』(邦訳:永沢哲訳、法蔵館、2000年刊行)ーこの本は夢の自覚のその先、夢を通して神仏の交流などが出ています。

以上ぐらいですね。

さて、今回、かなり基礎的なことを書きましたが、正直多くの人にとってもあまり意味のない分野を書いた気がしますが、お役に立てば幸いです。

それでは、皆様/貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。皇悠拝。

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告知の返答その1 常盤様へ

何時も、御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回から告知の返答をシリーズで記述します。ただ、内容・文章量が大変多くなりますので個別にお答えしたいと思います。

それでは、今回は常盤様(閲覧&コメントありがとうございます)のご質問に微力ながらお答えいたします。

質問の内容は民俗学の本でお勧めのモノの紹介でしたので、私にとって益があったモノをご紹介いたします。

まず、漫画からいきます。一応完結したモノを紹介しますね。

大塚英志氏の「北神伝綺」「木島日記」ーどれも民俗学ができた時代の風潮やまた当時の人々の考え方・かなり歪んでいますが民俗学を創始した人たちも出てきて彼らを理解する一助にはなります。

増田剛「御石神落とし」ーエロものですが民俗学の一分野・性神信仰と日本の歴史的習慣がよくわかります。

水木しげる『猫楠 南方熊楠の生涯』ー逸話の多い有名民俗学者の生涯がコミカルに書かれています。 講談社上・下、角川文庫ソフィア1996年

次に、まじめな関連文献・本をあげます。基本的に手に入れやすい文庫を紹介します。

小松和彦氏の

日本の呪い 「闇の心性」が生み出す文化とは 光文社カッパ・サイエンス  のち同文庫ーこの本は呪いとその祓いの重要性、広範囲の多くの呪術の概略が出ていまして、大変勉強になりました。

『憑霊信仰論 妖怪研究への試み』伝統と現代社、1982 のち講談社学術文庫ー祈祷における祓いと現在も多くの人に影響を与える憑き物に正面から考察した本です。

鬼がつくった国・日本 歴史を動かしてきた「闇」の力とは 内藤正敏共著 光文社カッパ・サイエンス 1985 のち同文庫

妖怪草紙 あやしきものたちの消息 荒俣宏対談 工作舎 1988 のち学研M文庫 ー同二書は鬼・部落・悪党など差別され忌避された一族・存在の歴史的影響を記述しています。

赤松啓介氏(同氏の本は差別・性習慣を赤裸々に取り上げているので好き嫌いが分かれますのでご注意ください)の

『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』ちくま学芸文庫

『差別の民俗学』(明石書店、1995 のちちくま学芸文庫 2005年)

『非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話』(明石書店、1986 のちちくま学芸庫 2006)

近接分野の妖怪関連から

百鬼解読 妖怪の正体とは?講談社文庫 多田克己ー多くの妖怪の由来・解説がでています。

妖怪馬鹿―化け物を語り尽せり京の夜 (新潮OH!文庫) 京極夏彦・多田克己・村上健司共著ー妖怪・歴史をキーに馬鹿話が広がっています。個人的に好きです。

さて、まだまだ、書きたいモノはありますが、まずはこの辺から入られるのが良いと思います。

かなり硬いものからエロにオカルトまで取り揃えてみました。お役に立てば幸いです。

それでは、貴方/皆様に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月21日 (火)

告知

何時も御覧戴きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、速いものでこのブログも開始してから早一年になり、そして累計でアクセス数も先日2万を数えました。また、多い日には100人以上の方が来られる様になりました。

ご新規さんも御馴染みの方も色々な方がご来店いただくようにようになりました・・・、感慨深いものです。また、それを記念しましてテンプレートを変えてみました。

さて、そういう色々な意味もかねて今回、前回の某掲示板の失敗を踏まえ、今回このブログ内で質問に対して答えようかと思います。まあ、これから記事・投稿を減らすので最後・区切りのサービスとお考えください。

なお、あまりに区切り無く質問を募集してもしょうがないので、今回も制限を付けさしていただきます。

☆期限は明日10月22日朝6時まで、質問内容は今まで掲載したブログの内容及び関連の魔術・呪術・祈祷・風水・神仏などに関することです。

基本的に呪術関連で東洋・西洋の流派は特に問題はありませんが、ただし呪術の関連分野ではありますが予言・占術関連は詳しくないので答えられませんが、基本的に答えられる範囲での質問・疑問に答えようと思います。

☆なお、質問はコメント欄に記入ください。

また、勿論のことですが、常識的に答えられないこと[特に個人のプライバシー関連や著作権に関わること]は答えられません。

また、今回は質問のレベルに対してそのレベルに応じて答えるつもりですので、簡単なイエス/ノウなどで答えられるようなモノはそう答えます。逆に具体的に返答を求める人は詳しく質問してください。例をあげると以下のような感じですね。

例1、〇〇はしたことはありますか?〇〇についてどう思いますか? 

例2、〇〇はしたことはありますか?もしされたことがあるのなら、どのような状況・目的でどれぐらいの規模・どんな儀式で〇〇をされましたか?また、その結果はどうなりましたか?そして、その経験はどのような学び・見解を皇悠さんに与えてくれましたか、よろしければ出来る範囲で教えてください・・・.。また、〇〇をされたことが無いのならばよければその理由も教えてください。また、いま行うとしたらどのように行いますか?

ちょっと例を二点上げてみましたが、どちらとも基本的に同じ内容の質問ですがどちらが答えやすく、具体的かは一目瞭然ですね。

例1ならば「〇〇はあります/ありません、〇〇は良い/悪いと思います」で返答は終わりです。

しかし、例2は具体的に答えざるをありませんね。儀式構成から人数、目的と結果また感想に工夫など書こうとするだけで何十行と書けそうですね。経験があるにしろないにしろ・・・。

今回、質問に対してはかのアインシュタイン作という名文句『正しい質問が出来れば、すでに正しい答えの半分が手に入っている』にもとずいてお答えしようと思います。

それでは、参考になりましたでしょうか、今回はここまでです。ご質問があればお待ちしております。

では、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠、礼拝・・・orz.

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2チャンネルにおける会話or記述

何時も御覧いただきまして、ありがとうございます。

さて、一部で私の2チャンネルだの記述にたいして興味があるということなのでそこでの会話・記述を書こうと思います。ただし、私が記述していないところの文章は著作権があるので要約・意訳で記述しています。

(まず前の76番目の記述者の書き込みで師の弟子が来ないかな?が記述されていました。)

77番目の私の記述(私の登場・自己紹介と告知)

どうも、呼ばれてたので来ました。k師の元弟子desu.
ある心でブログを書いてる似非妖術師の皇悠です。

チャオ! 久しぶりに来たら荒れ&廃れで驚きました。古い十年ぐらい前の情報でよければ、禁に違反しない限り書くよ・・・。
でも、混沌魔術はもう古い体系だから興味のある人はいるのかな?

ちなみに、また明日から忙しいので今日の22時まで出来ません/いられません。

それと、あれから来られなかったのは2チャンの人大杉で携帯(当方はドコモユーザー)からのアクセスが拒否されたためです。

78番目の私の記述

記述ミスで(age=空白)でアップ

79番目の私の記述

どうも、皇悠です。 すみません、上の77は間違いです。あげ間違えました。

詳しい範囲を決めてませんでしたので大枠まで、基本的に私が知る範囲での
「混沌魔術・メガ・西洋魔術それと当時の差しさわりのない範囲でのメガ一門、
KBとBPWのサファイアロツジなど・・・」について書こうと思います。

ただし、かなり基礎知識を最低限、「無の書や魔術(byクロウリー)、カスタネダ」位は読了していると言うことでお願いします。
これらの本の知識ぐらいは混ぜて書かないと私が表現出来にくいので、「それでもよければ・・・」と言うことでお願いします。

では、よろしくお願いします・・・orz。皇悠より。

80番目の私の記述

再度、すみませんでした。間違いは77ではなく78でした。

81番目の無名の質問者の登場・質問(の要約)

答えれる範囲でメガの訓練内容を教えてください。(前回の混沌魔術はここ中心で語ろうpart1にてODIO師の本BPWの自費出版本のMMMの要約がアップされ分離眼と米粒数え・高所立ちは詳しく記述されていました。よって、それ以外の訓練を希望されました)

82番目の私の記述

どうも、皇悠です。

さっそくの質問ありがとうございます。
分離眼・米粒数え、高所立ち以外ですと、シャーマニズムの定番不眠/徹夜、
姿勢制御などがありました。それと四大の克服/制御(これは人によりどのエレメントを突破するかは師の指示で決まりました)

83番目の私の記述

補足です。四大と言いましたが正確にはエレメント(メガ流の世界の構成要素)の克服です。
ただし、このエレメント区分が伝来のものか、師が加えたモノかは私には不明。

具体的には、響が某サイトでネット上に公開したような焚き火を踏み消す(師は火の上を踊ると表現していましたが・・・)などです。
ちなみに、私がした克服は秘密です。

84番目の質問者の記述(要約)

集中力がいり、心身にきつい感じがします。エレメント区分は西洋魔術と同じですか?

85番目の私の記述

どうも、皇悠です。

数が多いですが同じものです。ただ、ODIO師(以下、和名の憎悪師とします)のいうように、象徴体系ではなく信念体系ですので、物理世界の四大を内包しています。
つまり、例えば水を支配すると言うことは水に対する耐性・恐怖を持ちその上で操作・熟知が必要になります。具体的な考え方としては泳げない人は水の支配は不可能です。

このことはD・フォーチュン女師(以下D・F師とします)が心霊的自己防衛で非・人間の章でも書いていますね。

また、個人的な考えですが、集中力というよりも訓練をどれだけ真摯にしたかだと考えています。

ただ、メガの一門は正直なところ同じ教義・信仰を保持する団体・教団と言うよりも武術者集団に近く、各自の訓練・考えはかなり色々でした。
当時の雪氏と巧、響と私などの意見はバラバラでした。そして偶然会いました師の兄弟弟子のお弟子さんも考え方は異なっていました。

また、当時習いながら修せずにいたことを、独立後に学びなおしたことなどがあるので正直なところ、正しいかは別ですが・・・。
それに、メガの体系では暗記テストとか知識問題はまずないので、あくまで実力重視でした。

86番目の質問者の記述(の要約)

近年売られた師の本[BOB]にて死者の喚起があり、それについての私[皇悠]の感想・考えおよび実践しているのか?

87番目の名無しの記述  

面白い

88番目の私の記述

どうも、皇悠です。
返信が遅れて、申し訳ありません。
ただ、正直なところ道義的な問題を多々含むのでどう答えるべきか、
考えてしまいます。

まず、私自身は死者の喚起、または死者との対話系の術はやったことはありません。
幾つか知ってはいますがそれは全て東洋系の技法です。
何より、私が師の下にいた頃では死者(死霊)に関わる技法は私が知る限りでは、
ほぼ、禁忌に近い扱いでした。これは師の師[私にとってはメガの源流に当たるの方〕が禁じた事
の一つと認識しています。
もし、やるのなら死霊魔術の専門家にでもなるしかないという話を聞いた覚えが
あります。その理由は幾つかあり長いので今回は省きます。

ただ、一つ言える事は
輪廻転生が存在するかどうか判りませんが、死者の喚起および魔術的Entity
の作成はその魂の運命/ 存在を呪縛or改変します。『前回・本文章の2チャンネルでは抜けてますが、ここで言う魂とは死者の魂の事です』

故にこれこそ魔術〔自らの意志を人に押し付けると言う意味では真っ黒ですね〕と言えるかもしれませんが?
また、私がいた時代には知る限りで死霊系の術の伝授はありませんでした。

これで答えになりますでしょうか?

89番目の私の記述

どうも、皇悠です。本日22時までという話でしたが需要がありそうなので、
何とか10月15日24時までの分は返信します。

90番目の無名の質問者の質問(の要約)

KBとはどのような団体でどのような活動をしていたのか?MMMにてODIO師がメガを信念体系、(西洋)魔術を象徴体系と記述・定義しているのですがその違いを教えてください。また、メガには四大の区分は使われているのですか?

