基本理念としての勧請、勧請と眷属使用法の意味、
何時も御覧頂きまして、ありがとうございます。
どうも、皇悠です。さて、今回はあまり知られてませんが勧請の基本理念と眷属の使用法じの注意などについて書きます。今まで何度か勧請について書いてきましたが、今回のは俗信・伝統的な考えの一つです。
まず、例えば、伏見稲荷に行ってそこで稲荷紳の眷属である狐霊などを頂く、三輪山に行って蛇霊などを頂くといったことは、実はそんなに難しくは無いのです、基本的に幻視と相手の了解だけで出来ますからね。 ただし、その眷属の主たる神を勧請なり、許可なりを受け、自宅などまで連れて来てそれを滞在させる理由・施設が必要ですが・・・、 幾らつれて来ても術者に従うか・帰らずそばにいるいないかは別ですからね。マイケル・ハーナーがいうパワーアニマルが数年でいなくなると記述しているのと似てますね・・・。
つまり、そこの神を自宅に勧請すれば、その神に仕える眷属も家に来ますし、あるいはその神社の神に『神使も一緒に勧請させてください』と言えばそれをしてくれる形になるわけです。少なくとも神社に眷属が帰るリスクは減りますね。
また、自宅で神を祀れば、その神の使い・眷属が、神本人に代わって祈願者の為に動き働く事もありますし、わざわざ毎回毎回祈願ごとに神社に参拝しなくて済みます。だから、少しでも関係を深め、眷属がよく働くように、勧請をし、またその神の為のお供え物とは別に眷属の分のお供えをしたり、神使のために祝詞を一回多く読んだりすればそれを喜び、普通に神を奉るよりも多めに働いてくれるとも言われます。
加えて、普段から自宅などで正式に神仏を勧請・崇拝し、神使・眷属などに謝意をあらわしていれば、特別な呪文や祝詞や作法を知らないでいても、必要な時や助けを求めたときには自然と動いてくれる事もあります。ただ、神や神使の勧請にはそれなりにお金(神社への謝礼など)が、またその神を祭るための神棚や祭壇・道具に神器の購入に日々の供物もやはりお金が掛かりますね。
さらに勿論、それ以外にも日々朗誦すべき最重要な法器たる祝詞・経典などの経費も掛かります。
あと、勘違いしてしている方も多いですが基本的に大事な儀式や祭儀には神仏の前で聖典を唱える際は間違えがあるといけない・失礼なので、いかに暗記しどれだけ唱え慣れていても経文・祝詞を見ながら朗誦するのが正しいやり方です。
さて、毎日(あるいは日を決めて)神にお供え物をし、定められた礼拝作法(神社できちんと教えて貰えますし、自分で断りを入れてある程度オリジナルの祭礼も可能です)を続けるのも、それなりに辛いものがありますが、 それでも、人ならぬ存在を相手にする以上は日々の定期的な供養・神事は欠かせませんから、本気で御蔭や眷属(=神使)などを得たいと思うのなら、それぐらいは続けるぐらいの覚悟と誠意は必要だと思います。
これは自然界のエネルギーや個人的な生命力などで式神を造る、霊力や法力で神霊的な存在を呼び出し縛り使役するという考えではなく、そういった存在を配下に持つ神や仏を信仰し、その見返りとして『ある種のお使い』として遣していただくようにお願いする…と言うのが一番安全かつ、一番現実味のある眷属・使い魔・式神などの使役法であると思います。
ちなみに、上に書いたのは、言ってみればある意味で不可視な存在との『約束事』ですよね。
そういった『約束事』が前提にあるからこそ、御利益を願う人が神社に詣うで、神を勧請して自宅で奉るのでしょう。