91番目の私の記述

どうも、皇悠です。

信念体系とは「本人がそれを真実だと考え・そうを確信していれば(=それがその人の信念であるならば)そうなる」とする体系・立場です。
象徴体系は「ある象徴を動かすことで、ある変化をおこせる」という体系・立場です。

さて、構造上、信念は象徴を規定しているので、信念体系は象徴体系の上位になります。

また、メガかどうか判りませんが四大・七惑星・十の球以外の区分は存在していました。

92番目の私の記述

どうも、皇悠です。

質問の続きですが、KBとBPWは完全に別組織でした。
ただ、私のように両団体に所属していた上に師の弟子である者。
BPWの会員で師の弟子であるもの、両方に所属しているが門下でないものなど、
師の周りではかなり重複・混交してはいましたが・・。

KBの当時の活動は、師が代表になったことで改変期にいたので明確な教義はありませんでした。
毎月のように新しい技法・考えが生まれ試行され、批判と工夫のうえに再構築されていました。
その一部が、出版された無名祭儀書などに出ています。

ただ、研究活動は特殊な神格との交信と分析、当時我々が翻訳した無の書の研究・実践が中心でした。
ちなみに当時の私は混沌魔術の源流、クロウリー系のヨガとカスタネダの分析にハマっていました。どうも、皇悠です。

93番目の私の最終記述「(24時を過ぎた・翌日になったので宣言通りに終えました)

さて、かなり簡略して書きましたが、これで失礼いたします。
やはり、2ちゃんねるはどうしても書ける量が少ないのでぶつ切り気味になり
変な文章になりましたがこれもお許しください・・・orz.
私自身、欲求不満ですがシステム上仕方がありませんよね・・・。

それでは、皆様に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。
皇悠・・・orz(拝礼)。

なお、94番目に遅れて質問がありましたが、基本的にメガ及び西洋魔術に関係ない事柄(私の保持する東洋系の死霊魔術、私の死霊魔術についてのスタンス)を聞かれるなどだったので記述せずに、終えました。

さて、2ちゃんの記述様式とブログでは様式が違うのおかしな感じですがお役に立てば幸いです。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝・・・。

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幾つかの質問に答えて

何時も、御覧頂きまして、ありがとうございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は過去の記事に対して、幾つか質問がありましたのでそれについて幾つか答えようかと思います。

コメント・閲覧頂いた皆様順不同でありますが、妙蛸様、エピクロス様、伽羅様、セイタカドウジ様、たこ様、nor様・・・(名前の記述に間違いがあればすみません・・・)ありがとうございます。

まずは、前回(眷属・盟友・奴らとの関係性と危険)の記事で私の説明レベルが不足していましたので、一部誤解がありました・・・、申し訳ありませんでした。

まず、眷属および神仏と交流することは心身に多大な負担をもたらすということをメインで書きましたが、これはあくまで最高or高水準の作業を行う場合です。普通の魔術・呪術で必要とされるレベルの交流ではさほど、と言うのは語弊がありますが、個人の趣味レベルでは大して心身に影響はありません。そこまで、追い込まれることもこともまず無いですし・・・。(具体的にはかなり初期の視覚化の記事の中のテストに合格するくらいのレベルは必要であり、そのレベルはかなり心身に負担を与えるということですね。)

また、まず普通の公開されている行や作法・術は基本的に中抜き・簡略化しているので禅病・偏差・負担などはまず起き得ず無いですね。私が問題としているレベルは単純にいって、物理的に行者・呪術師として作業・実験するのに必要な(意識)状態のことを書いています。極端にいえば呪殺or呪詛払いが出来るか否かのレベルの話です。もし、「するなら前回の記述される負担レベルぐらいは必要だ」という話なだけです。

これは、有名なところですと「呪いの研究」で名を馳せる中村雅彦師の各種の記事・文献、少し古いですが「エクソシストとの対話」という本にも、またアマリンゴ師の「アマゾンの呪術師」などに出てる体験・試練などです。上記の本では術者が呪詛・祓いを行う際にどのような苦難・負担・代償を得るのか色々な形で出ていますね・・・。

さて、もう一つ、妙蛸様の質問で師の一門が数人しかいないというお話ですが、これは単純に処世術・対人関係へのスタンスの問題です。

当時(多分、現在もそうでしょうが・・・)、師は相手のレベルに合わせて伝授のレベル・保持する技能どころか、交友関係などですら抑えたり・隠したりしていました。私も弟子入りの際、そして修行時代も当時は師と兄弟弟子以外の前では、BPWの会員ではあってもKBの団員であることも、師のメガの弟子であることも公表どころかそぶりも出していませんでしたし、また出すこと自体を禁止されていました。勿論、BPWの只の会員に対しても隠していました。

理由は幾つかありますが、一番くだらない理由をあげますと、「同じ訓練も学習もしない口だけの関係、読書・又聞きしただけの存在に教え、見せる必要がない」ということですね。所詮は、一門に入らないよそ者ですし・・・。

また、逆にいえば、所詮タダの情報・話ですから身内でもない他人に真実を伝える義務も責任も無いわけで、隠したり煙に巻くのは別に道義的な問題も無いわけですから、反対する理由もありませんでした。もしかしたら嘘も許容されるかもしれません・・・。

勿論、私も当時は真摯な弟子として従いましたので、交流会などで出会う秋葉師や鏡氏など他団体の方の前でも、只のBPWの平会員として振る舞い・隠していました・・・。あえて、嘘やけむに巻くことはしませんでしたが、向こうが勝手に誤解していても訂正してはいませんでした。(まだ弟子なので詳しくは)「知らない/わかりません」、(BPWでは)「平会員ですので・・」などとカッコ内を省きしゃべればよかったので楽でしたが・・・。

ちなみに、現在私が暴露していることももう10年近くたった過去話であり、公開している技法もメガおよびKBの独自の技法ではなく、基本的にはもう一般に流通・公開している文書・教えをもとに記述しています。

また、誰もずばり書いていませんがメガの教えは基本的に有償(金額などは任意でしたが、やはり誠意やその人の経済状態は考慮していました上で判断していたようですが・・・)でした。

ここがBPWやKBの教えとの一番の違いでしたね。『金銭で払うか、労働か、物品か』は別でしたが、私も現在の貨幣価値にに換算しますと多い時では約1年間に合計で最大100万近くのささげモノ(経費・代価)を使い・払いましたか・・・・。

憎悪師も贈り物という形で代価をMMMで書かれてますよね。これは、今でも悔いもない良い買い物だったと考えていますし、その事で感謝しています。良い訓練と稽古に試験をつけて頂きましたから・・・ね。

ちなみに、憎悪師については[混沌魔術はここ中心で語ろうPart1]などに出ている通りです。彼の逸話や専門・当時の興味は当時のBPWの会報に出ている通りですので、二度書き・孫引きなどはしたくないので省きます。

正直な所で、メガ関連の体験談や師の周囲で起きた出来事は、どこかの説話かトンデモ話位にしかならない信憑性ゼロのことが多いのであまり語りたくありません。自分で経験していてなんですが、あまりに荒唐無稽な事が多かったので秘密にさせていただきます。

話しても信じない人は最後まで疑問を持ち続けるでしょうし、理解・出来る人/する人は別にここで書かなくてももうネット・書物などに出ている情報だけで判断し、信頼されるでしょう。残念ながら、体験談は会話・文章で理解出来るものではないので、最後はその人のセンスや訓練量、実力に左右されますので何度か師の逸話を人に伝えた事がありますが初めから猜疑心や不信、疑問を持つ人は幾ら詳しく説いてもかなりの方が解かれないモノでした。まあ、弟子でもないので今では詳しく説く必要もないと諦めました。

また、師自身が説明をメガについてはあまりなされていませんでした。正直なところで、理解しても出来ない者には価値が無く、他者に説明出来なくても出来る/克服/成就することに価値があるので、メガの教授に関しては訓練法とその試験、それと幾つかの逸話や実践上の質問に対してのヒントがメインでした。

その為、以前書きましたがメガの定義や考えは弟子の中でもかなりズレていました。最悪、意見がぶつかりましたらこの界の不文律、呪術・実力で方を付ければいいのですから、楽なモノですよね。

(ちなみに、同門同士の個人レベルの呪術戦は事実上、当時は黙認されていたようです。ただ、幸運にも嬉しい事に私の修行時代ではそれは起きませんでしたが・・・。また、弟子同士の討論や対立も師は基本的に放置していました。メガに関しては友好的・博愛主義の面を師は出さず、基本的に互いに協力的である事を要請していましたが、個々の訓練と向上と献身のみを求めていたようでした、メガが個々の信念体系であるからにはしょうがないのですが・・・)

さて、私個人としては師との数年の間に、色々と多くの奇跡・霊験を体験さしてもらい、歴史に語られる仙人や超人の実在を確信出来るようになりました。また、あれらがよく出来た奇術・トリック・ペテンだとしたらそれはそれで良い見世物を体験さして頂いたとも考えています・・・。まあ、個人的には狂気の支配・抑制、使い道を教えて頂いただけでも、十分に感謝しています・・・。

ちなみに、少し話は変わりますが個人的には『真面目に日々訓練する誠意と試験に挑戦する勇気、代価を払う意志があれば多分当時も今も師は弟子入りぐらいはさせて頂ける』と考えています。それなりに大変ですが・・・。

しかし今でもですが何故、当時も弟子入りしないで師について話を聞きたがる・知りたがる人がいるのか不思議です。何故、私のような者・半端モノに聞くのか?嘘吐きでは無いつもりですが所詮身内でない者に師の不利益になるかもしれないのに真実・核心をべらべらと語る者・恩知らずとでも考えているのでしょうか・・・・?

私は基本的に疑問/そういう思いがあり、そういうひねた考えを持つに人間でしたので、「身内になれば師の実力がわかるだろう・・・」と考え当時も色々言われていたがゆえに、逆に興味が出来て師に近き、それが巡りめぐり師に誘われたのを契機に弟子入りしました。

そして、そこで経験した事が予想以上で感動・驚嘆しましたので弟子入りを決めた当時の自分の勘・センスと決断は私の密かな自慢です。

さて話を戻しまして、イエズス会の記事でも一部に誤解があったようですね。

まず、基本的前提として当時の宣教は莫大な費用が掛かりました。今のように高校生が2ヶ月もバイトすれば地球の裏側までいける時代と違いまして、正に一つの国家か大商人以外は海路で地球の裏側の日本・アジアに行く事は西欧人には不可能でした。ここから導かれるのは、経済的な利益なしには国も商人も[最低でも初期投資としての初回の渡航費位は完全に持ち出し・自己負担ですから、援助を受けるには利益なしには・・・]動きませんから、教会(ローマ・カトリック及びイエズス会)としても勢いその活動は経済面が強くなり、必然的にそれは商人的な打算を含んでいるのが大前提になります。

何故か、このような経済的・物理的な理由をスピリチュアル系の人は無視し、考えに入れませんのでこの記事ではあえて、ドロドロとしたごりごりの経済面[儲からないと宣教・布教師の派遣・維持・継続は無理という事実を基に色々な事]を書きました。金をかけずにスピリチュアルをするには一人で孤独に瞑想するぐらいしか手はありません。

(ここで記述しているだけでも、電気代だ家賃だ睡眠時間だと代価は掛っていますからね・・・。)

そして、当時の宣教事業は奴隷貿易以外で日本に対しては対価になるものはありませんでした。幾ら殉教する意志があろうと最低限の金銭なしには当時は完全に渡航・布教は不可能です。そのため、私個人としてはイエズス会が奴隷商人であろうと武器商人であろうと彼らの行為は非難されることは無いと考えています。

正直なところ、当時の日本人の権力者および庶民にたいして武器で接触したのは上手い手だと考えます。当時の我々の御先祖達は戦場で互いの首を狩り、それで主から恩賞を得た首狩り・戦闘一族でしたから・・・・。

それでは、今回はここまでです。

また、長々と色々と書き散らしましたが、お読み頂いた皆様/貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月18日 (土)

眷属・盟友・奴らとの関係性と危険

どうも、皇悠です。

いつも御覧頂きましてありがとうございます。

さて、今回は伽羅様(いつも閲覧・コメントありがとうございます)から良い質問を頂いたのでそれについて書こうかと思います。質問の全文は以下の通りです。

『 >特に稲荷信仰においては「個人とお稲荷様との関係性」が重要ですので作法というのは正直、かなり曖昧です

個人とお稲荷様の関係性、これは祝詞や心経などを唱えることや、神社参拝することによって深まりますでしょうか。
稲荷眷属の霊と直接繋がることは可能なのでしょうか。』

以上の通りですが・・・。

さて、すごく難しい事を質問されているので、お答えしにくいのですね。

確かに祝詞や心経を唱えこむことや系列の神社参拝で関係性は変化します。それが良きにしろ悪きにしろですが・・・。

ただそれは、稲荷眷属に限らず、自らが中村雅彦師の言う眷族、カスタネダの言う盟友/非有機的存在、メガでいうと奴らでしょうか・・・。とにかく霊的と呼称される何かと関係性が出来てからです。

それらを見て・感じ・察するようになってからです。それは、ある意味で彼らを知覚できる器官が備わることを意味します。

ちなみに、どのような属性・系統の存在と関係が出来るかは人それぞれです。以前書きましたが天使を呼ぶつもりが河童が出てくるような感じで精神的な相性・特性があります。

また、私の知る範囲では万人が彼らと関係が持てるようになれる手段・安全な方法論はありません。

幾つか、効率の良い方法はありますが、失敗して、精神にダメージを受け病んだ方や心が壊れた方もいます。私もそうでしたからお奨めもしません。(多分、私も狂い死ぬか耐えかねて自殺かするだろうと覚悟はしています。)

ちなみにメガの体系では発狂死、変死(突然死)、自殺はよくあります。

師はそれを嘆いていましたが、私の兄弟弟子の何人かはもう30代前後に半分はそれで死んだことが確認されています。。(ちなみに師が私の兄弟弟子の死を真剣に嘆いたと言う話を人から聞きましたが、改めて師の実力に感動しました。師の忍術のすばらしさに・・・、私には出来ませんでしたからね。そして、自分は悲嘆しましたが内心では彼らをせせら笑いましたね。ああ、彼らは負けたのか・・・と)

ちなみに、私が入門して半年した頃に(初めの師ですよ、勿論)、師の修練時代の兄弟弟子は約20人ほどいたそうですが、そのうち大成したものは約4分の1以下。半分が私のように途中で限界に達し脱落/卒業し、残りは発狂or死んだと言う話も聞きました。覚悟していましたが兄弟弟子が早逝したのを聞いた際にそれを思い出しました・・・。

これが、メガ(の体系)が公表もされず、少なくとも私の時点で三世代(もしかしたら私の兄弟弟子世代が弟子を取っているのなら4世代目もありえますが・・)、存在しているはずがまったく広がらない理由です。

〔未確認ですが、師及び師の兄弟弟子、私を含めた彼らの弟子、その次の世代たる私達の世代の弟子、総数では多分100人前後、もしかしたら50人以下しかメガを学び存命の者は存在していないと私は予測し考えています。ちなみに私も過去何人か魔術・祈祷の手ほどきはしましたが、彼らには全て既知/公開された神道及び西洋魔術系の技法と訓練しか伝授していません。メガの訓練および技法は未だ師の下から去り10年以上経ちますが、幸か不幸か伝授に値する人物はいませんので未伝授です・・・〕

さて、話を戻しまして、または関連付けて書きますと、彼らと繋がる手段自体はもう充分に実は公開されています。それなりの魔術・呪術・宗教関連の本に幾つも出てますからね・・・。メガの訓練と同系統の訓練も幾つもあります。

ただ、多くの場合で基本的な修練不足(苦行をしないと言い直すのも可、なお仏門ではないので苦行は否定されません)と師による強制がないため弟子がそこまで追い込まれないので、繋がらない訳ですね・・・、幸運なことに。

これは「人は生理的本能的に異質なもの(彼ら)を危険と判断し避ける」ので彼らに接触するのは通常の状態は出来ないのです。

つまり、彼らと繋がるには勢い意識的な苦難・苦行で狂気の淵に立つ/病む行為になる訳で、そうやっと何とか本能機能を麻痺させるしか手がありません。しかし、あくまで本能なのでギリギリ死なない・狂わないレベルでしか麻痺しませんので、難しいですね。

そして、もう一つ難しいのは一度彼らと関係が出来る・繋がる回路が完成・駆動しますと死ぬ事以外に遮断・廃棄する方法がまずありません。これも修練度・宗派に限らずにある程度の割合で修行者が自殺・狂気にすすむ原因の一つです。

私自身、何度か狂いかけました。

基本的に異界・異形の力や関係を深め得るほど心身を傷つけ・病み易くなり、健康を求めれば力から遠くなる、難しいものですね。ちなみに仙道にある功過録系の善悪業などとは関係はありません、あくまでこれは身体的な機能限界の話です。

この辺はカルロス・カスタネダのシリーズにも詳しく出ていますね。彼の本にはある種の術者が狂気・障害を自らに内包してしまいギリギリの生をいくしかない事実を諦観とともに書かれています。また、多くの説話で覚者や聖者の奇行や慢性的な病癖が記述されますが、これらも修行により狂気・障害を内包した為と私は考察してます。

また、禅宗にも修行による禅病という精神疾患、気功法にも偏差という弊害がありますが、実質的には同系です。偏差・禅病も訓練や修業のやりすぎ/実践による自己の心身崩壊または変質現象ですから・・・。

一部、彼らに繋がるのか,彼らの住む世界に繋がるのかなどの違いはありますが、所詮は異形・異界という異なる性質に接する訳ですから同じものです。

勿論、生まれつきの適性で幾ら修行をしようとも変化が少なく障害が出ない人もいます。しかし、この辺は運ですね・・・。また、いつまで持つかもわかりません、晩年に大病や障害が出る例もおおいですし・・・。

また、近年開発された多くの薬、特に回路を高確率で一時的に開き繋ぐ幻覚剤を代表とする向精神薬は、準備の出来ていない多くの人を生き地獄に叩き落としています。

聖書の預言者が神の火・光に焼かれるというのも同じことを意味してますが、このような事は遥か昔からある現象ですね。

さて、こう考えますと神仏への礼拝・祈祷が呪法、魔術という名前で呼ばれるのも意味深ですね。呪われた法、魔の術・・・。

ちなみに、私は師の下を自らの意志で結果的に去りましたが、それでも師である某K野忍氏に大変に感謝しております。(離脱・卒業した理由は、別に学びたいことが出来たので隠れて他派を学ぶオカシイと考え、そして今のまま師の元にいる限りは多分師のレベルへ行く事どころか他の弟子と伍し並ぶことすら出来ないと当時、考えたためです。結果的にそれは希望通り強くも向上もしませんでしたが、私の成熟を促し、それなりの術者にはなれました・・)

彼に出会わなければ私は・・・・・、私はこの年まで生きることが出来ず、とっくに発狂し今頃は精神病院の隔離施設にいるか、自殺していたでしょう。今から考えるとよく師は当時の私のようなモノを、これしか適切な表現が無いのであえて書きますが「魂の病んだ・半基地外」を弟子として誘い一門に入れ技を教えたと思います。私が同じ立場なら絶対にやりませんから・・・。

ただ、本当に彼には、色々と現在も評判はありますが私にとっては恩人であり、良き師でした。溢れるほどの友愛をもって伝授していただいた、多くの知恵・技・流派の学習を学び終えず、修めきれずに、多くの学恩に答えずに逃げ出し離脱した不肖の弟子ではありますが・・・感謝しています。私の基礎基盤は彼の学恩と努力で出来ていますから・・・。

本当に誰よりも、生み育ててくれた両親よりも、血の繋がる兄弟よりも、多くの友や肌を合わしてきた恋人たちよりも、私は彼に敬愛と感謝を持っています。何かホモのラブレターみたいで恥ずかしくキモイですが・・・・、でも感謝しそう思ってるんですから、ショウガナイですよね・・。

それでは、何故か更にグダグダな文章になりそうなので今回はここまでです。お役に立てば幸いですが・・・。ダメかな・・・?

では、いつもの言葉をお贈りしつつ、「貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。」

皇悠より・・。

追伸、発狂のリスクを減らす技法は一門および私の秘儀ですので、公開はしません。また到底、独習出来ないので公開しても意味もありませんので勘弁してください。

最後に、次回からこのブログは色々と思うことがあり、書く回数をかなり減らそうと思います。それでは、また・・・。

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2008年10月16日 (木)

釈明

どうも、皇悠です。

いつも、御覧頂きましてありがとうございます。

さて、前回試験的に約半日と言う短い期間ですが、御覧の頂いている皆様がどのような疑問があるのか?

遠慮しているのでは?何か聞きたいことがあるのでは?

もしかして、「初期の頃の西洋魔術・混沌魔術の記事に興味があるのではないのか?」という疑問から告知してみましたが、結果はあまり変わりませんでしたね。

某Ⅱtyanneru内でもあちらしか見ない方からの質問自体も少ないですし、やはり今まで通り気ままにそのとき書きたい内容を書き、書きたくなければやめるスタンスで良いのでしょうか?

この辺は思案のしどころです・・・。そろそろ始めて約一年、このブログも書き貯めたものを放出して、綺麗に終焉を迎えるべきモノかもしれませんね・・。

それとも、ネット上の資料として、年一回に書き貯めたものを放出しココログから消去されないように残すべきか・・・?

色々考える時期に来ていますね。

それでは、貴方に全ての良きことが雪崩の如く起きますように・・・。

皇悠より。

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2008年10月15日 (水)

告知

どうも、皇悠です。

緊急告知、某ⅡTYANNERUの

「混沌魔術はここ中心で語ろう Part2」

で本日午後10時までいますので、混沌魔術・西洋魔術関連について応えます。/応えています。

ではまた、皇悠より。

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霊的エリートたちの奴隷貿易

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は前回は師弟関係を記述したので今回は組織について記述します。日本史の語られざる面のお勉強です。

さて、この話の舞台、当時の日本の戦国時代にイエズス会というカトリック(キリスト教の俗にいう旧教派)のエリート集団は日本人と奴隷貿易をしていました。

事実、当時のローマ法王庁の地図には、日本人が奴隷を輸出したので有名な有明海の三角湾のところにseaside of silver(白銀海岸)と書いたそうです。当時の日本の有力輸出品は日本人自身だったのですね。

ちなみに、アフリカ大陸のコートジボアールは、黒人奴隷と象牙の輸出で黄金海岸と言われていました。

さて、その経緯はというと、当時イエズス会のインド管区長といういわば東洋全体の責任者であった重鎮フランシスコ・ザビエル来航からまもなく、日本は鉄砲の模造は出来ましたが、火薬の原料となる硝石が日本はぜんぜん産出しないことから、利率が大変いい為に硝石の輸入が貿易の窓口として九州の戦国大名の主要産業となりました。

なんといっても、信長以来、鉄砲なくして戦えないのですから儲かります。

そして、九州のキリシタン大名として有名な有馬、大村、高山などは、それしか日本が硝石の代わりになるモノが無い為に、競って領内の民・歯向かう敵を硝石の代価として、事実上の奴隷として捕まえては売り払いました。

ちなみに輸出された日本人は総数五~六十万とも言われ、この証拠としてラリンケ判事の魔女裁判裁定書に「東洋へ硝石さえ持っていけば、女は幾らでもくれる」などの記述があります。

また、朝鮮出兵の従軍記録に、キリシタン大名を頭に九州の豪族達が火薬欲しいさに女を南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄の如し・・とあります。更に、秀吉が天正十五年人身売買禁止令を出しているのが、このような人身売買が普通にあったことを逆に証明していますね。