また、そこの神社に勤める神職などは、古来から伝わる効果的とされる定められた方式・修行を行っているのですから、何事も素人が行うよりもその専門家に依頼したほうが安全で確実であるようにその神社の神職に任すのがよいと思います。 後は、神を勧請した私達の側の責任ですからね。誠意をもって決まり通りに接していれば神罰とかは起きないはずです。
ただ、例外的な諏訪大社の神などは、鳥が供え物をつついただけでも神罰で死ぬ…というぐらい荒振る神ですし、幾つかの『無言での神事』の最中に言葉を発しただけで神職が死ぬという神社もあり、また神社では『そこの神の姿』を見ただけで死ぬという場所もありますが、むしろそういった神社のほうが少数です 。
なお、普通の神社で表立って祀られていて方は、基本的に信者が接しているのは『神の和魂』であるケースが多いですから、『管理を怠ったら一族郎党皆殺し<末代マデ呪ッテヤル>の刑に処する神』なんて今時まずいないですね。確かに、人が悪いことをしていたり、神の『おかげ』を受けていながら神をないがしろにしていたら、警告としての『災厄』は起きるとされていますが、一族が皆被害をこうむるような『タタリ』というのは、よほどのことをしない限りないです。
よく言われるようなタタリを為す神というのは、『性質の悪い・危険なモノ』を神として祀っているだけであって、そちらのほうが例外的であるともいえます。
また、確かにその神様がマトモでも、その眷属までがマトモかといえば、確かにそうではない例もあります。普通に人材派遣会社そのものはマトモでも、そこと契約して派遣されてくる人物がマトモではない可能性というのは充分にありますからね。ただし、その場合はそういったことが見受けられた時にすぐに本社(勧請先の神社の神)に申し上げればいいだけですし、最悪の場合は自宅での祭祀をやめてお帰りいただければ良いだけですからね。そういう作法は勿論ありますし、私自身それを何度かしたことがあります。(あまりに駄目というか、効果のない場合はそうしました。勿論、それなりの様子を見ますが、さすがに長くて一年がいいところですね)
これは普通の派遣業ならば雇い主が会社にお金を払い、会社からそこの社員に給料を渡すという形をとりますよね。それと同じように、本社にあたる神への祭礼の手を抜けば、眷属の働きも悪くなるし、逆に災い・問題をもたらしかねないですが、祭礼・支払いを正しく行いながらもあまりに仕事・出来が悪ければ、人を変えてさせてもらう事や取引先を変えることは普通のことです。
ある意味で、それは当然の報い・行いといえます。勿論、日常から神をきちんと祀っているのが大前提ですが・・・。
また、もしよくされていながらも神を祀る続けることが出来ないと判断したなら、その時は元の神社に礼を尽くしお帰り願えばいいだけです。なかなか言い出しにくいですがちゃんとそういうことをやってくれる神社などもあります。
さて、神仏を祀るというのは確かに手間がかかることですが、TVに出て『私には霊能力があります』といって活動している人も、家や事務所ではきちんと神仏を祀っているものです。 TVに顔を出さない、私にような野の祈祷師・呪術師も、大抵は神仏を祀っていて、個人の所有能力よりも、神仏の力を上位においてその力や眷属の力を『お借りする』という形を取っている方が多いですね。(少なくても個人の力よりもバリエーション・威力が増えますからね。)
以前、記述しました勧請とは自宅に専用のPCを持つ、専用回線を引くというの例はある意味で西洋魔術系の表現・記述です。お気付きになられましたか?