加えて、これらの貿易で大儲けしたイエズス会は金貸し業なども行い、債権などを通して合法的に主に九州などの土地の入手をしましたが、この事が後に東南アジアの植民地化政策と同じ行為とみなされ、秀吉の怒りをかい、遂には蜜月の終わり、追放に繋がる遠因の一つとされています。

さて、女性が奴隷として高く評価されたのは、単純に性的目的だけでなく欧州では中世の間に、何度も異端審問・魔女狩りで百万単位で女性を火炙り、処刑した事実により女性が慢性的不足だった事実があります。

さて、そういう現状を知らなかった奥州(今の東北)は伊達藩のボンボン集団の天正少年使節が、ローマからの帰途、奴隷市場で売られている裸で数珠つなぎになっている日本人少女達の嘆く様を見かけて、恐慌を来たしたという話もあります。無知と運命は怖いですね・・・。

さて、このような裏事情がある為、当時の神仏の罰の権威が強い中でも、単純に硝石欲しさと日本の宗教よりカトリックの方が御利益がありそうな感じで(当時の日本人宗教家で世界を回れるような力・加護のある人などゼロでしたし・・・)、多くの大名はカトリック入信もすれば、日本人の監禁輸出、顧客サービスとしてキリスト教以外の他宗教の排斥・焼き討ちなどをやってしまいした、キリシタン大名の内実・真相は所詮はこんなものでした。

ちなみに、有名な大分県彦山の修験寺院三千坊が焼き討ちにあったのもこの頃。

こうしてみると、イエズス会は火薬鉄砲中心の貿易&奴隷商人で、今で言う純粋な聖職者ではない事が判ります。(漫画「花の慶次」、新書「信長と十字架」には本稿の記事内容以外のイエズス会の所業の別の面が出ています・・・。ご参考までに・・・)

さて、彼らはこれを嬉々として自らの使命として当時行いました。今の、友愛とか博愛とか綺麗な天使とかのキリスト教のイメージは本当に近年の産物なんですね。

これは、「主たる神を信じない=キリスト教徒以外の者は地獄に落ちて当然。」という徹底的に排斥する考え方(セム系のアブラハムの宗教特有の思想で、その為・同系のイスラム教社会にも奴隷がいました・・・)が根底にあるので、このように入信した人以外の普通の日本人は非キリスト教徒なので人間扱いしない発想は当然なのです。

さて、このイエズス会はただのカトリック系の商人集団ではなく、れっきとした教皇承認済みのカトリックの有力教団でした。言わば、カトリック系のエリート集団でした。(いまでも、イエズス会はそうですよ・・・)

また、開祖のイグナチオ・ロヨラ作の観想法であるイエズス会特有の修行法・霊操(岩波文庫にあります)は、現在もその精神的効果で高い評価を受けています。(そういえば、心理占星術の鏡氏の師匠筋のSOLの代表格、日本でも高評価のバトラーの弟子にして、旦那がたしか弟子にパワハラ・不倫したD・アッシュクロフト=ノーウィッキ女史も評価していますね。閑話休題)

さて、この霊操の大要はまず自分が罪人であること(キリスト教の大原則です)を強く徹底的に意識することです。

次にイエス・キリストの一生をその誕生から復活、昇天までを聖書にもとずき約四週間に渡ってありありと心の中に観ずる(イメージし見き聞きする)事にあります。

そして、イエス・キリストの一生を一日一日、追体験することで、イエスそのものになりきることが期待されていますね。

そして、最後には自己の全ての邪な愛着を己から除き去るのです。そして、自己の使命・神の御旨(つまり、福音たる神の教えを広げること・・・)などを捜し見い出します。

さて、ここで、この四週間をやれば誰でも簡単に神に出会えるなどと安請け合いを決してしていないのがすばらしいですね。ほとんど自己浄化の為に、懺悔と観想、幻視と祈りの日々を送るのですからね。

そして、この修行生活だといわゆる『労働・奉仕』の時間はほとんどなく、修行者は祈り・瞑想に没入している生活であることが窺い知れますが、ほとんどイエスキリストの当時の愛弟子の一人かイエスキリスト本人として、その生涯を通して「生き死に復活する」という古代からの死と再生の儀式を祈りと瞑想を通して体験します。

このようなまるで、自分で自己(精神)を破壊し再構築する・洗脳するかの如く精神を浄化し鍛え上げるこの修行は実に強力です。期間は短いですが西洋魔術の修行の中で最強の難度を誇るモノの一つ、自らの聖守護天使を求め悪魔を支配するアブラメリンという魔術体系に近い体系ですからね。

さて、この「霊操」で精神的に鍛えられたイエズス会宣教師たちは、当時のアジアの各地へ、中国・インド・チベットに、西洋人跡未踏のアマゾン奥地にも平気で異教徒を改宗させ、布教しまくりました。そう言わば当時の地上最強のカトリックの伝道師(セールスマンor洗脳師)集団でした。(今でも一部はそうです、彼らの積み重ねてきたディベート/教理問答力はすごいですからね・・・。)

さて、これほどに鍛えられました彼らが、未開地の布教に次々と成功を重ねて行ったのもある意味で、有利な時代背景が有るとはいえ当然のことです。

このような事実から判断しますと、秀吉・家康の問答無用のキリスト教排斥政策なしには、日本はキリスト教圏になりながらも、東南アジアのような西欧の植民地的存在になっていたでしょう・・・。そして、東南アジアの国では一度従属国になった国が独立しても、元宗主国に並ぶことはない歴史が多いので、そういう意味で日本は幸運でしたね。

さて、今回はあまり語られないイエズス会という集団を題材に、霊的エリート集団の行いなどについて書いてみました。

ちなみに、このような霊的エリートで暴力的戦闘集団は歴史上たくさんあります。

例えば、「何も真実ではない、すべては許されている」とは、よく引き合いに出される混沌魔術・ケイオスマジックのモットーですが、これの元ネタは中世ペルシアのアサシン教団の教主ハッサン・イ・サッバーの言葉とされ、またこの言葉はフリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』第3論文で引用されたことでも有名です。

さて、このアサシン教団はイスラム教シーア派の分派のイスマーイール派の更に分派という宗派の現人神(教主は救世主またはその代理人という)信仰教団で、イスラム教学と祈祷、そして暗殺技術を学んだ戦闘集団でした。そして、自派を弾圧敵対した組織、権力者などに対して暗殺というゲリラ戦をしました。

(ちなみに、このハッサン・イ・サッバーはPCゲーム(ギャルゲー)の大ヒット作『Fate/stay night』に骸骨をつけた怪人で出てきます。アニメ・漫画などになったのでご存知かもしれませんが・・・。閑話休題)

さて、今回も長々と書きましたが此処までです。お楽しみになり、お役に立てば幸いです・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月12日 (日)

師弟関係あれこれ

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、お久しぶりですね。皇悠です。さて、今回は私の見聞や経験を基に師弟関係について、幾つか記述しようかと思います。

まず、現在の私の立ち位置を表明します。

現在、私は呪術上の師の下から離れていますし、ほぼどこの団体・組織とも繋がりを持たずにソロの呪術師・祈祷師崩れとして自ら学び鍛え活動しています。

その為、当ブログ内の批判or賞賛、尊敬or軽蔑記事・発言などは全て私個人の意見・見解です。また、私は個人的な成長・学習、皆様のご意見などにより、記事・意見の訂正・修正・削除などを行うことは適切と判断した際はすることに吝かではありません。

さて、今回の記事・投稿の趣旨を改めて表明します。私自身二人ほど師匠と呼べる方がいますが、呪術・祈祷の世界では師の重要性と危険性は良く語られますので、今回はそれについてあれこれ蛇足かもしれませんが記述しようかと思います。

さてまずは、師匠を持つことの可否、なかなか難しいですね。こちらが望んでも弟子にして貰えるかどうかは不明ですし、望まない方から誘われ苦労することもありますし・・・。

それに、師を持ったとしてもある意味で師に従い服従し、奴隷になるぐらいの気概がないと危険時・逆境時に助けてもらえない場合もあります。私の兄弟子の一人は言いつけを守らず、弟子の地位に安住し訓練をサボり驕った為に自業自得な問題で、見捨てられ最後は破滅しました。私個人も正直なところ、その兄弟弟子を助ける気にならなかったので、助けを求められましたが断り、破滅するのも放置/助勢しましたが・・・。

また、師弟関係はある意味で完全な上下関係なので、師が無茶な命令・指導をされた場合において弟子の立場はすごく弱いモノです。実質的には常に従うか拒否して関係を断つかしかありません・・・。だからこそ、師を探す際に最大限の努力をすることを多くの方が述べています。

その為、よくいる自分の好きにしたい、束縛されたくない、面倒くさいので・・という気持ちでソロ・独学のままでいる方もいます。ただし、その場合は学習の停滞時や逆境時には、あまりに無力です。特に呪術・祈祷をビジネスとして行う場合では、時にサポートがないと大変です。利害が絡み合うと個人と個人だけでなく組織対個人の戦いになりまして本当に辛いですね。何度か、そうなりましてエライ目に遭いました・・・。

さらにまた、よくいる「師が見つからない・・・」、「弟子に誘われない」と嘆く方。また、「申し込んでも試験もして貰えない・門前払いされるような方」は大抵、何かが抜けてる場合も多いです。

中村雅彦師の「呪いの研究」に出ていましたが、才能ある人には勧誘や出会いもそれなりにあるモノですし、私の初めの師は自分で基礎練習をコツコツと数年間、今から考えても何故魔術の訓練をしていたのか自分でも判りませんが自習していてから出会いました。大抵の術師は優れた弟子が欲しいものですから、基礎能力が出来ていたり、真摯にやる気があったり、センスがある方ならば誘う傾向はあります。

ただ、指導できる人数というのがあるので難しいですが・・・。海外の西洋魔術団体に多い、ただテキストを渡して独習させ試験して合格したら、更に上の学習を許すという方式はある程度の基礎能力・センスがある人しか事実上、不可能ですし・・・。

だからといって、マンツーマンで通い・住み込みで教えるとなると師の方がどこかの組織に所属する職業祈祷師でないとまず無理です。まず。生活出来ませんから・・・ね。その場合では、師弟ともに組織の祭る神仏・祭祀方式以外はまず出来ないという限界・枠組みが与えられ縛られます。反面でこの縛りがある意味で向上心、好奇心溢れる有望な人が独立・離脱する原因になり、また弟子入りを忌避される理由になり、本当に教授方法は難しいです。

金儲けならば、テキスト商法は良いほうなのですが、実力はまず期待できないのですし・・・。

また、ある人に弟子入りしたくても私には教える事がないからと拒否されたり、逆に面白いことに向こうの方が弟子入りさせてくれという場合も極少数ですがあります・・・。さらに以前、ある記事で記述しましたように人格的にある種の技法・祭祀を行う上で向かない・行う上での要素がないために断られる場合もあります。

このように師弟関係については、色々な問題・要素・利点があります。先にこのような事をあらかじめ知っているだけで避けれる危険もあるので今回書いてみました。

また、当ブログを閲覧される方は呪術・祈祷などに興味があって、ご愛顧いただいているようなので呪術・祈祷を学ぶ際に避けれない師弟関係について少々書いてみました。

お役に立てば幸いです。

では、今回はここまでです。今回も長々とお読みいただきまして、ありがとうございます。

それでは、「貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・」。

皇悠拝。

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謝罪/告知と三大稲荷・・・

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

まずは謝罪と告知です。

『前回の投稿記事で最後に四件ほどリンクを張りましたが、そのうちの一部が正しくリンクされていませんでした、申し訳ありませんでした・・・orz。

投稿直後一時間以内に修正しましたが、何人かの方が見れない状態でした・・・、現在は正しくリンクされていますので、まだご興味があればよろしくお願いします・・・・orz。 』

それでは、気を取り直しまして、今回は私の好きな稲荷信仰について、またまた記述します。

さて、稲荷について調べますと必ず出てくるのが三大稲荷という区分だと思います。ご存知の方も多いと思いますが・・・。

まず、稲荷信仰の総本山という京都府の伏見稲荷大社(711)、次に佐賀県の祐徳稲荷(1687)、そして愛知県の豊川稲荷(1441)、または茨城県の笠間稲荷(651)という組み合わせが多いですが・・・どうですか?  ご存知のモノと同じでしたか?

さて、他にも別の区分もありまして、伏見、豊川、そして岡山の最上稲荷(752)とするモノもあります。

更に、他にも熊本県の高橋稲荷神社(1496)や宮城県の竹駒神社(842)、岐阜県の千代保稲荷神社(1469~1486)などを当てはめる場合もあります。

さて、稲荷信仰の最高権威、伏見稲荷大社自体も三大稲荷がどの組み合わせか「ワカラナイ」という始末です。その為、他にも多くの稲荷神社が我こそ三大稲荷の一つと名乗りを上げています・・・。

日本人の権威主義はここでも出ていて私は好きです。

ちなみに( )はその神社の創建されたとされる時代です。(資料が少し古いので各社の創建が間違えていたら済みません。)

ここで面白いのは、稲荷信仰で総本山とみなされる伏見よりも笠間の方が古いということですね。

また、各神社の由来も必ずしも伏見および伏見大社の創立一族の秦氏と関係がある訳ではありません。意外ですよね、大抵の稲荷信仰についての語りや書物の記述では大抵、上記の二つと絡めますからね・・・。

例えば竹駒神社は小野氏の小野皇創建(勧請は伏見からですが・・・)ですし、千代保稲荷は河内源氏源義家の流れの森八海の創建(しかも、稲荷と関係ない祖神・ご先祖様への信仰から始まったという説・・・)です。

さらに、普通は稲荷系神社では伏見系の宇迦之御魂大神「ウカノミタマのオオカミ」様が祭神ですが、豊川稲荷さんは妙巌寺という曹洞宗系のお寺で荼吉尼真天という方を御祀りしています。また、最上稲荷では日蓮宗系の最上位経王大菩薩という方を御祀りしています。つまり、同じ稲荷という名前を持ちながらどの寺社から勧請したかで全然、内実は違うということです。

しかも、笠間にいたっては宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)「笠間での表記」と呼ばれる神様であるのは確かですが、どこから勧請されたのか不明、創健者も不明という始末です。

また更にややこしいのは、伏見稲荷大社がかなり長い間真言宗とかなり親密な関係がありましたので、それにより真言宗の荼吉尼天という夜叉神と同一視されていたのもかなり有名です・・・。その為、真言宗系の所ですと稲荷を荼吉尼天という形(またはその逆)で御祀りしていたりしています。

この辺のアバウトさが稲荷信仰の特性です。一応のアウトライン・概略というか御利益や御神徳は大体似ていますので同じ神と見なすのも判りますが・・・、事実上/現実的にはは同じ稲荷神社と言いましてもその信仰の形・祭神/本尊・祭祀様式は色々です。下手すると一社一派、一人一人の術者毎に違っていたりします。

だからこそ、元西洋魔術師崩れの私が崇敬・信仰していても大丈夫ともいえるのですが・・・。ある意味でこの辺の自分の稲荷信仰を作れる・選べる余地があるのが稲荷信仰の良さかもしれませんね。

さて、今回はあまり纏まりがありませんがここまでです。お役にたてば幸いです。

それでは、『貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。』

皇悠より。

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2008年10月11日 (土)

2008年10月のある薄いオタクの自覚・・・俺って・・・orz.

いつも、ご覧頂きましてありがとうございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は久しぶりにオタクネタです。と言うかメディアで活躍しているオタク趣味以外のあるオタクの事を書いてみたくなり、今回記述しています。

今回もウザイ位に長いですよ・・・。

ちなみに、私のオタクの立ち位置なぞは以下の通り。

基本は伝奇・オカルト系・臨床心理・評論を中心といた活字オタク。オタクのメインストリームのアイドルはまず知りません。また、もう一つの雄のアニメの知識は基本的に専門誌とネット&TVベースの公表記事、しかも自分の興味あるもののみ、月に5時間位使えば多いほうですね。漫画はコンビニで立ち読みで押さえる位です。

伝統的なハード系、例えば技術オタクではなく(PCや通信関連の自作・改造は出来ませんよ・・・)、PCゲームどころか家庭用ゲームも何も持ってません。鉄こと電車関連オタクでもありませんし、また武術&格闘伎、軍事などは伝奇・オカルト周辺の関連位で知るだけです。

今は、社会人なので別ですが最高記録は一日18時間連続の本読みをしていたことです。活字中毒者の基本スキル、クソしながら本を読み、食いながら本を読み、歩きながら本を読み、一日中人と話さず家にいる技能があればこれくらい出来ますよね。ちなみにこのとき読んでいたのは徳間書店の「科学の終焉」という本とアレイスター・クロウリーと言う方が書いた「月の子」と言う小説です。

この「月の子」を知り読破した人はかなりの魔術/活字中毒者です。翻訳がかなり専門用語&術語そしてランダムに広範囲な基礎知識を求められるので大変な本です/でした。今で言えば説明のない初期の京極夏彦の作品といったところでしょうか・・・?しかも、ぜんぜん売れませんでしたのでもう絶版本でまず見つかりませんから・・・マニア本ですね。

さて、今回このネタ/記事を書いたのは某ニコニコ動画の中を久しぶりに耽溺しまして、ここ2日間グルグル漁りました。すると東方プロジェクトとアイドルマスターという二つの男性中心のゲーム、およびそのオタク趣味活動がある事を知りました。

ただ、ニコニコ動画は基本的に動画投稿サイトなので、正確には上記の二つを題材としたゲームプレイ動画やその映像の改変動画、またはゲーム上の登場人物の設定を流用した自作のアニメ・文章動画がほとんどですが・・。

さて本題です。ここで私が驚いたのは基本的に一つはシューティングゲーム、もう一つが育成ゲーム(育成ゲームとは、基本的にはゲーム上の登場キャラをある目標、例えばコンテスト優勝やある技能レベルまで育てること、または同じように育てた他のゲームプレイヤーの育成キャラやゲーム内のキャラと競う事を楽しむゲーム群のこと)であり、この育成ゲーム(アイドルマスターと言います)は基本的に主要ユーザー層を男性向けにしているので、このゲームの登場人物は複数の女性ではありながらも、まずエロシーンがないということです。

つまり、エロゲー(実質的には男性向けオナニー用のゲーム)でないということで、まず裸や性行為などの描写もなく、さらに恋愛関係の描写すらほとんどありません。しかも一方は完全にシューティングゲームなのでエロ及び恋愛描写がないのは当たり前にしても、この東方プロジェクトというこのゲームは撃ち合いを楽しむモノ(基本的にはシューティングゲームとは互いに弾丸・ミサイルなどを撃ち合いどちらが最後まで生き残るか、または高得点を上げるかを競うゲーム群の事です)でありながらも死体・銃撃の爆音・爆発・血しぶきがほとんどないと言う始末。実質的にはこのゲームは相手の攻撃を避けることに終始するゲームでした。

つまり、以前書いたエンターテイメント・映画の二大要素として取り上げた「キスキス・バンバン」こと「エロス/セックス&バイオレンス」がほとんど削減された形式でありながらも何年もシリーズ化され、年間に関連産業・商品をあわせると両方ともに何百億という金が、何万という人が動く一大商品シリーズになっていたことです。知りませんでした・・・。

しかも、両者ともにまず大きなメディアに出て来ません。いいとこスポット的なTVCM、マニア向けの専門誌の記事と製作者サイトでの告知、それとファンイベントでの発表位です。つまり、もう今では始めからそれなりに興味のある人だけで商売が成り立つ形になっているのです。新規に新しいユーザー・顧客の開発がほとんど要らない事業形態になって要るのです。

そして、更に私が驚いたのはこのゲームのファンがニコニコ動画では動画を投稿活動するに当たりまして、実質的には動画を作成できるPC環境(維持費で最低年十万単位)、さらにそれなりの創作上の質を求めるのならば更に年間十万単位の機材・創作資料費を投下できる収入か環境が必要と言うことに気付いたことでした。つまり、オタク趣味とは言いながらニコニコ動画で投稿活動する方には実質的には職業を持つ社会人(公表している方の中には妻帯者もすでにいます)かそれが出来る収入環境にいる方でないとならないということでした。

:また、彼らの中には手書きの漫画、自家製作のオリジナルアニメや音楽を作る人、更には投稿動画の創作の為に新たにプログラムの作成・発見・改良し、無料公開している方もいます。

そのような労力/資本を投下しながらも、彼らはそれで収入も社会的名誉もまず得ていませんし、得られる予定・可能性もありません。事実、彼らは素性を隠すために仮名でほとんど活動していますので、何かの商品・広告の為に動画を投稿している可能性すらまずありません。

これが普通の同人漫画や同人誌、同人ゲームソフトなどならば商品発売と言う形で収入になりますし、最低限のコスト回収の目途なども考えられますが・・・?

いやあ、趣味の世界とはいえ、すごいですね・・・orz。負けました。私には出来ません・・・主に金銭的な理由ですが・・・。

事実、ある方は自分がそのゲームシリーズのファン活動で最低80万位はグッズ購入だけ(←ここ重要です)で使ったと言う実状を動画にしています。つまり、PCやゲーム自体に電気代、購入するために出かけた移動費、投稿技術取得用の資料・本代などはここでは、省かれていてこの金額です。

しかし、オタクというと私の中ではメインはアニメ、アイドル、漫画の三本柱で、その活動はその視聴とグッズコレクション、後は二次創作とその売り買い位と思っていましたが・・・。ゲーマーはもうほとんどいなくなり、もうオンラインゲームかエロゲー、そしてポケモンぐらいにしかいないと思っていました。

まさかこのようなゲームに、そしてその動画投稿オタクと言う分野・形でいるとは知りませんでした。まだまだ、私も世間知らずです・・・。

さて、今回、知る人から見れば、当たり前な事ながらも知らずにいて驚きのあまりに書き散らしました。

普段の呪術・祈祷ネタでない面を出しまして、申し訳ありません・・・orz、これからもよろしくお願いします・・・。.

それでは、いつもの奴ですが・・・『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』

ではでは、皇悠より・・。

追伸、ニコニコ動画で、私が好きな投稿者・P・作品などを四つほど上げます。是非、ニコニコ動画の会員の方は・・・。そしてまだ会員でない方も(PCメールのアドレス登録と暗証番号の説定登録だけで会員になれますので)良ければお勧めさせて頂きます。

まず最初は、一つの分野を打ち立てた小林オニキス氏の完全オリジナルの曲・歌葬ことサイハテhttp://www.nicovideo.jp/watch/sm2053548

次は、全農連Pの最高峰マッシュアップ・・・「吉幾三×Capsule×DaftPunk×BeastieBoys StarrySky - IKZOLOGIC Remix -」 ←この動画は作品自体も好きですが、嘘字幕や変な書き込みが多く正に混沌としていて・・・。こういうのは変な言い方ですが正しい『混沌』と私は考え思います。

『リミックスとは「焼きそばを塩味やきそばに」すること、マッシュアップとは「焼きそばをソバめしに」すること』こういう上手い喩えがたまにニコニコ動0にはあり、好きですね。

三つ目は、暴徒Pの『[ミクと]大学で寝・逃・げでリセット!PV風[一緒に]』/www.nicovideo.jp/watch/sm3690661←これもそうですがその時その時の彼自身の自分の持つモノで、最善・全力を尽くす姿勢が私は基本的な趣味は違いますが大好きです。

最後にこれは、今回の記事とは完全に関係ないですが、ぜひ見てほしいダンサーのダンスです。CMやユーチューブで見たことある人もいるかもしれませんが彼は天才か何かです。人間はこのようなことも出来るということを私に教えてくれました動画です。http://www.nicovideo.jp/watch/sm41152  

 以上です。

なお、今回の記事のアイドルマスターでは好きなキャラはまだいません、愚民ならまだしも紳士はヤダナーとは考えていますが・・・どうなるんでしょう?決まりましたら勿論報告しますよ、聞きたい方がいなくても・・・。この辺はお約束ですよね、ここまできたら・・・。