さて、今回はここまでです、ただ、感覚的なことなので上手く表現できないのが少しもどかしいですが・・・。お役に立てば幸いです。
では、『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・。』
皇悠より。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)


『皇悠さんのブログ、まだ全部読んでいないので、お伺いしたいことはたくさんあるのですが、とにかく、
修行の中で、祝詞や真言などを、何度も何度も唱えるということを書いておられます。
祝詞を一時間とか二時間とか、唱え続けることにより、脳内の変化が起こってくるのでしょうか。それとも別の次元の存在が、そこに興味を持ってくれるということなのでしょうか。
それなしに拓かれる道はないのでしょうか?』
さて、何故私が修行及び礼拝、儀式などにおいて祝詞・祭文・経典の連唱を勧めるのかは、幾つか理由があります。過去の記事にその理由も幾つか書いておりますので覚えている方には、またかと思われるかもしれませんが改めてお答えしますね。
まず、第一に我が国もそうですが多く国の神仏の祭礼・祈祷では基本的に信仰心とその証たる供物をささげること、代価による交換を重要視しています。そして、経典・祝詞・祭文を唱えることは良い信仰の証、供物とみなされています。また、極端な話で毎回毎回、供物の御香や食物、財物、宝石などを用意をするのは難しいので私は繰り返しの朗誦を勧めています。
次に、催眠術や洗脳、行動心理学などで証明されていますが人には何度も同じ内容を口に出し、行いますとその内容・意味・行動を自らの信念・価値基準などに取り入れ行動・生活パターンが変容させる特徴があるので、清め払う祝詞なら自然と穢れを避け浄化を心がけるようになり、富貴繁栄の経典を読み込めば自然と豊かに栄える行為をするようになるのも理由の一つです。
さらに、付け加えますと、朗誦以外の視覚化、幻視、憑依、薬物摂取、舞踏、夢見、呼吸法などにより神仏との繋がりを求め祈祷する技法は基本的にそれなりの訓練時間・熟練・才能がいるのでネットのような公的な場所では、紹介しても理解は出来ても独学の習得差は個人差が本当にひどく、また利用・応用しにくい為、あまり相応しくないと考えますので記述・公言を避けているのも事実です。
勿論、私もかつては混沌魔術などをそれなりに修めた者なので、無言・空手・無動作で幻視・夢見などだけで祈祷・儀式をすることもありますが、これはあくまで例外です。やはり朗誦あり、道具使用あり、動作ありのほうがやり易いものですので、無言・空手・無動作などはお勧めしません。
また、長く同じ言葉を唱えることによる意識の変容(俗にいうトランス状態の一種で単純作業と自己暗示系の精神疲労性トランスです)は時間がかかり、かなり大変ですが万人向けの有効性があるので勧めやすいのも事実です。
正直なところで、どんな人でも同じ祝詞なり、経典なり、祈祷文なりを、何十時間も何千回も唱えるといやでも悪魔だろうが、天使だろうが何かしら現われ見れるようになります。
(そういえば、はじめの魔術の師はある大悪魔の召喚儀式で古来の祈祷文の連唱でやるとあまりに大変で団体の会報で悪態をついた記事を書いたことがあります。閑話休題)
また、優れた舞台装置(例えば寺院やパワー・スポットなど)を紹介しても人それぞれの相性があり、更にやはりそれなりに経験・熟練がないと慣れない場所の見知らぬ他人がいる中で祈祷・儀式をするのは難しいです。
また、良い道具などを自作・用意するのはそれなりに腕や運がいるので難しく、いきおい祝詞・祭文・経典の紹介およびその朗誦などへ私のブログへの内容・記述などが偏り・比重がいくのも事実です。この辺は気をつけていますが私の力不足で難しいです。
勿論、他に伽羅様がやり易い方法があるのならば、そちらを行うのが良いと思います。私の弟子ではないので私の好みを強制しません。
正直なところで、連唱系の技法は行為自体は簡単ですが、儀式や薬物、瞑想などよりも時間も労力も慣れも要ります。
ただ、このような朗誦技法は、場所を問わず使え(異界や夢の中でも使えます)、使用前提がまずなく(瞑想は騒がしい場所や動きながらはまず無理ですし、薬物は安全が確保されないと命に関わります・・・)、道具なしに出来(儀式をイメージだけで行うのはかなりの熟練が要りますよね・・・)、何より一度強力な幻視・トランスに没入しますとその時唱えた言葉を再唱することでより早く同じレベルの状態に再体験し易く、また多くの他の技法にも組み合わせられるので私個人としては気にいっています。ただ、こういうのは最後は好みの問題ですので難しいですが、ご理解頂けると良いのですが・・・?
それでは、今回は此処までです。長々とお読み頂きまして、ありがとうございます。お役に立てば幸いです・・・。
では、いつもの『貴方に全ての良き事が雪崩の如く起きますように・・・』
今日は本当に大量に記述し、疲れた皇悠より・・・orz。