また、東方の方は[弾幕?]シューティングゲーム自体に興味がないですし、やる気もしません。ので今はいませんね。 やはり私は薄いオタクデス。

では、今度こそまた・・・です。皇悠・・・orz/拝。

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2008年10月 9日 (木)

ある霊的闘争 返答・・・

どうも、皇悠です。いつもご覧いただきまして、ありがとうございます

さて、今回は伽羅様(いつも、ご愛顧とコメントありがとうございます)からいただいたご質問に対して、お答えしようと思います。

まず、何故呪詛が飛来したのかはよくわかりません。ただ、私も専業or職業祈祷師として活動していたりしていたのでそれなりに修羅場や恨みを買っているので実はこういうことはそれなりにあります。

また、このような感覚(呪いが飛来した、今誰からか祈祷を受けている・・・)などの感覚は自分で祈祷、特に遠距離魔術や呪術戦を何度か実行・経験しますと自然と磨かれます。というよりも磨かれ鍛えられていないと最悪死ぬか発狂するので、職業的・専門的・アマチュア問わずに思い込み・自己暗示性幻覚系の呪術師・祈祷師・魔術師などでない限りは、呪術を実践的に使う方はそれなりに持っているモノだと思います。

また、別に他人に迷惑が掛かってないですし、私自身の肉体的痛みや発熱・多汗など事実なので私的にはモーマンタイ(無問題)です。

えーと、話を戻しますが私の呪術戦関連はあまり書きたいことではありませんがご質問に関連して、結果的には呪殺になった事件が良い例であるので紹介したいと思います。この経験は、正直なところは当時の私の未熟さもありますが、呪術師/祈祷を学んだ者の運命としての諦め・覚悟に繋がりました。

さてこの事件は、関係者もまだ存命なので固有名詞は勘弁していただきますが、流れ的には以下の通りです。

当時、職業祈祷師として手掛けていた祓い及び祈祷の仕事のひとつが、結果的にあるニューエイジ系サークル(主要構成術師の数が総勢約10人ほどの無名な小さな団体でしたが・・・)の優良な顧客を取る形になり依頼者は呪詛を喰らい私的にはただ対処していただけという、呪術戦や呪殺の覚悟のないモノが最後は呪術戦・呪殺という形に収まりました。

私に見る目がなかったのですが、その方がよくいる御利益信仰を持ちつつもそれなりのタニマチ気質のある方で金を出すがそれなりの質も鋭く見て判断する方でした・・・(それも見込みのある団体・個人に始めはお金のばら撒きともいえる位に支援しながらも、価値がなければすぐ切るという方法でしてさすが経営者、ドライですね・・・。ちなみに、このようなやり方はある種の依存心や集団が好きな人間には逆恨みし易いやり方です・・・)。

その為か、彼からの金銭的・人脈的な支援を打ち切られたある団体の一つが逆恨み半分で攻撃・呪詛・脅しを掛けてきました。

始めは私は顧客の体調不良という形だったので簡単な健康回復の祈願依頼(を受ける立場・・)でしたが、あまりに効果がなく祈祷しても一進一退で不信・疑問に思っていると依頼者から件のサークルの首脳陣を中心に呼び戻しor攻撃の祈祷を行い(支援を切られてから、祈祷に参加した後に脱会したある元メンバーからの情報だそうです・・・依頼者談)、また戻らない場合の脅し(これは元パトロンに対面で言ったそうですが・・・)もかけて来たらしいと言う話を聞きましたので、私は健康祈願から安全と用心・何よりも初めての対団体戦&知らない流派ということで不安半分・好奇心半分で色々な呪い返し・霊障避けを短期間に(と言いつつも約三ヶ月間ですが・・)行いました。

しかも、間の悪いことに件の氏は私以外に二人ほどですが私と同格以上の術師を完全に彼の子飼いで持っていまいた・・・。更に彼らは呪詛と認識していたので呪詛返し以外に、完全な攻撃呪術も併用していました・・・。

そして、結果的にその顧客に呼ばれご自宅に伺った際に、やっと初めて私以外の術師の存在(まさか、彼らが祈祷師とは知らず驚きました。てっきり有能な氏の所の社員とご友人の一人ではとばかり・・・)とその団体の崩壊(変死に火事・交通事故などが続いたそうです・・・)などの真相を知りました。

まったく、最後まで私が直接的な確認をせずに、依頼者からの話・伝聞などにもとずいて行動したのもまずかったのかもしれません・・。

また、今ほど、経験も分別もなかったいい気な馬鹿でしたのも・・。

当時は、正直なところで障害が目に消えてなくなったので、気を良くして用心と言いつつもめったに出来ない呪い返しなどの術にどれほどの効果があるのかと好奇心半分で、彼らがどうやら祈祷をやめた後も・・・行い続けてました。

しかし、まさか倍以上の人数の集団があんなに脆く滅びるとは思いませんでした・・・。てっきり、中和でもしているのかと思い・・・判断が甘かったですね・・・orz。

ただ、やり過ぎましたが返しを含む多くの措置は必要な措置ではあったと今でも考えています。

さて、この件はこのように終結しましたが、私の手掛けた呪術戦や呪詛返しなどはこれ以外にも幾つか実はあります。

そして、その経験からいいますと、呪術・祈祷を使い攻撃・脅迫する人は幾らでもいるという現実が判っただけでした。もうこれはどんな人でも歩いていたら雨がふり濡れてしまうことがあるように、運命・運が悪かったとでも思わないとしょうがない事だと今では理解しています。

勿論、普通の人は祈祷や呪術は使わないどころか考えもしません。しかし、やはり何パーセントかの割合で素人でも呪術に手を出す人は確実にいるのです。

その為、私は呪詛・呪い・祈祷などによる霊的な攻撃とそう判断した時点で、もうそれは呪詛を放つと言うのは正に銃撃戦・ミサイルの打ち合いを始めるのに等しいので、なによりも相手は不可逆の道を進むのを決断しているので、容赦をしないことにしております。

本当に残念ながら、博愛主義や慈悲は味方・仲間内だけでしか役に立ちません。ある意味で「縁なき衆生は救い難し(協力し合える・聞く気のある方以外は関係は作れない=戦うしかない)」のかもしれませんね。

また、イエスキリストのように敵に愛と慈悲をあたえて逆に殺され死んでもいいと考える方は別ですが・・・、私自身はご免ですし、自分にそれらを防ぎ、そして助けるに値する人を助けれるのなら助けたいと思います(主に金銭的&好みでですが・・・・)。

勿論、虫唾の走るガンジーのように無抵抗主義で殺されても良い人はあえて邪魔はしませんよ・・・。

さて、一時期は何故か本当にそのような代理戦争・傭兵稼業がほとんどでしたので、それなりに恨みも買いました。需要は確実にあるんですよ。

一応、最低限度のルールとしてこちらから仕掛けたことはありませんでしたし、途中介入がほとんどでしたが・・・、本当に人知れず呪い合い、祈祷戦をするのはよく発生していますね。これは職業祈祷師になって初めて知ったことの一つですが・・・。本やマスコミなどにはまず出ないので知られてませんが・・・。あまり知っても意味のないことですしね。

さて、今回はここまでです。伽羅様にはこれで返答になりましたでしょうか・・・?お役に立てば幸いです。

それでは、『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。』

では、また・・・。皇悠より。

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2008年10月 6日 (月)

久しぶりの呪詛祓い

どうも、皇悠です。 何時も御覧頂きましてありがとうございます。

さて、今回は久しぶりに来ました、当方への呪詛&その祓いについて書きます。ピチピチのネタです。

さてそれは昨夜、正確に言えば5日の1時から3時ころをピークに邪念・邪気を伴いまして当方にご来店頂きました。

どうも、まとめて何人もの方が複数の人物にアタックしているらしく、その余波が来たようです。どうやら組織対ネットワークメンバーという感じですね。

(何か話が電波系みたいですが、こういうのは感覚的なモノなのでしょうがありませんが・・・。)

さてちょうど、流れ的には記事を書き終え、ブログの更新も終わり、就寝しようとしたら来ました。特に腹と喉にです。吐き気と下痢のダブルパンチとは珍しい攻撃です、形はよくある蛇形のモノでしたが・・・。

それなりに私も経験を積み慣れてますので、祓詞を中心に稲荷祝詞そして秘密の眷属仕様の守護祭文などを使い、祓い&消去をしました。何ヶ月ぶりでしょうか・・・。

傍から見れば可笑しな光景です、暗い中で手印を組み一人ぶつぶつ何かを唱えているだけですからね・・・、さて少し腕が落ちたらしく二時間ほど掛かり、お引取りor終了しました。疲労の中でもスッキリ感と晴れやかさは祓いの成功時に特有ですが、個人的にはこういう感じは好きです。(マゾですかね・・・?)

ただ、これで終わると良いのですが、あまりに執拗ですとこちらもそれなりの手を本格的に使う事になるので今回で終わるといいですが・・・。(何にしようかなー、ゲーティアかアルマデールなどで小手調べか、それとも一気に片をつけると良いでしょうか・・・?)

ただ、長引く最悪の場合には、あまり使いたくないグロイ事になる術などを重ね掛けて反撃するので、効き過ぎるとえらい事になるので使いたくないです。(正直、初めて多重複数系統攻撃を使った時はまさかあんなに人や動物が続けて短時間に死ぬとは思わんかったです。これはすこしトラウマになったのは秘密です・・・。)

まあ、そんな感じで、少し身辺があわただしくなりましたので少し更新が滞るかも知れませんが、これからも当ブログをよろしくお願いします。

では、何時もの『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』

感謝と愛を込めて、「なんか、きな臭くていやだなーー」とも思う皇悠より。

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2008年10月 5日 (日)

あるネット上の宗派 内在神?と先祖返り

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は久しぶりにある方との会話をネタに考察・記述してみようかと思います。

さて、先日かなり久しぶりに祈祷師仲間というか元研究仲間と食事をしました。彼は私の元から卒業or研究の終了をしてからもう二年、彼からは南アメリカ系の土曜男爵信仰を習い私は逆に古神道を教えました。互いにマイナーな信仰を保持している者同士で良い経験でした・・・。

さて、彼との話で一つ面白いモノがありました。彼の勤める会社で近頃退社した者があるネット系新興宗教に大ハマリしている者がいてその言動が奇天烈で大変だったということでした。その宗教は伊勢ー白山道というそうでした。

さて、私が興味をもったのはその一門が先祖を供養して、内在する神性(の力)を発現させようとすると言うことでした。(聞き間違いかもしれませんが・・・)

さて、その宗派はネット上におもに活動して伊勢神宮系の神を尊び、線香を使い(もうこの組み合わせで時点で私には笑えますが・・・・)先祖供養と感謝行を組み合わせた行を日々するというモノだそうです。

近年のネットにおいて新興宗教の信者獲得がおこなわていることは知っていましたが、まさかネットでの活動を中心にしている宗派があるとは知りませんでした・・・。

しかし、知れば知るほどその宗派の奇天烈な教義は面白かったです。

基盤はどうやら神道らしいのですが、基本的な神道知識が欠落してしているのでズレていて笑えました。例えば先祖供養をするらしいのですが先祖を尊ぶことは終局的には個々人の内在する神性、内在神を尊び、発現することに繋がるそうですが・・・。

しかし、神道の聖典の古事記・日本書記によれば我々人類は青人草と表記されますように、大地に勝手に雑草のように生えたそうです・・・。つまり偉大なある一者・神が我々を創りたまいたのではなく、ある時にどこからか我々の先祖は複数が別々に生まれたのです。

ある者たちは海に勢力を張り、またある集団は山々に根を張り、またある者たちは海を渡りこの国に来訪し、又ある一族は海を渡り異国に旅立ち、またある民族は天より降臨したという感じでその来歴も由来もてんでバラバラです、この国の住民の祖先は・・・。どう考えても宇宙だか世界でかの一つの創始者に繋がるとは思えない多民族がこの国に自然に生まれ、来たりしてこの国の民族を作りました。

つまり、元来その祭祀や先祖供養法に由来などは別々なのにそれらを考えに入れずにほぼ一つの様式で行っていたのです。しかも、線香という仏教の近世の習俗だけで、他に道具もなく、びっくりしました。(線香が普通に使われだしたのは江戸時代からですので、たかだか400年弱しかない歴史的には新しい仏門の作法です。つまり、同じ仏教の作法でも読経のほうが遥かに古い訳ですよ。)

普通に考えたらその家なり一族なりの伝来の祭祀・供養をしないでご先祖様が喜ぶのでしょうか・・・?その方々は、例えば自分が死んだ時に生前に自分が信じ行った宗派の祭祀・供養法を無視して自分から見ればどこの馬の骨ともつかない人物が教える供養・祭祀で子孫が自分を祭祀・供養をしてもらい嬉しいのでしょうか・・・? 

また、一つ疑問・危険を持ちました。

さて、ここで問題です。

先祖を供養して、個々人の内在する神性(ある意味でその人の根源的な源?)が、万が一にも大きく目覚め・発現するとどうなるのでしょうか・・・?

ご先祖様を通す(遡る)訳ですからその神様は(具体的にはそのお姿とかお力とか・・・)はご先祖様に似るはずですよね・・・。

そして、普通に考えると個々人ごとにご先祖様は違うはずなので、その神が発現すると多神教になりますよね。そして、我々の祖先は人とは限りません。

つまり、ある人は天狗につながり、ある人は土蜘蛛に繋がり、ある人は蛇神に行き着くという感じです。西洋の神話・説話などでも人以外との婚姻や通婚はよくありますし、自分の祖先が全て人と考えるのも無理があります・・・。

事実、記録される日本の名家の祖先がどう考えても人で無い姿の存在をお持ちな方々がいます。

例えば天皇家の祖先の一つは海の生き物・龍蛇神などの一族ですし、伊勢神宮の近くにある猿田彦神社の神主さんは猿田彦様の御子孫ですが・・・、古事記・日本書紀などの中の猿田彦様はどう考えても怪人か怪物です・・・。

または、上記の神話・伝説的な存在ではなく、進化論的に考えますと原人や恐竜、魚、虫、植物などになるのですが、どうでしょうか・・・?

ここまで至りますと、理論的には混沌魔術の先祖返り系行法になりそうですね。

『先祖返り系行法とは、我々の祖先は人ではなく別の生物であったという考えから意識的に先祖返り、祖先であった多くの生物時代の状態・意識などを誘発して、その英知・能力・体験などを取り戻そうという技術群のこと.です。ただし、制御が効かないと映画エクソシストに出てきたような危険な悪魔に憑依され暴走した少女みたいな狐憑き・憑依状態になったりします。その為、この技術群は基本的な概略位しか、まず公開・紹介されていません。』

よく考えるとすごいことをしています。

どう考えても我々の先祖、内在している神性ー根源的生命の源は人ではない存在です、そしてそれらは現代的な理性とか社会的な規範・ルールの埒外の存在ですから・・・。そして、それは現代人にとって大抵は不幸or不都合なことです。

万が一、それらが大きく発現した場合にその人は人外の存在になりますからね、大抵は・・・。一時的なのが救いですが・・・。

映画にもなりました「空の境界」というある小説には、その人の始まり・根源が発現し暴走した不幸な少年が出てきますが・・・。その少年の根源は喰うという存在でしたが・・・。

さて、そのような危険性を考えて理解しているのでしょうか・・・?ご先祖様、普通は人類を想定してますが遡りますと必ずしも人とは限りませんし・・。

それにご先祖様が人だとしても必ずしも現代人にとって有益な存在かどうかも 判りませんし・・・。例えば、戦国時代以前だと人殺しも半合法でしたからね、ご先祖様が人殺し好きの山賊だとかだったりしてその方が発現しその影響を大きく受けて、人を傷つけたくなる可能性とか考えないのでしょうか・・・?

それに、ご先祖様もどのご先祖様の加護というか神(?)を受け取れるというか繋がるかも不明&ランダムらしいのも怖いですね。ゲテモノ食いの人だったり、マゾヒストだっり、放火魔だったりしますからね・・・。

さて、聞き間違いや誤解があるかもしれませんが聞いた話だけでも、色々と私にはこのような疑問・危険が考えられる宗派が人気なのもネット時代なのかも知れません。信じる人は何故信じているかわかりません。

しかし、本人たちが好きで、納得しているのなら私には害が無い限りどうでもいいのですが、特にどうこうする気もないですが、世の中には面白い教義の宗門があるのですね・・・。正直に言いますと評価できないのですが・・・。

では、今回はここまでです。今回も長々とお読みいただきまして、ありがとうございました。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠、一拝。

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2008年10月 4日 (土)

質問に答えて

どうも、皇悠です。

いつも、御覧頂きましてありがとうございます。

さて、今回は伽羅様から大変よい質問を頂いたのでそれを記述しようかと思います。

何時もはコメント欄で返答しておりましたが、今回は記事にしました。

伽羅さま、いつもコメント及びご愛顧ありがとうございます。

二つの質問を「マントラ、読経系と瞑想の危険」から頂きました。ありがとうございます。

まず一つ目の質問からいきます。
『決して表面には現われない荒ぶる神気を通してはじめて、「神道の神祇とその眷属の力、密教の明王の加護や護身系の技術などを身につけること」も可能となってくるのでしょうか。』というご質問ですが、

これについては加護をいただける資格と言う意味では、私には正直なところで分かりません。

粗暴な方でも験を頂いている方もいれば、真摯に供物や勤行をしていても何故か神仏から嫌われている方もいます。

生来のセンス・相性というようなモノがあるようですし・・・。本当に穏やかで温和な方がとてつもない戦闘仏の行者だったり、陽気というか粗暴な方が慈悲の観音系の術師だったりしますから、判りません。

出版物で有名な某Wメイトでは真摯な愛念が大事といい、同じ出版活動で知られる某〇帝〇動会では燃え上がるような欲望がいるといいますし・・・。また、潜在意識に不断に刻み込むのが重要という禅僧もいます。

この辺は本当に人によります。だからこそ、修行方法が何万と存在しますし、神仏も数え切れなく存在します。力と加護を得るために・・・。

私も幾つか断念した行や縁なく諦めた神仏が存在します。

また、もうひとつのご質問の「実際に霊的存在を駆逐することは、魔物以上の魔性を帯びていなければ不可能なのでしょうか。」については、必ずしも魔性がいるとは限りません。

ただ、本稿で述べたかった事は、二つあります。
まず、一つは浄土宗および浄土真宗などを代表とする阿弥陀信仰では、何故か魔の障害/騙しに対して、親鸞聖人や経典にどう書かれようと上手くいかなかった事実・例を紹介したかったという事。

もう一つは、近年のライトワーカーや願望実現系の潜在意識論に抜けています伝来の儀礼に対する知識・行い、そして何よりも信仰心(特に天部・垂迹部の神仏や神道の神祇などに対する、宗門の教義/文献/学問/経典的には下位にいる方々への信仰)が抜けている事の恐怖です。

正直、神仏への畏敬の念と加護なしに霊的行を完遂した方を見たことがありません。初めは神仏は関係無いと言っていた方も長くやられると、最後にはやはり何がしかの神仏、宗教に繋がりを持たれている傾向があります。

超能力少年で出てきたはずの秋山眞人氏が自宅・事務所などに大黒天様を御祀りし、それを薦める記事をお書きになっているのはそれなりに有名ですね。

さて、ご質問に戻りますと(人にとっては友好的でも暴力的とか統制が利きがたいという意味で危険なという意味を含めて)魔性がなくても魔を含む障害・霊的存在の駆逐は充分に可能です。

極端にいえば個人の意志・胆力だけでも、子供でも可能です。例えば、江戸時代の稲生物怪録のような例もありますからね・・・。

この辺は、個人の実力、状況、知識量など色々なファクターが絡むので断言が出来ませんが・・・。

さて、より詳しい事実・要因などは、ここでは残念ながら秘儀や規則などにも絡み書けません。

これ以上のことは私より詳しい方の解説などを探されるか、誰かに弟子入りされることをお勧めします。

正直な所で、あまりに専門的かつ基礎以上の学術語無しには概略すら書けないので勘弁してください・・・。

ちなみに、その要因・ファクターを一部を書きますと、例えばカイロスとクロノスの二つの意識時間の違い、アストロジーと青鳥系の風水論による地形効果、水竜論にみる都市判断、インセンスとアナフィラキシー・ショック、歴史的怨念とトラウマ、建築における精神障害、各種体質論、宗門による追加効果と弊害、ユング派の意識化とワールドワークの自覚の効果/方法論の違い・・・・・・、書いてて嫌になるほどあるので書きたくありません。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いですが・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月 2日 (木)

名前・名付け

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回はマントラ法の一部門、名前について記述します。

さて、古今東西、聖なるマントラ/フレーズがあきれるほど数多く残っています。
それらは時間を越え、歴史上の聖なる体験を求める多くの人々にパワーや勇気を与えて来てます。その中でも、強力で効果的なマントラとして近年、注目されているのがあります。

それは、個々人の名前です。

『貴方の御名前はお父さんやお母さん、お爺さんやお婆さん、もしくは、姓名判断の先生から、つけて頂いたお名前だと思いますが?どうでしょう・・・?
そのいずれも、天からのインスピレーションによって頂いた、今生でのあなただけの素晴らしいマントラです。
その人の自分の名前は、日常生活において、意外と自己紹介する以外、繰り返し言ったことがなく、 緊張や不安を感じた時、自分の思いは、未来へ行ったり、過去へ行ったりしていますが、自分の名前を繰り返し心の中で唱えることで、今ここに繋がり、力と平安が得られる』という理論です。
たしか、インドの巨大カルトor宗教の開祖の和尚ことバグアン・ラジーニシも勧めている方法論ですね。確か、彼は人の名前は、大抵が聖なるモノに繋がることが多く、しかもその人に取っては一番親しみ易く、抵抗が少ないから良いという話でしたか・・・。
例えば、英語圏ですと良くあるマイケルは大天使ミカエルから、ジョンは竜殺しの聖ジョージなどから来ますから一概にこれは間違いではありません。
ただ、私個人としては自分の名前をぶつぶつ言うのが好きではなく、自分の霊的な個性を際立たせるかも知れませんが、逆に向上・改善がされない気もするのでやりませんが、こうゆう方法もあるということで、今回紹介しました。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いですね・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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十言の神咒

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は天照大御神様の御名を唱えることにより、言霊の力で邪気を祓い、自己と周囲を清め高める方法の紹介です。

遣り方は単純に以下の

 『ア・マ・テ・ラ・ス・オ・ホ・ミ・カ・ミ』

この言葉を、ただ、虚心に短い言葉ですが、唱えることです。このような神様の名前を唱えることを、ちなみに神咒(カジリ)といいます。


神道天行居の創始者、友清歓真(ともきよよしさね)[彼は晩年は完全な引きこもり生活者になった珍しいタイプの教祖です・・]が最高神界の天照大御神の神法として一般向けの公開したものの一つです。初心者でもすぐに出来る良い行法です。

さて、友清歓真の「古神道秘説」によると

『一切の先入主を思想を去って素直に、清明の一心を住し、一決不疑の地に立ってアマテラスオホミカミの十言を繰返し繰返し毎日三十分以上唱えて御らんなさい。声の緩急大小は其の場合と其の人の体質便宜に随えばよいので彼れ此れ拘泥を要しません。至誠を以ってこの神咒の修行を怠らざるに於いては早くも一ヶ月ばかりにして必ずや相当の道交神会するところもあるもので、あらゆる悩みも悶えも解消種々無量の神徳を授けられるもので念仏で後生を願うが如き類にあらず。神道は幽玄不二の大道でありまして、この十言の神咒の神秘は筆舌の講釈し得る限りでないのであります。』

と言うのが友清自身のお言葉です。また、彼の弟子筋がこの十言の神咒の奉唱で病を癒し、霊障を祓い、霊光/神の示現を得たという話もあります。

また、武田信玄の武田家に伝わる「乙中甲大事の秘事」(おっちゅうこうだいじのひじ)の中ににも、十言の神咒を十回唱えよという教えが記載されているそうです。

ある逸話には本当か嘘か楠木正成も平生のときでも、自分の心に邪心が起こったときもこの神咒を唱えたようです。

さて、このようなシンプルにあるフレーズを繰り返す方法は、広く使われています。

同じように密教では真実の言葉という意味のマントラを唱え、阿弥陀経では仏様のお名前である南無阿弥陀仏と唱え、法華経なら南無妙法蓮華経と経典の名前を唱えます。仏教は、これらを神呪(じんじゅ)ともいいますね。


さて、シンプルだけど力強い十言の神咒は、今はあまり使いませんがかなり助けられました。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いですね・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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2008年10月 1日 (水)

聞き取り軽視で祈祷重視の理由

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。さて、今回は何故にしてある種の祈祷において相談者の悩みの聞き取りよりも読経や祝詞の奉唱が何よりも重視されるかその理由を幾つか記述しようと思います。

さて、皆様は神社やお寺に相談に行かれたことがございますか・・?

そしてそこでは、ろくに相談を聞かずにいきなり祈祷に進み、憮然としたことはありませんか?

ただ、話を聞いてもらえれば、スッキリする程度の方には、肩透かしをくらったこのようでなんとなく不快に思う事もあります。

さて、ある種の精神療法において、相談者・クライアントの話を共感的に真摯に傾聴し、受け止めることが相談者(往々にして、異常な体験を共有されないが故の孤独感、理解されず誤解され続けたが故の猜疑心などに満たされた方)の苦しみを聞き取り、理解し、お互いに協力する関係を構築し、それを治癒、苦しみからの離脱の礎とする方法論があります。場合によっては、これだけで治癒すらするので重視しています。

ただ、これはそれなりに精神的な相談を受けていれば、このような傾聴による共感協力関係(ラポールといわれる事もあります・・・)の重要性はそれなりに分かります。

しかし、その聞き取りが、聞き入る精神科医、グルにカウンセラーにメンター、メンタル・トレーニングのコーチやヒーラー、セラピストなどが経験不足だったり、自分の許容量以上の出来事の体験に対しては、共感的に相談者の会話に聞き入る事自体が悲劇に繋がることはあまり知られてません。

それは相談者の苦しみ、怒りなどに同化・伝染する事です。

特に最悪なのは、こうした相談者の体験、残虐な行為や災害の経験をあまりに聞いて入り、、話に引き込まれ、患者と同様に怒りや恐怖や絶望を体験する状態までになり共鳴する事です。これは(外傷性)逆転移とも呼ばれるモノで、事実上患者・苦しむものが再生産され、二人になり互いに補完関係になる訳です。

これは患者のエピソードによって呼び起こされる心の動揺により、治療している医師やヒーラーなどの精神的健康が脅かされ病むからです。

では、それらを呼び起こすモノと暴走などを具体的に上げていきますね。

1.深い悲しみ
聞き手が聞くことは意図せずにその悲しみの証人になりますが、しばしばその悲哀・絶望感に圧倒されてしまう。そして、何も出来なくなり、相談者にとってお馴染みのただの慰めマシーンと化す。

これを教えてくれた人は悲しみに圧倒されてしまうと治療にならないので、圧倒されないように頑張るんだそうです。

2.患者の怒り
患者の怒り、憎しみに同化してしまう。その怒りは、正当性(目には目をの精神ですね・・・)のもとで加害者に向けられ、更に何もしない出来ない傍観者(止めずに加害者の行為を肯定し放置していたわけですから無理もありませんが・・・)にも向けられ、更にはそれは拡大され世間の全て(自分が苦しむのはこんな世界があるからだ、このような人間=加害者を作り育て守る社会が憎い・・・)に向けられる場合もあります。一概に逆恨みと言えないのが難しいです。

これはニューチェのいうルサンチマンとほぼ同種のモノもありますが、この怒り・憎悪に共感しその話を聞いているうちに精神科医が怒られている気になり、逆に聞き手が苦しみだしたり、卑屈になってしまう場合。また、その怒りの感情に怯え、怖くなったりする場合もあります。

3.患者の孤独な孤立無援感
苦しみながら助けの無い状態、その体験中に味わった孤立無援さ・孤独感が相談者の話で聞き手の中から思い出され、その防衛行為に、ただ話を聞いているという原則を時に忘れ去られ、自分が欲しかった救済者の役を演じようとしたり、救済のために患者と深い仲(セックスを含む恋人・不倫関係など・・)になったり・・・。

また、この孤立無援感につけ込んでくるのが、マルチ商法だったり、高額セミナーだったり、カルト宗教だったりしますね。その苦しみを癒すにはこれを買えというヤツです。その為、こういう所では相談者の辛い経験の暴露を勧めます。

4.傍観の罪悪感
衝撃的な事件の傍観者の中には、自分だけ無事・無傷でいたことの後ろめたさ、罪悪感があり、そのことが苦しみになることがあります。

5.加害者の感情
余りにも絶望的・不条理なストーリーを聞いているうちに精神科医は加害者の感情にも共鳴することがです。

これは聞き手自身が自分の悪の部分に気づくことですね。例えばレイプ被害者の女性の治療で、聞き手が性欲の高まりを感じるのはごく当たり前のこと。(レイプ物のAVなんてものもありますから・・・」

さて、上記の衝撃的な体験の告白を聞いた未熟/運の悪い、ヒーラー、精神科医、グル、ヒーラー、メンタル・コーチにセラピストなどは、すっかり患者の心理状態と圧倒され同化し、相談者・患者と一緒に地獄に落ちてしまい、苦しみの輪の大ハマリします。

さらに、このような逆転移・恐ろしい連結が起こると、場合により聞き手もこの世ならぬ不気味な幻をや夢を見たり、悪意にみちた偶然、離人感や非現実感までの恐怖などに巻き込まれることがです。

なお、憑依状態の相談者、呪詛を受ける人に対しては、逆に祓い・返す為にあえてこの状態に為るように、自ら飛び込み、突き進む場合もあります。

さて、基本的には相談を受ける者の立場としては、イメージ的にはこの世という岸から出ることなく、その岸のそばを滔々と流れる川に押し流され苦しむ相談者にロープを投げこみ、相談者を引っ張っているようなものです。

そして、相談者をその岸に引き上げるのが治癒・解決になりますが、逆転移状況は、聞き取り手自体のその岸・基盤自体が実は相談者の悩みよりも脆弱・不安定なモノであった場合に発現します。

そして、それなりの伝統的な巨大宗教は岸・基盤をこの世の外に、神だったり仏だったりに置き、この世自体を苦しみの川とするスケールの大きい考えなので、そういうところの正統的な修行は、往々にして現世利益とあまり関係無いと言われるのはこの所以です。

だからこそ、多くの人を救えるという面もありますが・・。

さて、このように聞き取り自体に未熟者・自分の力量をしらない者には危険が付随するため、引き込まれ苦しむ事を体験し知った祈祷・呪術師などの一部は引き込まれ苦しむ事を恐れるが故に、話を聞くこと自体を厭い、すぐに祈祷に向かい、祈祷だけで済まそうとします。効果・験は基本的に激減しますが・・・。

ただ、そちらのほうもまっているだけで多くの祈祷依頼者がくる所では時間を短縮し、多くの人を捌けるので、特に大きな観光神社・寺院では経済原理と効率重視の流れの中で推し進められているのが、現状です。

しかも、災厄(間違いではありません・・)なのはそういうところは、大概にして次世代の宗派の教育機関や修行場だったりするので、そこで学ぶ修行者が自然とそういう聞き取り軽視・祈祷重視の対処法しか学ばないという場合が多いからです。

ただ、さすがに何もせずに相談者をただ祈祷を見せて、聞かせて、終わりでは、納得せず不満をもたれるので素人でも出来る読経や祝詞の奉唱をさせて、有り難い何かをしたという満足感を持たせて帰らせます。

しかも、このやり方の上手く怖い所は、確かにある種の人間や場合では自分で読経・祝詞奉上する事でただ祈祷を体験するよりも効果がある人がいることです・・。

しかし、詳しい聞き取り、共感的傾聴がなされていないので問題の最深部まで原因が究明されず、除去されているのかも確認されず不明なので安心出来ないのもまた、事実ですね。

さて、此処まで優れた聞き取り・共感的傾聴の重要性を散々書いてきましたが、でも実は普通に考えて優れた受容的な許容が出来るだけでも、とてつもないコミュ二ケーション能力です。

その上で、優れた祈祷能力、幅広い学識、臨機応変な精神・・・、これらを持つ術者が存在したとしても少ないでしょう・・。

まして、それを探すとなると大変です。

そういう意味で、多くの方が二流、三流、パチモンに騙されるのも仕方ないのかもしれません・・。

私自身もまだまだですしね。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いです・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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感謝の弊害と自由

何時も御覧頂きまして、有り難うございます。

どうも、皇悠です。

さて、今回は感謝と自由について記述しようかと思います。

かなり、昔になりますが元マルサの人の講演で聞いたことがありますが、マルサの人達は、不正な脱税の再徴収(わりとお金を持っている人から出したくないお金を出させる事)が仕事ですが、その際に逆恨みされないように、それはそれは非常に気を使って仕事をするそうです。

さて、このようにそれなりに裕福で社会的に恵まれている人たちでも逆恨みしがちな人が多い日本で今、何故か一部で「毎日ありがたい、感謝しましょう」と、バクティ(信仰)系の手法が流行っていますが、それはどうかと思うのは私だけでしょうか・・・?

つまり、感謝報恩の気持ちで生活しよう教えは、方向としては間違ってはいないかもしれませんが、『神を怨み人を怨み世を怨み、自分が逆恨みするしかないまでに逆境に陥り、自暴自棄になった場合』や『その憎しみが怒りが他人を傷つけ、自分の破滅すら喜びにするようなまで追い詰められる人』にでも通用するのだろうかというところが疑問です。

事業に失敗した、リストラされて失業した、離婚し家庭を失った、最愛の恋人に裏切られた、借金で首か回らなくなった等など、逆恨みし憎しむネタ・状況は幾らで転がり溢れていますし、少しの不快も我慢できない器の小さい人間もそこらじゅうにいます。

かく言う私もそういう一人ですが・・・。よく他人を赤の他人を「邪魔だな、死ねばいいのに・・・」位は毎日普通に思い、考え暮らしていますから・・・。

それに、普通に人並みの生活をしたいという最低限度のこの世的な欲望すら一旦は全て捨て去った先の異常心理状態にでもならないと、慈悲や感謝なぞ出来ないのではないでしょうか・・・?

最悪の場合、自分が殺され、最愛のモノが奪われ、理不尽に苦しめられても許し感謝しろという無茶の教えですからねぇ・・・。

普通に世間体が気になる、普通に生活したいという感情がある限りは常に逆境に追い込まれ苦しむ可能性と不安は残りますし、逆恨みの気持ちの引き金は残るモノではないでしょうか・・・?

そして、怨み、憎しみ、怒りといった感謝や愛や報恩、許しなどとは逆の感情の引き金を無くした際、人はどうなるのか・・・。

このあたりの割り切りというか、境地がわからないと、多くの求道者のその生涯がただの奇行の記録でしかなくなります。

例えば名声や地位に多くの富を与えられながらも拒否し、貧窮のホームレス並みの生活を続け、結局は貧乏に野垂れ死した一休禅師。

彼は最後まで相伝すべき弟子は持たず、破戒者として盲目の愛人と暮らし、何故かくも誇り高く逆恨みもなく、苦しくとも自由に過ごしたのかは不明のままに終わるでしょう・・。

では、今回はここまでです。お役にたてば幸いですが・・・。

それでは、貴方に全ての良き事が雪崩のごとく起きますように・・・。

皇悠拝。

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